菊花の杯
「ほら、これで良いのであろう?」
居間から縁側に出て来た桂の声に、坂本が振り返った。
「おんっ! こりゃあ、よお……」
喜色に満ちた声は、次第に尻すぼみになる。
「なんだ、その顔は?ちゃんと、お前の希望通りにしてやったのだぞっ!」
桂はほんの少し怒りを含んだ声音を出して、坂本の隣に腰掛けた。
秋の夜、月明りの下に並んで眺める庭先では、二人のやり取りに負けないぐらい賑やかに虫の鳴き声が響いている。
そんな合唱に耳を傾ける事無く、坂本は桂の結い上げた髪に触れた。
「せっかく、こがぁに綺麗なんじゃ。はやちっくと、着物も選びようがあるじゃろう?」
ため息と共に、そう呟く。
桂の姿を見たならば、誰もが坂本の残念がる気持ちを理解しただろう。
今夜の桂は、目尻に妖艶な紫色を、唇には蠱惑的な紅色を差していた。
月光を浴びた肌は肌理細やかで、触れてみたいと思わせる。
纏め上げた黒髪は、しなやかな艶を放っていた。
うなじにかかる後れ毛までもが、色めいてみえる。
「飲んで寝るだけなのに、わざわざ着がえたりなどせぬわ。化粧してやっただけ、ありがたく思え」
坂本の手を振り払う様に首を巡らせて、軽く睨む。
その動作に、髪飾りが月光を弾いて耀いた。
それは、坂本が桂にと選んだ贈り物。
重陽の節句にちなんで売られていた、菊を模した簪だった。
繊細な花弁一枚一枚に薄く金箔が施され、花弁を象った台座から細い短冊の様に垂らされている白金が、シャランと澄んだ音を奏でる。
熟練職人の手による、高価な品である事がひと目で分かる物だった。
誕生日や記念日等々と違い、特に理由の無い贈り物は桂の眉を顰めさせるだけだが、坂本は全く懲りない。
似合いそうだから、たったそれだけの思い付きで贈るのだ。今回も、そう。
桂の黒髪にさぞかし映えるだろうと、夕食後に着けて見せてくれるよう強請ったのだ。
身仕度している間に、月見酒を用意するからと。
坂本の満面の笑顔に、桂は仕方無いという顔をして鏡台のある寝室へと向かった。
そんな経緯で桂の女装姿を期待し、酒の準備をして縁側で待っていたのだが……
「じゃけんど、その顔にその着物は無いぜよ」
桂が着ていたのは、寝巻き代わりにしている、浅葱色の浴衣だった。
華やかな模様も無い、無地で地味な男性用の単衣。
坂本の期待していた、ヅラ子仕様は半分外れた。
「分かった。では、化粧を落としてこよう。簪も着けた事だし、お前の気も済んだだろう」
「あ! ちょ、待ちやっ!」
しれっと腰を上げようとした桂の肩を、慌てて押さえ込む。
「悪りぃ! わしが、悪かったぜよ! うん、うん、化粧してくれただけ充分有り難い!」
坂本の慌てぶりに、桂は噴き出した。
「すまぬ。少し、意地悪が過ぎた」
肩に回された坂本の手に手を重ねて、身を凭れさせる。
そんな甘える仕草に、坂本の目尻も下がった。
「……反省しちょるきに」
やたらと贈り物を買ってこない、無駄遣いもしない。
桂と何度も交わした約束事。
約束を破る都度冷たい態度を取られても、坂本が喉元過ぎればなんとやらな行いを繰り返すのは、結局のところ桂の詰めの甘さにもあった。
いや、文字通り最後に甘い顔をしてしまうのだから、仕方無い。互いが、互いに甘いのだ。
そう自覚しているから、大きな喧嘩にもならない。
共に過ごせる時間が限られているからこそ、言い争いなどと下らない事に時間を浪費したくなかった。
「分かれば良い」
桂の柔らかな笑みに、坂本も優しい眼差しを返す。
「月がきれえじゃ。さぁ、一献」
気分を変える様に、用意していた徳利と杯を差し出した。
「うむっ……これは?」
坂本から差し出された杯に、目が止まる。
それはつるりとした白磁の馬上杯で、底に淡い金の縁取りがされた菊花文様が描かれていた。
酒を注いだなら、まるで水中に咲く花のように見えるだろう。
家には無い、美しい杯だった。
「ありゃ! 違うぜよ、こりゃあ、わしのマイ杯じゃ! 無駄遣いの、贈り物じゃないきにっ!」
あたふたと、弁解する。
本当は、これも桂の好みに合うだろうと買った逸品。
だが、それを言ってしまえば先程のやり取りを繰り返してしまう。
「おんしの杯は、こっちぜよ」
もとから、台所に置いてある萩焼の猪口を差し出した。
「……そうなのか」
意外にも桂は残念そうな声を出し、じっと菊花の杯を見詰めている。
「小太郎?」
「いや……この杯で飲む酒は、旨そうだと思ってな」
どうやら桂の好みにピタリと合ったようだと、坂本は内心で大喜びした。
手にしていた猪口を下げて、徳利に持ち替える。
「飲んでみるかぇ?」
「良いのか?」
期待にキラキラと輝く瞳が、杯から坂本の方へと注がれた。
その動きに、髪に挿された簪も揺れて蒼白い光を放つ。
月明かりの下で見る桂の黒髪と闇色の瞳、杯を持つ白き指先も何もかも、見惚れるほどに美しい。
艶やかな紅を刷いた唇に、視線を集中させて思いつきを口に上らせた。
「ほうじゃの、一杯につき一回ずつ使用料を貰おうかのぉ」
「使用料だとッ? なんとケチ臭い事を、それならば……」
思わずムクれた顔をして、簪へと手を伸ばす。
ならば簪と交換しろと、言おうとして止めた。
簪を挿した時に見せられた表情を思い出すと、それは言えない。
簪は惜しくは無いが、坂本の笑顔を曇らせるような事はしたくなかった。
「良いだろう、払ってやろう」
ムッとしたまま、挑むように杯を差し出す。
「武士に二言は?」
「無い!」
まるで合言葉のように、お決まりの言葉を交わして酒が注がれる。
月光が酒に蜂蜜の様な色を与え、菊紋は思った通り水中花のように揺らめいて見えた。
桂は、ゆっくり味わう様に飲み下す。
まろやかな喉越しと芳醇な香りが鼻腔に広がり、想像以上の味に桂の口元が緩む。
「お代を、頂くぜよ」
酒に濡れた唇に、坂本の指が触れた。
それだけで、何をもって使用料とするのかを理解する。
二人の距離を縮める気配に、桂は手にした菊花の杯をおろして目を閉じた。
了 2017.9.13 (重陽の節句に遅刻)
居間から縁側に出て来た桂の声に、坂本が振り返った。
「おんっ! こりゃあ、よお……」
喜色に満ちた声は、次第に尻すぼみになる。
「なんだ、その顔は?ちゃんと、お前の希望通りにしてやったのだぞっ!」
桂はほんの少し怒りを含んだ声音を出して、坂本の隣に腰掛けた。
秋の夜、月明りの下に並んで眺める庭先では、二人のやり取りに負けないぐらい賑やかに虫の鳴き声が響いている。
そんな合唱に耳を傾ける事無く、坂本は桂の結い上げた髪に触れた。
「せっかく、こがぁに綺麗なんじゃ。はやちっくと、着物も選びようがあるじゃろう?」
ため息と共に、そう呟く。
桂の姿を見たならば、誰もが坂本の残念がる気持ちを理解しただろう。
今夜の桂は、目尻に妖艶な紫色を、唇には蠱惑的な紅色を差していた。
月光を浴びた肌は肌理細やかで、触れてみたいと思わせる。
纏め上げた黒髪は、しなやかな艶を放っていた。
うなじにかかる後れ毛までもが、色めいてみえる。
「飲んで寝るだけなのに、わざわざ着がえたりなどせぬわ。化粧してやっただけ、ありがたく思え」
坂本の手を振り払う様に首を巡らせて、軽く睨む。
その動作に、髪飾りが月光を弾いて耀いた。
それは、坂本が桂にと選んだ贈り物。
重陽の節句にちなんで売られていた、菊を模した簪だった。
繊細な花弁一枚一枚に薄く金箔が施され、花弁を象った台座から細い短冊の様に垂らされている白金が、シャランと澄んだ音を奏でる。
熟練職人の手による、高価な品である事がひと目で分かる物だった。
誕生日や記念日等々と違い、特に理由の無い贈り物は桂の眉を顰めさせるだけだが、坂本は全く懲りない。
似合いそうだから、たったそれだけの思い付きで贈るのだ。今回も、そう。
桂の黒髪にさぞかし映えるだろうと、夕食後に着けて見せてくれるよう強請ったのだ。
身仕度している間に、月見酒を用意するからと。
坂本の満面の笑顔に、桂は仕方無いという顔をして鏡台のある寝室へと向かった。
そんな経緯で桂の女装姿を期待し、酒の準備をして縁側で待っていたのだが……
「じゃけんど、その顔にその着物は無いぜよ」
桂が着ていたのは、寝巻き代わりにしている、浅葱色の浴衣だった。
華やかな模様も無い、無地で地味な男性用の単衣。
坂本の期待していた、ヅラ子仕様は半分外れた。
「分かった。では、化粧を落としてこよう。簪も着けた事だし、お前の気も済んだだろう」
「あ! ちょ、待ちやっ!」
しれっと腰を上げようとした桂の肩を、慌てて押さえ込む。
「悪りぃ! わしが、悪かったぜよ! うん、うん、化粧してくれただけ充分有り難い!」
坂本の慌てぶりに、桂は噴き出した。
「すまぬ。少し、意地悪が過ぎた」
肩に回された坂本の手に手を重ねて、身を凭れさせる。
そんな甘える仕草に、坂本の目尻も下がった。
「……反省しちょるきに」
やたらと贈り物を買ってこない、無駄遣いもしない。
桂と何度も交わした約束事。
約束を破る都度冷たい態度を取られても、坂本が喉元過ぎればなんとやらな行いを繰り返すのは、結局のところ桂の詰めの甘さにもあった。
いや、文字通り最後に甘い顔をしてしまうのだから、仕方無い。互いが、互いに甘いのだ。
そう自覚しているから、大きな喧嘩にもならない。
共に過ごせる時間が限られているからこそ、言い争いなどと下らない事に時間を浪費したくなかった。
「分かれば良い」
桂の柔らかな笑みに、坂本も優しい眼差しを返す。
「月がきれえじゃ。さぁ、一献」
気分を変える様に、用意していた徳利と杯を差し出した。
「うむっ……これは?」
坂本から差し出された杯に、目が止まる。
それはつるりとした白磁の馬上杯で、底に淡い金の縁取りがされた菊花文様が描かれていた。
酒を注いだなら、まるで水中に咲く花のように見えるだろう。
家には無い、美しい杯だった。
「ありゃ! 違うぜよ、こりゃあ、わしのマイ杯じゃ! 無駄遣いの、贈り物じゃないきにっ!」
あたふたと、弁解する。
本当は、これも桂の好みに合うだろうと買った逸品。
だが、それを言ってしまえば先程のやり取りを繰り返してしまう。
「おんしの杯は、こっちぜよ」
もとから、台所に置いてある萩焼の猪口を差し出した。
「……そうなのか」
意外にも桂は残念そうな声を出し、じっと菊花の杯を見詰めている。
「小太郎?」
「いや……この杯で飲む酒は、旨そうだと思ってな」
どうやら桂の好みにピタリと合ったようだと、坂本は内心で大喜びした。
手にしていた猪口を下げて、徳利に持ち替える。
「飲んでみるかぇ?」
「良いのか?」
期待にキラキラと輝く瞳が、杯から坂本の方へと注がれた。
その動きに、髪に挿された簪も揺れて蒼白い光を放つ。
月明かりの下で見る桂の黒髪と闇色の瞳、杯を持つ白き指先も何もかも、見惚れるほどに美しい。
艶やかな紅を刷いた唇に、視線を集中させて思いつきを口に上らせた。
「ほうじゃの、一杯につき一回ずつ使用料を貰おうかのぉ」
「使用料だとッ? なんとケチ臭い事を、それならば……」
思わずムクれた顔をして、簪へと手を伸ばす。
ならば簪と交換しろと、言おうとして止めた。
簪を挿した時に見せられた表情を思い出すと、それは言えない。
簪は惜しくは無いが、坂本の笑顔を曇らせるような事はしたくなかった。
「良いだろう、払ってやろう」
ムッとしたまま、挑むように杯を差し出す。
「武士に二言は?」
「無い!」
まるで合言葉のように、お決まりの言葉を交わして酒が注がれる。
月光が酒に蜂蜜の様な色を与え、菊紋は思った通り水中花のように揺らめいて見えた。
桂は、ゆっくり味わう様に飲み下す。
まろやかな喉越しと芳醇な香りが鼻腔に広がり、想像以上の味に桂の口元が緩む。
「お代を、頂くぜよ」
酒に濡れた唇に、坂本の指が触れた。
それだけで、何をもって使用料とするのかを理解する。
二人の距離を縮める気配に、桂は手にした菊花の杯をおろして目を閉じた。
了 2017.9.13 (重陽の節句に遅刻)
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