たとえ、どんなに
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その後、先生の進言によって再度精密検査を行ってみたものの、はっきりと分かった事と言えばやはり味覚がなくなった事。
その弊害からか食欲が湧かず、筋力が少しばかり落ちた事だった。
しかし今のところ運動機能には然程問題はなく、これも味覚同様に呪いの影響か、少しばかり聴力が落ちて居たらしい。
連日、忙しい合間を縫っては先生や伊地知さんが必死になって情報を集めてくれても解呪に関する有力な手掛かりは見つからず。
唯一分かった事と言えば、じわじわと真綿で締め殺していく様に相手の五感を奪っていくと言うことだけ。
それも本人が自覚してから唐突に進行が速くなり、数日で死に至る人も居れば数ヶ月持った人も居るらしい。
さ
けれど、呪殺された非術師と違い私は呪術師だ。
それ自体が呪いに対してどれだけの抵抗力を持つか定かではないものの、これまでに犠牲になった人たちと比べたら時間は多いだろう。
けれど今後、どれだけ待つかの目安としては半年後には恐らく不帰の客となって居るだろうと言うのが先生や家入さんの見解だった。
仕方ないと、諦めるしか無い気がする。
半年と考えたらあまりにも短い。
けれど、覚悟を決める時間が半年はあるのだと思えば自ずと見えてくるものもある気がする。
人生、呪いと関わって居なくても何があるかわからない。
ある日突然災害に見舞われたり、道路を歩いて居て車に撥ねられたり、運が悪ければ事件に巻き込まれる可能性だって否定し切れないのだから。
いつ死神の鎌が己の首を刈りにくるかも分からない世界の中で、そんな可能性を誰しもが自分には降りかかる事のない災いだと、遠くの誰かの出来事だと妄信して何気なく日々を過ごして居る。
ただ、呪術界はそう言ったことが浮き彫りになりやすい世界と言うだけだ。
そう言った意味では私は先生や学長が期待する以上にイカれて居るのだろう。
時間はあるのに必要以上に人と関わろうと思えないのは親しくなればなる程に時期にやって来る別れが辛くなってしまうからと、死んだらどうなるのかとか、最後まで残る感覚はどれが良いかとか、最近では考えるのはそんな事ばかり。
この件に関しては五条先生が親しくして居る一部の人間にしか開示される事はなく、必然的に私は家入さんや伊地知さんの側に居ることが増えていった。
退屈凌ぎになればと七海さんは自身の蔵書の中からお勧めの本を見繕ってくれて。
いつ異変が起きるとも分からない状態では任務もこなせなくなり、伊地知さんの雑務の手伝いの傍らで本の虫となりつつある。
この日もそうだった。
梅雨の鬱陶しい雨雲がほんの少し晴れ間を覗かせる少し湿っぽい空気の漂う、そんな日の事。
すっかり日課となってしまった朝の診察を終えて伊地知さんの手伝いをして居ると、私の携帯が一つの通知を知らせて短い音を鳴らして居た。
「おや、如月さん。何方からか連絡が来てますよ」
「あ……はい、大丈夫です。多分恵君なんで、そのままにしておいて下さい」
この状況になってからと言うもの、私に任務は与えられて居ない。
必然的に急を要する連絡は激減し、常に誰かと行動を共にして居る事は事情を知って居る人達には周知されて居る。
そうなれば消去法で画面を確認せずとも連絡を寄越すのは彼しか居らず、苦虫を噛み潰した様な顔して私は睨めっこして居た書面から一度顔を上げると、伊地知さんの哀しげな表情に気づかない振りをして再びデスクに視線を戻した。
「…そうですか。すみません、私がこんな事を申し上げるのは差し出がましいとは思うのですが、伏黒君とは連絡は取らないおつもりですか?」
「そうですね……。その方がきっとお互いの為なんです。私は、彼の未来には居ませんから」
「……如月さん」
己の身に降り掛かった災いを知って、既に一ヶ月近くが経過して居り、その間何度も恵君からは連絡が来たものの私はのらりくらりとそれを躱し続けて居る。
少し前は連絡をくれなったじゃないかと不貞腐れた癖に、今の私は何としてでも彼と会わない様にする為に嘘を嘘で塗り潰している。
……なんて滑稽な話だろう。
けれどもう会わないと。
その方が良いのだと身勝手な話だけれど決めたのだ。
それなのに、直ぐにでも返事をしたい気持ちに駆られて己を叱咤をしても意図せずに携帯にばかり視線が向いてしまう。
見かねた伊地知さんが私に休憩を促す。
その言葉に甘えて自販機にでも向かおうと伊地知さんに何が買ってきますねと言葉を残して事務室を後にした。
先日衣替えを行ったばかりの空は珍しく青に彩られ、昨日まで続いて居た雨の影響か。
植え込みの木々が梅雨に濡れて居る。
すっかり運動不足になってしまった身体は最寄の自販機まで向かうのさえちょっとした運動になって、昼練を始めたばかりの一年生の賑やかな声がグラウンドから聞こえて居た。
パンダ君とは何度か会話をしたこともあるけれど他の一年生に関して私は殆ど知りはしなかった。
唯一今年になってやっと入ってきた女の子とは寮ですれ違うこともあったけれど、和気藹々といった雰囲気でもなく、今となっては極力接触は避けてしまう。
こんな事にならなければ少しくらい関わってみたかった。
そう思えるくらいには今年の一年生は先生曰く色物揃いで、来年になればその中に恵君が居るのかと思うと、高専の制服を身に纏った彼の幻影さえ見える気がする。
今のブレザー姿も良いけれど、高専の制服もきっと似合う事だろう。
けれどきっと、その姿を私が目にする事はない。
「伊地知さんは何が良いかな。お茶か、コーヒーか……ちゃんと聞いてくればよかった」
感傷に浸る思いを振り払い、やっと辿り着いた自販機の前で私は二つの選択肢に考えあぐねた。
どうせなら両方買って行って余った方を私が飲めば良いのでは無いかとすら思い始める。
けれど自分が飲んだ所でもう味なんて感じる事が出来ないのだから勿体無い気がしてしまうのは先生とは違う庶民故のものなのか。
時間すら今は持て余す程にあるとなると焦る気持ちすら湧いてこなくなり、自販機の前で棒立ちになる私の背後に人の気配を感じる。
待たせてしまうのも申し訳がない。
先を譲ってその間に考えれば良いと思った私の判断は間違っては居ない筈だ。
けれどその場から動く気配を見せない人物は徐に私の肩に手を置き、振り返ったその後。
耳に響いた音に私は大きく肩を揺らした。
「……アンタ、何で高専にいるんですか」
「……め、ぐみ君」
「任務じゃなかったのかよ。突然連絡だって碌に返さなくなって……聞いてるんですか?」
声を聞いた瞬間身体が歓喜したように熱を孕んだ。
けれど次の瞬間には身体が固まったかの様に動かなくなり、一気に血の気が引いて行く。
どう弁解するか必死に言葉を探しても浮かび上がるのはどうしようと言う焦りばかりで、頭の中には一向にまともな言葉が浮かんでは来ない。
眉根を寄せて不機嫌さを著しにした恵君を見て、問い詰められた際の言い訳を必死に探した。
平静を装うように努めるのに、嫌な汗が背中を伝い心臓が早鐘を打つ。
拳を握りしめると食い込んだ爪が痛みを齎し、それでやっと脚が動く事を確認した私は言葉一つ発する事なくその場から駆け出して居た。
「……ごめんっ」
「おいっ!!」
再び私を呼び止める恵君の怒りと焦りを孕んだ声が私の背中に投げられるのに動き出した脚は止まることがなく、逃げ場を求めて彷徨った。
これが普段の私だったのなら、恵君を巻く事位はできたのかもしれない。
けれど今の私には彼から逃げ切るだけの体力すら無く、もしかしたらそれは恵君の著しい成長もあったのかもしれない。
校舎の壁を沿うように行き先すら定めずに走り続けた私はやがて袋小路となり、手を掴まれると息を切らせて肩を揺らした。
それと同時に呼吸の乱れすら殆ど感じさせない恵君の息遣いに己の状況を突きつけられた気もする。
伸びた腕が私の顔の横をすり抜けて背後から校舎の壁に手を付く。
いよいよ逃げ場すら失い、沈黙を貫く私に彼は今、どんな表情をして居て何を思って居るのか知るのが怖かった。
恵君の額が私の左肩に置かれる。
まるで拒まないでくれと縋るような仕草は普段の彼からは想像つかないほどに弱々しく、怯えさえも感じ取れた。
「……何で、いきなり避けるんですか」
「恵君だって、私の事避けてた時期があったんだから。そんなのお互い様だよ。私も今一級になる為に忙しいんだよ。だから、子供に付き合ってあげる暇なんて無い」
「……ッ、それは…!じゃあアンタはあの時、本当に慰めるだけのつもりでキスしたのかよ。そんなくだらない理由でアンタはファーストキス捨てたのかよ」
「……そうだって言えば満足?津美紀ちゃんが呪われて、一人ぼっちで可哀想だったから慰めてあげたかったって言えば納得してくれるの?」
「アンタは!!そんな事するような人間じゃねぇだろ」
平時の私からは似つかわない辛辣な物言いに恵君が私の肩を掴むと身体が反転する。
けれど悲しげに揺れて居るであろうその眼を見てしまったら、きっと私は決意が揺らいでしまう。
頑なに顔を逸らし、恵君を見ないようにする事だけで精一杯だった。
項垂れる恵君の旋毛を眺め、早く自分に幻滅したと突き放してくれと願って居るのに……。
きっとそれが叶ったら、私はこの場で立ち尽くし、彼が去った後に人知れず泣くのだろう。
目の奥が火を灯した様に熱くなる。
肩は痛むほどに強く力が籠められて、顔が歪む。
けれどこれを言い訳にすれば泣く理由も出来るのではないかと、そんな狡賢い思考ばかりが頭の中を占拠して居た。
噛み締めた奥歯を鳴らしたのは果たしてどちらだったのだろうか。
ほんの少し身体を押されたら直ぐ後ろには壁しかなくて、威嚇する様に視線を鋭くした私に向けられるのはやはり傷ついたと言葉なく訴える好きな人の顔だった。
そんな顔をさせたかった訳じゃないのに。
だから、何も言わずにひっそりと過去になろうとしたのに。
何故今此処に来たのだと、そう叫びたい言葉が声にならずに喉の奥で支えて居る。
好きな人に見離してもらう為だけに傷つける言葉を並べ立てるのは、こんなにも自分の心を抉るのかと嘲笑さえしたくなった。
そもそも、平日の昼過ぎに高専にいる事自体が学生の本分を疎かにして居る事になるのだから、この場を凌げたら先生に諭してもらうべきなのだろうか。
自分に向けられて居る好意が今頃になってはっきりと伝わる。
それは少し前の私ならば満面の笑みを浮かべ、涙したい程に嬉しい事だった筈なのに。
自分への御守りだと称して買ったブレスレットがこんな形で仇になるなんて思わず、五月晴れの空の元、私達の周りだけが今にも雨を降らせそうな気配を漂わせる。
無言の空気が肌にヒリヒリと痛みをもたらす様な気がして、痺れを切らした様に少し身を屈め私の瞳を捉えた恵君に私の思考が淀んでいく。
ゆっくりと近づくのは綺麗になのに男を思わせる恵君の顔で。
久しぶりに感じた彼の香りに心が大きく揺さぶられ、見据えた瞳の中に焔が見えた気がした。
「……何で、拒まねぇんだよ。そんなに俺が嫌なら悲鳴でも何でもあげたらいいだろ。それとも、これも慰めのつもりなのかよ」
「そんな事して何になるの?中学生の男の子に襲われたって自分の恥を晒せとでも?先生にだって迷惑が掛かる。恵君は先生の弟子で、将来を嘱望されて、呪術師になるんでしょ?」
「知った事かよ……」
自分達にはどうにも出来ない年齢という壁を利用した私はきっと卑怯者以外の何者でも無い。
恵君の顔が苦悶の色を浮かべて居た。
それが苦しくて、辛くて堪らないのに、私はどうして突き放そうとして居るくせに最後の最後で躊躇ってしまうのか。
緩んだ手は振り払えば逃げ出す事はできる筈なのに、私にはどうしてもそれが出来ず、恵君がこんなに声を荒げる所なんて見たことがない。
「もう分かってんだろ!俺は……ずっと、アンタの事」
「言わないで。……聞きたく、ない」
不毛な睨み合いが続くのに、そのひと時さえもこの先を思えば私にとっては幸せな出来事に変わるのだろうか。
けれどきっと、その先の言葉を聞いて仕舞えば私は死を恐れる。
助けてくれと泣いて、縋って、惨めな思いをする自分しか想像できない。
結局は他者から憐れみの視線を向けられる事を厭い、嫌悪して居るだけだ。
何も知らない恵君がそんな私の胸中を知ったら、この子こそ我が身を顧みずに無茶をしてしまう。
それこそ、私がこうなってしまった様に、己の命すら投げ出しかねない。
……そんな事、耐えられる筈がない。
顔を背けたのに、今度ははっきりと拒絶の意思を示した筈なのに。
恵君はそれでも尚、これだけは言わせろと言いたげに私の頬に手を添えた。
「今更かよ。嫌なら、迷惑なら。アンタが俺を突き放せよ。俺は……!!」
そこまで恵君の言葉を聞いて、僅かに小さなノイズが響く。
それは私の脳が錯覚させる刹那の沈黙かに思えた。
けれど先程まで聞こえて居た筈の恵君の息遣いや、少し離れた所で響いて居た筈の一年生達の賑やかな声、木々のざわめく音すら無くなり一瞬にして静まり返って行く。
唇を戦慄かせ、恐る恐る正面を見据える。
恵君の唇が私が欲しかった言葉を形取るのに、それをはっきりと頭が認識して居るのに。
その音が、私には届いて居なかった。
ああ、こうして私はこの先ひとつひとつ彼を感じるものを無くしていくのだと。
その残酷さに打ちひしがれた瞬間、瞼を焼く様に熱い涙が頬を伝う。
私が欲しくて聞きたくて堪らなかった言葉が、大好きな少し落ち着いた彼の音が私の耳を打つ事は二度とない。
その日、私の世界から……音が消えた。
その弊害からか食欲が湧かず、筋力が少しばかり落ちた事だった。
しかし今のところ運動機能には然程問題はなく、これも味覚同様に呪いの影響か、少しばかり聴力が落ちて居たらしい。
連日、忙しい合間を縫っては先生や伊地知さんが必死になって情報を集めてくれても解呪に関する有力な手掛かりは見つからず。
唯一分かった事と言えば、じわじわと真綿で締め殺していく様に相手の五感を奪っていくと言うことだけ。
それも本人が自覚してから唐突に進行が速くなり、数日で死に至る人も居れば数ヶ月持った人も居るらしい。
さ
けれど、呪殺された非術師と違い私は呪術師だ。
それ自体が呪いに対してどれだけの抵抗力を持つか定かではないものの、これまでに犠牲になった人たちと比べたら時間は多いだろう。
けれど今後、どれだけ待つかの目安としては半年後には恐らく不帰の客となって居るだろうと言うのが先生や家入さんの見解だった。
仕方ないと、諦めるしか無い気がする。
半年と考えたらあまりにも短い。
けれど、覚悟を決める時間が半年はあるのだと思えば自ずと見えてくるものもある気がする。
人生、呪いと関わって居なくても何があるかわからない。
ある日突然災害に見舞われたり、道路を歩いて居て車に撥ねられたり、運が悪ければ事件に巻き込まれる可能性だって否定し切れないのだから。
いつ死神の鎌が己の首を刈りにくるかも分からない世界の中で、そんな可能性を誰しもが自分には降りかかる事のない災いだと、遠くの誰かの出来事だと妄信して何気なく日々を過ごして居る。
ただ、呪術界はそう言ったことが浮き彫りになりやすい世界と言うだけだ。
そう言った意味では私は先生や学長が期待する以上にイカれて居るのだろう。
時間はあるのに必要以上に人と関わろうと思えないのは親しくなればなる程に時期にやって来る別れが辛くなってしまうからと、死んだらどうなるのかとか、最後まで残る感覚はどれが良いかとか、最近では考えるのはそんな事ばかり。
この件に関しては五条先生が親しくして居る一部の人間にしか開示される事はなく、必然的に私は家入さんや伊地知さんの側に居ることが増えていった。
退屈凌ぎになればと七海さんは自身の蔵書の中からお勧めの本を見繕ってくれて。
いつ異変が起きるとも分からない状態では任務もこなせなくなり、伊地知さんの雑務の手伝いの傍らで本の虫となりつつある。
この日もそうだった。
梅雨の鬱陶しい雨雲がほんの少し晴れ間を覗かせる少し湿っぽい空気の漂う、そんな日の事。
すっかり日課となってしまった朝の診察を終えて伊地知さんの手伝いをして居ると、私の携帯が一つの通知を知らせて短い音を鳴らして居た。
「おや、如月さん。何方からか連絡が来てますよ」
「あ……はい、大丈夫です。多分恵君なんで、そのままにしておいて下さい」
この状況になってからと言うもの、私に任務は与えられて居ない。
必然的に急を要する連絡は激減し、常に誰かと行動を共にして居る事は事情を知って居る人達には周知されて居る。
そうなれば消去法で画面を確認せずとも連絡を寄越すのは彼しか居らず、苦虫を噛み潰した様な顔して私は睨めっこして居た書面から一度顔を上げると、伊地知さんの哀しげな表情に気づかない振りをして再びデスクに視線を戻した。
「…そうですか。すみません、私がこんな事を申し上げるのは差し出がましいとは思うのですが、伏黒君とは連絡は取らないおつもりですか?」
「そうですね……。その方がきっとお互いの為なんです。私は、彼の未来には居ませんから」
「……如月さん」
己の身に降り掛かった災いを知って、既に一ヶ月近くが経過して居り、その間何度も恵君からは連絡が来たものの私はのらりくらりとそれを躱し続けて居る。
少し前は連絡をくれなったじゃないかと不貞腐れた癖に、今の私は何としてでも彼と会わない様にする為に嘘を嘘で塗り潰している。
……なんて滑稽な話だろう。
けれどもう会わないと。
その方が良いのだと身勝手な話だけれど決めたのだ。
それなのに、直ぐにでも返事をしたい気持ちに駆られて己を叱咤をしても意図せずに携帯にばかり視線が向いてしまう。
見かねた伊地知さんが私に休憩を促す。
その言葉に甘えて自販機にでも向かおうと伊地知さんに何が買ってきますねと言葉を残して事務室を後にした。
先日衣替えを行ったばかりの空は珍しく青に彩られ、昨日まで続いて居た雨の影響か。
植え込みの木々が梅雨に濡れて居る。
すっかり運動不足になってしまった身体は最寄の自販機まで向かうのさえちょっとした運動になって、昼練を始めたばかりの一年生の賑やかな声がグラウンドから聞こえて居た。
パンダ君とは何度か会話をしたこともあるけれど他の一年生に関して私は殆ど知りはしなかった。
唯一今年になってやっと入ってきた女の子とは寮ですれ違うこともあったけれど、和気藹々といった雰囲気でもなく、今となっては極力接触は避けてしまう。
こんな事にならなければ少しくらい関わってみたかった。
そう思えるくらいには今年の一年生は先生曰く色物揃いで、来年になればその中に恵君が居るのかと思うと、高専の制服を身に纏った彼の幻影さえ見える気がする。
今のブレザー姿も良いけれど、高専の制服もきっと似合う事だろう。
けれどきっと、その姿を私が目にする事はない。
「伊地知さんは何が良いかな。お茶か、コーヒーか……ちゃんと聞いてくればよかった」
感傷に浸る思いを振り払い、やっと辿り着いた自販機の前で私は二つの選択肢に考えあぐねた。
どうせなら両方買って行って余った方を私が飲めば良いのでは無いかとすら思い始める。
けれど自分が飲んだ所でもう味なんて感じる事が出来ないのだから勿体無い気がしてしまうのは先生とは違う庶民故のものなのか。
時間すら今は持て余す程にあるとなると焦る気持ちすら湧いてこなくなり、自販機の前で棒立ちになる私の背後に人の気配を感じる。
待たせてしまうのも申し訳がない。
先を譲ってその間に考えれば良いと思った私の判断は間違っては居ない筈だ。
けれどその場から動く気配を見せない人物は徐に私の肩に手を置き、振り返ったその後。
耳に響いた音に私は大きく肩を揺らした。
「……アンタ、何で高専にいるんですか」
「……め、ぐみ君」
「任務じゃなかったのかよ。突然連絡だって碌に返さなくなって……聞いてるんですか?」
声を聞いた瞬間身体が歓喜したように熱を孕んだ。
けれど次の瞬間には身体が固まったかの様に動かなくなり、一気に血の気が引いて行く。
どう弁解するか必死に言葉を探しても浮かび上がるのはどうしようと言う焦りばかりで、頭の中には一向にまともな言葉が浮かんでは来ない。
眉根を寄せて不機嫌さを著しにした恵君を見て、問い詰められた際の言い訳を必死に探した。
平静を装うように努めるのに、嫌な汗が背中を伝い心臓が早鐘を打つ。
拳を握りしめると食い込んだ爪が痛みを齎し、それでやっと脚が動く事を確認した私は言葉一つ発する事なくその場から駆け出して居た。
「……ごめんっ」
「おいっ!!」
再び私を呼び止める恵君の怒りと焦りを孕んだ声が私の背中に投げられるのに動き出した脚は止まることがなく、逃げ場を求めて彷徨った。
これが普段の私だったのなら、恵君を巻く事位はできたのかもしれない。
けれど今の私には彼から逃げ切るだけの体力すら無く、もしかしたらそれは恵君の著しい成長もあったのかもしれない。
校舎の壁を沿うように行き先すら定めずに走り続けた私はやがて袋小路となり、手を掴まれると息を切らせて肩を揺らした。
それと同時に呼吸の乱れすら殆ど感じさせない恵君の息遣いに己の状況を突きつけられた気もする。
伸びた腕が私の顔の横をすり抜けて背後から校舎の壁に手を付く。
いよいよ逃げ場すら失い、沈黙を貫く私に彼は今、どんな表情をして居て何を思って居るのか知るのが怖かった。
恵君の額が私の左肩に置かれる。
まるで拒まないでくれと縋るような仕草は普段の彼からは想像つかないほどに弱々しく、怯えさえも感じ取れた。
「……何で、いきなり避けるんですか」
「恵君だって、私の事避けてた時期があったんだから。そんなのお互い様だよ。私も今一級になる為に忙しいんだよ。だから、子供に付き合ってあげる暇なんて無い」
「……ッ、それは…!じゃあアンタはあの時、本当に慰めるだけのつもりでキスしたのかよ。そんなくだらない理由でアンタはファーストキス捨てたのかよ」
「……そうだって言えば満足?津美紀ちゃんが呪われて、一人ぼっちで可哀想だったから慰めてあげたかったって言えば納得してくれるの?」
「アンタは!!そんな事するような人間じゃねぇだろ」
平時の私からは似つかわない辛辣な物言いに恵君が私の肩を掴むと身体が反転する。
けれど悲しげに揺れて居るであろうその眼を見てしまったら、きっと私は決意が揺らいでしまう。
頑なに顔を逸らし、恵君を見ないようにする事だけで精一杯だった。
項垂れる恵君の旋毛を眺め、早く自分に幻滅したと突き放してくれと願って居るのに……。
きっとそれが叶ったら、私はこの場で立ち尽くし、彼が去った後に人知れず泣くのだろう。
目の奥が火を灯した様に熱くなる。
肩は痛むほどに強く力が籠められて、顔が歪む。
けれどこれを言い訳にすれば泣く理由も出来るのではないかと、そんな狡賢い思考ばかりが頭の中を占拠して居た。
噛み締めた奥歯を鳴らしたのは果たしてどちらだったのだろうか。
ほんの少し身体を押されたら直ぐ後ろには壁しかなくて、威嚇する様に視線を鋭くした私に向けられるのはやはり傷ついたと言葉なく訴える好きな人の顔だった。
そんな顔をさせたかった訳じゃないのに。
だから、何も言わずにひっそりと過去になろうとしたのに。
何故今此処に来たのだと、そう叫びたい言葉が声にならずに喉の奥で支えて居る。
好きな人に見離してもらう為だけに傷つける言葉を並べ立てるのは、こんなにも自分の心を抉るのかと嘲笑さえしたくなった。
そもそも、平日の昼過ぎに高専にいる事自体が学生の本分を疎かにして居る事になるのだから、この場を凌げたら先生に諭してもらうべきなのだろうか。
自分に向けられて居る好意が今頃になってはっきりと伝わる。
それは少し前の私ならば満面の笑みを浮かべ、涙したい程に嬉しい事だった筈なのに。
自分への御守りだと称して買ったブレスレットがこんな形で仇になるなんて思わず、五月晴れの空の元、私達の周りだけが今にも雨を降らせそうな気配を漂わせる。
無言の空気が肌にヒリヒリと痛みをもたらす様な気がして、痺れを切らした様に少し身を屈め私の瞳を捉えた恵君に私の思考が淀んでいく。
ゆっくりと近づくのは綺麗になのに男を思わせる恵君の顔で。
久しぶりに感じた彼の香りに心が大きく揺さぶられ、見据えた瞳の中に焔が見えた気がした。
「……何で、拒まねぇんだよ。そんなに俺が嫌なら悲鳴でも何でもあげたらいいだろ。それとも、これも慰めのつもりなのかよ」
「そんな事して何になるの?中学生の男の子に襲われたって自分の恥を晒せとでも?先生にだって迷惑が掛かる。恵君は先生の弟子で、将来を嘱望されて、呪術師になるんでしょ?」
「知った事かよ……」
自分達にはどうにも出来ない年齢という壁を利用した私はきっと卑怯者以外の何者でも無い。
恵君の顔が苦悶の色を浮かべて居た。
それが苦しくて、辛くて堪らないのに、私はどうして突き放そうとして居るくせに最後の最後で躊躇ってしまうのか。
緩んだ手は振り払えば逃げ出す事はできる筈なのに、私にはどうしてもそれが出来ず、恵君がこんなに声を荒げる所なんて見たことがない。
「もう分かってんだろ!俺は……ずっと、アンタの事」
「言わないで。……聞きたく、ない」
不毛な睨み合いが続くのに、そのひと時さえもこの先を思えば私にとっては幸せな出来事に変わるのだろうか。
けれどきっと、その先の言葉を聞いて仕舞えば私は死を恐れる。
助けてくれと泣いて、縋って、惨めな思いをする自分しか想像できない。
結局は他者から憐れみの視線を向けられる事を厭い、嫌悪して居るだけだ。
何も知らない恵君がそんな私の胸中を知ったら、この子こそ我が身を顧みずに無茶をしてしまう。
それこそ、私がこうなってしまった様に、己の命すら投げ出しかねない。
……そんな事、耐えられる筈がない。
顔を背けたのに、今度ははっきりと拒絶の意思を示した筈なのに。
恵君はそれでも尚、これだけは言わせろと言いたげに私の頬に手を添えた。
「今更かよ。嫌なら、迷惑なら。アンタが俺を突き放せよ。俺は……!!」
そこまで恵君の言葉を聞いて、僅かに小さなノイズが響く。
それは私の脳が錯覚させる刹那の沈黙かに思えた。
けれど先程まで聞こえて居た筈の恵君の息遣いや、少し離れた所で響いて居た筈の一年生達の賑やかな声、木々のざわめく音すら無くなり一瞬にして静まり返って行く。
唇を戦慄かせ、恐る恐る正面を見据える。
恵君の唇が私が欲しかった言葉を形取るのに、それをはっきりと頭が認識して居るのに。
その音が、私には届いて居なかった。
ああ、こうして私はこの先ひとつひとつ彼を感じるものを無くしていくのだと。
その残酷さに打ちひしがれた瞬間、瞼を焼く様に熱い涙が頬を伝う。
私が欲しくて聞きたくて堪らなかった言葉が、大好きな少し落ち着いた彼の音が私の耳を打つ事は二度とない。
その日、私の世界から……音が消えた。