たとえ、どんなに
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伏黒 side
真那さんは俺から見れば津美紀同様、典型的な善人だった。
ガキの頃に初めて会った時の印象は絵に描いたような「姉」で、俺の向けた感情も後々苦労させられる慕情とは程遠い無垢なものだったと思う。
切っ掛けは俺が中学に上がった頃だっただろうか。
少なからず環境が変わればこれまでの考えや意識と言うものも変わり、いつの間にか津美紀とすらある程度の距離を保つようになり始めた時。
変わらず俺に対して弟と接するように振る舞う真那さんに僅かな憤りを覚えたのが切っ掛けだった気がする。
成長と共に己の身体が変わるに連れて、時折会う真那さんの唇に、細い指先に、視線が向くようになった。
屈託なく笑い俺に抱きついてくる時の柔らかさや、鼻を掠めるシャンプーの香りにやけに意識が持っていかれる。
自分が明確に女として真那さんを意識して居る事を自覚し始めると、むず痒い様なこの感覚が酷く不快なものに思えて。
真那さんを敢えて避けるようになり、その癖に任務で会えないと思えば肩を落とした。
だから時折理由を付けては真那さんの元を訪れるとアンタはいつも無邪気に笑って、喜びを露わにして俺に駆け寄って来る。
それが嬉しい反面、真那さんにとってその触れ合いに他意は無かったのだろう。
それが無性に悔しくなると、俺と真那さんとの埋まる事の無い年齢差を憎んだ事もあった。
当然の事だと思いながらも意識されていない事に愕然としつつ、部屋に遊びに来ないかと誘われたら好きな女の私室と言う魅力に勝てなかった俺が馬鹿だったとも思う。
それは、たまたま部屋に招かれそのまま転寝した際の出来心だった。
その日は窓の外に木枯らしが吹くような寒い日で、日差しだけは温かく他愛のない話を続けた挙句に二人して寝落ちした。
一緒に惰眠を貪った癖に、先に目が覚めたと言うだけで真那さんのあまりにも無防備な姿に俺は腹を立てて。
普段は隠れて居るはずの首元に指を乗せて肌を滑り、髪を撫でても起きる気配がない事に、いっそどこまでやったら起きるのかと興味が湧いたが故の悪戯が俺の本質を覗かせていく。
「……アンタ、馬鹿なのかよ。少しは意識しろよ」
ベッドに起き上がり、憎まれ口と共に唇をなぞるとその柔らかさに鼓動が大きく跳ねた。
微かな吐息が指先に触れるたびに腹の底に重たい欲望が渦を巻き、気がついた時には覆い被さるようにしてその小さな唇に己の唇を重ねていた。
自分とは明らかに違う柔らかさが心地いいと感じた。
真那さんの存在を色濃く浮かび上がらせる部屋の空気すら衝動を駆り立てる。
その時の自分は乾涸びた大地にも似ていて真那さんと言う潤いをただ求めてやまなくなり、気がつけば俺は真那さんの上に跨り組み敷くような体制を取っていた。
「童話とかだったらこれで起きるんだろうけど、アンタは眠ったままなんだな。……なぁ、お人好しも程々にしろよ。目の前にアンタを狙ってる男がいるってのに、何呑気に寝てんだよ」
皮肉混じりの言葉を掛けたところで本人は寝て居るのだから届くはずもない。
けれどこのまま服を剥いでその肌に触れたらと、邪な欲望が俺の中で塒を巻いて居るのを感じた時。
そんな時、僅かに真那さんが身動くと我に返った俺は己の考えていた事に愕然とした。
呪術師としての力の差は差し置いても男女の差は最早歴然として居る。
真那さんが俺に甘い事は俺自身も自覚して居る程のもので、例えばこの欲に勝てず形振り構わなくなった時。
この人は望まぬ形でも俺を受け入れるのでは無いかとさえ思ったその瞬間。
……俺は唐突に自分自身が恐ろしくなった。
押して駄目なら引いてみろを体現した訳でも無いのに、結果としてそうなった事は本意では無かった。
けれど俺の態度に痺れを切らし、夏祭りに誘われた事を切っ掛けとして少しずつ真那さんの態度が変わり始めた事に内心、喜びを噛み締める。
随分前に背が真那さんを追い抜き、真那さん一人を難なく背負える位には力も俺の方が強くなった。
何れ、呪術師としても追い抜いてやろうと。
そう決意する傍らでやはり頭を擡げるのは絶対的に埋まらない四つの壁で。
俺が高専に入る時には真那さんは卒業して正式な呪術師となる。
その時には、俺はこの想いを伝えようと。
そうずっと心に決めていた。
その時には俺の手を取ってくれるのだろうかと淡い期待を胸にして、真那さんの恋人としてその隣に立つ日が来る事を夢にすら見たと言うのに。
……それは結局、叶う事は無かった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
自分を殺してくれと残酷な言葉が俺の脳を直接揺さぶった。
今更になって己の決断が乱されていくような感覚さえ抱き、死を目の前にした真那さんの方が余程その決意は固かったのだろう。
やりたくない、考え直してくれ、まだ手はある……。
そう叫ぼうとする程に真那さんの手が俺に縋り付いて来る。
俺にはもう、これしかしてやれる事が無いのだと。
そう思い知らされる事は己の無力さを突きつけられるのと同じだった。
最後まで見栄を張ろうとする胸の内は天を仰ぐ事で涙を抑え、己を言い含めるには時間が余りにも足りない。
そんな中で、真那さんの人として死にたいと、そう零した言葉だけは違える訳にはいかなかった。
そうでなければこの人は呪いに転じた呪術師として死後もその名前を刻まれる事になってしまう。
改めて見据えた真那さんの青白くなった肌や痩せ細った身体に奥歯が鳴る。
けれど弱々しい存在からは想像もできない程にその瞳は強く優しげなもので、喉の奥が痛む感覚を振り払い俺は言葉を発していた。
「玉犬……ッ」
その言葉と同時に白と黒が真那さんの身体に喰らい付く。
それは臓器を抉るほどの大きな衝撃を齎すもので、小さな身体が腰掛けたベッドの上で大きく跳ねる。
力なく倒れ込んだ身体はとめどなく血を流し、それでも真那さんは俺の手を決して離すことはしなかった。
ヒュー、と真那さんが呼吸するたびに笛の様な音が響く。
鼻をつく鉄の匂いは真那さんの身体から流れ出たもので、真白なベッドが紅に染まって行く。
握りしめた手は痛みからか力強く握られて居た筈なのに、その力も少しずつ弱くなって居り、今にもすり抜けてしまいそうなか弱い力の手を力強く握り返すのはいつしか俺の方になっていた。
もう言葉を紡ぐことすら出来ず、ただ此方を見つめる視線から目を逸らさずに居ると真那さんの唇が何度も何度も「好き」と言う言葉だけを形取る。
それは今まで自分の内に押し留めていた想いの全てをぶちまけるように。
最期の最期になって受け取る恋情の言葉は自分の想像以上に大きなもので。
もっと早くこの言葉を聞けていたのなら、俺が一歩踏み出すことが出来ていたのなら。
何かこの結末は違っていたのだろうかと、そんな事が今更になって頭を擡げていく。
「……俺も、好きですよ。ずっと、アンタだけが好きだ。これが俺の初恋で、最期の恋かもしれない。もしかしたら違うかもしれない。でも、俺は……生涯アンタを忘れる事はないと思う」
繋いでいた手の力が少しずつ弱まっていった。
俺はそれを拒む様により一層強い力を籠める。
俺の言葉の全てが届いていたのかはもう誰にも分からない。
けれどその顔はあまりにも穏やかで、まるで俺に微笑みかけてくれている様なものにすら見えて。
ゆっくりと瞼が閉じていく最期の姿を俺だけが知って居る。
「……真那さん」
俺が呼びかけても、その唇が震える事は無かった。
身体を揺すっても、俺の手を握り返す事もない。
静寂も沈黙も、ここ数ヶ月で慣れたはずだったのに。
今、この場の空気は酷く重苦しく、息をするのもやっとな程に思える,
これで本当に良かったのかと、今でもその答えが見つからない。
先生に真那さんが呪われたと聞いた時、その呪いの救いようのなさに誰もが絶望し、それでも一縷の希望を探し求めた。
けれど結局何の術も見つからず、俺は先生に選択を迫られた。
……真那さんが万一呪いに転じる事になった場合、最期まで見届けるつもりはあるのかと。
出来ないのならば直ぐに引けと、それが先生の言葉であり、俺はこの結末を。
……最期まで真那さんの側に居る事を望んだ。
最悪の結末、実らなかった悲しき恋。
この感情はそんな陳腐な言葉では語り尽くせない。
アンタはこれで満足してくれたんだろうか。
先生では無く、俺で良かったんだろうか。
その思いを察したのか、慰める様にして白が俺の手に擦り寄る様にしてやってくる。
黒は真那さんの居た筈のベッドに登ると鼻を鳴らし、誰にも届くことのない遠吠えをあげた。
こいつらは俺の心をよく汲み取る。
当然、真那さんにも懐いていたし、その悲しみは同じなのだろう。
青白くなり、痩せた頬に俺は手を伸ばす。
まだ温もりの残って居る身体は眠って居るだけのようにも思えるのに、この人に纏わりついた赤がそれを否定していた。
「……これ、約束したものです。それとこれ、俺が貰っても良いですか」
繋いだ手を離す事も出来ずに、俺はベッドに投げ出された手首に光るブレスレットに視線を向けた。
淡いピンク色をしたそれは俺が付けるには些か不釣り合いとは思えたものの、誕生日に俺が貰ったものとよく似ていて。
もしかしたら何か願いを込めて揃いで買ったものなのだろうかと考えると、何か一つでいいからこの人が身に付けていたものを己の内に抱えたいと言う衝動が湧き起こる。
そして以前、俺が中学を卒業したら制服の第二ボタンが欲しいと真那さんと約束した事を俺の脳裏が掠めていく。
それ自体大したことでは無いと思って居たけれど、それが欲しいと華の様な笑みを零していた手前、約束を破るわけにも行かない。
抑、第二ボタンに告白のような意味合いがある事をこの人は知っていたのだろうか。
そんな事すらもう確かめようも無いが、真那さんの腕からブレスレットを引き抜いた俺は制服のボタンを毟り取る。
俺より小さな手のひらの中にボタンを置くと、手放すことのない様に細い指先を包み込みその手を胸元に静かに置いた。
「……俺、これまでの色んなお返し何もしてないんで。これじゃ駄目ですか?」
ベッドに手を付くと簡素なスプリングが軋む音がする。
物言わなくなった真那さんの顔に影が掛かり、俺の唇に触れた真那さんの唇は柔らかいのに少し冷たくなり始めていた。
温もりを分け与えるように、何度も何度もその柔らかさを感じた。
けれどその身体は指先からどんどん熱を失い、後は冷たい骸となるばかり。
それを自覚するのにさえ、一人きりの空間の中では途方もない時間を要したように思う。
やっと諦めにもにも似た感情が芽生え始め、唇を離した時。
ポタポタと溢れた雫が真那さんの頬を濡らして、俺はそこで初めて自分が泣いて居る事を自覚した。
「……なぁ、頼むから。何とか、言えよ……ッ!」
その時の俺の無様な様子は慟哭と言うに相応しく、それに共鳴する様に白と黒が咆哮を上げる。
言葉なき鎮魂の音が静寂を打ち破り、俺がやっと少しの落ち着きを取り戻した時には空には宵の闇が広がっていた。
けれどこれから自分のすべき事が見えてこなかった。
頭ではその行動が浮かび上がる。
それなのに、身体がまるで言う事を聞かない。
例え一時でも離れてしまったらこのまま泡沫の様に消えてしまいそうで、それが何より恐ろしく思えた。
真那さんとの最期の別れを惜しむ中、人の気配を感じ取った白と黒が扉に視線を向ける。
扉に向かう事すら手を離してしまうからと躊躇われたが、消えることのない気配に俺が扉を開くと壁に凭れながら蛍光灯の灯りをぼんやりと眺めていたのは五条先生で。
恐らく俺がこの部屋に入って暫くしてからずっとここに居たのだろう。
互いに言葉をかける事はしなかった。
けれど先に先生が動き出し、部屋に入る直前。
すれ違いざまに俺の肩に手を置いた。
「恵。……ありがとう」
「居たんですね。……別に。これは俺が、選んだ事なんで」
「そうだね。でも、真那はきっと救われた」
「……救われて貰わなきゃ、俺が困りますんで」
減らない憎まれ口に先生が口角を上げた。
玉犬の間をすり抜けて真っ直ぐ進んだベッドの先では赤に彩られた真那さんの身体が横たわり、既に冷たくなった身体を眺めると労わる様に頭を撫でていた。
先生にとってもこの人は特別だった筈だ。
殆ど授業も実技も二人で過ごし、兄と妹の様な関係を築き、真那さんの素性を知っていたからこそ、ガキの頃の俺の面倒を押し付けたんだと今になってやっと気がついた。
自身がスカウトした事もあるからか、努力を惜しまなかったこの人は期待されるべき呪術師だった。
こんな形の別れは、余りにも報われない。
「……いい顔してる。優しい顔だ」
「そうですね」
「恵、お疲れ」
珍しく先生が俺を抱き寄せた。
それは普段の揶揄う様な行動からではなく、心底俺の事を、真那さんの事を労り、この結末に対して心を痛めて居る様に感じさせるもので。
その一言に、俺の心が再び揺さぶられる。
俺達の事を知る他人に言葉を掛けてもらえたと言うのは、ほんの少しだとしても胸に巣喰った蟠りを解いていく様な気もした。
けれど、どうにもならない歯痒が俺の奥歯を鈍く鳴らす。
先生の肩に埋もれながら声を噛み殺し、俺はただ真那さんの姿を脳裏に描き続けていた。
……俺も、アンタが好きです。
たとえ、どんなに離れたとしても。
真那さんは俺から見れば津美紀同様、典型的な善人だった。
ガキの頃に初めて会った時の印象は絵に描いたような「姉」で、俺の向けた感情も後々苦労させられる慕情とは程遠い無垢なものだったと思う。
切っ掛けは俺が中学に上がった頃だっただろうか。
少なからず環境が変わればこれまでの考えや意識と言うものも変わり、いつの間にか津美紀とすらある程度の距離を保つようになり始めた時。
変わらず俺に対して弟と接するように振る舞う真那さんに僅かな憤りを覚えたのが切っ掛けだった気がする。
成長と共に己の身体が変わるに連れて、時折会う真那さんの唇に、細い指先に、視線が向くようになった。
屈託なく笑い俺に抱きついてくる時の柔らかさや、鼻を掠めるシャンプーの香りにやけに意識が持っていかれる。
自分が明確に女として真那さんを意識して居る事を自覚し始めると、むず痒い様なこの感覚が酷く不快なものに思えて。
真那さんを敢えて避けるようになり、その癖に任務で会えないと思えば肩を落とした。
だから時折理由を付けては真那さんの元を訪れるとアンタはいつも無邪気に笑って、喜びを露わにして俺に駆け寄って来る。
それが嬉しい反面、真那さんにとってその触れ合いに他意は無かったのだろう。
それが無性に悔しくなると、俺と真那さんとの埋まる事の無い年齢差を憎んだ事もあった。
当然の事だと思いながらも意識されていない事に愕然としつつ、部屋に遊びに来ないかと誘われたら好きな女の私室と言う魅力に勝てなかった俺が馬鹿だったとも思う。
それは、たまたま部屋に招かれそのまま転寝した際の出来心だった。
その日は窓の外に木枯らしが吹くような寒い日で、日差しだけは温かく他愛のない話を続けた挙句に二人して寝落ちした。
一緒に惰眠を貪った癖に、先に目が覚めたと言うだけで真那さんのあまりにも無防備な姿に俺は腹を立てて。
普段は隠れて居るはずの首元に指を乗せて肌を滑り、髪を撫でても起きる気配がない事に、いっそどこまでやったら起きるのかと興味が湧いたが故の悪戯が俺の本質を覗かせていく。
「……アンタ、馬鹿なのかよ。少しは意識しろよ」
ベッドに起き上がり、憎まれ口と共に唇をなぞるとその柔らかさに鼓動が大きく跳ねた。
微かな吐息が指先に触れるたびに腹の底に重たい欲望が渦を巻き、気がついた時には覆い被さるようにしてその小さな唇に己の唇を重ねていた。
自分とは明らかに違う柔らかさが心地いいと感じた。
真那さんの存在を色濃く浮かび上がらせる部屋の空気すら衝動を駆り立てる。
その時の自分は乾涸びた大地にも似ていて真那さんと言う潤いをただ求めてやまなくなり、気がつけば俺は真那さんの上に跨り組み敷くような体制を取っていた。
「童話とかだったらこれで起きるんだろうけど、アンタは眠ったままなんだな。……なぁ、お人好しも程々にしろよ。目の前にアンタを狙ってる男がいるってのに、何呑気に寝てんだよ」
皮肉混じりの言葉を掛けたところで本人は寝て居るのだから届くはずもない。
けれどこのまま服を剥いでその肌に触れたらと、邪な欲望が俺の中で塒を巻いて居るのを感じた時。
そんな時、僅かに真那さんが身動くと我に返った俺は己の考えていた事に愕然とした。
呪術師としての力の差は差し置いても男女の差は最早歴然として居る。
真那さんが俺に甘い事は俺自身も自覚して居る程のもので、例えばこの欲に勝てず形振り構わなくなった時。
この人は望まぬ形でも俺を受け入れるのでは無いかとさえ思ったその瞬間。
……俺は唐突に自分自身が恐ろしくなった。
押して駄目なら引いてみろを体現した訳でも無いのに、結果としてそうなった事は本意では無かった。
けれど俺の態度に痺れを切らし、夏祭りに誘われた事を切っ掛けとして少しずつ真那さんの態度が変わり始めた事に内心、喜びを噛み締める。
随分前に背が真那さんを追い抜き、真那さん一人を難なく背負える位には力も俺の方が強くなった。
何れ、呪術師としても追い抜いてやろうと。
そう決意する傍らでやはり頭を擡げるのは絶対的に埋まらない四つの壁で。
俺が高専に入る時には真那さんは卒業して正式な呪術師となる。
その時には、俺はこの想いを伝えようと。
そうずっと心に決めていた。
その時には俺の手を取ってくれるのだろうかと淡い期待を胸にして、真那さんの恋人としてその隣に立つ日が来る事を夢にすら見たと言うのに。
……それは結局、叶う事は無かった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
自分を殺してくれと残酷な言葉が俺の脳を直接揺さぶった。
今更になって己の決断が乱されていくような感覚さえ抱き、死を目の前にした真那さんの方が余程その決意は固かったのだろう。
やりたくない、考え直してくれ、まだ手はある……。
そう叫ぼうとする程に真那さんの手が俺に縋り付いて来る。
俺にはもう、これしかしてやれる事が無いのだと。
そう思い知らされる事は己の無力さを突きつけられるのと同じだった。
最後まで見栄を張ろうとする胸の内は天を仰ぐ事で涙を抑え、己を言い含めるには時間が余りにも足りない。
そんな中で、真那さんの人として死にたいと、そう零した言葉だけは違える訳にはいかなかった。
そうでなければこの人は呪いに転じた呪術師として死後もその名前を刻まれる事になってしまう。
改めて見据えた真那さんの青白くなった肌や痩せ細った身体に奥歯が鳴る。
けれど弱々しい存在からは想像もできない程にその瞳は強く優しげなもので、喉の奥が痛む感覚を振り払い俺は言葉を発していた。
「玉犬……ッ」
その言葉と同時に白と黒が真那さんの身体に喰らい付く。
それは臓器を抉るほどの大きな衝撃を齎すもので、小さな身体が腰掛けたベッドの上で大きく跳ねる。
力なく倒れ込んだ身体はとめどなく血を流し、それでも真那さんは俺の手を決して離すことはしなかった。
ヒュー、と真那さんが呼吸するたびに笛の様な音が響く。
鼻をつく鉄の匂いは真那さんの身体から流れ出たもので、真白なベッドが紅に染まって行く。
握りしめた手は痛みからか力強く握られて居た筈なのに、その力も少しずつ弱くなって居り、今にもすり抜けてしまいそうなか弱い力の手を力強く握り返すのはいつしか俺の方になっていた。
もう言葉を紡ぐことすら出来ず、ただ此方を見つめる視線から目を逸らさずに居ると真那さんの唇が何度も何度も「好き」と言う言葉だけを形取る。
それは今まで自分の内に押し留めていた想いの全てをぶちまけるように。
最期の最期になって受け取る恋情の言葉は自分の想像以上に大きなもので。
もっと早くこの言葉を聞けていたのなら、俺が一歩踏み出すことが出来ていたのなら。
何かこの結末は違っていたのだろうかと、そんな事が今更になって頭を擡げていく。
「……俺も、好きですよ。ずっと、アンタだけが好きだ。これが俺の初恋で、最期の恋かもしれない。もしかしたら違うかもしれない。でも、俺は……生涯アンタを忘れる事はないと思う」
繋いでいた手の力が少しずつ弱まっていった。
俺はそれを拒む様により一層強い力を籠める。
俺の言葉の全てが届いていたのかはもう誰にも分からない。
けれどその顔はあまりにも穏やかで、まるで俺に微笑みかけてくれている様なものにすら見えて。
ゆっくりと瞼が閉じていく最期の姿を俺だけが知って居る。
「……真那さん」
俺が呼びかけても、その唇が震える事は無かった。
身体を揺すっても、俺の手を握り返す事もない。
静寂も沈黙も、ここ数ヶ月で慣れたはずだったのに。
今、この場の空気は酷く重苦しく、息をするのもやっとな程に思える,
これで本当に良かったのかと、今でもその答えが見つからない。
先生に真那さんが呪われたと聞いた時、その呪いの救いようのなさに誰もが絶望し、それでも一縷の希望を探し求めた。
けれど結局何の術も見つからず、俺は先生に選択を迫られた。
……真那さんが万一呪いに転じる事になった場合、最期まで見届けるつもりはあるのかと。
出来ないのならば直ぐに引けと、それが先生の言葉であり、俺はこの結末を。
……最期まで真那さんの側に居る事を望んだ。
最悪の結末、実らなかった悲しき恋。
この感情はそんな陳腐な言葉では語り尽くせない。
アンタはこれで満足してくれたんだろうか。
先生では無く、俺で良かったんだろうか。
その思いを察したのか、慰める様にして白が俺の手に擦り寄る様にしてやってくる。
黒は真那さんの居た筈のベッドに登ると鼻を鳴らし、誰にも届くことのない遠吠えをあげた。
こいつらは俺の心をよく汲み取る。
当然、真那さんにも懐いていたし、その悲しみは同じなのだろう。
青白くなり、痩せた頬に俺は手を伸ばす。
まだ温もりの残って居る身体は眠って居るだけのようにも思えるのに、この人に纏わりついた赤がそれを否定していた。
「……これ、約束したものです。それとこれ、俺が貰っても良いですか」
繋いだ手を離す事も出来ずに、俺はベッドに投げ出された手首に光るブレスレットに視線を向けた。
淡いピンク色をしたそれは俺が付けるには些か不釣り合いとは思えたものの、誕生日に俺が貰ったものとよく似ていて。
もしかしたら何か願いを込めて揃いで買ったものなのだろうかと考えると、何か一つでいいからこの人が身に付けていたものを己の内に抱えたいと言う衝動が湧き起こる。
そして以前、俺が中学を卒業したら制服の第二ボタンが欲しいと真那さんと約束した事を俺の脳裏が掠めていく。
それ自体大したことでは無いと思って居たけれど、それが欲しいと華の様な笑みを零していた手前、約束を破るわけにも行かない。
抑、第二ボタンに告白のような意味合いがある事をこの人は知っていたのだろうか。
そんな事すらもう確かめようも無いが、真那さんの腕からブレスレットを引き抜いた俺は制服のボタンを毟り取る。
俺より小さな手のひらの中にボタンを置くと、手放すことのない様に細い指先を包み込みその手を胸元に静かに置いた。
「……俺、これまでの色んなお返し何もしてないんで。これじゃ駄目ですか?」
ベッドに手を付くと簡素なスプリングが軋む音がする。
物言わなくなった真那さんの顔に影が掛かり、俺の唇に触れた真那さんの唇は柔らかいのに少し冷たくなり始めていた。
温もりを分け与えるように、何度も何度もその柔らかさを感じた。
けれどその身体は指先からどんどん熱を失い、後は冷たい骸となるばかり。
それを自覚するのにさえ、一人きりの空間の中では途方もない時間を要したように思う。
やっと諦めにもにも似た感情が芽生え始め、唇を離した時。
ポタポタと溢れた雫が真那さんの頬を濡らして、俺はそこで初めて自分が泣いて居る事を自覚した。
「……なぁ、頼むから。何とか、言えよ……ッ!」
その時の俺の無様な様子は慟哭と言うに相応しく、それに共鳴する様に白と黒が咆哮を上げる。
言葉なき鎮魂の音が静寂を打ち破り、俺がやっと少しの落ち着きを取り戻した時には空には宵の闇が広がっていた。
けれどこれから自分のすべき事が見えてこなかった。
頭ではその行動が浮かび上がる。
それなのに、身体がまるで言う事を聞かない。
例え一時でも離れてしまったらこのまま泡沫の様に消えてしまいそうで、それが何より恐ろしく思えた。
真那さんとの最期の別れを惜しむ中、人の気配を感じ取った白と黒が扉に視線を向ける。
扉に向かう事すら手を離してしまうからと躊躇われたが、消えることのない気配に俺が扉を開くと壁に凭れながら蛍光灯の灯りをぼんやりと眺めていたのは五条先生で。
恐らく俺がこの部屋に入って暫くしてからずっとここに居たのだろう。
互いに言葉をかける事はしなかった。
けれど先に先生が動き出し、部屋に入る直前。
すれ違いざまに俺の肩に手を置いた。
「恵。……ありがとう」
「居たんですね。……別に。これは俺が、選んだ事なんで」
「そうだね。でも、真那はきっと救われた」
「……救われて貰わなきゃ、俺が困りますんで」
減らない憎まれ口に先生が口角を上げた。
玉犬の間をすり抜けて真っ直ぐ進んだベッドの先では赤に彩られた真那さんの身体が横たわり、既に冷たくなった身体を眺めると労わる様に頭を撫でていた。
先生にとってもこの人は特別だった筈だ。
殆ど授業も実技も二人で過ごし、兄と妹の様な関係を築き、真那さんの素性を知っていたからこそ、ガキの頃の俺の面倒を押し付けたんだと今になってやっと気がついた。
自身がスカウトした事もあるからか、努力を惜しまなかったこの人は期待されるべき呪術師だった。
こんな形の別れは、余りにも報われない。
「……いい顔してる。優しい顔だ」
「そうですね」
「恵、お疲れ」
珍しく先生が俺を抱き寄せた。
それは普段の揶揄う様な行動からではなく、心底俺の事を、真那さんの事を労り、この結末に対して心を痛めて居る様に感じさせるもので。
その一言に、俺の心が再び揺さぶられる。
俺達の事を知る他人に言葉を掛けてもらえたと言うのは、ほんの少しだとしても胸に巣喰った蟠りを解いていく様な気もした。
けれど、どうにもならない歯痒が俺の奥歯を鈍く鳴らす。
先生の肩に埋もれながら声を噛み殺し、俺はただ真那さんの姿を脳裏に描き続けていた。
……俺も、アンタが好きです。
たとえ、どんなに離れたとしても。