焔立つ(攘夷)


「桂」
滅多に見せない真剣な眼差しと、真面目な声。きちんとした呼び名。
触れるだけだった手が、明確な意思を持って頬を包み仰のかせる。
「さかも、と?」
腰を引き寄せられ近い距離で見詰められて、身動きも出来ず視線も外せなくなった。
「一か八かの大勝負。もしもの時に言えんのは残念やき、今ゆうておく」
何を? とは聞けない。桂は、ただ頷くだけに留めた。
どんな言葉でも構わない、それを聞いたら己も胸の裡を明かそうと決めて。
「わしは、おんしが好きじゃ。わかるか? 祝言を挙げたいばあにという意味でじゃぞ」
「ば、馬鹿にするなッ! そんな念押し、されなくとも分かる!」
反射的に言い返してしまった。
己に向けられていた坂本の好意が、勘違いでは無かった事が分かって嬉しさ半分と照れくささ半分。
先に口にした言葉は照れが勝ってしまったが、視線を逸らす事はしなかった。
「……そこぉ?」
期待していた返事で無かった事に、坂本の瞳の色が蒼から灰に陰る。
その失意に気付き、桂も決意していた言葉と共に返事をした。
「あ、いや、その……俺も、お前が、祝言を挙げても良いぐらい、す、好っ」
「小太郎っっっ! まっことにっ?!」
最後の語尾まで聞かず、力一杯抱きしめられる。
その性急さと、大きな声、包まれる温もりに坂本の喜びを実感した。
だから、苦しいと文句は言わず抱きしめ返す。己の想いも、伝わるように。
「本当だ。ずっと、お前が好きだった」
胸から溢れ出す想いを言葉にのせると、体中に火の暑さとは違う熱が高まってゆく。
「よし! 祝言挙げるぜよ。 もしも僅かな時やとしても、後悔はしのうて済むきにな」
抱き締めていた腕を緩めて、桂の瞳を覗き込み「えいか?」と視線で尋ねた。
突っ走る坂本を、宥める気にはなれない。桂もまた、後悔したくないという思いの方が強かった。
「構わんが、ここには三三九度の杯も無いぞ」
「ほがなもん、いらん」
言うが早いか、桂の両頬を両手で包み額を合わせる。

「天地神明に誓って! 我、坂本辰馬は、桂小太郎の生涯の伴侶となる」

それは、天地におわす全ての神々に約する宣誓の言葉。
船乗りだった坂本らしい、誓いの言葉だと桂も真似る。

「天地神明に誓う。我、桂小太郎は、坂本辰馬の生涯の伴侶となる」

迫り来る炎も、今この瞬間だけは忘れた。
純粋に幸福な感情だけが、互いの瞳に浮かぶ。まるで、収まるべき場所に収まった様な安定感。
心が、暖かな想いで埋め尽くされる。自然と近付く唇と唇、吐息が触れただけで甘い痺れに支配された。
軽く合わさり、離れてもう一度。角度を変えて深く味わう、幸福の蜜の味。

厳かな誓いの終わりに、言葉も無く頷き合った。
羽織を脱いで、頭から被る。
視線は、真っ直ぐ正面の火の海を見据えた。
「ゆくぞッ!」
「おん!」

出来る限りの速度で、階段を駆け下りる。
落ちて来る火の粉が、羽織に幾つもの黒い穴をあけた。
幸いなことに階段に余計なものは無く、燃えているのは壁床天井と木材ばかりだからだろうか、いきなり噴出して来るような炎はない。一定の勢いで、燃え盛っていた。
想像していたよりは軽度の火傷で、生き残れそうだと希望を持ったその時。
「桂ァァァ!!」
名前を呼ばれ、突き飛ばされた。
階段を数段転げ落ちながらも、首だけ捩じって後方を見る。
突き出された坂本の大きな手。そして必死な表情と、空中を舞う坂本の火除け代わり羽織。
その羽織が、轟音と共に降って来た天井の木材に潰され、坂本の上に崩れ落ちてゆく。
一瞬の出来事が、まるで静止画のように目に焼き付いた。
「坂本ォォォ!!」
這うようにして、階段をにじり上がる。
目前には、燃えて燻り続けている支柱並みの太い木材。その上に、細かい破片が幾つもの小さな炎を芽吹かせている。
桂は火膨れが出来るのも構わず、素手で破片を払い除けた。
「坂本! 坂本ッ! 坂本! 辰馬ッッッ!!」
チリチリと、嫌な臭いが立ち込める。それは、髪が焼ける臭いだろうか。それとも皮膚や肉の?
熱さではなく、痛みを感じる手で最後の大きな破片を掴み放り投げる。
その下から、やっと坂本の頭が出てきた。
「この、馬鹿者! 祝言を挙げた早々、俺を未亡人にするつもりかッ!」
声を掛けても動かないのは、頭を打って気絶しているだけだと己を励ます。
坂本の背に乗っている太い木材に手を掛け、持ち上げようとするが全く動かない。
木材の火は坂本と桂の着物に移り、ジワジワと繊維の上を黒く焦がして炎の舌を広げてゆく。
「坂本ッ! 起きろッ、頼む起きてくれッッッ!」
手にしていた己の羽織を坂本の頭に掛け、火の粉を防ぐ。木材からはみ出ている肩や腕の火は手で叩いて消した。
煙で目が沁み涙が流れるのだ、喉が焼けるから声が震えるだけで、泣いてなぞいない。
諦めてなどいないのだと、気力を振り絞った。
「許さん! 俺を置いて逝くなど、許さんからなッ! 起きろォォォ、坂本ォォォ!」
桂の必死の呼び掛けに、坂本の指先が微かに反応する。
「っうう」
「坂本? 坂本ッ! 待っていろ。今、引き出してやるからな!」
坂本の肩側から腋へ腕を差し入れ、引っ張り出そうと試みた。
ハッキリしだした意識の下で、坂本もなんとか這いずり出ようと身動きする。
「もう少しだ、頑張れっ」
「ヅラっ!」
引く事に全身全霊をかけ回りが見えていない桂の手を振り払って、坂本が叫ぶ。
「崩れるッ! 逃げいッ!」
「坂もっ」
焼け爛れた掌は、しがみ付いていることが出来ずズルッと外れ、振り払われた身は遠心力で壁へと叩き付けられた。
桂の足元や、まだ倒れたままの坂本の上に、またしても焼けた天井の木材が落ちて来る。
「坂本! 嫌だッ! 坂本ッ!」
落下の衝撃風に煽られて焔が立つ。
勢いよく燃え盛る炎に、互いの姿が遮られた。
「坂本、坂本、無事か!?」
「おんしゃ、逃げい。ここは、はや崩れる」
呼び合う声だけが、まだ生きているという証。
桂は壁に手を付き、ユラリと立ち上がる。
「逃げぬ! 未亡人は好きだが、俺自身が未亡人になる気など無い!」
燃える木屑を飛び越え踏み砕いて、もう一度坂本のいる場所へと戻って膝を付く。

互いの瞳は、凪いでいた。確実に訪れる最期に、抗う気は無い。
「……わしと共に、逝くか?」
「ああ、一人にしないでくれ。やっとまた家族が出来たのだから」
己の手を坂本の手の上へと重ね、微笑んだ。
「せっかく結べた縁ながやきに、おんしを抱けんままあの世行きとはつまらんのぉ」
重ねられた手の指に指を絡めて、強く握り締める。
「貴様は、最期までそのように下世話なっ」
「うん、笑っちょけ。おんしの笑顔が好きじゃよ、小太郎」
「俺も、お前の……」
身を屈め、坂本の耳元で囁く。最後の言葉をはっきり伝えようと。
囁く言葉は、音から柔らかな感触へと変わる。優しく、想いを伝え合う口づけ。
それを中断させる、三度目の轟音が階段に響く。
今度は、横揺れを伴った大きな衝撃。
桂は咄嗟に坂本の頭部に覆い被さり、坂本は唯一自由になる腕で桂の腰を抱きしめる。


「鬼兵隊ッ! 片側の壁、全部ぶッ壊せッッッ!!」
「水だ、水ぅぅぅ! さっさと運べ、コノヤロー」
聞き覚えのあり過ぎる声が、壁に空いた大穴から入り込んできた。
坂本と桂は閉じていた目を開き、煙が棚引く様に排出される大穴の向こう側を透かし見る。
そこから、よじ登ってくる二つの影。
長い陣羽織と、真っ白な羽織。揃いの白く長い鉢巻き。
「高杉ッ!?」
「金時ながか!」
返事を聞く前に、坂本と桂は次々現れる隊士たちから水を浴びせられる。
「今夜の鬼兵隊訓練は、実地の火災訓練でなァ。火の手を探したら、ちょうどいい塩梅にココが燃えてい」
「なぁに、カッコつけてやがる? おかーさんが、いないのが淋しくて追っ駆けて来たんだろーが。素直になりなよ、高杉くぅん」
「煩ェ! 素直になんのは、テメェの方だろうがッ。罠だから、様子見に行くって言い出したのはどこのどいつだァ?」
「はぁ? ンな事、いつ言った? 何月何日何時何分何秒に、言いましたかぁ?」
「餓鬼かよッ! 間違いなく、言っただろうがァ」
「言ってませんんっ」
言った、言ってないの、いつもの口喧嘩が始まる横で鬼兵隊隊士たちは黙々と坂本と桂の救護作業を始めた。
数人で木材を持ち上げ、坂本を引き摺り出すと簡易担架を作って運び出す。
桂も今夜ばかりは悪餓鬼二人の口喧嘩を止める元気も無く、坂本の担架を追った。

「息子らあの喧嘩は、止めのうてえいがか?」
担架に寄り添う様に歩く桂に、笑って見せる。
「後だ。この手では、殴れぬ」
桂の掌の酷い有様に、坂本の瞳が曇った。
「……すまん。わしの、」
横に首を振って詫びの言葉を止め、煤だらけの顔にも関わらず美しい笑顔を見せる。
「最期まで、この手を離さないでいてくれた事。嬉しかったぞ」







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