コーヒーの香りに包まれて (3Z辰桂)

三月五日、夕暮れ時。
数学教師・坂本辰馬は、上機嫌で車から降りた。
マンションの駐車場を横切る足取りも軽く、つい鼻歌が漏れる。
顔面がにやけるのは、頭の中で放課後の逢瀬をリピートしていたから。

「……せんせっ」
キスの後の熱い吐息と、甘える声音。
長い黒髪に縁どられた白い肌は上気して、潤んだ瞳を更に艶めいてみせる。
「小太郎」
その誘惑に抗えず、もう一度と引き寄せて唇を重ねた。
放課後の数学準備室。短い逢瀬の相手は男子生徒・三年Z組の桂小太郎。
担任でこそないが教え子で同性の恋人、それ故に秘密の恋だった。
だからこそ、余計に甘やかしたい衝動に駆られる。
けれど、桂は真面目な性格で甘えるのが下手だった。
「絶対、早起きしてください」

そんな桂が珍しくお願いをして来た理由がまた可愛いもので、坂本を上機嫌にさせている。
地下駐車場からマンションのロビーへと上がるエレベーターを待つ間、またしても口元が緩んだ。

「真ん中バースデー?」
「はい、クラスの女子が話していたんです」
桂はスマホを翳して、坂本に画面を見せる。
そこには二人の誕生日が表示され、その下に明日三月六日の日付が示されていた。
「だから、先生と一緒に祝いたいんです」
ギュッと坂本のセーターの袖を握りしめ、上目遣いで見上げる。
ほんの少し首を傾げて返事を待つ姿に、坂本は一も二も無く頷いた。
「けんど、平日やきそう長くは」
「朝が、あります!昼休みだって!放課後もです!」
瞳をキラキラ輝かせ少しでも一緒にいたいのだと抱き付いて来る桂を、引き寄せ抱きしめる。
「おん! 明日は、出来るばあ時間を作るぜよ」
そして、約束のキス。

エレベーターの到着音で、坂本の回想は中断された。
と、同時に冷蔵庫の中身が空っぽなのを思い出す。
「ほうじゃ! 小太郎が来るなら、蕎麦をこうておいてやろう」
もう一度、車を出そうかと思ったが夕方のこの時間帯は道路が混んでいる。
近くのスーパーに歩いて行く方が早いと、ロビーから上の階に行くエレベーターには乗り換えずエントランスに向かった。
「こんばんは」
「おんっ、こんばんは」
玄関口を隔てる硝子のドアの所で、同じ階の住人と出くわし挨拶を交わす。
そのまま行き過ぎても良かったのだが、足元に纏い付いた白い毛玉に視線を落とした。
小さな二匹のチワワを撫でる為に、膝を着く。
「サラ、コタ。お散歩帰りじゃろうか?」
坂本の大きな手が小さな頭を撫でると、二匹は嬉しそうに尻尾を振った。
坂本も満面の笑顔で、また優しく撫でる。ほんの少しだけ大きいコタの方に、余分の愛情を注いだ。
その名前のせいで、つい贔屓してしまうのだが飼い主には内緒の話。
「夕食前に、軽くなんですけど」
飼い主の婦人は、坂本の様な大きな男が小さな犬を可愛がるのを嬉しそうに眺めながら答える。
朝の散歩は毎日欠かさないが、夜は日によって一回だったり二回だったりとまちまだと。
「ほうか、お散歩こちやと行けて嬉しいのぉ」
前足に軽く触れると黒くて真ん丸な濡れた瞳に見詰め返されて、同じ名前の恋人の好物を思い出した。
蕎麦と、他に数種の食材を買わなければと立ち上がる。
坂本は婦人と二匹のチワワに手を振って、マンションを後にした。

***

三月六日・早朝。
いや。早朝というにはまた薄暗い時刻に、桂は公園のブランコに座っていた。
コンビニ袋の持ち手の輪を片腕に通し、薄いスプリングコートを纏った身を自分自身で抱き締める。
コートの下は詰襟の制服なのだが、それだけでは冷たい空気を防いでくれなかった。
足元に転がした学生鞄を眺めながら、白い息を吐く。
「いくら一緒にいたいからと言っても、こんな早い時間では……」
言葉の先は心乱れて続かない。
早すぎる連絡は迷惑だろうか? 常識が無いと、引かれるのではないかと不安になった。
ゆっくり逢えるのも話せるのも週末だけ。
だから平日共に過ごせる時間は貴重で、嬉しかったと言えば許されるだろうか?
もしかしたら真ん中バースデーに浮き立っているのは自分だけではないだろうかと思うと、ラインもメールも出来なくなった。
「モーニングコールって、何時からなら良いのだろう?」
コートのポケットに手を入れ、スマホの感触を確かめて呟く。
「やはり、七時ぐらいが妥当か……」
自問自答を繰り返しながら、腕時計で時刻を確かめる。
まだ六時半、あと三十分も時間を潰さなければいけないと分かると余計に寒さを感じた。
一旦家に帰って出直しても、八時前には到着するだろう。けれど出直す気にはなれない。
昨夜からワクワクして殆ど眠れなかったのだ。
どうせ眠れないのならと五時に家を出たのは、少しでも先生の側に近付きたかったから……



朝の街並みはまだ暗く、駅までの道のりの間は肌寒い。
それでも心は恋しい人に逢える喜びで暖かかった。
駅前のコンビニで二人の朝食用のサラダとパンを選び、少し悩んでチーズケーキも買った。
真ん中バースデー祝いだからショートケーキのほうが良いかと思ったが、先生も自分も甘いものは得意ではない。
チーズケーキなら、綺麗に半分に切れる自信もある。
買い物を済ませて、学校へ行くのとは違う反対方向の電車に乗った。
もうすぐ先生に逢える!
そう思うと、電車の振動と高鳴る鼓動が重なってますます目が冴えた。

駅に着いたらモーニングコールをして、先生を起こそう。
お祝いにケーキを買ったと言ったら、先生は驚くだろうか? それとも、笑って食べてくれる?
ああ、その前にキスしてくれるかもしれない。

甘い思いを巡らせて目的の駅で降り、どこで電話しようかと辺りを見回す。
駅前は人影疎らで、せっかく電車内で暖まった身を冷やした。
そのお陰で、浮かれていた頭も冷静さを取り戻す。
電話しようと取り出したスマホに表示されている時間はまだ六時前、こんな時間に電話なんて迷惑行為でしかない。
メールをして、着信音で目覚めさせてしまうのも躊躇われる。
だから連絡をする代わりに、マンション近くの公園で時間を潰そうと思った。



家を出てからのことを振り返っても、まだ十分も経っていない。
「……ゆっくり歩けばよいか」
じっと座っているよりも体を動かした方が寒くないだろうと、鞄を拾って立ち上がる。
スマホ片手に、ブランコの脇を抜け砂場を大回りして園内の遊歩道へと出た。
遊戯広場と違って、こちらはちらほらと人の姿を見かける。
散歩する人やジョギングしている人など、意外とこの時間でも活動している人はいるのだと知ると電話しても良いのではという気分になってきた。
スマホに表示されている時間は六時四十二分。
「電話、いやメールしよう」
歩道に立ち止まり、冷たくなった指先でメールのアイコンをタップする。
「先生、おはようございます。っと」
挨拶だけ打ち込んで、送信してみた。もしも起きていたら、返信があるだろう。
返事が来たら電話をしようと、チラチラ画面を見ながら再び遊歩道を歩きだした。

***

いつもより早い時間に目覚めたのは偶然か、それとも遠足前の子供よろしく楽しみで早く起きてしまう必然か。
坂本はベッドの上で寝返りをうち、サイドテーブルに置いているアイフォンに手を伸ばした。
「おん、まだ7時前やか」
出勤時間には、まだまだ余裕が有る。可愛い恋人が訪ねて来るのも、もう少し後だろう。
生真面目な桂のことだから、所謂常識的な時間に来るのではないかと思った。

『絶対、早起きしてください』

不意に、耳に蘇る甘え声。
「うん、起きゆうよ」
その場に桂がいるかのように返事して、身を起こす。
着替える為、手にしていたアイフォンを置こうとした時にバイブがメールの着信を知らせた。
差出人の名は桂小太郎。件名も本文も同じものなのは、寝起きだからだろうか?
だとすると、こちらに着くのは八時ごろ?
それでは、あまりゆっくり出来ないのではないかと少し気落ちした。
「迎えに行った方がえいかぇ」
その方が数分でも長く一緒にいられると思い付く。
そうと決めたら、メールでやり取りするより直接電話で話す方が早い。
何より寝起きの可愛い声を聴けるのだから断然メールよりも電話だと、画面をタッチするよりも直接声でアイフォンに電話するように声をかけた。
アイフォンは、坂本の要求通り桂の番号にコールする。
『はい!桂です!』
たったワンコールで、返事が返ってきた。
坂本は驚き、慌ててアイフォンに手を伸ばす。
「小太郎、おはようさん」
『先生、おはようございます』
互いの声が浮かれているのが、互いに解る。
それが、どちらも嬉しい。
早く逢いたいと思う気持ちが、伝わってくるようだった。
坂本がよく眠れたかと問えば、桂は朝からの訪問が楽しみで余り眠れなかったと正直に答える。
僅かな時間を楽しみにし嬉しそうに話す声が愛しくて、坂本の声はますます甘さを帯びた。
「ほれなら、車で迎えに行こうか?」
『えっ……』
「今起きたばかりだから、すぐは出れないが」
『いいえっ!先生、大丈夫です!』
迎えを喜んでくれると思ったが、返ってきたのは拒否の言葉だった。
「遠慮せんで」
『いえ!もう、駅に向かう?わぁっ!』
「小太郎?どがぁした?!」



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