たとえ、どんなに
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光も音もない世界では自分が起きているのか眠っているのかすら定かではない。
今の私の居場所は高専と縁のある病院の個室となり、数週間の間にベッドから抜け出す事はおろか起き上がる事すら殆ど無くなってしまった。
五感を奪われるとされて居た呪いはその他の平衡感覚や内蔵感覚までも私から奪い去り、ほんの数ヶ月前まで任務に勤しんでいた事すらまやかしだったのでは無いかと思える程に立派な病人と成り下がる。
来る人も一層限定され、家入さんと先生、恵君以外の人が私の元を訪れる事はなくなった。
誰かが来ている時に調子が良ければ手のひらに文字を書いて僅かな会話を行うばかりとなり、その合図は共通して初めに私の肩を叩くと言うもの。
その後に頭を撫でたら先生、手を握ったら家入さん。
そして恵君は私の頬に触れる様になっている。
その度に私は、肩を叩く手が己の頬に向かう事を無意識に期待していた。
そしてそれが叶うと以前の記憶を振り返る様に指先で恵君の顔のパーツに触れる事が常になり、それが私達の別れを刻む逢瀬となった。
一人の時に何があるかは分からないからと周りに置かれるものも選別され、時間を認識する事すら侭ならない状態となった今。
少し前まで会話のツールとして利用して居た携帯はただの震えるだけの時計となっており、その時計がぼんやりとした意識の中で私の待ち望んだ時刻を告げていた。
それなのにここ最近の私は呼吸すら儘ならぬ様な状態らしく、触覚、嗅覚と残り二つの感覚さえもぼやけ始めて居るのに、至る所に繋がれた管が僅かに動くたびに肌を撫でる感覚だけは理解できる事が憎らしい。
……持って半年。
そう言われた私の状態は初めこそ、それ以上に持ち堪えられるのではないかと期待された程だった。
けれど一度堕ちてしまったら待ち受けて居たのは奈落という深淵でしか無かった。
視力を失ってからと言うもの、動く事すら侭ならなくなった身体はどんどん衰弱し、味のない食事すら恋しく思えるほどの有様で。
栄養の殆どは強制的に体内に流し込まれる点滴に変わり、起きていられる時間の方が余程少ない。
昼と夜の感覚さえもなく、常に帷の降りた世界は時に泣き叫びたくなるほどの恐怖を齎すのに。
肉体的な苦しみや痛みはあまり感じる事はなくて。
脳裏に浮かび上がる恵君の顔が私に向けて優しく微笑む幻影を何度も見ている中で、今私の頬に触れている手は錯覚なのか現実なのか。
そんな事すら判然としなくなりながらも弱々しく伸ばした手が誰かの温もりに触れた刹那。
呼吸器の中で勝手に唇が恵君と、己の願望を紡いでいく。
震えた指先が瞼らしき膨らみに触れて、高い鼻梁を通り、その下に位置する柔らかい場所に触れると感覚だけで相手が恵君だと分かる私は、すっかりその顔立ちを指先が覚えてしまったらしい。
ただ自分ではその状態を維持しておく事すら出来ず、力なく滑り落ちた手がベッドに投げ出されると私は誰かに抱き竦められていた。
それは暗闇の中でも分かる、夏を思わせる様な爽やかな香り。
何度も心地いいと思った大好きな人の香りで、私の頭の中にこれまで恵君と過ごしてきた短い様な長い日々が甦る。
年上なのに馬鹿ばかり繰り返す私に呆れて眉を顰める姿も、慌てふためく姿を見てお腹を抱えながら笑いを堪える姿も。
全てを隠して逃げ出した私に怒りを露わにして追いかけてきた真剣な姿も。
……お返しと称してキスをして、照れくさそうに視線を彷徨わせた姿も。
それらの全部、全部が私にとって刹那でありながら永遠とも思える程に尊く、美しい青い春だった。
出会ってからの数年、子供だと思っていた男の子が大人の男の人に変わっていく瞬間はその一瞬一瞬があまりにも眩くて。
恵君が私と同じくらいの歳になった時のことを何度も考えては。己の想像した彼の姿にさえ私は恋をしていた。
意識は次第に移ろい初めて、きっと今にも私の命の灯火は燃え尽きようとして居るのだろう。
けれど最後の最後。
恵君が私の名前を呼ぶ声が、その悲しげな響きが、ほんの僅かに聞こえた気がした。
その瞬間に、心が悲鳴を上げた。
この目で、この耳で、その存在を感じたいと唸る様な咆哮を上げる。
この期に及んで出来る事ならばたった一言、どうしても言えなかった言葉を伝えたかったと。
結局彼の為と言いながら今際の際となっていつも後悔ばかりを繰り返す私は、何処までも愚かで滑稽で。
これこそが学長の言っていた悔いなのだろうか。
薄れ行く意識の中でその想いだけが膨れ上がり、私を雁字搦めにしていく気がした。
手を伸ばしては行けないと本能が告げる一縷の希望にも似た淡い光は、悔いを残した私に向けて己を掴めと輝きを放つ。
こんな形で別れたくはなかった。
もっと、ずっと……一緒にいたかった。
いろんな場所に出掛けて、いろんな話をして、時に二人で穏やかな時間を過ごして。
好きだと言う言葉を、その想いの丈をたくさん伝えたかったと。
それらは後悔というより執着や執念にも近い強い思いとなって私の存在そのものを歪める強い力となったのだろう。
ただ、実るはずだった筈でありながら叶わなかった恋は私の意思も矜持も、その在り方さえも狂わせるには十分過ぎて。
時に愛とは歪んだ呪いとなって我が身すらも焼き尽くす。
「……真那さん。アンタ、やっぱり……」
恵君の声がはっきりと聞こえた時、泣きたいほどに心が歓喜の声を上げる。
けれど己の身に起こった出来事を把握して行く程に清々しい程の晴天を切り裂いてやってきたのは土砂降りの雨を齎す黒雲だった。
俯きながら何かを必死に堪えている姿が目に留まり、握りしめた拳からは今にも血が滴りそうなほどの力が籠っている様子が窺える。
そんな彼の様子を見て、私自身も己の状況を理解するのに時間は掛からなかった。
「……ごめんね、恵君。ごめん、なさい」
はっきりと光を感じる様になった瞳。
鼓膜を震わせ、落ち着いた音色を拾う様になった耳。
自由に動ける身体は羽の様に軽くて、まるで自分のものとは俄かには信じ難い。
呪力は満ち溢れ、今の私には不可能な事など無いのではないかと錯覚すらしそうになる。
けれどこれは、最早最悪の事態と言っても過言では無い。
それはまだ私が呪われたと知ったばかりの話で、ふと思い至った一つの可能性でしかなかった。
呪術師は非術師とは違い、誰しもが少なからず持ち得る呪力の漏出と言うものが殆どない。
それは己の体内のみに留まりその内をよく巡るからであり即ち、呪術師から呪霊は生まれないと言うのが十年ほど前からの定説となりつつあった。
そしてこれは高専に入学して真っ先に教えられる事であり、私達呪術師の周知の事実。
呪詛師と会敵した際には必ず呪力を以て留めを刺さなければならない。
呪術師が死後呪へと転ずる事を防ぐにはそれしか手段がないからだ。
……だとしたら呪われて命を落とす私はどうなるのだろうか。
呪殺される事に変わりはない。
けれど死因は呪われた事による衰弱死であるとしたのなら。
死に至るのは呪われた事による副次効果の様なものだとしたのなら、私は万が一にも呪いとなる可能性を残している事になる。
だから私はその可能性を示唆し、まだ話せる内に先生にその全てを打ち明けて頭を下げていた。
ーーーもし、私が呪いになる様なことがあったら迷わず殺して下さい。
私は確かに先生にそう伝え、その時先生は唇を噛み締めながらも私の言葉に頭を撫ででくれた筈だった。
けれど今私の目の前にいるのは確かに恵君で、悔しさを馴染ませながらも全てを受け入れて居る様なその姿を見る限り、恐らく先生はその選択さえも彼に迫ったのだろう。
この先を共に過ごして、何れ時が来た時に私を殺す覚悟はあるのかと。
その命すら背負うつもりはあるのかと。
仮にそうだったとしたのなら、最後まで共に過ごしてやれと私を説得させた事にも符号がいく。
どうやら先生は愛弟子の彼に対してはどこまでも甘く、時に厳しいらしい。
……それこそ、死に逝く私の願いすら反故にしてしまう程に。
「酷いなぁ。私先生に、お願いしてたのに……」
悔しさと悲しさ、そして一抹の先生に向けた恨みの念が私の口から音になる。
久方振りに聞いた己の声は笑ってしまう程に情けないもので、どうして私はこんな選択をしてしまったのかとその諦めの悪さに反吐が出そうな程だった。
呪いへと転じる事は受胎が変態を遂げる様に一瞬で終わるものかと思いきや、そうでもないらしい。
人の形を半分は残し、それでも半分は呪霊となっている私の姿は人と呼ぶにも呪霊と呼ぶにも半端過ぎて、まるで己の胸の内をそのまま表した様な姿に嘲笑しか出来やしない。
やっとこんな形となっても五感の全て取り戻し、恵君に今一度触れたいと願うのに、こんな姿では手を伸ばす事さえ躊躇われる。
けれど恵君は彷徨った私の指先を絡め取り、その決意と覚悟を表す様に私の眼を真っ直ぐに見据えていた。
「……知ってました。先生から全部聞いた上で、俺がそれを断りました。アンタの命を他人にくれてやる気はないです。俺が全部背負うんで。アンタに関する事は何一つ譲るつもりはないですから」
「……ごめん、ね……ッ」
「……アンタは、頑張ったと思います。怖かったし、苦しかった筈なのに。それでも泣き言一つ言わなくて、ほんと、凄いですよ」
私のしゃくりあげる声が響くのと恵君が私を引き寄せるのは同時だった。
死ぬ間際に感じた恵君の香りに、温もりに、少し悲しげな声に。
私の感覚の全てが反応して、心の底から震え上がる程の喜びを見出している。
どうして、こんなに好きになってしまったのだろう。
どうして、出会ってしまったのだろう。
どうして、私は最後に彼を突き放しきれなかったのだろう。
全てが今更と言うしかなくて、その場凌ぎの癒しを求めた結果がこれだと言うならば私は自業自得と言うしかないのに。
何故、恵君まで修羅の道を行こうとするのか。
ただの憧れの混じった片想いで終わらせることが出来なかったのかと身勝手な思考が今度は彼さえも責め立てようとして居る。
彼は私を殺す事で一生物の傷を心に残す事になるのだ。
それが例え本人の意思であったとしても。
何もしなければ何れ風化して記憶の中からも消えていくであろう想いを、生涯抱える覚悟を強いられてしまったと言わざるを得ない。
私の片手が背中に回る。
恵君の制服を鷲掴み、嗚咽を漏らす度に私を閉じ込めた腕の力は強まっていく。
「……馬鹿、だなぁ」
「……うるさいですよ。俺が自分で決めた事なんです。アンタにだって、とやかく言われる筋合いは有りません」
「……嫌いになって、欲しかったよ」
「それは、あり得ないですから」
涙でぐしゃぐしゃになった頬は恵君の肩を濡らし、とめどなく溢れる雫が幾つもの涙痕を残していく。
頭を撫で付ける手のひらは年下の子とは思えない程に優しくて。
ほんの少し距離を取ると私の額にも、瞼にも頬にも。
恵君の唇が絶えず優しい雨の様に降り注ぐ。
そして最後にほんの少しの間を置いて私達の唇が重なった時、その味は先日の最期の花火からは想像も出来ない位の悲しみと嘆きの味がした。
いつもの様にただ唇を重ねて、互いの僅かな温もりを分け合って終わりになるかと思われたそれは離れても何度も恵君が私を追いかけて来て終わりを迎える気配がない。
顔を背けても、身体を押し返そうとしても。
必死に追いかけてくる恵君に私はそれ以上の抵抗すら出来ず、ベッドに縫い付けられた瞬間。
全ての悲しみを閉じ込めた一粒の雫が私の頬に落ちた。
「如月真那。呪術規定に基づき、俺は……。俺は、アンタを……殺す」
喉の奥から搾り出す様な声は、それだけで私の胸を無数の刃で突き刺していく。
恐る恐る伸ばした手と同時に顔を上げた彼の瞳はまだ揺らいで居り、その中には行き場の無い怒りを宿した緑が燃えていた。
誰を憎んで何を呪えば良いのかなんて、私達には分かるはずもない。
ただ、こうなったのが恵君ではなく、私であった事は僥倖だろう。
本来ならば規定通りの言葉を用いれば私は呪いとして祓われるべき存在だ。
しかし彼が「呪いとして祓うと」言わなかった事は、きっとそれを恵君自身も認めたくはなかったからなのかも知れない。
「……殺して。恵君」
今一度私がはっきりとその言葉を口にすると恵君の綺麗な顔が歪んでいく。
けれどその手は確かに掌印を組んでおり、見慣れた犬を模した様な形を見た後。
……私は静かに、瞼を下ろした。
今の私の居場所は高専と縁のある病院の個室となり、数週間の間にベッドから抜け出す事はおろか起き上がる事すら殆ど無くなってしまった。
五感を奪われるとされて居た呪いはその他の平衡感覚や内蔵感覚までも私から奪い去り、ほんの数ヶ月前まで任務に勤しんでいた事すらまやかしだったのでは無いかと思える程に立派な病人と成り下がる。
来る人も一層限定され、家入さんと先生、恵君以外の人が私の元を訪れる事はなくなった。
誰かが来ている時に調子が良ければ手のひらに文字を書いて僅かな会話を行うばかりとなり、その合図は共通して初めに私の肩を叩くと言うもの。
その後に頭を撫でたら先生、手を握ったら家入さん。
そして恵君は私の頬に触れる様になっている。
その度に私は、肩を叩く手が己の頬に向かう事を無意識に期待していた。
そしてそれが叶うと以前の記憶を振り返る様に指先で恵君の顔のパーツに触れる事が常になり、それが私達の別れを刻む逢瀬となった。
一人の時に何があるかは分からないからと周りに置かれるものも選別され、時間を認識する事すら侭ならない状態となった今。
少し前まで会話のツールとして利用して居た携帯はただの震えるだけの時計となっており、その時計がぼんやりとした意識の中で私の待ち望んだ時刻を告げていた。
それなのにここ最近の私は呼吸すら儘ならぬ様な状態らしく、触覚、嗅覚と残り二つの感覚さえもぼやけ始めて居るのに、至る所に繋がれた管が僅かに動くたびに肌を撫でる感覚だけは理解できる事が憎らしい。
……持って半年。
そう言われた私の状態は初めこそ、それ以上に持ち堪えられるのではないかと期待された程だった。
けれど一度堕ちてしまったら待ち受けて居たのは奈落という深淵でしか無かった。
視力を失ってからと言うもの、動く事すら侭ならなくなった身体はどんどん衰弱し、味のない食事すら恋しく思えるほどの有様で。
栄養の殆どは強制的に体内に流し込まれる点滴に変わり、起きていられる時間の方が余程少ない。
昼と夜の感覚さえもなく、常に帷の降りた世界は時に泣き叫びたくなるほどの恐怖を齎すのに。
肉体的な苦しみや痛みはあまり感じる事はなくて。
脳裏に浮かび上がる恵君の顔が私に向けて優しく微笑む幻影を何度も見ている中で、今私の頬に触れている手は錯覚なのか現実なのか。
そんな事すら判然としなくなりながらも弱々しく伸ばした手が誰かの温もりに触れた刹那。
呼吸器の中で勝手に唇が恵君と、己の願望を紡いでいく。
震えた指先が瞼らしき膨らみに触れて、高い鼻梁を通り、その下に位置する柔らかい場所に触れると感覚だけで相手が恵君だと分かる私は、すっかりその顔立ちを指先が覚えてしまったらしい。
ただ自分ではその状態を維持しておく事すら出来ず、力なく滑り落ちた手がベッドに投げ出されると私は誰かに抱き竦められていた。
それは暗闇の中でも分かる、夏を思わせる様な爽やかな香り。
何度も心地いいと思った大好きな人の香りで、私の頭の中にこれまで恵君と過ごしてきた短い様な長い日々が甦る。
年上なのに馬鹿ばかり繰り返す私に呆れて眉を顰める姿も、慌てふためく姿を見てお腹を抱えながら笑いを堪える姿も。
全てを隠して逃げ出した私に怒りを露わにして追いかけてきた真剣な姿も。
……お返しと称してキスをして、照れくさそうに視線を彷徨わせた姿も。
それらの全部、全部が私にとって刹那でありながら永遠とも思える程に尊く、美しい青い春だった。
出会ってからの数年、子供だと思っていた男の子が大人の男の人に変わっていく瞬間はその一瞬一瞬があまりにも眩くて。
恵君が私と同じくらいの歳になった時のことを何度も考えては。己の想像した彼の姿にさえ私は恋をしていた。
意識は次第に移ろい初めて、きっと今にも私の命の灯火は燃え尽きようとして居るのだろう。
けれど最後の最後。
恵君が私の名前を呼ぶ声が、その悲しげな響きが、ほんの僅かに聞こえた気がした。
その瞬間に、心が悲鳴を上げた。
この目で、この耳で、その存在を感じたいと唸る様な咆哮を上げる。
この期に及んで出来る事ならばたった一言、どうしても言えなかった言葉を伝えたかったと。
結局彼の為と言いながら今際の際となっていつも後悔ばかりを繰り返す私は、何処までも愚かで滑稽で。
これこそが学長の言っていた悔いなのだろうか。
薄れ行く意識の中でその想いだけが膨れ上がり、私を雁字搦めにしていく気がした。
手を伸ばしては行けないと本能が告げる一縷の希望にも似た淡い光は、悔いを残した私に向けて己を掴めと輝きを放つ。
こんな形で別れたくはなかった。
もっと、ずっと……一緒にいたかった。
いろんな場所に出掛けて、いろんな話をして、時に二人で穏やかな時間を過ごして。
好きだと言う言葉を、その想いの丈をたくさん伝えたかったと。
それらは後悔というより執着や執念にも近い強い思いとなって私の存在そのものを歪める強い力となったのだろう。
ただ、実るはずだった筈でありながら叶わなかった恋は私の意思も矜持も、その在り方さえも狂わせるには十分過ぎて。
時に愛とは歪んだ呪いとなって我が身すらも焼き尽くす。
「……真那さん。アンタ、やっぱり……」
恵君の声がはっきりと聞こえた時、泣きたいほどに心が歓喜の声を上げる。
けれど己の身に起こった出来事を把握して行く程に清々しい程の晴天を切り裂いてやってきたのは土砂降りの雨を齎す黒雲だった。
俯きながら何かを必死に堪えている姿が目に留まり、握りしめた拳からは今にも血が滴りそうなほどの力が籠っている様子が窺える。
そんな彼の様子を見て、私自身も己の状況を理解するのに時間は掛からなかった。
「……ごめんね、恵君。ごめん、なさい」
はっきりと光を感じる様になった瞳。
鼓膜を震わせ、落ち着いた音色を拾う様になった耳。
自由に動ける身体は羽の様に軽くて、まるで自分のものとは俄かには信じ難い。
呪力は満ち溢れ、今の私には不可能な事など無いのではないかと錯覚すらしそうになる。
けれどこれは、最早最悪の事態と言っても過言では無い。
それはまだ私が呪われたと知ったばかりの話で、ふと思い至った一つの可能性でしかなかった。
呪術師は非術師とは違い、誰しもが少なからず持ち得る呪力の漏出と言うものが殆どない。
それは己の体内のみに留まりその内をよく巡るからであり即ち、呪術師から呪霊は生まれないと言うのが十年ほど前からの定説となりつつあった。
そしてこれは高専に入学して真っ先に教えられる事であり、私達呪術師の周知の事実。
呪詛師と会敵した際には必ず呪力を以て留めを刺さなければならない。
呪術師が死後呪へと転ずる事を防ぐにはそれしか手段がないからだ。
……だとしたら呪われて命を落とす私はどうなるのだろうか。
呪殺される事に変わりはない。
けれど死因は呪われた事による衰弱死であるとしたのなら。
死に至るのは呪われた事による副次効果の様なものだとしたのなら、私は万が一にも呪いとなる可能性を残している事になる。
だから私はその可能性を示唆し、まだ話せる内に先生にその全てを打ち明けて頭を下げていた。
ーーーもし、私が呪いになる様なことがあったら迷わず殺して下さい。
私は確かに先生にそう伝え、その時先生は唇を噛み締めながらも私の言葉に頭を撫ででくれた筈だった。
けれど今私の目の前にいるのは確かに恵君で、悔しさを馴染ませながらも全てを受け入れて居る様なその姿を見る限り、恐らく先生はその選択さえも彼に迫ったのだろう。
この先を共に過ごして、何れ時が来た時に私を殺す覚悟はあるのかと。
その命すら背負うつもりはあるのかと。
仮にそうだったとしたのなら、最後まで共に過ごしてやれと私を説得させた事にも符号がいく。
どうやら先生は愛弟子の彼に対してはどこまでも甘く、時に厳しいらしい。
……それこそ、死に逝く私の願いすら反故にしてしまう程に。
「酷いなぁ。私先生に、お願いしてたのに……」
悔しさと悲しさ、そして一抹の先生に向けた恨みの念が私の口から音になる。
久方振りに聞いた己の声は笑ってしまう程に情けないもので、どうして私はこんな選択をしてしまったのかとその諦めの悪さに反吐が出そうな程だった。
呪いへと転じる事は受胎が変態を遂げる様に一瞬で終わるものかと思いきや、そうでもないらしい。
人の形を半分は残し、それでも半分は呪霊となっている私の姿は人と呼ぶにも呪霊と呼ぶにも半端過ぎて、まるで己の胸の内をそのまま表した様な姿に嘲笑しか出来やしない。
やっとこんな形となっても五感の全て取り戻し、恵君に今一度触れたいと願うのに、こんな姿では手を伸ばす事さえ躊躇われる。
けれど恵君は彷徨った私の指先を絡め取り、その決意と覚悟を表す様に私の眼を真っ直ぐに見据えていた。
「……知ってました。先生から全部聞いた上で、俺がそれを断りました。アンタの命を他人にくれてやる気はないです。俺が全部背負うんで。アンタに関する事は何一つ譲るつもりはないですから」
「……ごめん、ね……ッ」
「……アンタは、頑張ったと思います。怖かったし、苦しかった筈なのに。それでも泣き言一つ言わなくて、ほんと、凄いですよ」
私のしゃくりあげる声が響くのと恵君が私を引き寄せるのは同時だった。
死ぬ間際に感じた恵君の香りに、温もりに、少し悲しげな声に。
私の感覚の全てが反応して、心の底から震え上がる程の喜びを見出している。
どうして、こんなに好きになってしまったのだろう。
どうして、出会ってしまったのだろう。
どうして、私は最後に彼を突き放しきれなかったのだろう。
全てが今更と言うしかなくて、その場凌ぎの癒しを求めた結果がこれだと言うならば私は自業自得と言うしかないのに。
何故、恵君まで修羅の道を行こうとするのか。
ただの憧れの混じった片想いで終わらせることが出来なかったのかと身勝手な思考が今度は彼さえも責め立てようとして居る。
彼は私を殺す事で一生物の傷を心に残す事になるのだ。
それが例え本人の意思であったとしても。
何もしなければ何れ風化して記憶の中からも消えていくであろう想いを、生涯抱える覚悟を強いられてしまったと言わざるを得ない。
私の片手が背中に回る。
恵君の制服を鷲掴み、嗚咽を漏らす度に私を閉じ込めた腕の力は強まっていく。
「……馬鹿、だなぁ」
「……うるさいですよ。俺が自分で決めた事なんです。アンタにだって、とやかく言われる筋合いは有りません」
「……嫌いになって、欲しかったよ」
「それは、あり得ないですから」
涙でぐしゃぐしゃになった頬は恵君の肩を濡らし、とめどなく溢れる雫が幾つもの涙痕を残していく。
頭を撫で付ける手のひらは年下の子とは思えない程に優しくて。
ほんの少し距離を取ると私の額にも、瞼にも頬にも。
恵君の唇が絶えず優しい雨の様に降り注ぐ。
そして最後にほんの少しの間を置いて私達の唇が重なった時、その味は先日の最期の花火からは想像も出来ない位の悲しみと嘆きの味がした。
いつもの様にただ唇を重ねて、互いの僅かな温もりを分け合って終わりになるかと思われたそれは離れても何度も恵君が私を追いかけて来て終わりを迎える気配がない。
顔を背けても、身体を押し返そうとしても。
必死に追いかけてくる恵君に私はそれ以上の抵抗すら出来ず、ベッドに縫い付けられた瞬間。
全ての悲しみを閉じ込めた一粒の雫が私の頬に落ちた。
「如月真那。呪術規定に基づき、俺は……。俺は、アンタを……殺す」
喉の奥から搾り出す様な声は、それだけで私の胸を無数の刃で突き刺していく。
恐る恐る伸ばした手と同時に顔を上げた彼の瞳はまだ揺らいで居り、その中には行き場の無い怒りを宿した緑が燃えていた。
誰を憎んで何を呪えば良いのかなんて、私達には分かるはずもない。
ただ、こうなったのが恵君ではなく、私であった事は僥倖だろう。
本来ならば規定通りの言葉を用いれば私は呪いとして祓われるべき存在だ。
しかし彼が「呪いとして祓うと」言わなかった事は、きっとそれを恵君自身も認めたくはなかったからなのかも知れない。
「……殺して。恵君」
今一度私がはっきりとその言葉を口にすると恵君の綺麗な顔が歪んでいく。
けれどその手は確かに掌印を組んでおり、見慣れた犬を模した様な形を見た後。
……私は静かに、瞼を下ろした。