綿帽子(仔辰桂)

空気の乾いた、良く晴れた日。
桂家の縁側には、小道具や書物など様々な品物が所狭しと並んでいた。
それは単なる虫干しなのだが、幼い小太郎の目には何か特別な事をしている様に見える。
祖母や母の邪魔をしないよう言われていたが、好奇心には勝てなかった。
部屋の中からだと母に見付かると思い、そっと中庭の方から縁側へ近付く。
今はちょうど奥に母が、縁側は祖母が一人で何かを広げていた。
「おや?」
祖母が小太郎に気付き、手招きする。
「おばあっ! 見ても良い?」
一目散に駆け寄って、縁側の縁に手を付く。
興味津々の笑顔と輝く瞳に、祖母は微笑みで応える。
そして小太郎の小さな頭を撫でて、縁側に座るよう促し途中で止めていた作業に戻った。
広げられたのは、真っ白で光沢のある袋状の生地。
「その白いのは?」
普段見る事の無い光る生地に触って良いものかも分からず、指差すに止めた。
「これは、綿帽子だよ。私も、お前のお母さんも、これを被ったんだよ」
「綿帽子?」
聞いた事の無い言葉に、首を傾げる。
「そう、こんな感じに被んるだよ」
祖母の手で、小太郎の頭に綿帽子が被せられた。
ふわりと軽い感触と、目深すぎて遮られる光。
綿帽子を被せられた驚きから「わっ」っと、小さな声を発して反射的に取り去ろうと両手を上げた。
指先に触れた生地は、つるりとなめらかで柔らかい。
その触り心地の良さに、取るのを止めた。
「つるつるだぁ」
「それは、絹だからね」
どこか誇らしげな祖母の声。それは、祖父が祖母に贈った品だと教えられた。
大切なものだから、母へと引き継がれたのだと。
「じゃあ次は、」
自分が引き継ぐのですかと聞く前に、綿帽子を引き上げられた。
「次は、お前のお嫁さんにあげるんだよ」
「お嫁さんに?」
「そう、お嫁さん。綿帽子は、お嫁さんが被る婚礼衣装なんだよ」
綿帽子の形を整え日陰に干すと、顔を小太郎から晴れた空へと向ける。
遠い未来を、見透かすような視線。
それも暫しの時間で、すぐに孫へと視線を戻した。
「楽しみだねぇ。小太郎の伴侶は、どんな子だろうね」
頭を撫でられ、そう言われて、小太郎は頬を真っ赤に染める。
婚礼衣装の意味は分からなくとも、お嫁さんという言葉は知っていた。
どう言葉を返せばよいのかと躊躇していると、祖母の手が離れる。
「ほら、遊んでおいで」
「お義母様、次はこちらを」
奥の部屋から、母の声が聞こえた。
祖母の手が離れたのは、母に見つからない内に縁側から離れるようにという合図だったらしい。
小太郎は、大きく頷くと中庭から外へと飛び出した。
幼友達と野山を掛けて遊び、お嫁さんというドキドキする言葉を胸の奥にしまい込む。
まだまだ、大人になってからの話だと。

たくさん遊んで、帰って来ると美味しい夕食と食後の勉強。
そして、父と楽しいお風呂の時間の後は優しい母の手で寝かしつけられた。
幸せな日常、平和ないつもの夜。
小太郎は、夢を見た。
夢の中で、夢だとハッキリ分かった訳では無いけれど。
多分、夢じゃないかなと思った。
そこは、見知らぬ場所だったから。


蒼穹は、どこまでも高く広い。
小高い丘の上からは、少し離れた海が見えた。
太陽の光に波を反射させ、キラキラと眩しい輝きに溢れている。
丘一面は野草が絨毯の様に生えていて、野原には潮の香りの風がそよいでいた。
風が揺らしたのは野草だけではなく、小太郎の長い黒髪と茶褐色の癖っ毛。
気が付いたら、自分と同じ歳ぐらいの少年が傍に座っていた。
広い野原に、二人きり。
同じような着物に、同じような袴。違うのは色合いくらいだろうか。
小太郎は草色で、その少年は空色。
彼を眺めていると、お日様のような暖かな笑顔を向けられた。
全く見覚えの無い顔立ちなのに、何故だか傍に居るとほっとする。
「小太郎、髪にタンポポの綿毛がついちょる」
少年の手が小太郎の髪からタンポポの綿毛を摘み取って「ほらっ」っと、見せた。
「ありがとう、辰馬」
知らない子の筈なのに、するりとその子の名前が出る。
ずっと前から仲良しで、そう呼んでいたように自然な声で。
どうしてだか分からないけれど、二人でいるのが楽しくて嬉しくて、クスクス笑いが込み上がってくる。
小太郎が笑うと、辰馬も笑い出した。
あはははは、と、子供の可愛らしく弾けるような笑い声が重なって、青い空にこだまする。
二人して笑いに仰け反り、転がった。
仔犬がじゃれ合うように野原でぐるぐる回ると、タンポポの綿毛が煽られて空中に漂い出す。
「わぁあ! 雲みたいだっ!」
「空飛ぶ種ちやっ!」
青い空を横切って、たくさんの綿毛が風に乗り高く運ばれてゆく様に、二人は歓声を上げた。
手を繋いで、風に乗る綿毛を追いかける。
走る二人の足下でまた、綿毛が飛び散ってゆく。
それが愉快で、子供たちの心は踊った。
夢中になって、綿毛を追いかける。
やがて丘の上の野原が途切れ、なだらかな下り道沿いに並ぶ村落が見えて来た。
その先には、青い海が広がっている。
綿毛は、海を目指すように流れて行った。
「……行っちゃった」
小太郎は、残念そうに風に運ばれる綿毛を見送る。
「きっと海の向こうの国まで、飛き行くんじゃろうな」
「海の向こうの国? そんな遠くに……」
小太郎が淋しそうに呟くと、辰馬が繋いだ手を引っ張って瞳を覗き込む。
「なんちゃーがやないちや。大きゅうなったら、わしの船で小太郎を海の向こうの国まで連れて行ってあげるきに」
「大きくなったら、辰馬の船に乗せてくれるのか?」
「おん! 約束するがよ」
「約束だなっ!」
遠くに見える海と同じ蒼い瞳の色に、小太郎は黒髪を揺らして頷いた。
その動きで髪に残っていた綿毛がふわりと外れ、二人の間を通り過ぎる。
思わず、あっと言う声を発して、視線がタンポポの種を追う。
視線と共に頭も動いて、互いの額がこつんとぶつかった。
痛みよりも驚きに、手を放して勢い良く尻餅をつく。
そうするとまた、新しい綿毛が飛び散った。
けれど、今度は海に渡りゆく風が吹かなかったせいで、舞い上がった種は重力に従いふわふわとその場に舞い落ちる。
子供たちの頭上にも、幾つもの種が降り積もった。
「雪みたいだ」
と笑う小太郎に、辰馬は小太郎が覚えたばかりの言葉を返す。
「綿帽子みたいやか!」
「綿帽子は、お嫁さんが被る物なのだぞ」
子供らしからぬ威厳を見せて教え諭すように応えると、辰馬がその手を強く握る。
「なんちゃーがやない! 小太郎がわしのお嫁さんになれば、被れるきに」
「俺が、辰馬のお嫁さん? でも、お嫁さんは女の子がなるものだろう?」
祖母も母も女の人で、綿帽子を被ったのだから男の自分が嫁になる訳は無いと首を傾げた。
だが辰馬は、自信たっぷりに首を振る。
「ほがなこと、ないぜよ」
そう言い置いて袂を探ると、そこから白い手布を取り出しサッと広げて小太郎の頭上へ被せた。
「こがーに、きれえやき! お嫁さんになれるぜよ」
「そんな……」
おかしな話だと思ったが、相手があまりにも自信たっぷりに言い切るので、自分の考えが正しいのかどうかが分からなくなってくる。
なにより、祖母に触らせて貰った綿帽子をもう一度、被ってみたい気持ちもあった。
絹の艶やかな感触が、忘れられなかったから。
自分がお嫁さんになってもおかしくないのなら、なっても良いかなと心が揺れる。
彼が相手なら、むしろ楽しいのではないかと。
「小太郎がお嫁さんになってくれるなら、新婚旅行はわしの船で空の上へ行くぜよ!」
「空の上? 船が、空を飛ぶのか?!」
蒼い瞳をきらきらさせて辰馬が仰ぎ見る空を、小太郎もまた仰ぐ。
遠くに聞こえる鳥の囀りと、高く澄み渡る空。
視線を転らせれば、船が空へと飛び立っても不思議だと感じない程、空の青と海の蒼が一つに見えた。
「飛ぶぜよ! もっと、もっと高く、お星さまの所まで行きゆう」
「お月さまは?! お月さまにも、行けるのか!」
立ち上がり両手を空へ振りかざす辰馬につられて、小太郎も手布を頭に乗せたまま立ち上がる。
「お月さまに住む、うさぎ殿に会ってみたいぞっ」
「おん、会わしちゃる!」
気安く約束してくれる言葉に、嬉しくなって小太郎は辰馬の手を取った。
「じゃあ、辰馬のお嫁さんになる!」
頬を紅潮させ、小さな手を握り合う。
花婿と花嫁のように、睦まじく微笑み交わした。
「じゃー、結婚式するぜよ」
「うん! わかった」
返事を返したが、結婚式の事など何も知らない。
暫し二人で見詰めあった後、互いに首を傾げた。
「結婚式とは、どうやるのだ?」
「えっと、良く分からんぜよ」
困っているのに、辰馬はアハハハッと笑う。
その暢気な態度に小太郎は頬を膨らませ、繋いだ手を振り払った。
「それでは、お月さまへ行けぬではないか!」
期待外れだと、頭に被せた手布を取ろうと手を上げた所に、辰馬の手が重なる。
「結婚式は分からんけんど、約束の仕方は知っちゅうよ」
「指切りなら、俺も知っているぞ」
約束と聞いて、重ねられた手の下から抜け出ようと身を傾けた。
二人の距離は近付いて、互いの瞳に映る自分の顔がハッキリと見える。
「違おる、大人の約束やか」
「大人の?」
真剣な眼差しに引かれ、小太郎は額をくっ付けんばかりに更に身を乗り出す。
「大好きやと、こうやって約束するちや」
重ねた手に力を込めて、二人の距離を零にした。
辰馬の唇が、小太郎の唇に押し付けられる。
それは数秒間だけで、すぐに離された。
小太郎は、大きな目を更に大きく見開く。
「……なんだ、これは?」
「誓いの、えっと……く、くち? 口付けちや!」
「口付け……こんな約束の仕方は、初めて聞いたぞ」
「わしも、したがは初めてじゃけんど……間違おらんよ!」
初めての行為と柔らかな感触に、二人して笑みが溢れた。
「約束だからな!」
「約束ちや!」
覚えたての遊びのように、言葉と口付けを繰り返す。
大人の約束を交わした事で、二人の気持ちは高揚する。
小太郎の頭から手布が風に煽られて落ちたのを合図に、やっと口付けを止めた。
「結婚式は終わったから、わしらが乗る船を見に行くぜよ!」
辰馬は手布を拾い上げ、小太郎に手渡してから立ち上がる。
片手で海に続く道を指差し、もう片手は小太郎に向かって差し出した。
「もう、船を用意してあるのか!」
手布を持つ手とは反対の手で、辰馬の手を握る。


その手は先ほどまでの小さなものでは無く、大人の大きな手で。
驚き見上げた姿も大人の、大きな男の姿だった。
「小太郎、どがぁした?」
低いけれど、優しく慈しむような声で尋ねられる。
「……辰馬、いつの間に?」
握り返された手も大きく、問いかけた声も低くなっていた。
小太郎もまた、大人の姿になっている。
「ほれ! グズグズしとったら、乗り遅れるぜよ」
「え、うわっ!」
軽々と横抱きにされて、驚きの声を出す。
「あはははっ! しっかと、掴まっちょり」
「ちょ、まっ」
待てと言いたかったが、凄い勢いで走りだされて止める暇も無い。
小太郎は振り落とされまいと、辰馬に抱き付く様にしがみ付く。
まるで絵草子の中の連れ去られる姫君みたいだと、気を逸らした一瞬に浮遊感が増した。
辰馬が小太郎を抱いたまま、大地から大きく飛び上がったのだ。
同時に沢山の綿毛が舞い上がり、辺り一面が純白に輝く。
眩しさに目を閉じると、耳元で囁かれた。
「小太郎、新婚旅行は宇宙に行くぜよ!」
その言葉が区切りとなって、今度は世界が漆黒のベールで被われ無数の星々が散りばめられる。
手を繋いだまま、銀河の渦へと身を投げた。

***

「太郎、小太郎、起きなさい」
耳に届くのは、優しい母の声。
閉じた瞼の裏には、まだ星の輝きが残っていて目を開けるのを拒否している。
「朝ですよ、お寝坊さん」
揺り動かされて目覚めを促されるも、頑なに目を閉じていた。
「ん、んー、まだ……うさぎ殿に」
せっかく宇宙に出たのに、まだ月の兎を見ていないと返事を返しかけて、意識が急速に目覚める。
「兎? 兎の夢でも見たの?」
母の呼び掛けに、やっと目を開けた。
「おはよう、小太郎。朝ですよ」
「おかぁさ? あの子は……」
瞳に映る母の笑顔と、部屋に射し込んでいる朝の光が夢の記憶を徐々に消し去る。
「なぁに? 夢の兎さんのこと?」
「ううん。一緒に、」
夢の中で、一緒に遊んでいた子の名前が出て来ない。
その子の顔立ちも、おぼろになっていた。
とても楽しい約束をしたはずなのに、そのことも思い出せない。
黙り込む小太郎を、母は急き立てる。
「ほら。おじい様が一緒に素振りをしましょうって、小太郎を待ってくださっているのよ」
「おじいが! うん、起きる!」
自分専用の竹刀を買って貰い、習い始めたばかりの剣術が面白くて仕方なかった小太郎は、文字通り飛び起きた。
もう夢の余韻など、どこにも無い。
「ちゃんと、顔を洗うのよ!」
「はいっ!」
厠へ向かう背中に声を掛け、小太郎の使っていた布団を畳もうと枕を持ち上げる。
「あら?」
枕の下には、白い手布が隠れていた。
「どうして、こんな所に? お義母様が、渡したのかしら?」
綺麗に畳み直して、小太郎の文机の上へと乗せる。
そのまま布団を片付けて、部屋を出た。
それっきり、その手布は誰に聞かれる事も無く、そして小太郎が思い出す事も無く、彼の持ち物になっていた。
夢の約束が叶えられる、その日まで。



了 




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