ななだる旅情

登って来た道を、逆順で戻ってゆく。
来た時よりもゆったりと、滝以外の川の流れや道沿いにある茶屋などを覗いて楽しんだ。
桂が撮り逃した出合滝も無事に撮り終え、残るは大滝観光だけとなる。
「ちょびっと暗くなってきたのぉ。大滝は明日の朝に見るか? どがぁする?」
【そろそろ、温泉に浸かりたいです】
「朝の散歩がてら見に行くのも悪く無いな」
三人の意見が一致して、大滝観光は翌日の朝へと予定変更になる。
宿に向かう坂道を歩いている内に、夕空は夜空へと緩やかに変化してゆく。
アマギ山荘に戻ると、部屋を担当している中居が出迎えてくれた。
「ななたる、楽しんで頂けました?」
おかえりなさいの言葉と一緒に、滝はどうだったかと尋ねられる。
三人は口々に、楽しかった思いを語り中居を笑顔にさせた。
「夕食までまだ時間がありますので、今度は温泉を楽しんで下さいませ」
温泉と聞いて、それぞれ頷き合う。アマギ山荘の案内に、色々書かれていた事を思い出したのだ。
部屋専門の露天風呂や洞窟風呂、確か外湯もあったはずだと。

「外湯に入るかぇ?」
部屋に戻り浴衣に着替えると、坂本がそう提案する。
同じく着替えを終えた桂とエリザベスが同意した。
「そうだな、大滝を見ながらひと風呂とは中々に粋だ」
【外湯は混浴なので、水着着用だそうです】
エリザベスの注意に、坂本と桂が正反対の反応を示した。
「混浴じゃれと! ほりゃ、楽しみぜよ」
「何たる破廉恥なッ! 俺は行かぬぞっ」
【……困りましたね】
プラカードで困惑を伝えるエリザベスに、二人が答える。
「ほにほに。せっかくやき、皆で入りたいぜよ」
「俺の事は気にせず、入ってこい」
【いえ、レンタル水着のサイズがありません】
悩まし気に溜息をつくエリザベスの返事に坂本と桂は目を点にしたが、敢えて突っ込みはしなかった。
結局、三人は洞窟風呂へ行く事に決める。手に手にタオルを持って、ロビーから洞窟風呂の方へと移動した。
風呂の名前通り、入口の見た目からして洞窟ぽい。大きな石を組み合わせ、扉は板張りの格子で造られている。
入口横に小さな看板が立て掛けてあり『子宝の湯』と書かれてあった。
坂本はチラっと桂の腹の辺りを見たが、桂は何も気付かず先に中に入ってしまう。
エリザベスが後に続き、坂本は肩を竦め看板を見なかった事にして扉を閉めた。

洞窟風呂は、中も凝っていてそれらしく薄暗い。
照明は松明を模しているのか橙色の光で、湯煙に反射して独特の雰囲気を醸し出している。
まだ時間が早いのか、それとも客足が大浴場の方に流れているのか分からないが、洞窟風呂内は人影疎らで静かだった。
そんな中で会話する声は、本物の洞窟内のように殷々と響く。
「あのーぉ、小太郎さん。なき、そがぁに離れちょる?」
「気にするな。ただの用心だ」
坂本から距離を取り、答える時も振り向かない。
桂の取り付く島もない態度は、坂本の自業自得。
温泉に入るのに長い髪を束ねてアップした桂の項に、ついいつもの調子で唇を寄せたのが原因だった。
幸い脱衣所には誰も居なくて、目撃したのはエリザベスのみ。
坂本は、拳骨一発貰うだけで済んだ。
しかし、その後はエリザベスの陰に隠れて目も合わさない。
見かけほど怒っている訳ではなく、言葉通り坂本が調子に乗らぬよう用心してのことだった。

【桂さん、お背中流します】
「うむ、頼む」
二人の間の雰囲気を執り成すように、エリザベスは洗い場に誘う。
【坂本さんも、今日は運転お疲れ様でした。次に、お背中流しますね】
エリザベスの感謝の言葉に、桂はそうだったと思い直す。
人より酔いやすい体質なのに、遠距離運転を頑張ってくれたのだと。
滝見物がしたいと願ったのも自分だったのだから、こんな態度ではいけない。
「すまぬ。辰馬の背中は俺が洗う」
「ありがとさんじゃあ!」
桂の機嫌が直ったのだと思った坂本は、大きな声ととびきりのお日様笑顔を二人に向ける。
そして、洗い場にエリザベス、桂、坂本の順で一列に並び背中の流し合いをした。

***

ほかほかと温まり、良い感じの空腹感で洞窟風呂を連れ立って出る。
辺りはすっかり日が落ちて、暗くなっていた。
「凄い音だな」
「おん、腹ペコな胃に響くのぉ」
アマギ山荘近くの大滝の轟々と響いてくる水音に、桂は耳を傾ける。
暗くて全容は見えないと分かっていたが、誘いの言葉を口にした。
「少し寄ってみぬか?」
「ほうじゃの、エリーはどがぁする?」
【お二人でどうぞ。私は明日の朝見るだけで十分です】
エリザベスは二人きりの時間を作ってあげようと気を回して、二人が決める前にさっと身を翻す。
素早い後ろ姿に気遣いを感じ取り、坂本と桂は額を寄せ合い微笑み合った。
「ほれじゃ、行くかぇ?」
坂本が手を差し出すと、桂は無言でそこに手を乗せる。
手を繋ぎ指を絡めて、ゆっくりと大滝の遊歩道へと歩き出した。会話は無く、ただ寄り添い時折空を見上げる。
木々の緑は色濃い闇色をしていたが、その隙間から見える夜空は月光と星の瞬きで光の粒を地上に降り注いでいるようだった。

「あっこが、大滝前の露天風呂じゃの」
「入ってきて良いぞ」
歩いている内に露天風呂への案内看板を見付けた坂本が指差すと、桂は足を止めそっぽをむく。
「こたろ」
坂本は桂の髪を一筋掬い、軽く引っ張った。
髪への悪戯より、甘い声で名を呼ばれた事に振り返る。
「おんしと一緒に、入りたいぜよ。おんしが入らんなら、わしも入らん。おんしと過ごす時間が、なにより大切なんじゃよ」
夜の中で太陽のように暖かな笑みをみせられ、桂は睫毛を伏せ視線を流す。
「またお前は、そのような……」
真っ直ぐに向けられる愛情に、桂は照れて言葉が続かなくなった。うっすら頬を染め俯くけれど、繋いだ手の指先は応える言葉の代わりとばかりに力が籠る。
「まっこと、おんしはかわえぇの」
繋がっていない方の手が、桂の顎を掬い上向かせた。
「だから、そういう所が」
「好き……じゃろ」
甘く密やかに囁いて唇を寄せる。
「まったく……」
桂の答えは、重なった坂本の唇に吸い取られた。
優しく何度も触れ合わせる柔らかな口づけが、しっとりとした夜空の下で交わされる。
たった一日触れなかっただけでも、互いに乾き切っていたかのように執拗に相手を求めた。
桂の手は坂本の背に回され、坂本の腕は桂の腰を抱く。
夜風に体温を奪われると、温もりを求め更に固く互いを抱き締め合った。しかし、一つになっているのが自然で離れる事こそが間違っているような二人も深度を増した口づけによる息切れには適わなかったようで、やっと抱き合っていた身体の間に隙間を作る。
離れた舌先を結ぶ細い銀の糸は、荒い息に千切れてしまった。それは雫となって、桂の顎を濡らす。
坂本は親指の腹で雫を拭い、もう一度二人の唇の距離縮めようとした。
「うん?」
だが、その動きは急に止まる。
桂に触れていた手は、頬から離れ頭上へと移された。
「そこに触れるがは、わしばあの特権やか。はや、いね」
「おい、何を言って?」
軽く握られた拳が、桂の目前で開かれる。
坂本の開いた掌の上には、淡い光を纏った小さな虫がいた。
「蛍じゃ。おんしの頭に髪飾りみたいについちょったが」
そう説明しながら手を小さく上下させると、蛍は掌から離れ飛んで行く。
「何が『わしだけの特権』だ、ばか者が。蛍にそのような、」
呆れるほど馬鹿馬鹿しい坂本の悋気を窘めようとしたが、話を聞いていない坂本の視線の先を追って言葉を途切らせる。
いつの間にか辺り一面の下草に、淡く優しい黄金色の小さな光がいくつも点滅を繰り返していた。
その幻想的な美しさに、桂は(もう、よいか……)とつまらない悋気に対する説教を諦める。
そんな事で時間を潰すより、もっと良い時間を過ごしたい。
「辰馬、行ってみるか?」
自分から坂本の手を握り、滝音のする方角を指し示す。きっと水辺には、もっと沢山の蛍がいると思って。
桂の考えが分かったのだろう、坂本は手を握り返し大きく頷く。
月光が照らす夜道を、寄り添って大滝へと向かった。


大滝は河津七滝中一番高い滝で、落差三十メートル・幅七メートルの伊豆半島最大級の規模を持つ。垂直に立つ玄武岩の頂点から落ちる瀑流は、雄大な迫力を生み出していた。
その大きさは、僅かな月光や星明かりの下でも十分に感じ取れる。
大滝の峻厳さを和らげるように、滝壺の縁の岩場や下草には沢山の蛍がふわふわと飛び交い、あるいは静止し優しい色合いと緩やかな動きで夢幻の世界を創り出していた。
坂本と桂はその景色に感銘を受け、滝の流れの前に立ち尽くす。
落下し轟く水音が鼓膜を刺激した。白く泡立つ滝壺や、滝が発する清浄な空気、風が運ぶ水飛沫が肌を濡らし身体中で滝の存在を感じる。
胸に迫る圧を、蛍の柔らかな光が中和し癒しをもたらす。これが自然の調和というものかも知れない。

「見事だな……」
「しょうまっこと……」
言い表す言葉が見付からず、互いに繋いだ手に力を込めて共感を伝え合う。
こうして感動や思いを分け合える事や、傍にいる存在感が嬉しくて幸せを感じた。
二人の口元に、自然と笑みが浮かぶ。
「エリザベスに」「エリーに」
発した言葉は、同時。きっと、感動を伝えたいと思ったのも同じだろう。
「いぬるか?」
「ああ、戻ろう」
満足そうに頷き合い、手を繋いだまま遊歩道から山荘へと帰った。


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