たとえ、どんなに
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君と出会ったのは、振り返ればもうずいぶん昔の事のように思う。
あの頃の君はまだ幼くて、無愛想な中に可愛らしさがあって、私はそんな君に会える事が楽しみだった。
けれどいつからかその顔は子供のものから少しずつ男の人を思わせるものへと変わって、私は自分の心に歯止めがかけられなくなってしまった。
……たった一言。
君に言えなかった言葉を悔いて、まだ生きて居たいと願ってしまった愚かな私をどうか赦さないで。
そして君に呪いを残して逝く事を、どうか許して……。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
それは出会いの季節も終わりを迎え、桜の木はすっかり青葉に代わった頃の話。
つい先日は出先で鯉のぼりを見かけたばかりで空は青く立夏の訪れを感じさせ、私自身が高専という少し特殊な学校生活にようやく慣れてきた頃の出来事だった。
クラスメイトも居らず日々一人で勉学に勤しむ私は、その日は丁度任務も入っておらず端的に言えば暇を持て余していた。
特に目的もなく廊下を歩いていると徐々に距離を詰めてくるのは軽薄という言葉が服を着て歩いているような最強の二つ名を持つ担任で。
至極楽しそうな表情をして連れて居たのは、まだ幼い少年だった。
一見する限り十歳前後。
そうなれば高学年と言えどまだランドセルを背負って、学校帰りには友達と寄り道をしたり、家に帰れば玄関に荷物を放り投げて友達と遊びに行ってしまうような年頃では無いのだろうか。
伏黒恵と紹介されたその子は私と視線を交わすと無言のまま小さく頷き、少しでも安心させるために私は笑みを浮かべながら自身の名前を告げると改めて担任に向き直る。
「五条先生、ついに隠し子を隠さなくなったんですか?」
「やだなぁ、真那。この子どう見ても小学校高学年だよ?僕が君くらいの年齢で子供なんて有り得ないでしょ」
「有り得ますよ、先生なら。すれ違っただけで孕みます。だからお願いします。極力近寄らないで下さい。私未婚の母にはなりたくありません」
「心配しなくてもその時はちゃんと認知してあげるよ?」
態とらしく眉根を寄せて一歩後ろに下がる私を見て先生は乾いた笑いを漏らし、隣の男の子は意味を知ってか知らずか侮蔑の視線を向けて居た。
入学してからと言うものほぼ毎日、担任である五条先生とマンツーマンの授業と実技。
ほんの数ヶ月過ごしただけで、この担任のあしらい方を覚えてしまう程には私と五条先生の距離は近いものだった。
それは一重にこの人の教員とは思えない普段の態度や行いも多いに有るのだろうけれど、私の生徒らしからぬ言葉に怒るわけでも無く、軽快な笑い声を響かせながら隣の恵君の頭をぽんぽんと叩いている。
「まぁ、冗談はさて置き、この子はちょっと訳ありで預かってるだけだよ。将来は真那とおんなじ高専生!未来の有望な呪術師だよ」
「そうですか」
「でさぁ、ちょっと頼みたいんだけど僕今から急用で出なきゃいけなくてさ。オマエ今暇でしょ?ちょうど良いから戻るまで面倒見ててくれない?」
「本気ですか?私は良いですけど。えっと……恵君は大丈夫?」
「別にいい」
ほんの少しの間、私を見つめる視線はあまりにもまっすぐに私を捉え思わず息を呑む。
けれどその後に呟かれた言葉はぶっきらぼうなものではあったけれど、私を拒んでは居なかった。
じゃ、よろしくと別れを惜しむ素振りもなく去ってしまった先生の背中を見送ると、唐突にやって来た無言の空間がやけに気まずく思えてしまう。
訳ありで将来は呪術師となる。
その言葉だけでこの子には何かしら複雑な事情がある事は察しが付くし、入学式して日は浅いけれど先生が面倒を頼むということを踏まえれば他に行く当てもなく、敷地内にもあまり詳しくは無いのだろう。
高専は呪術師を育成する機関であると同時に、全国各地に発生する呪霊を祓うために高専を卒業した呪術師も籍を置いている。
当然、学業以外に携わる人の数も多く、専用の施設の数も尋常では無いし敷地内も広大ものとなる。
昼夜問わずここに居る私でさえ、迷わずに指定された場所にたどり着けるようになったのはごく最近の話であり、やはり一人で過ごすのは些か心細いと思える。
部屋に連れて行った所でこの調子では会話も続かず、互いに気まずいだけの時間を過ごす事になりかねない。
けれどこの場の決定権者は私であり、決断しなければこのまま面倒を見るどころか立ち尽くすだけで時間を無駄に過ごすことになってしまいかねない状況。
校内案内などした所で疲れるだけだし、やはり一番は人の出入りが多少でもある場所だろうと見当をつけた私は自分の目線より低い彼に向かって声をかけた。
「とりあえず…どうしよっか。何か飲む?お腹空いてない?」
「大丈夫」
「じゃあ、とりあえず食堂で時間潰そっか。あそこなら何でもあるし、帰ってきた先生も見つけやすいだろうから」
「わかった」
「こっちだよ」
私が食堂の方向を指さすと恵君は頷きながら踵を返した私の少し後ろに続いた。
時折置いて行って居ないか様子を窺って見るけれど、遅れる事なくつい来れるのは先生の規格外のコンパスについて回っているお陰なのか。
先生が面倒を見るなんて余程のことだと思うけれど、自分が高専に慣れる事が最優先であり、これまで先生の個人的な話などこれまで殆ど聞いたことがなかった。
唯一聞かされるとしたら、この業界で誰もがしっている「最強」だの「御三家」だの、そんな事ばかりだ。
踏み込んではいけない領域というものは誰にでも存在する。
それが例え子供であっても例外では無い。
初対面、出会ってまだ小一時間も経過しないうちに嫌われてしまうような事はしたくないし、先生は自分が話したければ余計なことまでもペラペラと語ってくれる性分だから、いずれ知る機会もあると思えば話題にする必要もないだろう。
隣を歩く姿は慣れない場所でも臆する様子はなく、私はふと懐かしい光景にそれを重ねたのか。
彼の目の前に自分の手を差し出して居た。
「なに?」
「あ……。ごめんね、手を繋ぐような歳じゃないか」
不思議そうに首を傾げた恵君の姿に、無意識のうちにやってしまった行動を私は恥じた。
恵君の正確な年齢は聞いて居ないけれど、体格や落ち着き具合、先生の雑な説明を踏まえると小学五、六年生位だろう。
最上級生の自覚を、下級生のお手本を、なんて決まり文句を自分も幾度聞かされた事だろうか。
親といるより友達と遊んで居たいであろう年頃の男の子に失礼な事をしたと私が手を引こうとすると、意外にも彼のまだ小さい手は私の手を掴み、これで良いのかと言わんばかりに此方を見上げたほんの刹那。
その姿が私の記憶と重なった気がした。
「どうかした?」
「ううん、何でもないよ。ありがとう」
恵君の声に私は緩く自分の頭を振り、幻影を追いやった。
幾ら年が近いと言っても、同じだなんてあるはずがないと言うのに。
私には五つ程年の離れた弟が居る。
……正確には「居た」だ。
日本国内での怪死者・行方不明者は年平均一万人を超えると言う。
その殆どが人間から流れ出た負の感情 「呪い」による被害であり、恐らく私の弟もその被害者の一人となる。
この色が良いと頑なに譲らず、真新しいランドセルを誇らしげに背負う姿が可愛らしかった。
「お姉ちゃん」と駆け寄ってくる姿は幼い私の母性本能さえも刺激し、私はひたすらに少し歳の離れた弟が可愛くて仕方がなかった。
けれど七歳の誕生日を迎える直前、あの子は学校帰りに突然居なくなってしまった。
誘拐、事件事故、あらゆる可能性を視野に入れて懸命な捜索が続いたのに、僅かな手掛かりどころか遺体すら見つからない日々に家の雰囲気は一転する。
一時は両親が犯人なのではないかという嫌疑まで掛けられて母は心を病み、父はそんな家庭から逃げるように仕事に明け暮れた。
両親の胸中を察し、気を遣いながら過ごした中学時代にあまり良い思い出はない。
ぼんやりと理解して居た呪霊の存在、両親には見えない世界。
その可能性を幾ら示唆した所で理解などされるはずもなく、なす術もない現実を受け入れるだけの日々。
疑念を抱きながらも弟の居ない生活に慣れた頃。
私の疑問を晴らしてくれたのはスカウトという名目で私の元へやって来た先生だった。
そして改めて知ったその被害の多さと嘆きの数。
私が先生と出会ったのは中学三年も残り半分と言う遅い頃だったけれど、この道を選んだのは自分の様な思いをする人を少しでも減らしたいという正義感か。
……それとも、既に修復不可能なまでに崩壊してしまった家から逃げたかったのかは今でもはっきりと分からない。
今では自分が高専一年生という一番年下の存在となり、目上の人とばかり接して居たからか懐かしい記憶が一気に蘇ると既に食堂への扉は目前と迫って居て、私の意識は急速に現実に引き戻されていった。
「なぁ、大丈夫?」
「うん、ちょっと考え事してちゃってたみたい。あ、その辺に座ってて。何か飲み物持ってくるね」
生徒数の割に広々とした食堂はここを使うのが学生だけとは限らないからだ。
寮母さんは在籍しているものの、自身の名前を書いて冷蔵庫に保管しておけば自炊もできるしキッチンはいつでも使えるように常に手入れが行き届いている。
私自身、今でも悪夢に苛まれる日は正直少なくない。
寝付きの悪い日にはこっそり食堂に深夜に忍び込むこともあり、自分専用の飲み物も確保してある。
その中でもお気に入りのジュースを手にした私はカップと共に幾つかのお菓子をお盆に乗せて恵君の元へと舞い戻った。
「リンゴジュースでいい?お菓子は晩御飯が食べれる程度に好きに食べてね」
「あ…はい」
トクトクと注がれたカップを差し出すと流石に外部からは見えない場所には興味を唆られたのか、右へ左へ向けられる視線に思わず笑みが溢れた。
すっきりとした甘さが売りのジュースは甘いものがあまり得意では無い私の最近の一押しであり、夏の兆しが見え始めた季節ともなれば一層喉を潤してくれる気がする。
自分の好みと言うだけで選んでしまったけれど初対面の恵君の好みは解りかねる。
物足りないかもと考えて甘めのお菓子も用意したが、私の心配は杞憂だったらしく、彼も一口飲むと美味いと顔を綻ばせ感想を漏らして居た。
「本当?よかった。私甘すぎるの苦手だから恵君の口に合うか心配だったんだけど」
「俺も、甘いのはあんまり好きじゃないんで」
「ふふ、じゃあ同じだね」
どんな形であれ共通点と言うものが存在すると親近感を覚えるのかも知れない。
花が咲くとまでは行かなくともキャッチボールは成立するし、先程まで気まずいと思って居た感情は何処へやら。
会話の発端さえ定かではなかったけれど時間の経過と共に恵君の警戒心も薄れて来たのか、時折気恥ずかしげな笑みを浮かべてくれるようになっていった。
「この間、先生が約束の時間すっぽかして待ちぼうけ食らわされました」
「うわ、それ最悪だね。先生は微妙な遅刻の常習犯だし今度から約束の三十分後位に行くといいよ」
「そうすると後でネチネチうるさい」
「あ〜確かに。あれは面倒だよね。駄々捏ねてる子供より面倒くさい」
甘いものが得意では無いという意外にも私達の共通点は探せば意外と多いものだった。
先生の事で適度に苦労しているということ。
その先生のスカウトでこの世界に飛び込んだ事。
家庭に複雑な事情を抱えいるという事。
呪術師となる事。
やはり話題が多くなるのは共通の知人であり恩人である先生の話ばかりで、その殆どが互いの被害報告と言っても良いだろう。
いつの間にか気まずさに時計の秒針を眺めることも無くなり、何倍目かになる飲み物に口を付けているとお盆に乗せられたお菓子に手を伸ばした恵君が一点を見つめてその手を止めた。
「なぁ。これって真那さんの手作り?」
「あ、そうだよ。甘いの好きじゃないけど作るのは好きで、たまに食べたくなると作るんだよね。作りすぎても処理班いるし、結構評判いいの」
趣味と言うには頻度は低いものの、処理班という名の五条先生からも時折催促を貰うくらいの腕はあると自負している。
しかし、他人の手作りが受け入れられないと言う人が一定数いると言う事も理解しているが故に欲しいと言われなければ渡す様な真似もしないし、ここに持ってきたのは自分用のつもりだった。
何がそんなに珍しかったのか。
食い入る様に見つめられていると、それが自分に向けられているものでなくとも気恥ずかしさを覚える。
「食べてもいい?」
「良いけど…あ、ちょっと待ってね」
立ち上がった私は再びキッチンへと向かい、片隅に置いてあった小分けにされたものの中から色の違う包装のものを掴んでテーブルへと向かった。
何れ糖尿か高血圧にでもなるのではないかと教え子にさえも心配される担任が言うには、呪術師は頭も身体も使うから適度に糖分を補給した方が良いらしい。
それは忙しくて買い出しにも行けない状況で自身が甘いものにありつくための口実にも思えたが、日頃僅かにでも感じて居る恩を返そうと先日お礼と称した賄賂を送っていた。
そのついでにアドバイスを踏まえて再試行したお菓子は今テーブルに並んでおり、私が持って来たのは自分が普段食べる様に作って置いた限りなく甘さ控えめのもの。
好みが似た彼ならばこちらの方が良いのではないかと言うお節介だったのだけれど、私のお節介は存外良い方向へと向かってくれたらしく、一つを口にした恵君の顔は子供らしく綻んで居た。
「……これ、好きかも」
「ほんと?それね、私が食べる用に作ってあったやつなんだけどやっぱり好み似てるね。よかったぁ」
シャクシャクと小気味いい咀嚼音が響くのを机に頬杖を突きながら眺めて居ると、不意に視線を上げた恵君はいくつ目かになる手の往復を止め、やがて気恥ずかしそうに視線を逸らした。
横を向いた耳は少し赤くなっており、それでも掴んだお菓子を口に放り込む姿からしてそれなりに気に入ってもらえたのだろう。
「沢山あるから、よかったら少し持ってく?」
「じゃあ、そっちの…少し欲しい」
少し躊躇いながら彼が指差したのはテーブルに残されたままの普通に作ったものだった。
どう考えても彼には甘すぎると思ったものの、理由を聞けば一つ上のお姉さんにお土産として渡したいらしく、そんな可愛らしい事を言われてしまうと私もやる気になってしまうというものだ。
少し時間を貰い、雑にモールで留めてあっただけの口は可愛らしいリボンに結び変え、先生が残しておいてと言った分を幾つかくすねて紙袋に押し込んだ。
その中に恵君が食べれる方のお菓子も少し混ぜてから手渡してあげた時の姿は嬉しさと恥ずかしさの入り混じった様なもので、私の胸中は野良猫を手懐けた時の気持ちと似て居た気がする。
先生の居ない数時間、私達は互いの予想以上に打ち解けたと言ってもいい。
それからと言うもの、恵君は先生に連れられて時折高専を訪れるようになり、私はその予定に合わせてお菓子を作って持たせたり、姉の津美紀ちゃんが喜びそうなちょっとした小物を作ってみたり。
恵君と顔も知らない彼の姉をまるで自分の弟や妹のように錯覚して居た。
あの頃の君はまだ幼くて、無愛想な中に可愛らしさがあって、私はそんな君に会える事が楽しみだった。
けれどいつからかその顔は子供のものから少しずつ男の人を思わせるものへと変わって、私は自分の心に歯止めがかけられなくなってしまった。
……たった一言。
君に言えなかった言葉を悔いて、まだ生きて居たいと願ってしまった愚かな私をどうか赦さないで。
そして君に呪いを残して逝く事を、どうか許して……。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
それは出会いの季節も終わりを迎え、桜の木はすっかり青葉に代わった頃の話。
つい先日は出先で鯉のぼりを見かけたばかりで空は青く立夏の訪れを感じさせ、私自身が高専という少し特殊な学校生活にようやく慣れてきた頃の出来事だった。
クラスメイトも居らず日々一人で勉学に勤しむ私は、その日は丁度任務も入っておらず端的に言えば暇を持て余していた。
特に目的もなく廊下を歩いていると徐々に距離を詰めてくるのは軽薄という言葉が服を着て歩いているような最強の二つ名を持つ担任で。
至極楽しそうな表情をして連れて居たのは、まだ幼い少年だった。
一見する限り十歳前後。
そうなれば高学年と言えどまだランドセルを背負って、学校帰りには友達と寄り道をしたり、家に帰れば玄関に荷物を放り投げて友達と遊びに行ってしまうような年頃では無いのだろうか。
伏黒恵と紹介されたその子は私と視線を交わすと無言のまま小さく頷き、少しでも安心させるために私は笑みを浮かべながら自身の名前を告げると改めて担任に向き直る。
「五条先生、ついに隠し子を隠さなくなったんですか?」
「やだなぁ、真那。この子どう見ても小学校高学年だよ?僕が君くらいの年齢で子供なんて有り得ないでしょ」
「有り得ますよ、先生なら。すれ違っただけで孕みます。だからお願いします。極力近寄らないで下さい。私未婚の母にはなりたくありません」
「心配しなくてもその時はちゃんと認知してあげるよ?」
態とらしく眉根を寄せて一歩後ろに下がる私を見て先生は乾いた笑いを漏らし、隣の男の子は意味を知ってか知らずか侮蔑の視線を向けて居た。
入学してからと言うものほぼ毎日、担任である五条先生とマンツーマンの授業と実技。
ほんの数ヶ月過ごしただけで、この担任のあしらい方を覚えてしまう程には私と五条先生の距離は近いものだった。
それは一重にこの人の教員とは思えない普段の態度や行いも多いに有るのだろうけれど、私の生徒らしからぬ言葉に怒るわけでも無く、軽快な笑い声を響かせながら隣の恵君の頭をぽんぽんと叩いている。
「まぁ、冗談はさて置き、この子はちょっと訳ありで預かってるだけだよ。将来は真那とおんなじ高専生!未来の有望な呪術師だよ」
「そうですか」
「でさぁ、ちょっと頼みたいんだけど僕今から急用で出なきゃいけなくてさ。オマエ今暇でしょ?ちょうど良いから戻るまで面倒見ててくれない?」
「本気ですか?私は良いですけど。えっと……恵君は大丈夫?」
「別にいい」
ほんの少しの間、私を見つめる視線はあまりにもまっすぐに私を捉え思わず息を呑む。
けれどその後に呟かれた言葉はぶっきらぼうなものではあったけれど、私を拒んでは居なかった。
じゃ、よろしくと別れを惜しむ素振りもなく去ってしまった先生の背中を見送ると、唐突にやって来た無言の空間がやけに気まずく思えてしまう。
訳ありで将来は呪術師となる。
その言葉だけでこの子には何かしら複雑な事情がある事は察しが付くし、入学式して日は浅いけれど先生が面倒を頼むということを踏まえれば他に行く当てもなく、敷地内にもあまり詳しくは無いのだろう。
高専は呪術師を育成する機関であると同時に、全国各地に発生する呪霊を祓うために高専を卒業した呪術師も籍を置いている。
当然、学業以外に携わる人の数も多く、専用の施設の数も尋常では無いし敷地内も広大ものとなる。
昼夜問わずここに居る私でさえ、迷わずに指定された場所にたどり着けるようになったのはごく最近の話であり、やはり一人で過ごすのは些か心細いと思える。
部屋に連れて行った所でこの調子では会話も続かず、互いに気まずいだけの時間を過ごす事になりかねない。
けれどこの場の決定権者は私であり、決断しなければこのまま面倒を見るどころか立ち尽くすだけで時間を無駄に過ごすことになってしまいかねない状況。
校内案内などした所で疲れるだけだし、やはり一番は人の出入りが多少でもある場所だろうと見当をつけた私は自分の目線より低い彼に向かって声をかけた。
「とりあえず…どうしよっか。何か飲む?お腹空いてない?」
「大丈夫」
「じゃあ、とりあえず食堂で時間潰そっか。あそこなら何でもあるし、帰ってきた先生も見つけやすいだろうから」
「わかった」
「こっちだよ」
私が食堂の方向を指さすと恵君は頷きながら踵を返した私の少し後ろに続いた。
時折置いて行って居ないか様子を窺って見るけれど、遅れる事なくつい来れるのは先生の規格外のコンパスについて回っているお陰なのか。
先生が面倒を見るなんて余程のことだと思うけれど、自分が高専に慣れる事が最優先であり、これまで先生の個人的な話などこれまで殆ど聞いたことがなかった。
唯一聞かされるとしたら、この業界で誰もがしっている「最強」だの「御三家」だの、そんな事ばかりだ。
踏み込んではいけない領域というものは誰にでも存在する。
それが例え子供であっても例外では無い。
初対面、出会ってまだ小一時間も経過しないうちに嫌われてしまうような事はしたくないし、先生は自分が話したければ余計なことまでもペラペラと語ってくれる性分だから、いずれ知る機会もあると思えば話題にする必要もないだろう。
隣を歩く姿は慣れない場所でも臆する様子はなく、私はふと懐かしい光景にそれを重ねたのか。
彼の目の前に自分の手を差し出して居た。
「なに?」
「あ……。ごめんね、手を繋ぐような歳じゃないか」
不思議そうに首を傾げた恵君の姿に、無意識のうちにやってしまった行動を私は恥じた。
恵君の正確な年齢は聞いて居ないけれど、体格や落ち着き具合、先生の雑な説明を踏まえると小学五、六年生位だろう。
最上級生の自覚を、下級生のお手本を、なんて決まり文句を自分も幾度聞かされた事だろうか。
親といるより友達と遊んで居たいであろう年頃の男の子に失礼な事をしたと私が手を引こうとすると、意外にも彼のまだ小さい手は私の手を掴み、これで良いのかと言わんばかりに此方を見上げたほんの刹那。
その姿が私の記憶と重なった気がした。
「どうかした?」
「ううん、何でもないよ。ありがとう」
恵君の声に私は緩く自分の頭を振り、幻影を追いやった。
幾ら年が近いと言っても、同じだなんてあるはずがないと言うのに。
私には五つ程年の離れた弟が居る。
……正確には「居た」だ。
日本国内での怪死者・行方不明者は年平均一万人を超えると言う。
その殆どが人間から流れ出た負の感情 「呪い」による被害であり、恐らく私の弟もその被害者の一人となる。
この色が良いと頑なに譲らず、真新しいランドセルを誇らしげに背負う姿が可愛らしかった。
「お姉ちゃん」と駆け寄ってくる姿は幼い私の母性本能さえも刺激し、私はひたすらに少し歳の離れた弟が可愛くて仕方がなかった。
けれど七歳の誕生日を迎える直前、あの子は学校帰りに突然居なくなってしまった。
誘拐、事件事故、あらゆる可能性を視野に入れて懸命な捜索が続いたのに、僅かな手掛かりどころか遺体すら見つからない日々に家の雰囲気は一転する。
一時は両親が犯人なのではないかという嫌疑まで掛けられて母は心を病み、父はそんな家庭から逃げるように仕事に明け暮れた。
両親の胸中を察し、気を遣いながら過ごした中学時代にあまり良い思い出はない。
ぼんやりと理解して居た呪霊の存在、両親には見えない世界。
その可能性を幾ら示唆した所で理解などされるはずもなく、なす術もない現実を受け入れるだけの日々。
疑念を抱きながらも弟の居ない生活に慣れた頃。
私の疑問を晴らしてくれたのはスカウトという名目で私の元へやって来た先生だった。
そして改めて知ったその被害の多さと嘆きの数。
私が先生と出会ったのは中学三年も残り半分と言う遅い頃だったけれど、この道を選んだのは自分の様な思いをする人を少しでも減らしたいという正義感か。
……それとも、既に修復不可能なまでに崩壊してしまった家から逃げたかったのかは今でもはっきりと分からない。
今では自分が高専一年生という一番年下の存在となり、目上の人とばかり接して居たからか懐かしい記憶が一気に蘇ると既に食堂への扉は目前と迫って居て、私の意識は急速に現実に引き戻されていった。
「なぁ、大丈夫?」
「うん、ちょっと考え事してちゃってたみたい。あ、その辺に座ってて。何か飲み物持ってくるね」
生徒数の割に広々とした食堂はここを使うのが学生だけとは限らないからだ。
寮母さんは在籍しているものの、自身の名前を書いて冷蔵庫に保管しておけば自炊もできるしキッチンはいつでも使えるように常に手入れが行き届いている。
私自身、今でも悪夢に苛まれる日は正直少なくない。
寝付きの悪い日にはこっそり食堂に深夜に忍び込むこともあり、自分専用の飲み物も確保してある。
その中でもお気に入りのジュースを手にした私はカップと共に幾つかのお菓子をお盆に乗せて恵君の元へと舞い戻った。
「リンゴジュースでいい?お菓子は晩御飯が食べれる程度に好きに食べてね」
「あ…はい」
トクトクと注がれたカップを差し出すと流石に外部からは見えない場所には興味を唆られたのか、右へ左へ向けられる視線に思わず笑みが溢れた。
すっきりとした甘さが売りのジュースは甘いものがあまり得意では無い私の最近の一押しであり、夏の兆しが見え始めた季節ともなれば一層喉を潤してくれる気がする。
自分の好みと言うだけで選んでしまったけれど初対面の恵君の好みは解りかねる。
物足りないかもと考えて甘めのお菓子も用意したが、私の心配は杞憂だったらしく、彼も一口飲むと美味いと顔を綻ばせ感想を漏らして居た。
「本当?よかった。私甘すぎるの苦手だから恵君の口に合うか心配だったんだけど」
「俺も、甘いのはあんまり好きじゃないんで」
「ふふ、じゃあ同じだね」
どんな形であれ共通点と言うものが存在すると親近感を覚えるのかも知れない。
花が咲くとまでは行かなくともキャッチボールは成立するし、先程まで気まずいと思って居た感情は何処へやら。
会話の発端さえ定かではなかったけれど時間の経過と共に恵君の警戒心も薄れて来たのか、時折気恥ずかしげな笑みを浮かべてくれるようになっていった。
「この間、先生が約束の時間すっぽかして待ちぼうけ食らわされました」
「うわ、それ最悪だね。先生は微妙な遅刻の常習犯だし今度から約束の三十分後位に行くといいよ」
「そうすると後でネチネチうるさい」
「あ〜確かに。あれは面倒だよね。駄々捏ねてる子供より面倒くさい」
甘いものが得意では無いという意外にも私達の共通点は探せば意外と多いものだった。
先生の事で適度に苦労しているということ。
その先生のスカウトでこの世界に飛び込んだ事。
家庭に複雑な事情を抱えいるという事。
呪術師となる事。
やはり話題が多くなるのは共通の知人であり恩人である先生の話ばかりで、その殆どが互いの被害報告と言っても良いだろう。
いつの間にか気まずさに時計の秒針を眺めることも無くなり、何倍目かになる飲み物に口を付けているとお盆に乗せられたお菓子に手を伸ばした恵君が一点を見つめてその手を止めた。
「なぁ。これって真那さんの手作り?」
「あ、そうだよ。甘いの好きじゃないけど作るのは好きで、たまに食べたくなると作るんだよね。作りすぎても処理班いるし、結構評判いいの」
趣味と言うには頻度は低いものの、処理班という名の五条先生からも時折催促を貰うくらいの腕はあると自負している。
しかし、他人の手作りが受け入れられないと言う人が一定数いると言う事も理解しているが故に欲しいと言われなければ渡す様な真似もしないし、ここに持ってきたのは自分用のつもりだった。
何がそんなに珍しかったのか。
食い入る様に見つめられていると、それが自分に向けられているものでなくとも気恥ずかしさを覚える。
「食べてもいい?」
「良いけど…あ、ちょっと待ってね」
立ち上がった私は再びキッチンへと向かい、片隅に置いてあった小分けにされたものの中から色の違う包装のものを掴んでテーブルへと向かった。
何れ糖尿か高血圧にでもなるのではないかと教え子にさえも心配される担任が言うには、呪術師は頭も身体も使うから適度に糖分を補給した方が良いらしい。
それは忙しくて買い出しにも行けない状況で自身が甘いものにありつくための口実にも思えたが、日頃僅かにでも感じて居る恩を返そうと先日お礼と称した賄賂を送っていた。
そのついでにアドバイスを踏まえて再試行したお菓子は今テーブルに並んでおり、私が持って来たのは自分が普段食べる様に作って置いた限りなく甘さ控えめのもの。
好みが似た彼ならばこちらの方が良いのではないかと言うお節介だったのだけれど、私のお節介は存外良い方向へと向かってくれたらしく、一つを口にした恵君の顔は子供らしく綻んで居た。
「……これ、好きかも」
「ほんと?それね、私が食べる用に作ってあったやつなんだけどやっぱり好み似てるね。よかったぁ」
シャクシャクと小気味いい咀嚼音が響くのを机に頬杖を突きながら眺めて居ると、不意に視線を上げた恵君はいくつ目かになる手の往復を止め、やがて気恥ずかしそうに視線を逸らした。
横を向いた耳は少し赤くなっており、それでも掴んだお菓子を口に放り込む姿からしてそれなりに気に入ってもらえたのだろう。
「沢山あるから、よかったら少し持ってく?」
「じゃあ、そっちの…少し欲しい」
少し躊躇いながら彼が指差したのはテーブルに残されたままの普通に作ったものだった。
どう考えても彼には甘すぎると思ったものの、理由を聞けば一つ上のお姉さんにお土産として渡したいらしく、そんな可愛らしい事を言われてしまうと私もやる気になってしまうというものだ。
少し時間を貰い、雑にモールで留めてあっただけの口は可愛らしいリボンに結び変え、先生が残しておいてと言った分を幾つかくすねて紙袋に押し込んだ。
その中に恵君が食べれる方のお菓子も少し混ぜてから手渡してあげた時の姿は嬉しさと恥ずかしさの入り混じった様なもので、私の胸中は野良猫を手懐けた時の気持ちと似て居た気がする。
先生の居ない数時間、私達は互いの予想以上に打ち解けたと言ってもいい。
それからと言うもの、恵君は先生に連れられて時折高専を訪れるようになり、私はその予定に合わせてお菓子を作って持たせたり、姉の津美紀ちゃんが喜びそうなちょっとした小物を作ってみたり。
恵君と顔も知らない彼の姉をまるで自分の弟や妹のように錯覚して居た。
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