手と、手

【攘夷辰桂】



大戦さ後の小休止。
ここ数日は、そう言えるほど敵の様子も静かだった。
そのせいだろう、歩哨以外は寝静まった深夜。ほとんど足音を立てないで、桂は病人用に宛がわれている庄屋の和室へと忍び入った。手には、小さな洗い桶と手拭いを携えている。桶の中は、井戸から汲んで来たばかりの冷たい水を張ってあった。
 その部屋には、先の大戦さで右腕を負傷した坂本が眠っている。彼が夜中に熱を出していないかと、こっそり様子を窺いに来たのだった。
 障子越しの月明かりは、眠る男の顔色を青白く見せる。
 ちゃんと呼吸をしているだろうかと不安に駆られ、すぐ枕元に膝を付いて覗き込んだ。
(坂本……)
声に出して名を呼び、揺り起こしたい衝動に駆られたが、拳を握って我慢する。やっと、ぐっすり眠れているのだ。自分の不安を解消する為に起こすなど、とんでもない。それに、きっと疲れている筈だから……
少し具合の良くなった坂本の元に、昼から夕刻にかけてひっきりなしに隊士達が見舞いに来ていたと聞いた。
心配顔の隊士達に対して、愛想よく笑って応えていたらしい。まだ痛みがあるだろうに、皆に心配を掛けまいと無理をしたのだと想像できた。だから、もしかしたら疲れで熱が出ているかもしれない。いつも明るく笑って疲れを上手く隠してしまう男だから、余計心配だった。
桂自身、強がる性質だからこそ見落とす事無く気付けたのかも知れない。
尤も、それに気が付いたのは最近の事だったが。

長い黒髪が坂本の顔にかからぬように耳にかけ、指先でそっと額に触れる。少し、熱い気がした。
「やはり熱が、」
「ありゃせんよ」
眠っていると思っていた坂本の瞼が上がる。はっきりとした声音は、坂本が眠っていなかった事を教えた。
「……起こして、すまぬ」
 それでも、詫びの言葉を口にする。
「いんにゃ、最初から寝てやーせん」
額に乗せられたままの桂の指先を左手で軽く掴んで、笑んで見せる。その笑顔は、桂が心配して来てくれた事をちゃんと分かっていると言外に伝えた。
「ちょびっと、考え事をしとったばあだ」
「考え事?」
 掴んだままの桂の手に縋り、坂本は身を起こす。
珍しく、布団の上できっちり正座する姿を見て、桂も居住まいを正した。
「ちっくと、聴いてくれんか?」
穏やかな声だが、その眸の色は蒼黒く沈んでいる。
 桂はその様子に、黙って頷き返す事しか出来なかった。
「この手じゃーはや、剣を握ることは適わないじゃろうと思う。このまま、後方支援に専念するにも戦えのうては皆の荷物になる。ならば、いっそ退役した方がえいがやかと、考えておった」
 話す時はいつも桂に注がれる眼差しが、今夜は動かぬ右手に注がれている。
「そうか……治療に専念した方が、」
 坂本の為には、その方がいいと賛同の言葉を口にした。
 仲間想いの坂本が、この決断を下すのはさぞ辛かっただろう。だからこそ、笑顔で頷いてやらなければならないと、桂は笑みを作ろうとした。
 坂本がくれる様な、目元を細めた柔らかな笑みを……
 けれど、瞳は瞬きを忘れたように瞠られたまま。唇は口角を上げることが出来ず、戦慄いた。
「ぃや……だっ……くれっ」
飛び出した声は、上擦っていて明瞭な発音にならない。
「ヅラ?」
 聞いた事の無い桂の声音に驚き、坂本は視線を上げた。
目に映った表情に、思わず桂の方へ身を傾ける。
「どがぁした?」
 触れても良い物だろうかと、桂の頬に流れる涙をそっと掌で拭った。その手を、桂は両手で包む。
「行かないでくれッ! お前がいないと、俺はっ……」
 頭がどうかしてしまったのかと、理性が自問自答しても溢れる気持ちの奔流は止まらない。どうしても、坂本と離れたくなかった。己自身でも気付かなかった、心の奥深く隠れていた感情が胸に渦巻く。
「俺が、お前の右手になる! だから、行かないでくれ! 俺の傍に、いて欲しい。俺は、お前がっ」
 最後の一言、これを言ってしまえば後戻りできない気がした。感情のままに、恋しい気持ちを告げても良いのだろうかと言葉に詰まる。攘夷戦争の最中に、色恋沙汰など。まして、相手は同じ男ではないか。己の感情で、怪我を負い悩んでいる坂本を困らせたくは無い。
 急に黙り込んだ桂を見て、坂本は桂に気付かれぬよう残念そうに目を伏せる。そしてもう一度、気持ちを切り替える様に包まれていた手を引き抜いて、桂の注意を引いた。
「ほんなら、早速右手を貸してくれ。左手ばあじゃ上手くヌけのうて、ムラムラしてたんじゃ」
 溜まっていたと、指で輪を作り扱く動作をして見せる。
「馬鹿者! さっさと、退役してしまえ!」
 あんまりな展開に、激情は一瞬で沈下してしまう。
 桂は部屋を出てゆき、残された坂本は嘆息した。



【現代辰桂】


窓の外は、土砂降りの雨。
雨音に紛れなかったのが不思議なぐらい、微かな金属音が聞こえた。坂本は、タオルを手に廊下へ出てみる。
玄関先には思った通り、頭から爪先までずぶ濡れになった桂が佇んでいた。
その手に握られているのは、桂の愛刀・股宗。
恐らく、どこかで天誅を下して来たのだろう。

終戦後、桂は過激派攘夷志士となっていた。彼は多くを語らなかったが、商人となった坂本はそのままの桂を受け入れ、この京の町屋に匿う事にした。いや、同棲していたと言った方が正確だろう。互いの気持ちを確かめ合い、幾度となく身を重ねた。心と躰を重ねるごとに、情熱的な恋は深い愛情へと変わってゆく。もっと相手を理解したい、大切にしたいという気持ちが育まれていた。
「おかえり、小太郎。冷えたじゃろ? はや、風呂は沸かしゆうよ」
何も尋ねず、タオルで長い髪の水気を吸い取ってやる。
桂は疲れた様子で、されるがままになっていた。だが、その手から刀を引き抜こうとした途端、手を弾かれる。
「触るなっ!」
激しく甲高い声音が、次の瞬間には弱々しく変わった。
「俺の手に……触らないで……くれ」
「どがぁした?」
坂本は濡れるのも構わず、桂を包むように抱き締める。
何があったのか、聞いてやりたい。いつも感情を心に留め、なかなか吐き出さない性質なのは分かっていた。
だからこそ優しく、甘やかすように背を撫でる。この腕の中が、桂にとって安らげる場所だと、泣いても喚いても良いのだと伝える為に。
桂は無言で、坂本の肩に顔を埋めた。雨に冷やされた躰が、打ち拉がれた心が、抱き締められた体温に包まれ暖かく解けてゆく。
『この人殺しッ! 私の旦那様を、返してッッッ!』
耳にこびり付いた声が、安らぎそうになった心に再び打撃を与える。天誅を下した男の妻女が、懐剣で斬りかかってきた時の形相が脳裏に甦った。私欲に塗れた男でも、彼女にとつては良き夫だったのだろう。
女に振るう剣は無いと背を向けた一瞬で、女は自害した。止める間も無く、間接的とはいえ罪も無い女の命まで奪ってしまったのだ。
今更ながら、己は人殺しだと思い知る。
「この手は、人殺しの手だ。天誅などと、大義名分なぞ唱えようと綺麗にはならない。こんな血塗れの手で、まっとうな商人となったお前に触れて良い筈が無い……」
 桂は坂本の胸を押しやり、距離を取ろうとした。
このままでは、いけないと。
 覚悟を持って、終戦後も攘夷志士で在り続けた筈なのに、坂本の優しさに甘え己の所業から目を背けていた。
 今はもう、戦時中とは違う。綺麗事を並べた所で、人殺しは人殺し。
どんなに愛しかろうと、坂本の傍に居てはいけない。
「辰馬……すまない、俺は」
出て行こうと思うと、言葉を続けようとした矢先。
「小太郎!」
 察したのだろうか? 言葉を遮る様に強く名を呼び、桂の手を握りしめた。
「わしは、おんしの手に触れられるのが好きじゃよ。この手は、わしの手やか。昔、おんしは、ゆうてくれたじゃろ。わしの右手に、なってくれると」
 桂の瞳を覗き込み、戦時中に伝えた言葉を思い出させる。二人の当時の思い出が、色鮮やかに蘇った。
続く馬鹿なやり取りまで思い出して、坂本の口元に柔らかな笑みが浮かぶ。
「この手は、わしの手でもあるぜよ」
 引き寄せ、もう一度抱きしめて、桂の耳元に囁く。
「やき、分け合おう。おんしの苦しみは、わしの苦しみじゃ。どがーに辛くとも、信じた志は貫き通せ。わしも、ぶっちゅうやき。一緒に、この国の未来を掴むぜよ」
「……たつま」
 言葉に込められた慰めと励ましと、坂本の深い愛情に桂の瞳が潤む。想いのままに、抱き締め返す。
 今日の出来事も、己の罪も、忘れはしない。胸に深く刻んで、痛みを抱いて歩く。
それでも、見交わす瞳に笑み返すことが出来た。
「この手、離しやーせんよ」
 握られた手に指を絡めて、甘く優しい声音を聞きながら、桂は目を閉じる。
やがて唇の上に落ちてくる唇と、一時だけ全てを忘れさせてくれる情熱を迎え入れる為に。





2017/8/20




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