たとえ、どんなに
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疑問ばかりの状況にただ首を捻るしかなかったけれど、初めは風邪を引いたとか、ストレスが溜まって居るとか。
きっと原因はそんな些細な事で、ほんの数日もすれば治るものだと信じて疑わなかった。
勿論、念の為に翌日には味覚の事を家入さんにも相談はしてみたものの、医師としての彼女の見解も私と同じで、暫くは様子を見ようと言う話になる。
けれど異変は日を追うごとに顕著に私の身体に襲い掛かった。
それはまるで急な坂道を石ころが勢いよく転がっていく様に。
自覚した瞬間にじわじわと侵食する様に私を蝕み始め、初めは少しばかり味が分かりずらいと思って居ただけのものが数日後には完全に五感の一つである味覚を失ってしまって居た。
「……美味しくないなぁ」
午前の診察を終えて時間を潰し、昼を少し過ぎたあたりで空腹に耐えかねて食堂に向かった筈なのに、好物だった筈のおかずを目の前にしても食指が唆られないと言うのはやはり苦痛を感じさせる。
何が起きたのか分からず、けれど味覚だけならば食べる事に楽しみは見出せなくなっても生きていく事には問題がない。
けれど食というのは健康な身体を維持する上で不可欠なものだ。
空腹は最大の調味料と言うけれどそれはあくまでも味を感じられるから成立する事。
すっかり食が細くなった私は夏の繁忙期を目前にして溜息を溢すしかなく、打つ手の無い状態に途方に暮れるしかなかった。
結局、一人分だと出された半分の量も平らげることが出来ず、用意してくれた寮母さんには申し訳ないと思いつつも感謝の念を伝えて食堂を後にした。
相変わらず私に任務が与えられる事はなく、何の為に高専に籍を置いて居るのかすら分からなくなり掛けて居た。
呪術界を変えたいとか、手の届く範囲の全ての人を救いたいとか。
私にはそんな大義も力もないけれど、その時の己に出来る最善を尽くそうとこれまでやって来た決意や信念が脚元から崩れていく様な危うささえ感じ始めて居る。
けれどそんな私の元に、やっと出張を終えた五条先生がやってくると事態は私の予想だにしない方向へとどんどん突き進んでいくことになる。
既に私が任務を先生に任せてから数週間が経過して居る。
半端になってしまった私の案件に関してはお礼をしなければならないし、聞きたいことは山積みでだった。
仮に津美紀ちゃんの呪いの手掛かりになる事があればと一縷の望みを抱いたものの、私を探して構内を駆けずり回った先生とやっと顔を合わせた時。
初めて見る先生の鬼の様な形相に言葉を失い、私は呆然とするしかなかった。
「真那、オマエ最近変わった事ない?」
「……え、特に。あ、ちょっと理由が分からないんですが、今味覚が分からなくなってて…」
その刹那だった。
居合わせた廊下の壁に先生の拳が勢いよく叩きつけられ、地震でも起きたかの様に建物全体が大きな振動を齎す。
壁には拳の跡が大きく残り、亀裂が走る。
忌々しそうに髪を掻き乱した先生は滅多に露わにすることのない六眼を覗かせるとまじまじと私の全体を見渡し、その次に聞こえたのは舌打ちだった。
先生がこれ程まで取り乱し、怒りを露わにした所を見た事がない。
どれだけ私が生意気で不躾な口を聞いたとしても何だかんだ笑ってやり過ごしてくれた先生が、今にも暴れ狂いそうな程の殺気を漂わせて居る事を肌で感じた。
それは決して自分に向けられたものでは無いのに、その威圧感は私の身体を震わせるには十分過ぎるもので、最強の所以を目の当たりにした私はこの時、呼吸の仕方すら忘れて居た様に思う。
ちょっと来てと、有無を言わさず手を掴まれる。
引きずられる様に連行されたのは今朝方訪れたばかりの医務室で、嘗てのクラスメイトだったと言う家入さんでさえもその剣幕には驚きを隠しきれて居らず、ソファに身を投げ出した先生が苛立ちを隠しもせずに大きな溜息を溢した。
「五条、どうしたんだ」
「そうですよ。先生、ちょっと怖いですよ」
「……間に合わなかった」
「は?五条、一体何を……」
「硝子、悪いけどこの後すぐに真那の検査頼むよ。落ち着いて聞いて。真那は呪われてる。多分、味覚がないのはその初期症状だ。僕が真那の後を引き継いで調べて来たそれと一致してる。これまでの被呪者と状況が全く同じなんだ」
私と家入さんは互いに顔を見合わせ、先生の言葉がタチの悪い冗談では無いかと一瞬疑ったに違いない。
けれどその表情も雰囲気も、普段からは考えられないほどの深刻さが漂って居り、これが現実で私は呪われたのだと。
自分でも驚く程に、すんなりとその言葉が胎の中に落ちた気がする。
先生の報告としては私の任務を引き継ぎ、資料を元に見つけ出した呪詛師の根城には無数の厭魅 が置かれて居たらしい。
呪術に関して厭魅と言うものは切っても切り離せない程に関わりが強い。
その中でも一般的に知られるのが丑の刻参りに使われる藁人形となるのだけれど、要は呪いを込める形代がそう呼ばれるだけであり、形は無数に存在する。
使用する際必要なのは大体が相手の名前か、体の一部。
例外もあるのだろうけれど、恐らく私は任務に当たるうちに髪か血液でも盗られていたのだろう。
それを元に私が呪詛師を殺す前に呪いが掛けられていたと言うことになる。
完全に油断して居たと言わざるを得ない。
ソファを独占した先生の苛立ちが医務室の空気を針の筵へと変えた。
重苦しい長い溜息が溢れ、その様子は当事者である私よりも先生の方が余程事態を重く受け止めて居るのだろう。
「五条、それは解呪出来るものなのか?」
「はっきり言えば無理だ。呪詛を掛けた本人が死んでも術の効果が途切れて居ない。発動した術式は一人歩きを初めて確実に真那を蝕んで居る。解呪専用の呪具でもない限り難しいだろうね。
このままいけばそのうち味覚だけじゃ無い。視覚や聴覚、五感の全てを無くしていく可能性が高い」
私を置き去りにして進められていく会話の内容は我が身に降りかかって居る事だというのにどこか他人事の様に思えるものだった。
それは身内に呪霊の被害者が居るからなのだろうか。
それとも呪術師となった以上、真っ当な死など待って居ないと常に言い聞かせて来た効果でもあったのだろうか。
オブラートに包む事すらせずに己の見解を述べていく先生の態度は冷静そのものなのに、歯噛みする音が静寂の中に響き渡る。
私を案じる家入さんの視線を感じたものの、取り乱す訳でもなく、その現実を淡々と聞いて居る自分が何処か不気味に思えた。
「……だったら、解呪できないまま居たとして。その後にはどうなるんですか?」
「待って居るのは、最悪の結末だけだよ」
「五条っ!」
「此処ではぐらかしても仕方ないだろ。時間がどれだけあるかも分からないんだ。勿論、出来る事はするけど保証はしてやれない。……ごめん。オマエに任せる案件じゃなかった」
一切の隠し立てなく、持ち得る情報の全てを開示してくれたのは先生のせめてもの贖罪であり誠意なのだろう。
今回の件に関して、私では荷が重いと普通ならばそう判断されてアサインされなかった筈だ。
それにGOサインを出したのは他ならぬ先生であり、きっと私を早く一級に押し上げたいと言う意図があったのだろう。
相手が悪かった。
若しくは運が悪かったと、そう言わざるを得ない。
しかし、取り繕った訳でもないのに私の口角は不思議と上がって居た。
落胆して恐怖し、涙すると思って居た筈の心はまだ己に降り掛かる死という現実を受け止めきれて居ないのか。
それとも拒んでいるのかは定かではないけれど、今の胸中を一言で表すならば凪と、そう言うのが適切な気もする。
「大丈夫、ですよ。私は此処にしか居場所もないし帰る家もないから。逆に家族が居る人でなくて良かったのかも知れません。呪霊や呪詛師に人生を狂わされる人は大勢居る。だからきっと、誰かの幸せを壊してしまうより、私で良かった」
「如月、君がそんな事を言うんじゃない」
それ自体は心の底からの本音だった。
けれどまだ世間的には子供の部類に入る私の言葉に大人二人の顔が悲痛に歪で行く。
立ち尽くす私の身体が家入さんに抱き寄せられる。
母と呼ぶには歳が近すぎる気もするけれど、その姿は私の現状を我が事の様に受け止めてくれて居る様な気がして、少し救われた。
母にこうして抱きしめてもらった記憶なんて殆どない。
幼い頃は勿論あったけれど弟が産まれてからは私はお姉ちゃんで、弟が居なくなってからの私は其処に存在しないも同然であったから。
女の人と言えど抱きしめられる事は少し擽ったかも思えるのは相手が破格の美人だからなのだろうか。
恐る恐る背中に腕を回してみると医薬品の中に混じって私とは違う、大人の女の人の香りする。
その光景を先生は黙って見届けて居た。
回転の速い頭の中では打開策を打ち出そうと必死になって居るに違いなく、それだけで私は高専に来て良かったと、先生に見つけてもらえて良かったと思えるのに。
不意に頭を過った濡羽の髪の少年の姿が私に僅かな恐怖を植え付けて行き、家入さんに抱き竦められたまま、私は口を開いた。
「……先生、一つだけお願いがあります」
「なに?」
「……この事、恵君には言わないで。私は暫く長期任務に行った事にでもしておいて下さい」
「良いのか?」
「今、津美紀ちゃんの事で精一杯だと思うんです。きっとあの子は無理しちゃうから」
「オマエが言えた口じゃ無いけどね」
珍しく棘のある先生の物言いに今回ばかりは苦笑するしかなかった。
けれど心の底から本気で怒ってくれる事の有り難みを理解した気がした。
今なら、あの時同情されたく無いと牙を剥いた恵君の気持ちが分かる様な気がする。
慰めも、同情も憐れみも。
結局根底にある気持ちは変わらないのだろうけれど、彼にだけは可哀想だと思われたくは無いと。
そう願って居る自分がいる。
こうなってしまった以上、もう顔を合わせない方がお互いの為になるのかも知れない。
苦しさの上に苦しさを積み重ねて、まだ先のある彼の弊害になる位ならばひっそりと過去の人になってしまえたら良いとそう思うのに。
「……好きって、言っておけば良かった」
噛み締めた唇からは嘲笑したくなる程情けない声が漏れる。
散々自分より年下だからと言い聞かせて来た男の子に翻弄されて居た癖に、ケジメだなんて言葉で覆い隠して己のプライドを優先した事を今更になって悔いた。
例え見込みが無かったとしても、自己満足だとしても。
振られたとしても、なりふり構わず思いを曝け出して伝えて仕舞えば良かった。
死を目前にして思うのはそんな浅ましい好きな人に向けた恋情の念ばかりで、学長は呪術師に悔いのない死は無いだなんて言うけれど生きて居る以上、須く誰もが悔いを残して死んでいくのだろう。
いつか伝えられるからと思って蓋をした思いは、伝えるべきでは無いと考えを変えた途端に胸の内で制御不能な程に暴れ始めて居た。
このまま少しずつ五感を無くしていくのだとしたら、私は何れ恵君の声も、顔も、触れた温もりさえ感じられなくなっていくのだ。
今は己の命の終焉より、その方が余程恐ろしい。
しゃくりあげる訳でも泣き喚く訳でも無いのに、目の奥だけが熱を孕み、暖かい雫が脚元を濡らした。
ただ会いたいとそれだけを切に望むのに、もうそれは駄目なのだと理性と本能が葛藤を繰り返してとめど無く溢れる想いが咆哮を上げる。
残してしまう両親への憂慮より、たった一人自分の寂しさを紛らわせてくれた男の子への想いが優った私は、きっと親不孝な子供だったと自分でも思う。
空には憎らしいほどに綺麗な初夏の青が蔓延っていた。
もうすぐ夏がやってくるのに。
今年は一緒に、最後まで花火を見ようと約束したのに。
どうやらその約束は守れそうにない。
ごめんねも、ありがとうも、好きだと言う言葉さえもう恵君に伝えることすらきっと出来ないし、それはこの先、物理的に不可能になってしまうのだろう。
その瞬間に、堰を切ったように漏れた嗚咽は自分でも制止する術を失った。
こんなにも苦しい恋ならばいっそしなければ良かったとさえ思うのに。
君が居てくれたから、私の青い春は何処までも澄んで美しいのだろう。
きっと原因はそんな些細な事で、ほんの数日もすれば治るものだと信じて疑わなかった。
勿論、念の為に翌日には味覚の事を家入さんにも相談はしてみたものの、医師としての彼女の見解も私と同じで、暫くは様子を見ようと言う話になる。
けれど異変は日を追うごとに顕著に私の身体に襲い掛かった。
それはまるで急な坂道を石ころが勢いよく転がっていく様に。
自覚した瞬間にじわじわと侵食する様に私を蝕み始め、初めは少しばかり味が分かりずらいと思って居ただけのものが数日後には完全に五感の一つである味覚を失ってしまって居た。
「……美味しくないなぁ」
午前の診察を終えて時間を潰し、昼を少し過ぎたあたりで空腹に耐えかねて食堂に向かった筈なのに、好物だった筈のおかずを目の前にしても食指が唆られないと言うのはやはり苦痛を感じさせる。
何が起きたのか分からず、けれど味覚だけならば食べる事に楽しみは見出せなくなっても生きていく事には問題がない。
けれど食というのは健康な身体を維持する上で不可欠なものだ。
空腹は最大の調味料と言うけれどそれはあくまでも味を感じられるから成立する事。
すっかり食が細くなった私は夏の繁忙期を目前にして溜息を溢すしかなく、打つ手の無い状態に途方に暮れるしかなかった。
結局、一人分だと出された半分の量も平らげることが出来ず、用意してくれた寮母さんには申し訳ないと思いつつも感謝の念を伝えて食堂を後にした。
相変わらず私に任務が与えられる事はなく、何の為に高専に籍を置いて居るのかすら分からなくなり掛けて居た。
呪術界を変えたいとか、手の届く範囲の全ての人を救いたいとか。
私にはそんな大義も力もないけれど、その時の己に出来る最善を尽くそうとこれまでやって来た決意や信念が脚元から崩れていく様な危うささえ感じ始めて居る。
けれどそんな私の元に、やっと出張を終えた五条先生がやってくると事態は私の予想だにしない方向へとどんどん突き進んでいくことになる。
既に私が任務を先生に任せてから数週間が経過して居る。
半端になってしまった私の案件に関してはお礼をしなければならないし、聞きたいことは山積みでだった。
仮に津美紀ちゃんの呪いの手掛かりになる事があればと一縷の望みを抱いたものの、私を探して構内を駆けずり回った先生とやっと顔を合わせた時。
初めて見る先生の鬼の様な形相に言葉を失い、私は呆然とするしかなかった。
「真那、オマエ最近変わった事ない?」
「……え、特に。あ、ちょっと理由が分からないんですが、今味覚が分からなくなってて…」
その刹那だった。
居合わせた廊下の壁に先生の拳が勢いよく叩きつけられ、地震でも起きたかの様に建物全体が大きな振動を齎す。
壁には拳の跡が大きく残り、亀裂が走る。
忌々しそうに髪を掻き乱した先生は滅多に露わにすることのない六眼を覗かせるとまじまじと私の全体を見渡し、その次に聞こえたのは舌打ちだった。
先生がこれ程まで取り乱し、怒りを露わにした所を見た事がない。
どれだけ私が生意気で不躾な口を聞いたとしても何だかんだ笑ってやり過ごしてくれた先生が、今にも暴れ狂いそうな程の殺気を漂わせて居る事を肌で感じた。
それは決して自分に向けられたものでは無いのに、その威圧感は私の身体を震わせるには十分過ぎるもので、最強の所以を目の当たりにした私はこの時、呼吸の仕方すら忘れて居た様に思う。
ちょっと来てと、有無を言わさず手を掴まれる。
引きずられる様に連行されたのは今朝方訪れたばかりの医務室で、嘗てのクラスメイトだったと言う家入さんでさえもその剣幕には驚きを隠しきれて居らず、ソファに身を投げ出した先生が苛立ちを隠しもせずに大きな溜息を溢した。
「五条、どうしたんだ」
「そうですよ。先生、ちょっと怖いですよ」
「……間に合わなかった」
「は?五条、一体何を……」
「硝子、悪いけどこの後すぐに真那の検査頼むよ。落ち着いて聞いて。真那は呪われてる。多分、味覚がないのはその初期症状だ。僕が真那の後を引き継いで調べて来たそれと一致してる。これまでの被呪者と状況が全く同じなんだ」
私と家入さんは互いに顔を見合わせ、先生の言葉がタチの悪い冗談では無いかと一瞬疑ったに違いない。
けれどその表情も雰囲気も、普段からは考えられないほどの深刻さが漂って居り、これが現実で私は呪われたのだと。
自分でも驚く程に、すんなりとその言葉が胎の中に落ちた気がする。
先生の報告としては私の任務を引き継ぎ、資料を元に見つけ出した呪詛師の根城には無数の
呪術に関して厭魅と言うものは切っても切り離せない程に関わりが強い。
その中でも一般的に知られるのが丑の刻参りに使われる藁人形となるのだけれど、要は呪いを込める形代がそう呼ばれるだけであり、形は無数に存在する。
使用する際必要なのは大体が相手の名前か、体の一部。
例外もあるのだろうけれど、恐らく私は任務に当たるうちに髪か血液でも盗られていたのだろう。
それを元に私が呪詛師を殺す前に呪いが掛けられていたと言うことになる。
完全に油断して居たと言わざるを得ない。
ソファを独占した先生の苛立ちが医務室の空気を針の筵へと変えた。
重苦しい長い溜息が溢れ、その様子は当事者である私よりも先生の方が余程事態を重く受け止めて居るのだろう。
「五条、それは解呪出来るものなのか?」
「はっきり言えば無理だ。呪詛を掛けた本人が死んでも術の効果が途切れて居ない。発動した術式は一人歩きを初めて確実に真那を蝕んで居る。解呪専用の呪具でもない限り難しいだろうね。
このままいけばそのうち味覚だけじゃ無い。視覚や聴覚、五感の全てを無くしていく可能性が高い」
私を置き去りにして進められていく会話の内容は我が身に降りかかって居る事だというのにどこか他人事の様に思えるものだった。
それは身内に呪霊の被害者が居るからなのだろうか。
それとも呪術師となった以上、真っ当な死など待って居ないと常に言い聞かせて来た効果でもあったのだろうか。
オブラートに包む事すらせずに己の見解を述べていく先生の態度は冷静そのものなのに、歯噛みする音が静寂の中に響き渡る。
私を案じる家入さんの視線を感じたものの、取り乱す訳でもなく、その現実を淡々と聞いて居る自分が何処か不気味に思えた。
「……だったら、解呪できないまま居たとして。その後にはどうなるんですか?」
「待って居るのは、最悪の結末だけだよ」
「五条っ!」
「此処ではぐらかしても仕方ないだろ。時間がどれだけあるかも分からないんだ。勿論、出来る事はするけど保証はしてやれない。……ごめん。オマエに任せる案件じゃなかった」
一切の隠し立てなく、持ち得る情報の全てを開示してくれたのは先生のせめてもの贖罪であり誠意なのだろう。
今回の件に関して、私では荷が重いと普通ならばそう判断されてアサインされなかった筈だ。
それにGOサインを出したのは他ならぬ先生であり、きっと私を早く一級に押し上げたいと言う意図があったのだろう。
相手が悪かった。
若しくは運が悪かったと、そう言わざるを得ない。
しかし、取り繕った訳でもないのに私の口角は不思議と上がって居た。
落胆して恐怖し、涙すると思って居た筈の心はまだ己に降り掛かる死という現実を受け止めきれて居ないのか。
それとも拒んでいるのかは定かではないけれど、今の胸中を一言で表すならば凪と、そう言うのが適切な気もする。
「大丈夫、ですよ。私は此処にしか居場所もないし帰る家もないから。逆に家族が居る人でなくて良かったのかも知れません。呪霊や呪詛師に人生を狂わされる人は大勢居る。だからきっと、誰かの幸せを壊してしまうより、私で良かった」
「如月、君がそんな事を言うんじゃない」
それ自体は心の底からの本音だった。
けれどまだ世間的には子供の部類に入る私の言葉に大人二人の顔が悲痛に歪で行く。
立ち尽くす私の身体が家入さんに抱き寄せられる。
母と呼ぶには歳が近すぎる気もするけれど、その姿は私の現状を我が事の様に受け止めてくれて居る様な気がして、少し救われた。
母にこうして抱きしめてもらった記憶なんて殆どない。
幼い頃は勿論あったけれど弟が産まれてからは私はお姉ちゃんで、弟が居なくなってからの私は其処に存在しないも同然であったから。
女の人と言えど抱きしめられる事は少し擽ったかも思えるのは相手が破格の美人だからなのだろうか。
恐る恐る背中に腕を回してみると医薬品の中に混じって私とは違う、大人の女の人の香りする。
その光景を先生は黙って見届けて居た。
回転の速い頭の中では打開策を打ち出そうと必死になって居るに違いなく、それだけで私は高専に来て良かったと、先生に見つけてもらえて良かったと思えるのに。
不意に頭を過った濡羽の髪の少年の姿が私に僅かな恐怖を植え付けて行き、家入さんに抱き竦められたまま、私は口を開いた。
「……先生、一つだけお願いがあります」
「なに?」
「……この事、恵君には言わないで。私は暫く長期任務に行った事にでもしておいて下さい」
「良いのか?」
「今、津美紀ちゃんの事で精一杯だと思うんです。きっとあの子は無理しちゃうから」
「オマエが言えた口じゃ無いけどね」
珍しく棘のある先生の物言いに今回ばかりは苦笑するしかなかった。
けれど心の底から本気で怒ってくれる事の有り難みを理解した気がした。
今なら、あの時同情されたく無いと牙を剥いた恵君の気持ちが分かる様な気がする。
慰めも、同情も憐れみも。
結局根底にある気持ちは変わらないのだろうけれど、彼にだけは可哀想だと思われたくは無いと。
そう願って居る自分がいる。
こうなってしまった以上、もう顔を合わせない方がお互いの為になるのかも知れない。
苦しさの上に苦しさを積み重ねて、まだ先のある彼の弊害になる位ならばひっそりと過去の人になってしまえたら良いとそう思うのに。
「……好きって、言っておけば良かった」
噛み締めた唇からは嘲笑したくなる程情けない声が漏れる。
散々自分より年下だからと言い聞かせて来た男の子に翻弄されて居た癖に、ケジメだなんて言葉で覆い隠して己のプライドを優先した事を今更になって悔いた。
例え見込みが無かったとしても、自己満足だとしても。
振られたとしても、なりふり構わず思いを曝け出して伝えて仕舞えば良かった。
死を目前にして思うのはそんな浅ましい好きな人に向けた恋情の念ばかりで、学長は呪術師に悔いのない死は無いだなんて言うけれど生きて居る以上、須く誰もが悔いを残して死んでいくのだろう。
いつか伝えられるからと思って蓋をした思いは、伝えるべきでは無いと考えを変えた途端に胸の内で制御不能な程に暴れ始めて居た。
このまま少しずつ五感を無くしていくのだとしたら、私は何れ恵君の声も、顔も、触れた温もりさえ感じられなくなっていくのだ。
今は己の命の終焉より、その方が余程恐ろしい。
しゃくりあげる訳でも泣き喚く訳でも無いのに、目の奥だけが熱を孕み、暖かい雫が脚元を濡らした。
ただ会いたいとそれだけを切に望むのに、もうそれは駄目なのだと理性と本能が葛藤を繰り返してとめど無く溢れる想いが咆哮を上げる。
残してしまう両親への憂慮より、たった一人自分の寂しさを紛らわせてくれた男の子への想いが優った私は、きっと親不孝な子供だったと自分でも思う。
空には憎らしいほどに綺麗な初夏の青が蔓延っていた。
もうすぐ夏がやってくるのに。
今年は一緒に、最後まで花火を見ようと約束したのに。
どうやらその約束は守れそうにない。
ごめんねも、ありがとうも、好きだと言う言葉さえもう恵君に伝えることすらきっと出来ないし、それはこの先、物理的に不可能になってしまうのだろう。
その瞬間に、堰を切ったように漏れた嗚咽は自分でも制止する術を失った。
こんなにも苦しい恋ならばいっそしなければ良かったとさえ思うのに。
君が居てくれたから、私の青い春は何処までも澄んで美しいのだろう。