君知るや、この想い(攘夷)
丸二日、何も食べていない。口にしたのは、水と塩だけ。
そんな状態にあった最前線の陣営は、天人からの奇襲を受けた。
間の悪い事に、鬼兵隊も白夜叉の率いる隊も別働隊として出払っていて応戦する兵力も無い。
あっと言う間に陣を護っていた中隊は分断され、小隊ごとに脱出するしかなかった。
追われて散り散りになる隊士たちに、中隊長の桂小太郎は伝令を放つ。
じきに陽が沈む。闇に紛れて逃げ延び、明朝後方の本陣に合流しろと。
その後、自らしんがりを務めて部下を逃がした。
桂は追撃してくる天人を斬り倒し、午後の雨でぬかるんだ山道をまっしぐらに駆ける。
囮になる為に、本陣とは反対方向に向かった。
陽が沈み切るまで敵の目を引き付けることが出来れば、後は夜陰に紛れ本陣に戻れる。
だから、殊更大きく鬨の声を上げておのれの位置を知らしめた。
「名を上げたい者は、追って来いッ! 狂乱の貴公子は、ここにいるぞッッッ!」
凛として良く通る声が、山林の空気を震わせ響き渡る。
「ここを越えれば、あと一息で本陣じゃよ。みな、頑張ってくれぇ!」
山ほどの物資を積んだ荷車を自らも押して、補給部隊全体に大声で号令をかけていた坂本辰馬は不意に立ち止まった。
周りより頭一つ高い坂本の言動は、大声と相俟ってすぐに皆の注目を集める。
補給路を敵に発見され襲撃されないよう、荒れた獣道を通るという用心までしていた部隊長の様子に、部下たちはざわめき始めた。
「坂本さん、どうかしましたか?」
「……今、なんか聞こえんかったか?」
不審に思った副官が尋ねた言葉に、疑問で返す。
言葉こそ聞き返してはいるが、視線は残照に照らされている山裾の方を見透かしていた。
「鳥か獣でしょう。じきに夜ですし。急がないと、皆腹を空かせて待っていますよ」
野犬か何かの類だろうと往なす言葉にも反応せず、何かを聞き取ろうとするように坂本は目を閉じる。
「坂本隊長?」
「すまん! わりぃけんど、部隊を先導してくれ。わしは、後で追いかけるきに」
ぽんっと部下の肩を叩くや否や身を翻し、坂本を呼び止める声にも応えず、山林から山道への道を一気に駆けて行った。
急な傾斜を下り切り、開けた山道に辿り着く。
そこから下方に目を凝らすと、雨後の湿気を含んだ空気のせいで燃えるように鮮やかな残照が、争う姿を黒々と浮かび上がらせているのが見えた。
多勢に無勢。遠目でも分かる影は、人と天人のもの。
坂本の視線は、夕陽を受けて斬り結ぶ刃の輝きよりも流れる長い黒髪の方へ向かった。
「ヅラ?」
最前線の陣営にいる筈の桂が、ただ一人こんな山中で天人と斬り合っている。
奇襲に遭ったのだろうかと、心配に逸る気持ちのまま駆ける速さを倍にした。
あと、ほんの少し。
刻々と沈みゆく太陽の光を背に感じながら、桂は後退を続けた。
地の利は、こちらにある。陽が落ちさえすれば山中の林に飛び込み、追手どもを誘い込んで撃退する自信があった。
だが夕焼けはいつもより目映く、残照が姿を眩ませる邪魔をする。おまけに、敵の人数が思っていた以上に多い。
刀の束を握り締め厳しい表情で、ジリジリと包囲網を狭めてくる天人を睨み付ける。
どこかに突破口は無いかと、間合いを変化させれば相手も遅れず付いてきた。
打つ手の無いまま次第に追い詰められ、一番取りたくなかった背水の陣になる。
後ろに流れている川は、常なら大した水量は無い。けれど、午後からの雨で今は水嵩が増していた。
飛び込んで逃げる方法も考えたが、濁流に巻き込まれる危険と泳いでいる間に矢を射かけられる危険とを考えると、それは最悪の手だと思える。
しかし突破か川に身を投げるか決断しなければ、良くて捕虜、悪ければこの場で嬲り殺しにされるだろう。
決めかねている間に、天人の包囲は厳重さを増した。心持ち川下側の人数が多いのは、川に飛び込む事態を警戒されているからだと分かる。
同じ危険を冒すなら、天人の足下に屍を晒すより濁流にのまれた方がマシと決意した。
飛び込むなら、刀は邪魔になる。敵の気を逸らす為に、一番間合いを詰めている連中に向かって投げようと束を片手持ちに変えた刹那。
「避けいッ!!」
大地を揺るがす様な、大音響の声が響く。
突然の事に、天人の中にも僅かな混乱が起きた。
そこに勝機を見い出した桂は、素早く両手で刀を構え直し動揺する天人の一角に斬り付ける。
閃光の一撃に、天人の包囲が割れた。
「よしッ!」
会心から獰猛な笑みを浮かべ、その隙から抜け出そうと一歩を踏み出す。
だが、その爪先が地に着く事は無かった。
「掴まっちょけッ!」
「ぇ?!」
天人の頭越しに何か黒い影が落ちて来たと思った瞬間、腹に衝撃が来て怒鳴り声が鼓膜を劈く。
体が宙に浮き、何が起きたのか分からなかった。
「息吸って、止めいッ!」
短い指図、聞き覚えのある訛りのある声、腹に食い込む太い腕。
それで荷物のように抱え上げられているのだと理解した。そして、その意図も。
「馬鹿者ッ! せっか、ッ」
せっかく天人の包囲網の一角が崩れたというのに! そう、言いたかったが言う暇も無い。
坂本の足は、無謀にも川に向かって跳躍していた。その躍動に、桂は片手でしがみ付く。
もう片手は、まだ刀を握り締めていた。まだ、手放す訳にはいかない。
予想通り、幾本もの矢が坂本と桂に向かって飛んで来る。
それらを薙ぎ払い、水飛沫の音と共に天人に向かって刀を投げつけた。
そこまでが、地上での記憶。
全身が冷たい水に呑み込まれ、濁流に翻弄されながらも深く沈んでゆく。
予想以上の激しい流れの中でも、しっかりと掴まれた腕が離れる事は無かった。
***
川の下流、蒼白い月が照らす川縁に黒い一塊の影。
それが二つに離れ、一つが膝を付く。もう一つの影は、再び庇う様に被さった。
ゲホゲホと、咳込む桂の背を坂本が擦る。
「ヅラ、なんちゃーがやないか?」
「ゲホッ、ばっ、かもっ、ゲホゲホッ、無謀に、も、ほどがッ」
無茶をしてと詰りたいが、気管に入った水がそれを邪魔して上手く言葉にならない。
せめて付いた膝を持ち上げようと、地に着いた手に力を込める。
「なんちゃーがやないちや。わしにゃ、海神の加護があるきに。水の中じゃ、余程の事が無い限り死んだりせん」
さらりと確実な根拠のない台詞を吐いて、桂の腕を引き上げ肩を貸す。
「どれ、歩けるか? どっかで着物を乾かさんと、風邪をひくぜよ」
「たしか……川下には狩り小屋が」
前線を敷いた時に作らせた、この近辺の地図に小屋があったと記憶している。
桂が指差す方向へ、坂本は視線を巡らせた。
見透かす先は、川が緩やかに左側へと婉曲してゆきその左手は小さな木立になっている。
その木陰にひっそりと何か建造物の様な影が見えた。
「あれかの?」
ぽつりと呟き、再び桂の方に視線を戻す。どうやら、徐々に咳は収まってきている様子。
借りた肩に身を預けたまま、桂も「そのようだ」と同意を示した。
辿り着いた狩り小屋は、使われているようだったが衣食に関するものは何一つ備蓄されていなかった。
唯一あったのは薪と綱だけだが、薪があれば火を焚くことが出来る。
綱は部屋の隅に張れば、着物を干すことが出来るだろう。
「食い物が無いのは残念じゃけんど、とりあえず寝る場所があったばあでもありがたいぜよ」
坂本は火打石を使い、手早く火を熾す。火は瞬く間に薪に移り、小屋内を明るく照らした。
邪魔な手甲や脚絆、胴鎧を取り去り、身軽になってから小屋の壁から壁へ綱を張る。
「ヅラ、濡れた着物ば、ココに」
干してと言いたかったが、言葉が途切れた。
薪の作り出す柔らかな明かりに照らされた桂の姿から、視線が外せなくなる。
髪は烏の濡れ羽色、その表現通り長い黒髪はしとどに濡れて色艶を放つ。
顔色は冷えからだろうか? 蒼白く、陶磁の人形を思わせた。
男の肌とは思えないくらい、滑らかに見える。
坂本と同じく胴鎧を取り去った躰は、物資の調達に出た時に見かけた姿と比べて明らかに痩せていた。
もともと細いと思っていたが、今は光の加減も手伝って折れそうに細く見える。
だが、うっかり女の様だと口にしょう物なら思いっきり眉を顰められるだろう。
実際の所、ちゃんと筋肉も付いているし体の線も男のものだ。それなりに力も強い。
なのに、こうも見惚れてしまうのは……
わしが、桂を恋しく思っちょるからにほかぇらん。
初めて出会った時から、ずっと胸に抱いてきた想い。ゆっくりと、だが確実にその想いは大きく育ち、溢れんばかりになっている。
真っ直ぐな気性、馬鹿の付くほどの生真面目さ。優しく思いやり深い心と、強靭な意志力。
見かけの美しさから惹かれたものの、じきに桂そのものに惚れきった。
今では、桂の何もかもが可愛く見える。
それでも、告白は躊躇われた。
攘夷の戦いに懸命な姿を見ていると、こんな想いを伝えて悩ませることは出来ないと思う。
ただ、見守るだけしか出来ない。気付かれる事無く、寄り添って。
「ああ、干すのにちょうど良いな」
頷いて答えたが、手はまだ動かせない。着物を脱ぐことに、躊躇いがあった。
男同士、貰肌脱ぐのに抵抗なぞある筈がない。なのに、心の奥で羞恥が湧き上がる。
坂本の逞しい体格や見事な胸筋に比べて、己の体躯が貧弱に見えるのではないかという嫉妬にも似た感情とはまた別の思いゆえに。
正直、いかにもな男らしさを羨ましくも思い、憧れもした。だから、そんな気持ちから視線が坂本を追うのだと。
けれど、坂本が己では無い他の誰かに暖かな視線を向けるたび、優しく触れるたび、胸の奥がキリキリと嫌な痛みを感じて気付いた。
俺は友では無く、坂本の特別になりたいのだという事に。
傍にいて、見詰めたい。抱き合って、想いを分かち合いたいのだ。それは、同性に向ける類の感情では無い。
俺は、坂本に恋している。
こんな戦時中に、しかも戦友に対して持って良い類の事では無い。
だから、隠しておかねば。坂本に、気持ちが悪いと嫌われたくは無かった。
この想いを、知られるのが怖い。告白など、もってのほか。
仲の良い親友の位置にいられるだけで、満足しなければと自分に言い聞かせた。
意を決っして、着物の結び目に手を掛け弛める。
ゆっくりとした動作で桂が着物を脱ぎ始めると、坂本はさり気なさを装い背を向けた。
これ以上見詰めては、目の毒過ぎる。己を、抑えている自信がない。
乱暴に着物を脱いで、桂より先に干してしまうと背を丸め囲炉裏の傍で横になった。
下半身に兆しが現れても、気付かれないように。
バサバサと忙しない音を背後に感じて、桂は小さく息を吐く。
意識しているのは己だけで、坂本は男同士での脱衣に興味の欠片も無いのだと思い知る。
だが、それでいい。狭い空間に二人きり、裸で普通に会話を続けられる自信が無い。
いつものように説教繰り出すだけの元気も、残っていなかった。
髪をまとめて絞り水分を飛ばすと、坂本と反対側の囲炉裏横に静かに横たわる。
「……おやすみ」
「おやすみぜよ」
短い挨拶と素っ気ない背中合わせを、どちらも自分の隠した感情のせいだと捉え振り返らない。
互いに、互いへの想いを知られないように必死で、息を殺し長い夜を過ごすのだった。
了 2018.7.1
とあるフォロワーさま(kuzu様)の濡れた辰桂イラストを拝見して、こんな妄想書いてしまいました。ごめんなさい。
桂さん、お誕生日おめでとうございま……した。
全然祝ってない上に、遅刻ですが……
Webアンソロで、4作書いたから赦して下さい。
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