インディアン・サマー(攘夷)

 それは厳しい冷え込みが緩んで、朝から晴れ間が広がった日の事。陽の光を遮る雲ひとつ無い、久し振りに太陽の恩恵を感じる事の出来た昼下がり。
「えい天気じゃのぉ」
 戦場での二つ名・桂浜の龍こと坂本辰馬は、戦争の合間の小休止時間を木の上で取っていた。高い木の太い枝の上に座り、うーんと伸びをする。目に入るのは、見渡す限り山々の連なりと深い森林。空気は乾燥していて、冬枯れの匂いに満ちていた。
「……見えんのぉ」
ポツリと呟いて、小さく息を吐く。もうどれぐらい、海を見ていないだろう? 波の煌めきや潮の香、懐かしい故郷から遠く離れて今や身に付いているのは血と硝煙の匂い。陸を埋めるのは跳ねる魚では無く、物言わぬ屍。
望んで参戦したとはいえ、ふとした瞬間に滅入る心はどうしようもない。せめて海でも見ることが出来たなら、そう思っても内陸の地では望むべくも無かった。
誰もが歯を食いしばり戦っている。己一人が辛い訳では無いと、坂本は遠くを見晴かすのを止めた。
気持ちを切り替え、口角を上げる。視線は地上へ向け、耳を澄ました。もしかしたら小休止の間でも休む事無い勤勉な侍が、そろそろ相談事を持って己を捜しに来るのではないかと期待して辺りを見渡す。彼の声ならすぐに聞き分けられるし、どんな遠くに居ようと見付けられる自信があった。
「坂本! どこだ? 坂本っ!」
青年らしい若々しさと、凛とした響きを持つ声は戦友であり目下のところ気になる存在、桂小太郎その人のもの。坂本は、応える前にひっそりと呼吸を整えた。秘めた想いに高鳴る動悸を悟られぬよう、鎮めるために。
「……いないのか? 坂本―ッ!」
「おん! ここじゃ、ここ!」
諦めて別の場所へ向かおうとする桂の背中に、枝の上から身を乗り出して応えた。
戦闘中の時と違い、結ばれていない髪は振り返る動作と共にさらりと流れて、冬の日差しに艷めく。坂本は目を細め、その様に見蕩れた。
「なんだ、そんな所にいたのか」
足早に木の根元まで近付いて、桂が坂本を見上げる。
木漏れ日が眩しいのか、少し目を眇めていた。
「えい天気やき、遠くまで見渡せるぜよ」
「遠く?」
桂は成程と手を打つやいなや木肌に手を掛け、そのままスルスルと登り始める。
「うん?」
こちらまで登って来る気だろうかと、見守っている間にも登り詰め隣に腰掛けた。
 桂は額に手を翳し、もう片手は坂本の肩に置く。
「……思っていたより、見えぬな」
 少しがっかりしたような声を出した。
「ほうじゃの。平地やき、山の向こうも海も見えんぜよ」
「山向こう? 海?」
きょとんとして、坂本の方に視線を向ける。暫し無言の見詰め合いが続いた後、ハッとして睫毛を伏せた。
「すまぬ、内陸の作戦ばかりで……」
 桂の言葉に、坂本も気が付く。生真面目な男だから、僅かな休みの間も作戦の事を考え奇襲にも気を配っていたのだろう。遠くが見えると聞いて、木の上に登って来たのも物見櫓の代わりになるとでも思っての事かも知れない。それに対して、うっかり海などと言ってしまったため己の郷愁を気付かれてしまった。
 作戦が内陸に集中しているのは、桂のせいでは無い。
天人の主力が内陸に集結しているのだから仕方無い事なのに、まるで己のせいだとでもいう様な申し訳なさそうな顔をする。その気遣いが、特別な好意から来るものならどんなに嬉しいだろう。
「ちゃちゃちゃ! ほがな顔をしやーせき。単に天気がえいき、海が見えたらお天道さんの光が反射して水面がきれえろうなと思ったばあだ」
 せっかくの青空の下、桂の気持ちを沈ませたくない。
 出来る事なら笑顔を見せて欲しい、安らがせてやりたいと思った。
「そうだな。……確かに、こんな陽射しの日は格別だ」
 桂が伏せていた睫毛を上げて空を見上げる。口元には、微かな笑みが浮かんでいた。桂も萩の海を思い出したのかも知れないと、坂本も同じように空を見上げる。
 交わす言葉も無く陽光が満ちる青い空を見上げていると、どこかから鳥の囀りが聞こえてきた。
「どこで、鳴いちゅう?」
「あの辺りではないか?」
 指差す方角を透かし見るが、そこに鳥らしき影は見えない。桂の視線を追おうとその横顔を間近で見た坂本の瞳に映ったのは、上を向いていてもなお影のある顔色だった。目の下の隈が、桂の顔色の悪さを知らせる。
碌に休んでいない何よりの証拠。そして、視線を落とせば懐に紙束が差し込まれているのが確認できる。恐らく何かの書類や地図の類だろう。予想通りの相談事かは分からないが、思っていた以上に根を詰めて仕事をしていたのだろうと分かる。
坂本は、どうにか桂に休息を取らせることは出来ないものかと思案した。ここで鳥探しをした所で、時間としてはたかが知れている。それでも、何とか引き延ばしてみようと空を指差した。
「あこじゃ! あこに、飛きるのが見えるぜよ!」
 ほぼ真上に近い位置を指し示すと、つられて桂の視線も動く。
「どこだ? 見えぬぞ!」
「やき、あこじゃって! 青い翼が見えるじゃろ?」
 ぐっと背を反らして腕を伸ばすと、桂も同じように背を伸ばして坂本の方へ寄りかかる。首を傾け、日差しを遮る手も額からずらして流れる長い髪を掻き上げた。
「青い鳥なぞ、見え……ッ」
 言葉を途切らせて唸り、片手で目元を押さえる。
「お天道様に、やられたかぇ? すまんのぉ」
 桂の動きから、彼が直接太陽を見てしまったのだと察した。誘導して見せた訳では無いが、悪い事をしたと詫びる。もう一つ、引き延ばしの為に見えてもいないのに鳥がいると偽ったと言えない企みの分も込めて。
「いや、お前は別に悪く無い」
 そんな事は知らない桂は瞼を押さえていた手を離し、目を瞬かせながら大丈夫だと告げる。しかし坂本は「いかん」と言いながら、桂の背中側から片腕を回して肩を抱き目元を掌で覆った。
「目を休ませた方がえい。はや暫く、目を瞑っちょき」
「大事無いから、気にするな」
 桂は坂本の手を掴み瞼の上から引き剥がそうとしたが、余計に引き寄せられて傾いていた姿勢が更に深く凭れ掛かる形になってしまう。
「……おいっ、坂本?」
「百数えるまで、離しやーせんよ」
「はぁ? 馬鹿を言うな!」
抗おうにも不安定な枝の上では突き飛ばす事もままならないのか、荒げた声よりも態度の方は幾分大人し目だった。それを好都合と思い、坂本は更に桂を引き寄せる。
「数えちゃる、いーち、にーい、さーん、」
 なるべくゆっくり数を数え始めると、徐々に桂の体から強張りが無くなるのが分かった。
穏やかな陽光が二人を暖め、忘れた頃に吹く冷たい風は寄り添い隙間の無い体から体温を奪う事は出来ず、悪戯に木々に葉を揺らすにとどまる。
 青空のどこかから聞こえていた鳥の囀りも止んでいた。
まるで世界に二人だけが取り残されたような静けさの中で、坂本の数を数える声だけが空気を震わせる。
「八十九、キュウ…… ヅラ?」
 胸元に預けられた体の規則正しい呼吸に、もしかしてと桂の目元に宛がっていた指から力を抜いて隙間を作った。指と指の間から、閉じられた瞼が見える。差し込む陽光を感じて、開く様子も無かった。
「ヅラ? 寝たかぇ?」
 小声で問い掛けるも返事は無い。深く寝入っているようだった。
「よばあ、疲れてたんろうなぁ」
 坂本は桂の目元を覆うのを止めて、肩を抱き直す。胸元に落ちて来る頭の旋毛に、そっと口づけを落とした。
「お天道様がくれた休息時間やき、ゆっくり寝やー」
慈しみの眼差しで寝顔にそう語りかけ、最後に「小太郎」と誰も口にしない呼び方で名を呼んだ。
二人を照らす陽光と同じぐらい、暖かな優しい声で。



 了 2019.1.28


追記:これは冬の日のお話(11~12月)なので、「小春日和」が似合うタイトルなのですが……
北米などで使われている「インディアン・サマー」って響きが好きで、こちらをタイトルにしちゃいました。


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