たとえ、どんなに
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私の上に馬乗りになりながらもいつまで経っても聞こえない声に薄らと視界を開くと、掌印を組んだ恵君の手が震えを伴って居た。
私を見る度に躊躇いの表情が色濃く浮かび上がり、露を纏った様な若葉の瞳が悲しげに揺れる。
彼は一言、玉犬と自身の式神の名前を紡ぐだけなのに、その唇は戦慄き顔は青白いものへと変わっていく様に思えた。
幾ら呪術師としての才に恵まれて居るとしても、事前にこの可能性を示唆され、自らがそれを選択したとしても。
今年やっと十五歳になる男の子が背負うには人の命は余りにも重過ぎる。
けれど今この状況で先生を呼ぶ事を彼は良しとはしてくれないだろう。
私は死にければならない。
こうなってしまった以上それだけは絶対であり、初めこそどうしてと思っていた己の気持ちは、出来る事ならばこの命の終焉は恵君の手に掛かりたいと、この期に及んでまで我儘が顔を覗かせ始めている。
ベッドに肘を付き私が起き上がると恵君は警戒する素振りすら見せず、手を貸そうとすらして居て、思わず苦笑するしかなかった。
幾ら私が恵君の想い人であろうと、私は最早人と呼ぶには異形過ぎると言うのに。
少しは我が身の安全を考慮してもらいたいものだといっそ嗜めたくなってしまう。
改めて私は己の状況を冷静に分析していた。
確実に身体は呪霊のものへと近づきつつある。
けれど、まだ少しならば余裕はあるのだろうかと、そんな淡い期待を抱きながら。
「……恵君、最期に少しお話しない?まだ、少しなら時間があると思うから。ちゃんと話せるのは久しぶりだから上手くできるか分からないけど」
空笑いをした私に対して恵君が目を瞬かせた。
けれど無言のまま頷くと私の上から身を退け、互いにベッドの淵に並んで腰掛ける。
どちらもからともなく握られた手には無意識のうちに互いの力が籠り、けれどその痛みすらも今は愛おしいものへと変わる。
まるで遺言でも聞かされる様な顔をされると心境は少し複雑なものだったけれど。
私の言葉に、彼は静かに耳を傾けてくれていた。
「あのね、呪術師としてなんて言って先輩風吹かせるのは得意じゃないんだけど。手当たり次第にたくさんの人を助けたりなんてしなくて良いと思う。世の中、悪い人も良い人もたくさん居るから。分け隔てなく全部を背負ったら、きっと疲れちゃう。
でも、自分が幸せで居て欲しいと思う人の事は、好きだと思う人の事は、守ってあげてね。それだけは、約束して?」
「……分かりました」
「後ね、好きだって言ってくれた事。本当に嬉しかったよ。その言葉が無かったら私、こんなに頑張れなかった。だから、ありがとう」
今の自分に出来る精一杯の笑顔で私は恵くんの顔を覗き込む。
けれど唇を一文字に結んだその表情は険しく、背を丸くして俯く視線が私に向けられる事はない。
けれど私達に残されている時間は本当に後僅かなものしかない。
出来る事ならば少しでも長く彼の顔を眺めていたいと思う私にとって、今の恵君の行動には肩を落とすしかなくて。
こっち向いてと首を傾げて促すと恵君の口からは私に向けた不平とか不満とか、恐らく最期になるであろう私に向けた願望とか。
そんなものがないまぜになった様な言葉だった。
「……アンタは、どうなんですか」
「恵君?」
「俺は……。俺はまだ一度もアンタの口からその言葉を貰えてません。それ、納得いかないんですけど」
「……それ、は」
「一度くらい、俺だって聞きたい。アンタの口から、ちゃんと言葉にして下さい」
ずっとその言葉だけを伝えたいと願い続けて、結局の所それが叶わなくて私は呪いとなってしまった。
けれど未だ躊躇いは私を縛り付け、この先私が居なくなってから恵君がこの言葉をどう胸にしまっておくのかと考えるのを恐れている。
死者の言葉は何よりも強い。
例えるならば生者を捕らえる檻のように、一度その解釈を違えてしまえば今後の相手の生そのものを蹂躙するものへと変わってしまう。
だから言えなかった。
それなのに、こんな姿なってまでどうしても一言だけ伝えたいと絶えず本能が悲鳴を上げている。
先程とは一転して恵君の視線が懇願するように私を射抜く。
けれどその期待に私は答えても良いのだろうかと私はまだ迷い戸惑っていた。
「……言えない。駄目だよ。言ったらきっとこの言葉は呪いになる。恵君の先はきっと長いんだから、居ない人間に縛られちゃ駄目だよ。私は許されるなら、恵君の過去に、少しだけ居場所があればそれで十分だから」
「……知るかよ。アンタの勝手な都合に俺を巻き込むな。俺は、今アンタからその言葉を貰えなかったら、一生悔やむ」
「我儘言わないで。言わなくても、わかってるでしょ?私はそう思ってる」
幼子をあやす様に私は身体向きを少し変えると私が伸ばした手を恵君は受け入れる事なく掴んでいく。
その加減を忘れた力に少しばかり手首が軋み、私の顔が歪んでいった。
私を見据えた恵君の双眼が透き通る様に燃えている。
視線だけで火傷しそうな程の熱を帯びて、私の終わりを迎える筈の恋心にまで火をつけようとしているのを感じた。
「……分かるかよッ。例え分かってたとしても納得なんてしねぇ。俺の望みばっかり優先させやがって。俺は……ッ!俺だって……アンタの悔いに、なりたくねぇんだよ」
吐き捨てる様に紡がれた言葉は息が詰まりそうな程に苦しげなものだった。
不自然に強張った身体が、その手が、大きく震えて私の心を揺さぶっていく。
胸元に埋まる様に抱き留めた恵君は僅かに肩を揺らし、短く息を吸い込む様子を見ているとそれほ心の底からの懇願にも思えた。
たった一言、言えなかった言葉を悔いて呪いと転じた私。
たった一言、言ってもらいたい言葉を求めて想う人を手に掛けようとしている恵君。
どちらも言ってしまえば自我 の塊で、その何れも互いを思うが故の行動であり、悔いを残さない為の方法なのだろう。
私は折れるべきなのだろうか。
ずっと口の先まで出掛かって、伝えられなかった言葉をもう恥も外聞も関係なく曝け出してしまっても良いのだろうか。
最後の最後。
ほんの僅かに残っていた理性の糸を引きちぎったのは恵君の弱々しい哀願の声だった。
「……心底惚れた好きな女に、一度も好きだって言われなかったなんて情け無いだろ」
「……本当に狡くなったよね。もう、私の負けでいいよ」
自らを嘲笑うような言葉に、いよいよ私は折れるしか無かった。
恵君と、言葉をかけるとその顔は普段の大人びた姿からは想像出来ない程に年相応の少年の姿をして居て。
少しばかり幼い姿を見てしまったかからなのか。
在りし日の憧憬を脳裏に浮かび上がらせた私の瞳には涙が込み上げる。
それは別れに対する痛哭からのものなのか、その言葉を伝えても良いことに対する随喜のものなのか。
それすらも最早分かるはずもなくて。
しゃくりあげた私の喉が堰き止めて居た言葉を紡ぐと、その感情だけがとめどなく溢れて止まらなくなっていく。
「好きだよ、恵くん。好き。……好きだよ。私、恵君が、大好き……っ」
はらはらと溢れる涙が凭れ掛かった恵君の服を濡らした。
私を抱き留める腕は優しくて、積年の思いを叶えたかのような長い溜息が聞こえる。
……ああ、やっと言えた。
そう思うのと同時に、言ってしまったと幾許かの自責の念が押し寄せる。
それなのに一度紡いでしまった言葉はその堰き止め方を忘れてしまったかの様に絶えず私の口から溢れて止まず、それはまるでこれまで伝えられなかった分の想いを一度にぶつけている様にも感じた。
嗚咽すら堪えず、息吐く暇さえ惜しかった。
ただただ、好きだとその一言を伝え続ける私を引っ剥がした恵君はここ数ヶ月の記憶の中で一番優しく、切なげな表情をして居り、私の頬を包み込んだ指先が頬に刻まれた涙痕を消していく。
「知ってます。俺はずっとアンタの事ばっかり見てきた。昔からアンタの事が好きなんだから。今だから言いますけど、真那さんのファーストキス。もっと早いですから」
「……え?」
「昔アンタの部屋で一緒に昼寝した時、貰ってる。悪いとは思ったけど抑えられなかった。だからそれ以来、ずっとアンタを避けてた。好きになり過ぎていつか傷つけるのが怖かった。……それくらい前からずっと、俺は真那さんの事が、好きだった。でもアンタは俺の事を弟みたいにしか見てない事が分かってたから。せめて俺が高専に入ったら、ちゃんと告白しようって……それまでは耐えろって。言い聞かせてた……」
真摯に私の目を見据える瞳には寸分の嘘も偽りもなかった。
いつもならば気恥ずかしそうに顔を背ける素振りすら今は窺えず、恵君もまた自身の悔いのない様にその全てをぶつけてくれているのだろう。
ある日突然素っ気なくなった感じて居た理由がまさかそんな事とは露知らず、私はどうやら自分で思う以上に恋愛面に関しては鈍感だったらしい。
それ自体は己の鈍さを恨みたくなるものの長い事、自分に恋情の念を抱き続けてくれた事がただ嬉しかった。
けれど同時に悲しくなるのは、この先が私達には存在しないから。
それでも、やっと知ることのできた理由があまりにも可愛らしくて、同時に愛おしくて。
思わず肩を揺らした私の唇を拗ねた様に恵君が一度塞ぐと私達は互いの頬に手を添えて目を細めて居た。
「そっか。なぁんだ。私とおんなじ事考えてたんだね。意地張って言えなくて、ごめん……ね。もっと、早く……言えたら、よかったね」
「もう、十分です。アンタの口からそれが聞けただけで」
「うん。……恵君、もう時間切れみたい。お願い、殺して」
ドクン、ドクンと鼓動が脈を打つたびに自分が自分でなくなっていく様な感覚がしている。
脚に至っては既に感覚も曖昧で、全身が捩じ切られそうな痛みすら伴い始めると呼吸が浅くなり、私はこれが本当に最期の願いだと恵君に訴えかける。
立ち上がった彼は私の目の前に立つと眉根を寄せて目を伏せた。
先程躊躇った手はしっかりと掌印を組み、静かな声で彼の式神である対の犬が呼び出される。
白と黒の美しい毛並みを持つ玉犬は私とも幾度か面識があり、戯れたことすらあるからか。
主人の心の機微に反応する様に鼻を鳴らして私に擦り寄ってくる。
二匹の戸惑う様な甲高い鳴き声を聞きながら、恵君が私に手を差し伸べた。
その手を取ると繋いだ手は恋人のそれを思わせる指を絡め合うものへと変わり、いよいよ終わりの時が迫っている。
「恵君。先生には一言文句、言っておいてね。家入さんには無理をしない様にって。七海さんには、たくさんの本をありがとうって伝えて。あと、伊地知さんには頑張ってって」
「分かりました」
「……ごめんね。今更になって言いたくて堪らな君なっちゃった。……恵君。大好きだよ」
「遅いですよ、本当に……。俺もです。ずっと、アンタが好きだ」
決して離すまいと私達の手には力が籠る。
恵君の言葉を待つ玉犬達はそのただならぬ様子に困惑するばかりで、恵君の側に寄り添って居た。
後は彼の一言で愛らしい対の式神は私に向けて牙を向け、それで全てが幕を引く。
それなのに、まだ躊躇いを見せて居り私に向けた縋るような視線は見て居るだけで胸を抉る。
「……真那さん」
「恵君。我儘に言ってごめんね。私、出来れば人のまま死にたい。呪いとして、祓われたくない」
「……はい」
苦悶の表情を浮かべる彼が天井を仰ぎ、何かを堪えるように瞳を閉じた。
その姿すら瞼に焼き付けようと私は、瞬きすらせずに彼に一心に視線を注ぐ。
締め切った窓すらも通り越して、ドンと大きな音が響くと遠目の夜空には大輪の花が咲き、図らずとも去年交わした約束はこれで守れた事になるのかもしれない。
恵君の背を彩った夜空の花。
散りばめられていく星を眺め、俯いた恵君と私の視線が交差していく。
「玉犬……ッ」
涙を堪えた震えた声。
その音と共に、対の式神が私の喉と腹部に喰らつく。
身体の中から鈍い音が聞こえた。
痛みよりも熱さが勝り、一面が赤に染まる光景を私は何処か他人事のように眺めながらそのままベッドに傾れ込む。
けれど繋いだ手だけは、決して離れることが無かった。
私の痛みを肩代わりしたように、苦しげな表情を浮かべる恵君は決して私から目を逸らす事は無く、喉を喰い千切られ、音を無くした唇が最期の瞬間まで「好きだよ」とその四文字を紡ぎ続ける。
果たしてこれでよかったのか。
最適解だなんてものは結局はその人それぞれの価値観から成るもので、数式の様な正解なんて有りはしない。
それでも、私はもう悔いなく死ねる気がした。
君に全てを伝えられたから。
私の意思を少しでも残せたから。
それだけで私は己の生きた意味を見出せる。
薄れゆく滲んだ視界の中で最後に聞いた言葉は、私と同じ位、もしかしたらそれ以上の想いの丈を伝えるもので。
悲しくもありながら優しい子守唄に抱かれて私の命は幕を下ろす。
たとえ、どんなに離れてしまったとしても。
私達が行く先を違えても。
私のこの想いだけは……ずっと変わらないから。
……大好きだよ。
私を見る度に躊躇いの表情が色濃く浮かび上がり、露を纏った様な若葉の瞳が悲しげに揺れる。
彼は一言、玉犬と自身の式神の名前を紡ぐだけなのに、その唇は戦慄き顔は青白いものへと変わっていく様に思えた。
幾ら呪術師としての才に恵まれて居るとしても、事前にこの可能性を示唆され、自らがそれを選択したとしても。
今年やっと十五歳になる男の子が背負うには人の命は余りにも重過ぎる。
けれど今この状況で先生を呼ぶ事を彼は良しとはしてくれないだろう。
私は死にければならない。
こうなってしまった以上それだけは絶対であり、初めこそどうしてと思っていた己の気持ちは、出来る事ならばこの命の終焉は恵君の手に掛かりたいと、この期に及んでまで我儘が顔を覗かせ始めている。
ベッドに肘を付き私が起き上がると恵君は警戒する素振りすら見せず、手を貸そうとすらして居て、思わず苦笑するしかなかった。
幾ら私が恵君の想い人であろうと、私は最早人と呼ぶには異形過ぎると言うのに。
少しは我が身の安全を考慮してもらいたいものだといっそ嗜めたくなってしまう。
改めて私は己の状況を冷静に分析していた。
確実に身体は呪霊のものへと近づきつつある。
けれど、まだ少しならば余裕はあるのだろうかと、そんな淡い期待を抱きながら。
「……恵君、最期に少しお話しない?まだ、少しなら時間があると思うから。ちゃんと話せるのは久しぶりだから上手くできるか分からないけど」
空笑いをした私に対して恵君が目を瞬かせた。
けれど無言のまま頷くと私の上から身を退け、互いにベッドの淵に並んで腰掛ける。
どちらもからともなく握られた手には無意識のうちに互いの力が籠り、けれどその痛みすらも今は愛おしいものへと変わる。
まるで遺言でも聞かされる様な顔をされると心境は少し複雑なものだったけれど。
私の言葉に、彼は静かに耳を傾けてくれていた。
「あのね、呪術師としてなんて言って先輩風吹かせるのは得意じゃないんだけど。手当たり次第にたくさんの人を助けたりなんてしなくて良いと思う。世の中、悪い人も良い人もたくさん居るから。分け隔てなく全部を背負ったら、きっと疲れちゃう。
でも、自分が幸せで居て欲しいと思う人の事は、好きだと思う人の事は、守ってあげてね。それだけは、約束して?」
「……分かりました」
「後ね、好きだって言ってくれた事。本当に嬉しかったよ。その言葉が無かったら私、こんなに頑張れなかった。だから、ありがとう」
今の自分に出来る精一杯の笑顔で私は恵くんの顔を覗き込む。
けれど唇を一文字に結んだその表情は険しく、背を丸くして俯く視線が私に向けられる事はない。
けれど私達に残されている時間は本当に後僅かなものしかない。
出来る事ならば少しでも長く彼の顔を眺めていたいと思う私にとって、今の恵君の行動には肩を落とすしかなくて。
こっち向いてと首を傾げて促すと恵君の口からは私に向けた不平とか不満とか、恐らく最期になるであろう私に向けた願望とか。
そんなものがないまぜになった様な言葉だった。
「……アンタは、どうなんですか」
「恵君?」
「俺は……。俺はまだ一度もアンタの口からその言葉を貰えてません。それ、納得いかないんですけど」
「……それ、は」
「一度くらい、俺だって聞きたい。アンタの口から、ちゃんと言葉にして下さい」
ずっとその言葉だけを伝えたいと願い続けて、結局の所それが叶わなくて私は呪いとなってしまった。
けれど未だ躊躇いは私を縛り付け、この先私が居なくなってから恵君がこの言葉をどう胸にしまっておくのかと考えるのを恐れている。
死者の言葉は何よりも強い。
例えるならば生者を捕らえる檻のように、一度その解釈を違えてしまえば今後の相手の生そのものを蹂躙するものへと変わってしまう。
だから言えなかった。
それなのに、こんな姿なってまでどうしても一言だけ伝えたいと絶えず本能が悲鳴を上げている。
先程とは一転して恵君の視線が懇願するように私を射抜く。
けれどその期待に私は答えても良いのだろうかと私はまだ迷い戸惑っていた。
「……言えない。駄目だよ。言ったらきっとこの言葉は呪いになる。恵君の先はきっと長いんだから、居ない人間に縛られちゃ駄目だよ。私は許されるなら、恵君の過去に、少しだけ居場所があればそれで十分だから」
「……知るかよ。アンタの勝手な都合に俺を巻き込むな。俺は、今アンタからその言葉を貰えなかったら、一生悔やむ」
「我儘言わないで。言わなくても、わかってるでしょ?私はそう思ってる」
幼子をあやす様に私は身体向きを少し変えると私が伸ばした手を恵君は受け入れる事なく掴んでいく。
その加減を忘れた力に少しばかり手首が軋み、私の顔が歪んでいった。
私を見据えた恵君の双眼が透き通る様に燃えている。
視線だけで火傷しそうな程の熱を帯びて、私の終わりを迎える筈の恋心にまで火をつけようとしているのを感じた。
「……分かるかよッ。例え分かってたとしても納得なんてしねぇ。俺の望みばっかり優先させやがって。俺は……ッ!俺だって……アンタの悔いに、なりたくねぇんだよ」
吐き捨てる様に紡がれた言葉は息が詰まりそうな程に苦しげなものだった。
不自然に強張った身体が、その手が、大きく震えて私の心を揺さぶっていく。
胸元に埋まる様に抱き留めた恵君は僅かに肩を揺らし、短く息を吸い込む様子を見ているとそれほ心の底からの懇願にも思えた。
たった一言、言えなかった言葉を悔いて呪いと転じた私。
たった一言、言ってもらいたい言葉を求めて想う人を手に掛けようとしている恵君。
どちらも言ってしまえば
私は折れるべきなのだろうか。
ずっと口の先まで出掛かって、伝えられなかった言葉をもう恥も外聞も関係なく曝け出してしまっても良いのだろうか。
最後の最後。
ほんの僅かに残っていた理性の糸を引きちぎったのは恵君の弱々しい哀願の声だった。
「……心底惚れた好きな女に、一度も好きだって言われなかったなんて情け無いだろ」
「……本当に狡くなったよね。もう、私の負けでいいよ」
自らを嘲笑うような言葉に、いよいよ私は折れるしか無かった。
恵君と、言葉をかけるとその顔は普段の大人びた姿からは想像出来ない程に年相応の少年の姿をして居て。
少しばかり幼い姿を見てしまったかからなのか。
在りし日の憧憬を脳裏に浮かび上がらせた私の瞳には涙が込み上げる。
それは別れに対する痛哭からのものなのか、その言葉を伝えても良いことに対する随喜のものなのか。
それすらも最早分かるはずもなくて。
しゃくりあげた私の喉が堰き止めて居た言葉を紡ぐと、その感情だけがとめどなく溢れて止まらなくなっていく。
「好きだよ、恵くん。好き。……好きだよ。私、恵君が、大好き……っ」
はらはらと溢れる涙が凭れ掛かった恵君の服を濡らした。
私を抱き留める腕は優しくて、積年の思いを叶えたかのような長い溜息が聞こえる。
……ああ、やっと言えた。
そう思うのと同時に、言ってしまったと幾許かの自責の念が押し寄せる。
それなのに一度紡いでしまった言葉はその堰き止め方を忘れてしまったかの様に絶えず私の口から溢れて止まず、それはまるでこれまで伝えられなかった分の想いを一度にぶつけている様にも感じた。
嗚咽すら堪えず、息吐く暇さえ惜しかった。
ただただ、好きだとその一言を伝え続ける私を引っ剥がした恵君はここ数ヶ月の記憶の中で一番優しく、切なげな表情をして居り、私の頬を包み込んだ指先が頬に刻まれた涙痕を消していく。
「知ってます。俺はずっとアンタの事ばっかり見てきた。昔からアンタの事が好きなんだから。今だから言いますけど、真那さんのファーストキス。もっと早いですから」
「……え?」
「昔アンタの部屋で一緒に昼寝した時、貰ってる。悪いとは思ったけど抑えられなかった。だからそれ以来、ずっとアンタを避けてた。好きになり過ぎていつか傷つけるのが怖かった。……それくらい前からずっと、俺は真那さんの事が、好きだった。でもアンタは俺の事を弟みたいにしか見てない事が分かってたから。せめて俺が高専に入ったら、ちゃんと告白しようって……それまでは耐えろって。言い聞かせてた……」
真摯に私の目を見据える瞳には寸分の嘘も偽りもなかった。
いつもならば気恥ずかしそうに顔を背ける素振りすら今は窺えず、恵君もまた自身の悔いのない様にその全てをぶつけてくれているのだろう。
ある日突然素っ気なくなった感じて居た理由がまさかそんな事とは露知らず、私はどうやら自分で思う以上に恋愛面に関しては鈍感だったらしい。
それ自体は己の鈍さを恨みたくなるものの長い事、自分に恋情の念を抱き続けてくれた事がただ嬉しかった。
けれど同時に悲しくなるのは、この先が私達には存在しないから。
それでも、やっと知ることのできた理由があまりにも可愛らしくて、同時に愛おしくて。
思わず肩を揺らした私の唇を拗ねた様に恵君が一度塞ぐと私達は互いの頬に手を添えて目を細めて居た。
「そっか。なぁんだ。私とおんなじ事考えてたんだね。意地張って言えなくて、ごめん……ね。もっと、早く……言えたら、よかったね」
「もう、十分です。アンタの口からそれが聞けただけで」
「うん。……恵君、もう時間切れみたい。お願い、殺して」
ドクン、ドクンと鼓動が脈を打つたびに自分が自分でなくなっていく様な感覚がしている。
脚に至っては既に感覚も曖昧で、全身が捩じ切られそうな痛みすら伴い始めると呼吸が浅くなり、私はこれが本当に最期の願いだと恵君に訴えかける。
立ち上がった彼は私の目の前に立つと眉根を寄せて目を伏せた。
先程躊躇った手はしっかりと掌印を組み、静かな声で彼の式神である対の犬が呼び出される。
白と黒の美しい毛並みを持つ玉犬は私とも幾度か面識があり、戯れたことすらあるからか。
主人の心の機微に反応する様に鼻を鳴らして私に擦り寄ってくる。
二匹の戸惑う様な甲高い鳴き声を聞きながら、恵君が私に手を差し伸べた。
その手を取ると繋いだ手は恋人のそれを思わせる指を絡め合うものへと変わり、いよいよ終わりの時が迫っている。
「恵君。先生には一言文句、言っておいてね。家入さんには無理をしない様にって。七海さんには、たくさんの本をありがとうって伝えて。あと、伊地知さんには頑張ってって」
「分かりました」
「……ごめんね。今更になって言いたくて堪らな君なっちゃった。……恵君。大好きだよ」
「遅いですよ、本当に……。俺もです。ずっと、アンタが好きだ」
決して離すまいと私達の手には力が籠る。
恵君の言葉を待つ玉犬達はそのただならぬ様子に困惑するばかりで、恵君の側に寄り添って居た。
後は彼の一言で愛らしい対の式神は私に向けて牙を向け、それで全てが幕を引く。
それなのに、まだ躊躇いを見せて居り私に向けた縋るような視線は見て居るだけで胸を抉る。
「……真那さん」
「恵君。我儘に言ってごめんね。私、出来れば人のまま死にたい。呪いとして、祓われたくない」
「……はい」
苦悶の表情を浮かべる彼が天井を仰ぎ、何かを堪えるように瞳を閉じた。
その姿すら瞼に焼き付けようと私は、瞬きすらせずに彼に一心に視線を注ぐ。
締め切った窓すらも通り越して、ドンと大きな音が響くと遠目の夜空には大輪の花が咲き、図らずとも去年交わした約束はこれで守れた事になるのかもしれない。
恵君の背を彩った夜空の花。
散りばめられていく星を眺め、俯いた恵君と私の視線が交差していく。
「玉犬……ッ」
涙を堪えた震えた声。
その音と共に、対の式神が私の喉と腹部に喰らつく。
身体の中から鈍い音が聞こえた。
痛みよりも熱さが勝り、一面が赤に染まる光景を私は何処か他人事のように眺めながらそのままベッドに傾れ込む。
けれど繋いだ手だけは、決して離れることが無かった。
私の痛みを肩代わりしたように、苦しげな表情を浮かべる恵君は決して私から目を逸らす事は無く、喉を喰い千切られ、音を無くした唇が最期の瞬間まで「好きだよ」とその四文字を紡ぎ続ける。
果たしてこれでよかったのか。
最適解だなんてものは結局はその人それぞれの価値観から成るもので、数式の様な正解なんて有りはしない。
それでも、私はもう悔いなく死ねる気がした。
君に全てを伝えられたから。
私の意思を少しでも残せたから。
それだけで私は己の生きた意味を見出せる。
薄れゆく滲んだ視界の中で最後に聞いた言葉は、私と同じ位、もしかしたらそれ以上の想いの丈を伝えるもので。
悲しくもありながら優しい子守唄に抱かれて私の命は幕を下ろす。
たとえ、どんなに離れてしまったとしても。
私達が行く先を違えても。
私のこの想いだけは……ずっと変わらないから。
……大好きだよ。