至福

それを、ふとした瞬間に感じる。
胸の奥から、ゆっくりと涌き出て溢れる感情。
その想いに名前を付けるとしたら、きっと至福という言葉になる。
なにか特別なものではなく、ずっと心の中にあって再びそれに気付くような。
シンプルで飾らない、ありのままの気持ち。

行ってきますと掲げられたエリザベスのプラカードと背中を見送ってから、桂は玄関の扉を閉める。
梅雨の合間の、良く晴れた日。
攘夷党で行っている市中見廻りに行く前に、エリザベスが洗濯まで済ませてしまったので午後まで時間が空いた。
書類仕事を片付けてしまおうと居間に向かったが中に入る前、襖の縁を跨がず立ち止まる。
縁側に面した障子も縁側の窓も全て大きく開け放たれていて、涼やかな風が吹き込んできていた。
小さな中庭の青々とした茂みと、午前の柔らかく明るい日差しと青い空色が、瞳に飛び込んでくる。
窓枠のせいで四角く切り取られた絵画のように見えるその景色に、赤いコートの背中が自然と融け込んでいた。
派手な色合いなのに、コートの主の持つ雰囲気がそれを感じさせない。
昨日この時間には、ここになかった存在。
それが今日は、昔からずっと居たような馴染みきった様子で足を伸ばし寛いでいる。
桂は息を潜め瞬きも忘れて、その背中をジッと見詰めた。
常より長い航海を終えて、彼が桂の元に帰ってきたのは昨夜遅く。
久し振りの共寝は互いを貪るのに夢中で、果てた後寝落ちてしまった。
気怠さの残る朝の時間も過ぎてやっと、夢ではなく今ここに確かに坂本がいるのだと実感できる。
写真や画像のように小さく区切られてもいなければ、隔てる液晶板も無い。
桂は口元に笑みを浮かべて、一歩を踏み出す。足を進めれば、それだけ二人の距離は縮まる。
そんな当たり前の事が、とても嬉しくて幸福な気持ちになった。

近付く気配に、坂本が首だけめぐらせて振り返る。
サングラスをかけていない瞳は、空よりも澄んだ蒼で桂の姿を映し出す。
「うん? どがぁした?」
「良い風が、入ってきているな」
桂の返事に「おん」っと、同意の頷きを返し両手を上げて背筋をピンと伸ばした。
「地球の風は、格別じゃのぉ。 ほれ、こたろ」
自身の座っている真横の畳をぽんぽん叩いて、隣に来るように促してくる。
その仕草は、膝枕を要求するもの。いつもの合図だと分かっていたが、今は応えてやる気になれない。
まだ、坂本が近くにいる事実をゆっくり味わいたかった。
後で存分に甘えさせてやるからと、桂は自分の欲求を優先する。
隣には座らず、坂本の背中側に膝立ちして目前の癖っ毛頭に指を差し入れた。
「んっ?」
「相変わらず、モフモフだなっ」
「おんし、まっことモフモフが好きじゃのおし」
笑いを含んだ声音だが抵抗もせず、好き放題触るのに委ねてくれる。
桂は指を擽る柔らかな感触を楽しみ、繰り返し指に絡めては伸ばしてと玩んだ。
そうして十二分に堪能すると、今度は背中から肩を抱き締める。
頬を掠める毛先から、仄かに香る同じシャンプーの匂い。
鼻先を押し付けると、僅かな汗の匂いも混じった。
(……たつまの匂いだ)
不意に昨夜の記憶が甦り、こっそりと頬を上気させる。
「こたは、せんばんと甘えん坊さんになっちょるな」
肩に回していた腕を掴まれ、引き下げられた。
桂の胸や腹と坂本の背中が、隙間無く合わさって密着度が増す。
伝わる互いの体温に、腕を掴んでいる大きな手に、背中越しに聞こえた優しい声に。
手の届く場所に、坂本が傍にいるのだと実感出来る。
再び胸の奥から溢れだす、幸せだという想い。

「辰馬、俺が今何を考えているか分かるか?」
「さて、なんじゃろうな?」
「当てたら、膝枕をしてやろう」
桂の腕から手を離し考えていますポーズを取る坂本に、先ほどの要求をチラつかせる。
「おん! ほがな嬉しい条件を出されては、一発で当てるしかぇいな」
喜色に満ちた声を出し、振り返って桂の瞳を覗き込む。
そこに溢れている感情の名前を、坂本が口に上らせる。
わしも同じことを、思っとったからと、付け加えて。




2018.6.13

ツイッターのフォロワー様(くず様)の描かれていた「至福のひととき」というタイトルのイラストを拝見して、萌え転がりSSを書いてしまいました///
Webアンソロ作成中でしたが、我慢できなかったんです。すみません。

くず様、お名前出しの許可を、ありがとうございました///

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