コーヒーの香りに包まれて (3Z辰桂)
桂は坂本が今起きたばかりだと知り、もうマンション近くの公園まで来ていると言い出せなくなってしまった。
その上、駅に向かっているなどと嘘までついて……
だから罰が当たって、スッ転んでしまったのだ。
足元の何かに躓いたのは、単に電話に気が向いていたのに他ならない。
なのに罪悪感がそう思わせた。
手から落としてしまったスマホから、坂本の心配そうな声が聞こえる。
大丈夫だと答えなければと、スマホに手を伸ばしたがそこに小さな白い影が割り込んだ。
「ワン!ワン!」
「え、」
元気の良い鳴き声、真っ白でフサフサの毛並み、見上げて来る黒い瞳は真ん丸で愛くるしい。
まさに抱きしめられる為に生まれてきた様な存在。
桂が躓いたのは、チワワが纏い付いて来たせいだった。
パタパタと尻尾を振って、桂の詰襟の匂いをフンフン嗅いでいる。
初対面のはずなのに異様に懐かれている気がしたが、こんな可愛い犬が相手では不審感より嬉しさが勝った。
チワワの足下にあるスマホを取るには、その小さな体を持ち上げなければいけない。
これは合法的に抱っこ出来るという事だと、チワワに手を伸ばした。
「ああ、すみません!コタちゃん、メッですよ!」
目の前にいるチワワより一回り小さいチワワを連れた和服姿の女性が、桂に纏い付いているチワワを抱き上げる。
「ああっ!」
『小太郎? こたッ!?』
「ワン! ワン!」
チワワを抱く機会を失って思わず声を漏らす桂と、スマホから響く坂本の声、坂本の声に反応して鳴くチワワ。
三つの声が合わさった後の隙間を縫う様に、女性の声が詫びを告げる。
「本当に、申し訳ありません。うちの犬が急に走り出して、ご迷惑をお掛けしました。お怪我はありませんか?」
「いえ、大丈夫です。俺の方も、電話に気を取られていたので。お犬殿は、大丈夫ですか?」
中腰のまま答える桂のお犬殿という変わった呼び方に、女性は僅かに口角を上げるだけで笑いを堪えた。
「はい、大丈夫です。コタちゃんも、ごめんなさいしなさい」
「くぅーん」
抱き止められていた腕から地上に下されたチワワは、桂の足元に鼻面を擦り付けて詫びる様に鳴く。
「お犬殿、驚かせて悪かった」
そっと手を伸ばして、小さな頭を撫でる。そのふわりとした感触に、桂の表情が緩む。
チワワは相変わらず桂の詰襟の匂いを嗅いでいたが、再び飼い主に抱き上げられて大人しくなった。
「では、失礼します」
「あ、はいっ」
優雅に一礼して散歩に戻った女性を見送ってから、放り出したままのスマホに気を戻す。
『小太郎、小太郎?』
拾い上げる前から耳に届く大きな声。心配させてしまったと、土汚れも払わずスマホを耳に押し付けた。
***
『すみません! ちょっと躓いて転んでしまっただけです。心配いりません』
早口で一気にそう言い切られて、坂本はホッと息を吐く。
「転んだ? 怪我しちょらんか?」
『はい! 大丈夫です、どこも怪我してません』
確認に元気な声が返されたので、改めて気になっていた事を聞いてみた。
「ほれで、おんし今どこにおるんじゃ?」
先ほどスマホから聞こえていた女性の声には、大いに聞き覚えがある。そして、鳴いていた犬の名前にも。
自分の記憶に間違いなければ、彼女が犬の散歩に行く場所はこのマンションに近い遊歩道付きの公園だった。
それが正解なら、駅に向かっていると言った桂が嘘をついたことになる。
『……あ、の』
声の微妙なトーンダウンは、言葉よりも正確に動揺と躊躇いを伝えてきた。
やはり、駅に向かっているといったのは嘘なのだろう。
だが、なぜそんな嘘を吐く必要があると考えると同時に、ごく単純な答えが思い浮かんだ。
きっと自分が思っている事と同じ理由だろう。
いつもより早起きしてしまった理由は、ただ一つ。
早く恋人に逢いたい。
それだけの事だから、桂の嘘を責める様な真似はすまいと話の接ぎ穂を奪った。
「さっき、駅を出たってゆうてたな。はや、うちのマンションの近くまで来ちょるのか?」
駅に向かったでは無く、着いたのだと都合よく聞き間違いした事にしてしまえば何の問題も無い。
寧ろ着いているという事の方が真実なのだから、それでいいだろう。
何よりも、一分一秒でも早く逢いたい。それが一番大事なのだと、坂本は口元に笑みを浮かべて桂の返事を待った。
『はい、今公園にいます。時間を、余り早くからお邪魔してはって…… その、時間を潰していました』
いつものしっかりした話し方では無いことから、内心の葛藤が窺えた。
自分がついた嘘を、告白すべきだと悩んでいるのが分かる。
時間を潰していたという言葉から、予想が当たっていたのも知れた。
坂本は、ますます口元を緩める。早く桂を抱き締めたくて、気持ちのままに言葉を発した。
「ほうか、公園におるがか。なら、コーヒーを淹れるかの。冷めないうちに、早く来やー」
『はい、先生。すぐ行きます!』
声が元気を取り戻す。自分の中で、嘘を吐いた事に対する落とし所と、坂本の気遣いに気付いたのだろう。
「うん、待っちょるよ」
返事をして通話を終了させると、パジャマを着替えるよりも先にキッチンに向かいコーヒーを淹れる準備を始めた。
コーヒーは豆から挽いてフィルターに入れる。
水を注いで、コーヒーメーカーのスイッチをオンにした。
後はコーヒーが抽出されるのを待つばかり。
良い香りが部屋に満ちる頃には桂がやって来るだろうと、パジャマを着替えに部屋へ戻った。
***
玄関チャイムの音がして、扉を開けばそこには息を切らせた桂の笑顔。
迎える坂本も同じ笑顔で、部屋へと招き入れる。
「おはようございます」と、挨拶を告げる言葉を待つのももどかしく「おはようさん」と挨拶を返した時には、互いに抱き締めあっていた。
コーヒーの美味しそうな香りに包まれて交わしたキスの後は、逢いたかったと甘く囁き合う。
休日以外で朝から互いの体温を感じる幸せに、二人は額を合わせて微笑み合った。
「せんせい、これ。一緒に食べて下さい」
桂が差し出したコンビニの袋を、坂本が受け取る。
「おん。サラダと……ケーキ?」
「はい、お祝いのケーキです。半分こで良いですか?」
子供ぽかっただろうかと少し不安そうに見上げて来る桂の表情に、坂本はくらくらした。
可愛過ぎて抱き締めずにいられない。今日が平日であることが恨めしいと、頭の中で理性と本能が戦いを繰り広げる。
「せんせっ?」
「おん、なんちゃーない。半分こじゃな。お皿を用意するぜよ」
カザカサと袋から中身を取り出すと、一緒にはらりとレシートが落ちた。
レシートの事をすっかり忘れていた桂が「アッ」と、声を上げる。
「こっちも、半分こじゃよ」
本来なら学生の桂に金銭的な負担は与えたくない。が、全額返してしまってはせっかくの気持ちを台無しにしてしまう気がした。
桂が嬉しそうな顔で頷いたので、この判断は正しかったと坂本は支払いの為レシートに視線を落とす。
「うん?」
「電卓が要りますか?」
坂本が眉間に皴を寄せ、唸ったので桂は思わずスマホの電卓機能を立ち上げようとした。
「こりゃ! 数学教師舐めんな」
「ですね」
額を小突かれて、桂がてへっと舌を出す。
「ほがな可愛え顔する子は、こうぜよ!」
「えっ?」
いきなり抱き上げられて、桂は驚き坂本の肩にしがみ付く。
「ちょ、せんせい?!」
キッチンから出て向かうのは寝室だった。
登校時間までまだ余裕はあるとはいえ、朝からソッチでお祝いするとは思わなかったと桂は赤面する。
こんな事なら朝の時間をシャワーに使えばよかったと後悔が頭を掠めたが、それを打ち消すように動悸が速まった。
ふわりとベッドに下されて、上に覆い被さって来る坂本の瞳を見上げてドキドキは最高潮になる。
「小太郎」
優しく名を呼ばれ、前髪を撫でつけられた。その瞳は穏やかで、雄の欲の火は点っていない。
「……はい」
どうした事だろうと首を傾げて返事をすると、目前にレシートが突き付けられる。
「三十分ばあ仮眠やりや」
レシートに打刻されていた時間を見て、坂本が下したのは二人の時間よりも桂の睡眠だった。
「こがな時間に買い物してたという事は、ほとんど寝ちょらんじゃろう。休日なら構わないけんど、今日は授業に差し障る。わしの授業はともかく、他の先生方の授業で居眠りさせる訳にゃいかん」
口調は断固としているが、話す表情は困った様な曖昧なもので坂本の心の葛藤が垣間見える。
恋人として早く逢いたいと思ってくれた心が嬉しい、けれど教師として生徒の居眠りの原因を作る訳にはいかないと。
「俺は、居眠りなんてしません! 今までだって、試験勉強で睡眠時間を削った事ぐらいあります。それでも、居眠りはしませんでした。だから、大丈夫です!」
坂本は憤る桂の頬を撫で、額に口づけを落とす。
「小太郎、眠りや。放課後の時間は全部、おんしに使うき」
懇願するような眼差しで見詰められると、桂は反抗が出来なくなった。
「……放課後全部、本当に?」
「うん、全部空けちゃる」
頬から離れた手が、優しく頭を撫でる。
「三十分で起こしてください」
桂は、それだけ言うと納得して目を閉じた。
坂本は返事の代わりに、シーツの上に置かれた桂の手を握る。
握り返して来た手から力が抜け、安らかな寝息に変わるまで待った。
「こたろう?」
呼び掛けても反応が無いのを確かめてから、そっと手を引き抜く。
コーヒーを淹れ直し、桂が買って来てくれたサラダとケーキを食卓に準備しておこうと立ち上がった。
「三十分後にのっ」
小さな声で囁いて、眠る桂の額にかかる前髪を指先で整える。
足音を忍ばせ寝室からでようとしたが、扉をくぐる前に踵を返し逆戻りした。
シーツに手を付き、上半身を乗り出して桂の上に覆い被さる。
「まだ、ゆうてなかったのぉ」
起こさぬように、気を付けて顔を近づけた。
「こた、真ん中バースデーおめでとさんぜよ。起きたら、こちやとお祝いするきにの」
軽く掠める様なキスをして、今度こそゆっくりと部屋を後にした。
二人がコーヒーの香りに包まれて「おめでとう」と、言葉と愛を交わすまであと少し。
了 2019.3.13(真ん中バースデーに大遅刻!)
その上、駅に向かっているなどと嘘までついて……
だから罰が当たって、スッ転んでしまったのだ。
足元の何かに躓いたのは、単に電話に気が向いていたのに他ならない。
なのに罪悪感がそう思わせた。
手から落としてしまったスマホから、坂本の心配そうな声が聞こえる。
大丈夫だと答えなければと、スマホに手を伸ばしたがそこに小さな白い影が割り込んだ。
「ワン!ワン!」
「え、」
元気の良い鳴き声、真っ白でフサフサの毛並み、見上げて来る黒い瞳は真ん丸で愛くるしい。
まさに抱きしめられる為に生まれてきた様な存在。
桂が躓いたのは、チワワが纏い付いて来たせいだった。
パタパタと尻尾を振って、桂の詰襟の匂いをフンフン嗅いでいる。
初対面のはずなのに異様に懐かれている気がしたが、こんな可愛い犬が相手では不審感より嬉しさが勝った。
チワワの足下にあるスマホを取るには、その小さな体を持ち上げなければいけない。
これは合法的に抱っこ出来るという事だと、チワワに手を伸ばした。
「ああ、すみません!コタちゃん、メッですよ!」
目の前にいるチワワより一回り小さいチワワを連れた和服姿の女性が、桂に纏い付いているチワワを抱き上げる。
「ああっ!」
『小太郎? こたッ!?』
「ワン! ワン!」
チワワを抱く機会を失って思わず声を漏らす桂と、スマホから響く坂本の声、坂本の声に反応して鳴くチワワ。
三つの声が合わさった後の隙間を縫う様に、女性の声が詫びを告げる。
「本当に、申し訳ありません。うちの犬が急に走り出して、ご迷惑をお掛けしました。お怪我はありませんか?」
「いえ、大丈夫です。俺の方も、電話に気を取られていたので。お犬殿は、大丈夫ですか?」
中腰のまま答える桂のお犬殿という変わった呼び方に、女性は僅かに口角を上げるだけで笑いを堪えた。
「はい、大丈夫です。コタちゃんも、ごめんなさいしなさい」
「くぅーん」
抱き止められていた腕から地上に下されたチワワは、桂の足元に鼻面を擦り付けて詫びる様に鳴く。
「お犬殿、驚かせて悪かった」
そっと手を伸ばして、小さな頭を撫でる。そのふわりとした感触に、桂の表情が緩む。
チワワは相変わらず桂の詰襟の匂いを嗅いでいたが、再び飼い主に抱き上げられて大人しくなった。
「では、失礼します」
「あ、はいっ」
優雅に一礼して散歩に戻った女性を見送ってから、放り出したままのスマホに気を戻す。
『小太郎、小太郎?』
拾い上げる前から耳に届く大きな声。心配させてしまったと、土汚れも払わずスマホを耳に押し付けた。
***
『すみません! ちょっと躓いて転んでしまっただけです。心配いりません』
早口で一気にそう言い切られて、坂本はホッと息を吐く。
「転んだ? 怪我しちょらんか?」
『はい! 大丈夫です、どこも怪我してません』
確認に元気な声が返されたので、改めて気になっていた事を聞いてみた。
「ほれで、おんし今どこにおるんじゃ?」
先ほどスマホから聞こえていた女性の声には、大いに聞き覚えがある。そして、鳴いていた犬の名前にも。
自分の記憶に間違いなければ、彼女が犬の散歩に行く場所はこのマンションに近い遊歩道付きの公園だった。
それが正解なら、駅に向かっていると言った桂が嘘をついたことになる。
『……あ、の』
声の微妙なトーンダウンは、言葉よりも正確に動揺と躊躇いを伝えてきた。
やはり、駅に向かっているといったのは嘘なのだろう。
だが、なぜそんな嘘を吐く必要があると考えると同時に、ごく単純な答えが思い浮かんだ。
きっと自分が思っている事と同じ理由だろう。
いつもより早起きしてしまった理由は、ただ一つ。
早く恋人に逢いたい。
それだけの事だから、桂の嘘を責める様な真似はすまいと話の接ぎ穂を奪った。
「さっき、駅を出たってゆうてたな。はや、うちのマンションの近くまで来ちょるのか?」
駅に向かったでは無く、着いたのだと都合よく聞き間違いした事にしてしまえば何の問題も無い。
寧ろ着いているという事の方が真実なのだから、それでいいだろう。
何よりも、一分一秒でも早く逢いたい。それが一番大事なのだと、坂本は口元に笑みを浮かべて桂の返事を待った。
『はい、今公園にいます。時間を、余り早くからお邪魔してはって…… その、時間を潰していました』
いつものしっかりした話し方では無いことから、内心の葛藤が窺えた。
自分がついた嘘を、告白すべきだと悩んでいるのが分かる。
時間を潰していたという言葉から、予想が当たっていたのも知れた。
坂本は、ますます口元を緩める。早く桂を抱き締めたくて、気持ちのままに言葉を発した。
「ほうか、公園におるがか。なら、コーヒーを淹れるかの。冷めないうちに、早く来やー」
『はい、先生。すぐ行きます!』
声が元気を取り戻す。自分の中で、嘘を吐いた事に対する落とし所と、坂本の気遣いに気付いたのだろう。
「うん、待っちょるよ」
返事をして通話を終了させると、パジャマを着替えるよりも先にキッチンに向かいコーヒーを淹れる準備を始めた。
コーヒーは豆から挽いてフィルターに入れる。
水を注いで、コーヒーメーカーのスイッチをオンにした。
後はコーヒーが抽出されるのを待つばかり。
良い香りが部屋に満ちる頃には桂がやって来るだろうと、パジャマを着替えに部屋へ戻った。
***
玄関チャイムの音がして、扉を開けばそこには息を切らせた桂の笑顔。
迎える坂本も同じ笑顔で、部屋へと招き入れる。
「おはようございます」と、挨拶を告げる言葉を待つのももどかしく「おはようさん」と挨拶を返した時には、互いに抱き締めあっていた。
コーヒーの美味しそうな香りに包まれて交わしたキスの後は、逢いたかったと甘く囁き合う。
休日以外で朝から互いの体温を感じる幸せに、二人は額を合わせて微笑み合った。
「せんせい、これ。一緒に食べて下さい」
桂が差し出したコンビニの袋を、坂本が受け取る。
「おん。サラダと……ケーキ?」
「はい、お祝いのケーキです。半分こで良いですか?」
子供ぽかっただろうかと少し不安そうに見上げて来る桂の表情に、坂本はくらくらした。
可愛過ぎて抱き締めずにいられない。今日が平日であることが恨めしいと、頭の中で理性と本能が戦いを繰り広げる。
「せんせっ?」
「おん、なんちゃーない。半分こじゃな。お皿を用意するぜよ」
カザカサと袋から中身を取り出すと、一緒にはらりとレシートが落ちた。
レシートの事をすっかり忘れていた桂が「アッ」と、声を上げる。
「こっちも、半分こじゃよ」
本来なら学生の桂に金銭的な負担は与えたくない。が、全額返してしまってはせっかくの気持ちを台無しにしてしまう気がした。
桂が嬉しそうな顔で頷いたので、この判断は正しかったと坂本は支払いの為レシートに視線を落とす。
「うん?」
「電卓が要りますか?」
坂本が眉間に皴を寄せ、唸ったので桂は思わずスマホの電卓機能を立ち上げようとした。
「こりゃ! 数学教師舐めんな」
「ですね」
額を小突かれて、桂がてへっと舌を出す。
「ほがな可愛え顔する子は、こうぜよ!」
「えっ?」
いきなり抱き上げられて、桂は驚き坂本の肩にしがみ付く。
「ちょ、せんせい?!」
キッチンから出て向かうのは寝室だった。
登校時間までまだ余裕はあるとはいえ、朝からソッチでお祝いするとは思わなかったと桂は赤面する。
こんな事なら朝の時間をシャワーに使えばよかったと後悔が頭を掠めたが、それを打ち消すように動悸が速まった。
ふわりとベッドに下されて、上に覆い被さって来る坂本の瞳を見上げてドキドキは最高潮になる。
「小太郎」
優しく名を呼ばれ、前髪を撫でつけられた。その瞳は穏やかで、雄の欲の火は点っていない。
「……はい」
どうした事だろうと首を傾げて返事をすると、目前にレシートが突き付けられる。
「三十分ばあ仮眠やりや」
レシートに打刻されていた時間を見て、坂本が下したのは二人の時間よりも桂の睡眠だった。
「こがな時間に買い物してたという事は、ほとんど寝ちょらんじゃろう。休日なら構わないけんど、今日は授業に差し障る。わしの授業はともかく、他の先生方の授業で居眠りさせる訳にゃいかん」
口調は断固としているが、話す表情は困った様な曖昧なもので坂本の心の葛藤が垣間見える。
恋人として早く逢いたいと思ってくれた心が嬉しい、けれど教師として生徒の居眠りの原因を作る訳にはいかないと。
「俺は、居眠りなんてしません! 今までだって、試験勉強で睡眠時間を削った事ぐらいあります。それでも、居眠りはしませんでした。だから、大丈夫です!」
坂本は憤る桂の頬を撫で、額に口づけを落とす。
「小太郎、眠りや。放課後の時間は全部、おんしに使うき」
懇願するような眼差しで見詰められると、桂は反抗が出来なくなった。
「……放課後全部、本当に?」
「うん、全部空けちゃる」
頬から離れた手が、優しく頭を撫でる。
「三十分で起こしてください」
桂は、それだけ言うと納得して目を閉じた。
坂本は返事の代わりに、シーツの上に置かれた桂の手を握る。
握り返して来た手から力が抜け、安らかな寝息に変わるまで待った。
「こたろう?」
呼び掛けても反応が無いのを確かめてから、そっと手を引き抜く。
コーヒーを淹れ直し、桂が買って来てくれたサラダとケーキを食卓に準備しておこうと立ち上がった。
「三十分後にのっ」
小さな声で囁いて、眠る桂の額にかかる前髪を指先で整える。
足音を忍ばせ寝室からでようとしたが、扉をくぐる前に踵を返し逆戻りした。
シーツに手を付き、上半身を乗り出して桂の上に覆い被さる。
「まだ、ゆうてなかったのぉ」
起こさぬように、気を付けて顔を近づけた。
「こた、真ん中バースデーおめでとさんぜよ。起きたら、こちやとお祝いするきにの」
軽く掠める様なキスをして、今度こそゆっくりと部屋を後にした。
二人がコーヒーの香りに包まれて「おめでとう」と、言葉と愛を交わすまであと少し。
了 2019.3.13(真ん中バースデーに大遅刻!)
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