春宵一刻値千金
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このお話には、オリジナルキャラと創作昔話が含まれています。
攘夷長編「遠い約束」で出したオリジナルキャラです。
長編を読まなくとも、単体でお読みいただけます。
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酔ったから、迎えに来い。
そんな文面のメールが、桂から届いた。
今日は午後遅くからの会合で、終わるのは夜になる。
だから、夕餉は各自で取るように。
それが今朝家を出る時に、桂から告げられた言葉だった。
(珍しい事も、あるもんじゃ)
駅から少し離れた大きな公園。民家の明かりが途切れている空間。
坂本はスマホ片手に、指定された公園を探して歩く。
おおよその見当をつけ、駅に向かう帰途の人波に逆行して進んだ。
暗い夜道は見難いと、サングラスを外して胸ポケットへ。
口元は、微かに緩んでいる。
滅多に甘えてこない恋人の、久しぶりの我儘が嬉しくて仕方無い。そんな微笑み。
一人で歩けなくなるほど酔う様な、自制心の利かない質では無いのに迎えを強請って来た。
何かあったのかも知れない。
それがどんな事にしろ、二人で分け合えるのなら何でも構わないと思う。
いつもそばにいられないからこそ、共有できることは共有したい。喜びも悲しみも。
公園の名称が刻まれた柵の間を通り過ぎ、所々にポツリと立っている灯の明かりを頼りに園内を歩く。
木々が生い茂り、視界が悪い。人捜しには向かない暗さだと、手にしたままのスマホで電話をかけようとした。
そのタイミングを計ったように、緩く風が吹く。
それは葉擦れの音を鳴らし、夜空に朧月を出現させた。
どこからともなく運ばれてくる、爽やかで微かに甘い花の香。
その香に誘われて、一歩を踏み出す。もう少しだけ、歩いて捜す気になった。
霞がかった月光の下、先ほどより視界が良くなったせいか足取りも軽くなる。
遊歩道から外れ、滑り台や砂場のある遊具の広場へと足を向けた。
そのぐるりを取り巻くのは、今が盛りと咲き誇る花蘇芳の木々。
赤紫色の小さな花が、密集して咲く様は蝶が群れて止まっているように見えた。
木全体が、花で埋まっている見事な眺めに視線を奪われる。
「辰馬」
清廉な空気を少しも損なわない、涼やかで凛とした声が響いた。
その声を耳にしただけで、坂本の笑みは深まる。
花蘇芳の木の下。ベンチに腰掛け手招きする恋人の姿を見付けて、坂本は駆け出した。
「ちっくと、待たせてしまおったか?」
桂の前に立ち、おどける様に一礼してから手を差し伸べる。
坂本の大きな手に比べれば、些か細い指先が乗せられた。
帰る為に立ち上がると思い軽く握り合わせた手が、予想もしていなかった力でベンチの方へと引き寄せられる。
「まぁ、座れ」
言葉が後から後から出て来た事に苦笑しつつ、桂の隣に腰掛けた。
メールの言葉通り、酔っているのだろうと。
「はやちっくと、酔いさまししてからいぬるか?」
桂の肩に腕を回して凭れかかるよう促してやると、存外素直に身を預けてきた。
坂本の肩に頭を預けきり、甘えるようにピタリと隙間なくすり寄る。
人目の無い夜の公園内とはいえ、これだけ積極的なのは珍しい。
(こりゃあ、相当酔っちょるようじゃのぉ)
だが積極的なのは嬉しい事だと遠慮無く、坂本の方からも身を傾けた。
頬に触れる滑らかな髪の感触を、暫し楽しむ。
秘めやかに漂う花の香りと、朧月の柔らかな光、傍らの愛しい温もり。
まるで、夢幻境にでもいるような心地になった。
二人きりの静かな空間で、桂がぽつりと呟く。
「春宵一刻値千金」
独特の抑揚に、有名な漢詩の一節だと気付く。
「春夜詩じゃの?」
春の宵は素晴らしく、そのひと時には千金の価値がある。そんな意味だったかと、視線を上げた桂の瞳を見詰めて尋ねた。
酔いに少し潤んだ黒い瞳が月光を映し、妖しく光る。
瞬き一つが、肯定の返事代わりだったのだろう。
桂は真っ直ぐ空を見上げ、呼吸を整えた。
春の夜のしっとりとした空気と、芳しい花の香りをゆっくりと吸い込む。
その呼気を吐き出すように、漢詩を諳じた。
「春宵一刻値千金
花有清香月有陰
歌管楼台声細細
鞦韆院落夜沈沈」
朗々と響く声音は、夜の闇に溶けてゆくよう。
いつまでも聴いていたい余韻を残す。
詩の意味は分からなかったが、さすが神童と言われた男だと坂本は称賛の拍手を贈った。
意味が解っていないことなどお見通しだと言うように、桂が悪戯っぽい笑みを見せて立ち上がる。
「迎えに来させて、すまなかったな」
足元はしっかりしていて、迎えなど必要無いように見えた。
坂本は左右に首を振り、同じく立ち上がる。
桂の隣に並んで、歩き出す前に声を掛けた。
先ほど思った、何かあったのではないかとの疑問の問いを。
またしても珍しく、桂の方から手を繋いでくる。そのままそっぽを向いて、指まで絡めてきた。
横目で盗み見た桂の頬が薄ら紅色なのは、酔いのせいか? それとも、照れているのだろうか?
あるいは、その両方か。酒よりも、ただ春の夜の雰囲気に酔っているのかも知れない。
ならば己もこれ以上無粋な事は聞かず、同じように酔おうと絡められた指を深くする。
その手を引き、唇を寄せようとした。だが、桂の言葉がそれを制する。
「会合の帰りに、懐かしい男に会った」
「懐かしい男?」
「偶然入った店で……江川を、覚えているか?」
「おんしの副官じゃった、おっさんじゃろ?」
攘夷戦争時代、桂の副官を務めて男の名だと思い出し、覚えていると頷き返す。
「実際あの頃は、おっさんという歳でもなかったがな……」
苦笑して、歩きながら会った経緯を話し始めた。
攘夷党の会合が終わり、市中見回りに行くエリザベスと別れ、夕食を取ろうと入った蕎麦屋で相席になったのだと。
最後の戦場で散り散りに別れ、生死も不明だった。
何か情報は無いかと捜した事もあったが、結局見付からず終い。
それがまさか今頃になって、江戸で偶然の再会を果たした。
「戦後は、ずっと潜伏して療養していたそうだ。その後は、幕府から匿ってくれた芸者と所帯を持って『雛菊』という小料理屋を営む事になったらしい」
「雛菊?」
屋号に、坂本が足を止める。同じく、桂も歩みを止めた。
心持ち首を傾けて、坂本の視線に合わせる。何かを探るように、蒼い瞳の奥を覗き込んだ。
坂本の脳裏を掠めたのは攘夷戦争の頃、馴染みになった芸者の面影。
桂に良く似た面差しの、雛菊という芸名の女。
気立ての良い優しい女だったと思い出す。
桂に心惹かれ懊悩していた時に出会い、成り行き任せで情を通じた。
身代わりでも構わないと、穏やかに微笑んで受け入れてくれた姿は、今も心の底にある。
あれもまた、違う形の恋だったのだろうか……
「会いたいか?」
追憶に沈みそうになった坂本を、どこか苦し気な桂の声が引き戻す。
どういう意味だろうと、首を傾げた。
桂が、雛菊の存在を知る由も無い。
大隊の中では色好みと噂されていたが、特定の女に通っているなどという話をした覚えも無かった。
まさか、江川との関係を疑っている訳でも無いだろう。
いくらなんでも無理があり過ぎると、無難な言葉でケリをつけようとした。
「いいや。縁があれば、そのうちいつか会えるきに」
話しは終いだと言う代わりに繋いだ手を引いたが、桂はその場を動かない。
「……うっかり、焼けぼっくいに火が点くかも知れぬ、か?」
今度は視線を合わせずに、呟くような小さな声音。問い掛けというには些か、小さ過ぎる囁きのよう。
「小太郎、どがぁした? 悪酔いしちょるがか?」
もしや江川から何かよからぬ噂話でも聞いたのかも知れないと、繋いだ手を離し桂の両肩を掴み直して向き合った。
「別に……ただ、」
「うん?」
続きを促すと、桂は視線を逸らして俯く。
「店の屋号は、奥方の昔の芸名だそうだ」
桂の声音は更に小さく、不明瞭になる。
「機会があれば、お前も一緒に店に来て欲しいと……」
「行かんぜよ」
即座に断りの言葉を口にして、肩を引き寄せ胸に抱く。
桂は雛菊のことを知っている。そう、確信した。
どういう経緯で、どこまで知っているのかは分からないが、それはもう昔の話。
生真面目に考え過ぎて、やはり男同士では云々と今更な思考を巡らしてドツボにハマってからの呼び出しだったのかと理解した。
それにしてもと、出そうになった溜息を押しとどめる。
(小太郎を想う気持ちに揺らぎなどありはせんがやき、そこの所にゃ鈍感過ぎるぜよ)
「辰馬、俺に遠慮など」
顔を上げる事無く、腕の中で力無く反論する桂の身を更にキツく抱き寄せた。
「昔の思い出は、思い出のままでえいがぜよ。わしゃ昔より今が大切やき、思い出に囚われたりせん」
だから、何も心配しなくとも良いと伝われと願う。
トントンと背中をあやす様に叩きながら。
値一刻千金と謡う程の夜に、桂の気持ちだけが乱されるは切ないからと急く事無くゆったりと桂の言葉を待った。
身を包む温もりに、強張っていた気持ちが緩んでゆく。
桂はそっと、坂本の背に腕を回した。
失いたくない存在が、ちゃんと腕に掴める安心感に吐息が漏れる。
それでも、まだ確かめずにいられない。春の夜と酔いの名残りがまだ澱の様に残る不安を吐露させた。
「いつか……今夜の事も、思い出になる時が来るのだろうか?」
昔より今が大切だと言うなら、いつか自分も思い出の中の住人になる日が来るかも知れないと。
自分という存在が、坂本の中で風化するかもと思うとどうしようもなく寂しくなった。
広い胸に頬を摺り寄せ、そんな日は来ないと言って欲しいと心の中で強請る。
「そうじゃの、いつか思い出になるじゃろう」
「辰馬……」
否定の言葉で無い事に、桂は視線を上げて坂本を見た。その言葉の意味を知りたくて。
「きっと共にツルッ禿げになっても、こうやって仲良く並き同じ夜を過ごしながら、思い出語りしてるじゃろうな」
見上げた先には、抱擁と同じ暖かな笑顔。
ずっと先も、一緒だと匂わせる約束の様な言葉。
蒼い瞳から読み取れるのは、確かな愛情だけ。
降りて来る唇を迎える為に、目を閉じる。
不安も憂いも全て吸い取る深い口づけ。
夜気よりも暖かく、花の香より甘く酔わせてくれる。
この包まれている一刻こそが、己の至福と何度も思う。
飾ることなく素のままで甘え、凭れ掛かる事の出来る男の背を抱き返す。
繰り返す口づけに、体内の熱が高まってゆく。
先にブレーキをかけたのは桂の方だった。
抱擁を解き、軽く押し付けられた胸板を押し戻す。
「俺は、禿げ無いからな」
熱さましの照れ隠し。言外に、共にいる事は否定しない。
ちゃんと伝わっているのだろう、坂本の笑みは優しいまま。
「ありゃ! ちゅーの後で、ほがなセリフとはムードが無いぜよ」
桂の腰に回されていた両手が、両頬に移る。
そのまま引き寄せて、まだ熱の残る黒い瞳を覗き込み囁く。
「ほれ、やり直しちや」
もう一度と、今度は啄むように口づけた。
頬からゆっくり首筋へと坂本の指先が辿るのに、桂が堪らず吐息を漏らす。
「たつまっ」
コートの襟をぎゅっと掴んで体重を預けると、焦らす様に唇が離れた。
「うん、合格ぜよ。つか、誘惑されそうじゃの」
坂本の指が、紅く色付いた桂の唇をゆっくりなぞる。
そのまま口内に差し入れられそうな気がして、瞳が潤む。
「誘惑なぞ……察しろ、馬鹿者!」
簡単に欲望を刺激されたのは悔しいが、欲しいのは事実。
昔の話に煩悶し、酒気と春の宵に惑乱しても、いつも最後は坂本に酔わされる。
それでも良い、それが良い。いつまでも、共に在りたい男の胸元に顔を埋めた。
「じゃー帰って、仲良くするかの」
わざと耳元に響かせる、共に過ごす甘美な宵への誘惑の声音。
返事の代わりに、無言で小さく頷いた。
二人共に過ごせる刻こそが、真の値千金。
了
2016.04.17
漢詩「春夜」の作者は蘇軾です。
意味等、ご興味のある方は、ググッてみて下さい。
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