All I do is Dream of You
音楽の素養は無いが、桂が苦しそうに弾いているのは分かった。
以前、演奏して貰ったOver the Rainbow の時とは、弾き方も表情も全く違う。
それでも、初めて使う楽器でちゃんと演奏は出来ていた。
自分の記憶にあるメロディ通り、淀む事も無く弾いていたと思う。
細かな音程とかは分からないが、高校生が趣味で弾いた演奏としては十分だと思った。
だから、拍手してやりたい。
しかし顔を上げない桂の気持ちを考えると、軽率に拍手して良いものか迷った。
「……桂く」
坂本が声を掛けるタイミングで、扉の方から間延びした拍手が響く。
その音に驚いた、坂本と桂の視線が集まる。
「演奏は終わったでござるか? 終わったなら、片付けたいのでござるが」
現れたのは、軽音部員の万斉だった。
トレードマークのヘッドホンだけでなく、屋上だからかサングラスまでかけている。
「すまんちや。わしが持って下りるきに」
軽音部室から持ち出す時に手伝って貰ったので、戻すのは桂に手伝って貰うつもりでいた。
そう説明する前に、万斉は二人の前へ近付いてくる。
「……桂先輩で、ござったか」
「誰だ、お前? 」
無遠慮に眺められるのに不快感を覚えた桂は、一時落ち込みを忘れて万斉を見返す。
「小学生の頃、同じピアノ教室にいた、河上万斉でござるよ」
「河上? 小学生の?」
首を傾げる桂の横まで移動して、説明を続ける。
「一学年下の…… といっても拙者は三ヶ月しか通わなかったので、覚えてなくとも仕方無いでござるな」
「三ヶ月?」
ピアノ教室は結構な人数がいたし、ほぼ個人レッスンだった。交流があったのは、待ち時間か発表会の時ぐらい。たった三ヶ月程度なら、覚えている方が不思議だ。ましてや、小学生から高校生では姿や声も変わっている。
「悪いが、記憶にない」
桂は、素っ気なく答えた。
覚えていたら、ますますこんな曲を奏でた後には会いたくはない。今の姿を見られるのも嫌だ。
「それは、残念でござる。拙者は、覚えていたのに」
万斉は鍵盤に指を乗せ、和音を奏でる。
桂は一歩引いて、万斉から距離を置いた。
「先輩に褒めて貰おうと、色々弾けるよう頑張ってきたでござるよ」
音を調整しているのだろう。シンセサイザーのスイッチを上下に移動させ手は、確認の音を出す。それは次第に電気的な音を強めていった。
万斉は笑みを浮かべて、桂を一瞥する。
「こんな風に、弾けるようになったでござるよ」
視線を鍵盤に戻すと、言葉通り弾き始めた。
それは、先程まで桂が弾いていたFly Me to the Moonをジャズ風にアレンジしたもの。
スイングを効かせ、耳に心地よく響く。アップテンポになっても無理なく聴かせた。
自分が弾いていたのと同じ曲とは思えないくらい、アレンジされライトで洒落ている。
だが実力の差を見せ付けられる演奏は、いきなり途中で打ち切られた。
「耳コピじゃ、これが限界でござるな」
呟かれた言葉に、桂はショックを受ける。
それは屋上での下手な演奏を聴かれていた事と、一度聴いただけでここまで弾きこなせてしまったという意味で、自尊心をズタズタにされてしまった。
そして弾き比べられたことによって、ピアノの演奏という唯一の繋がりが途切れるかもという恐怖に支配される。
桂は恐る恐る、斜め向かいに立つ坂本の方へ視線を向けた。
彼はきっと万斉の方を見ているだろうと思っていたが、向けた視線はばっちりと合う。
そして、視線が合うや否や優しく微笑んだ。
「演奏を、ありがとさんぜよ」
万斉とのやり取りなど気にする様子も無く、桂の方へと近付いて来る。
桂はどう応えていいのか迷い、再び視線を伏せた。
返事も無く俯かれてしまった事に、坂本も言葉をそれ以上の言葉を失う。
ぎこちなく動きの止まってしまった二人の耳に、万斉の声が届いた。
「ついでに、もう一曲。拙者から、お似合いの曲をプレゼントするでござるよ」
二人の反応も見ず、弾き始める。
その曲調は、明るくポップでリズミカルだった。
足拍子したくなるような溌溂さで、盛り上がり唐突に終わる。
桂は呆気にとられ、坂本は拍手した。
「ロックとは違うようじゃが、軽音部で練習しちゅう曲か?」
「古いミュージカルナンバーでござるよ」
そう答えると、シンセサイザーの片付けを始める。
その間、桂の方にはもう目もくれなかった。
「おん、すまん。手伝うぜよ」
坂本がスタンドアンプを二本まとめて持ち上げたのを見て、桂も折りたたまれたキーボードのスタンドを脇に抱える。
万斉はシンセサイザーの入ったケースを肩に担ぎ、先に屋上の扉を潜った。
軽音部の部室まで、誰も会話も交わす事無く機材を運び込む。
「じゃあ、俺はこれで」
万斉と何か話していた坂本に向かい、桂は会釈して部室を出て行こうとした。
「わしも準備室まで戻るきに、待っとおせ」
「……はい」
本当は先に帰ってしまいたい。けれど、坂本の言葉に足が止まる。
屋上での事から逃げたいのに、心はここに留まる事を望んだ。
***
「教室に鞄を置いたままなので、」
話しかけたい坂本に対して、桂は頑なに俯いたままそう告げた。
旧校舎から、数学準備室までの無言の行進の末の一言。
纏う雰囲気から、桂が早く帰りたいのだと言う事が分かる。
けれど、このまま帰したくないと思った。
「コーヒーを一杯ご馳走したいんけんど、駄目かぇ?」
桂の背中に手を添えて、強引に押す。
「……駄目です」
坂本に視線を合わせないまま、足を踏ん張り抵抗する。
「お菓子もつけるぜよ」
「いえ、結構ですッ!」
背中に加わる圧力に抵抗して、首を後ろに反らした。そうした為に、上から覗き込む坂本と視線が合う。
一旦、目が合ってしまうともう逸らせなくなる。
「桂君『結構』っていうがは、肯定の意味なんぜよ」
にこっと笑って押す力を強め、もう片手で数学準備室の扉を開く。
そうして、桂は中へと連れ込まれた。
数学準備室の窓から見える空は、青から茜色に変わりつつある。
室内には、インスタントコーヒーの良い香りが漂っていた。
いつもの桂なら、この状況を心地良いと感じたが今は違う。
居心地悪そうにしながら、坂本からコーヒーの入った紙コップを受け取った。
「熱いから、気を付けるぜよ」
注意を促す言葉に、無言で頷く。
坂本は自分の分のコーヒーを机に置き、抽斗から袋を取り出した。
「ありゃ、煎餅じゃった」
パイプ椅子に腰を落とし、ソファーに座らされている桂に軽く頭を下げる。
「コーヒーにゃー、合わんかの?」
「いえ、お構いなく……」
左右に首を振り「飲んだら帰ります」と言葉を続けた。
両手で紙コップを包み、静かに息を吹きかけて熱さに気を付けながら口をつける。
飲んでいる間は話さなくていいのが、有難かった。
(飲み終えたら、不出来な演奏を謝ろう)
心の中でそれだけ決めると、熱さに用心しながら少しづつ熱い液体を飲み下していった。
坂本はコーヒーをひと口飲んだだけで、それきり飲むのを止める。
紙コップを静かに机に置いて、うつむき加減にコーヒーを飲む桂を見詰め続けた。
真面目で、頑張り屋で、義理堅い少年。
先生と、ひたむきに慕ってくれる姿は可愛くていじらしい。
それは、生徒が教師に対する憧憬な様なものだろうと分かっていた。
自分自身も、軽音部員同様に少し親しい生徒の範疇に見ているつもりだったのに[V:8943][V:8943]
先程旧校舎で聞いた万斉の言葉が、胸をざわつかせる。
(あれは、わしに似合う曲じゃと……)
気になって、帰り際の部室で聞いた曲名に絶句した。
『タイトルは、All I DO IS DREAM OF YOU でござる。雨に唄えばという映画で検索すれば出てくるでござるよ』
日本語に訳すなら(あなたの夢ばかり)といったところか?
この目の前にいる男子生徒に対して向けている感情が、万斉の目にはそんな風に映ったという意味か。
だとしたら、それは教師として大問題だ。
そんなつもりが無いとしても…… いや、本当に?
自分の気持ちを掘り下げるのを止めたのは、本心に気付きたくなかったからでは?
「?」
視線を感じて、桂が顔を上げる。
そこに在ったのは、いつもの笑顔ではなく何かを思い悩むような憂い顔だった。
あんな演奏を聴かせてしまったせいで、色々気遣われているのだろか?
申し訳なさに、桂は身を縮こまらせた。
「すみません…… あんな、演奏を」
目蓋の裏が熱くなる。声が震えるせいで、続ける言葉が出て来ない。
思う様に、演奏できなかった。ただそれだけで、涙腺が緩むなどおかしいのではないか。
小さな子供では無いのにと、唇を噛んだ。
「えい演奏じゃった。一生懸命さが、伝わって来ちゅう」
坂本は椅子から立ち上がり、俯く桂の目線に合わせようと膝を着く。
両手で、桂の頬を包んで顔を上げさせた。
「頑張って弾いてくれて、ありがとう。嬉しかったぜよ」
真っ直ぐな眼差しと、心から言っているのだと分かる声音。
頬に伝わる手の温度が、桂の心を癒した。
その温もりを全身で感じたい。広い胸に飛び込んで抱き締められたい衝動に駆られる。
紙コップを持っていなければ、実行してしまったかもしれない。
強く激しい想いが、胸に湧き上がる。
初めて知る切ない苦しさに、桂の瞳は一層潤みを孕んだ。
「坂本先生っ、俺。もう一度、あの曲を弾いても?」
演奏させて貰えないだろうかと、そうすればまた二人きりの時間が持てる。
一緒にいたい、同じ時間を共有したい。だから、頷いて欲しいと。
そんな想いを秘めた瞳が、坂本を見詰め返した。
若くて熱い一途な情熱に惹き込まれ、視線が外せなくなる。
柔らかな頬に触れていた手は浮かされ、色付いた唇や未完成の細い項へと触れたがった。
桂に答えるのも忘れ、甘い蜜に誘われるように上半身を傾斜させる。
坂本の真意が分からず、桂はただ近付いて来る彼の顔を見詰め続けた。
そこに突現、下校を促す校内放送が流れる。
二人は呪縛が解けたように、背筋を伸ばした。
(あと数秒、放送が遅かったらわしは、この子に……)
(今のは、いったい?)
表情を引き締める坂本と、訳が分からず混乱の表情を見せる桂。
同じ熱量が、違う方向へと冷めてゆく。
場の空気は、平静を取り戻した。
坂本は立ち上がり、桂の頭を軽く撫でる。
「充分ぜよ。はや受験に専念する時期ろう。勉強を、優先しちょき」
早口にならないよう気を付けてそう言うと、頭から手を離しパイプ椅子へと戻った。
教師としての言葉に、嘘は無い。
気落ちした桂の表情に胸は痛んだが、ここで突き放さなければ教師でいられなくなると理性が告げる。
「はい…… そうします」
坂本の答えに、桂は打ちのめされた。受験生に対する、当然の言葉。
彼にとって、自分はただの一生徒で特別な存在では無い。そう思い知らされた。
ふらりと立ち上がり、紙コップを坂本に差し出す。
「コーヒー、ごちそうさまでした。失礼します」
頭を下げたまま、踵を返す。後ろは振り向かなかった。
閉めた扉の向こうから、気を付けて帰るよう声が聞こえたが返事をしたのかは記憶に無い。
一刻も早く帰って、自室の布団に潜り込みたかった。
ここ数ヶ月の夢心地が打ち砕かれようと、眠りの中ならきっとまだ傍にいられる。
そう思い込むことで、胸の痛みを誤魔化すのだった。
数学準備室に残った坂本も、暫くの間立ち上がることが出来ずにいた。
ネットで曲の歌詞を検索し、頭を抱える。
夏も冬も秋も、そして春も
朝も昼も夜も、
一晩中あなたの夢を見ている
甘い恋の歌だった。
そして、歌詞を読んで思い浮かぶのは桂の笑顔。艶やかな髪と、凛とした声。
ピアノを奏でる優美な指先と、甘い香り。
完全に恋に落ちてしまったと、認めるしかない。
同時に、この恋を隠さなければいけない事も自覚した。
了(続け!)
2021.5.6
以前、演奏して貰ったOver the Rainbow の時とは、弾き方も表情も全く違う。
それでも、初めて使う楽器でちゃんと演奏は出来ていた。
自分の記憶にあるメロディ通り、淀む事も無く弾いていたと思う。
細かな音程とかは分からないが、高校生が趣味で弾いた演奏としては十分だと思った。
だから、拍手してやりたい。
しかし顔を上げない桂の気持ちを考えると、軽率に拍手して良いものか迷った。
「……桂く」
坂本が声を掛けるタイミングで、扉の方から間延びした拍手が響く。
その音に驚いた、坂本と桂の視線が集まる。
「演奏は終わったでござるか? 終わったなら、片付けたいのでござるが」
現れたのは、軽音部員の万斉だった。
トレードマークのヘッドホンだけでなく、屋上だからかサングラスまでかけている。
「すまんちや。わしが持って下りるきに」
軽音部室から持ち出す時に手伝って貰ったので、戻すのは桂に手伝って貰うつもりでいた。
そう説明する前に、万斉は二人の前へ近付いてくる。
「……桂先輩で、ござったか」
「誰だ、お前? 」
無遠慮に眺められるのに不快感を覚えた桂は、一時落ち込みを忘れて万斉を見返す。
「小学生の頃、同じピアノ教室にいた、河上万斉でござるよ」
「河上? 小学生の?」
首を傾げる桂の横まで移動して、説明を続ける。
「一学年下の…… といっても拙者は三ヶ月しか通わなかったので、覚えてなくとも仕方無いでござるな」
「三ヶ月?」
ピアノ教室は結構な人数がいたし、ほぼ個人レッスンだった。交流があったのは、待ち時間か発表会の時ぐらい。たった三ヶ月程度なら、覚えている方が不思議だ。ましてや、小学生から高校生では姿や声も変わっている。
「悪いが、記憶にない」
桂は、素っ気なく答えた。
覚えていたら、ますますこんな曲を奏でた後には会いたくはない。今の姿を見られるのも嫌だ。
「それは、残念でござる。拙者は、覚えていたのに」
万斉は鍵盤に指を乗せ、和音を奏でる。
桂は一歩引いて、万斉から距離を置いた。
「先輩に褒めて貰おうと、色々弾けるよう頑張ってきたでござるよ」
音を調整しているのだろう。シンセサイザーのスイッチを上下に移動させ手は、確認の音を出す。それは次第に電気的な音を強めていった。
万斉は笑みを浮かべて、桂を一瞥する。
「こんな風に、弾けるようになったでござるよ」
視線を鍵盤に戻すと、言葉通り弾き始めた。
それは、先程まで桂が弾いていたFly Me to the Moonをジャズ風にアレンジしたもの。
スイングを効かせ、耳に心地よく響く。アップテンポになっても無理なく聴かせた。
自分が弾いていたのと同じ曲とは思えないくらい、アレンジされライトで洒落ている。
だが実力の差を見せ付けられる演奏は、いきなり途中で打ち切られた。
「耳コピじゃ、これが限界でござるな」
呟かれた言葉に、桂はショックを受ける。
それは屋上での下手な演奏を聴かれていた事と、一度聴いただけでここまで弾きこなせてしまったという意味で、自尊心をズタズタにされてしまった。
そして弾き比べられたことによって、ピアノの演奏という唯一の繋がりが途切れるかもという恐怖に支配される。
桂は恐る恐る、斜め向かいに立つ坂本の方へ視線を向けた。
彼はきっと万斉の方を見ているだろうと思っていたが、向けた視線はばっちりと合う。
そして、視線が合うや否や優しく微笑んだ。
「演奏を、ありがとさんぜよ」
万斉とのやり取りなど気にする様子も無く、桂の方へと近付いて来る。
桂はどう応えていいのか迷い、再び視線を伏せた。
返事も無く俯かれてしまった事に、坂本も言葉をそれ以上の言葉を失う。
ぎこちなく動きの止まってしまった二人の耳に、万斉の声が届いた。
「ついでに、もう一曲。拙者から、お似合いの曲をプレゼントするでござるよ」
二人の反応も見ず、弾き始める。
その曲調は、明るくポップでリズミカルだった。
足拍子したくなるような溌溂さで、盛り上がり唐突に終わる。
桂は呆気にとられ、坂本は拍手した。
「ロックとは違うようじゃが、軽音部で練習しちゅう曲か?」
「古いミュージカルナンバーでござるよ」
そう答えると、シンセサイザーの片付けを始める。
その間、桂の方にはもう目もくれなかった。
「おん、すまん。手伝うぜよ」
坂本がスタンドアンプを二本まとめて持ち上げたのを見て、桂も折りたたまれたキーボードのスタンドを脇に抱える。
万斉はシンセサイザーの入ったケースを肩に担ぎ、先に屋上の扉を潜った。
軽音部の部室まで、誰も会話も交わす事無く機材を運び込む。
「じゃあ、俺はこれで」
万斉と何か話していた坂本に向かい、桂は会釈して部室を出て行こうとした。
「わしも準備室まで戻るきに、待っとおせ」
「……はい」
本当は先に帰ってしまいたい。けれど、坂本の言葉に足が止まる。
屋上での事から逃げたいのに、心はここに留まる事を望んだ。
***
「教室に鞄を置いたままなので、」
話しかけたい坂本に対して、桂は頑なに俯いたままそう告げた。
旧校舎から、数学準備室までの無言の行進の末の一言。
纏う雰囲気から、桂が早く帰りたいのだと言う事が分かる。
けれど、このまま帰したくないと思った。
「コーヒーを一杯ご馳走したいんけんど、駄目かぇ?」
桂の背中に手を添えて、強引に押す。
「……駄目です」
坂本に視線を合わせないまま、足を踏ん張り抵抗する。
「お菓子もつけるぜよ」
「いえ、結構ですッ!」
背中に加わる圧力に抵抗して、首を後ろに反らした。そうした為に、上から覗き込む坂本と視線が合う。
一旦、目が合ってしまうともう逸らせなくなる。
「桂君『結構』っていうがは、肯定の意味なんぜよ」
にこっと笑って押す力を強め、もう片手で数学準備室の扉を開く。
そうして、桂は中へと連れ込まれた。
数学準備室の窓から見える空は、青から茜色に変わりつつある。
室内には、インスタントコーヒーの良い香りが漂っていた。
いつもの桂なら、この状況を心地良いと感じたが今は違う。
居心地悪そうにしながら、坂本からコーヒーの入った紙コップを受け取った。
「熱いから、気を付けるぜよ」
注意を促す言葉に、無言で頷く。
坂本は自分の分のコーヒーを机に置き、抽斗から袋を取り出した。
「ありゃ、煎餅じゃった」
パイプ椅子に腰を落とし、ソファーに座らされている桂に軽く頭を下げる。
「コーヒーにゃー、合わんかの?」
「いえ、お構いなく……」
左右に首を振り「飲んだら帰ります」と言葉を続けた。
両手で紙コップを包み、静かに息を吹きかけて熱さに気を付けながら口をつける。
飲んでいる間は話さなくていいのが、有難かった。
(飲み終えたら、不出来な演奏を謝ろう)
心の中でそれだけ決めると、熱さに用心しながら少しづつ熱い液体を飲み下していった。
坂本はコーヒーをひと口飲んだだけで、それきり飲むのを止める。
紙コップを静かに机に置いて、うつむき加減にコーヒーを飲む桂を見詰め続けた。
真面目で、頑張り屋で、義理堅い少年。
先生と、ひたむきに慕ってくれる姿は可愛くていじらしい。
それは、生徒が教師に対する憧憬な様なものだろうと分かっていた。
自分自身も、軽音部員同様に少し親しい生徒の範疇に見ているつもりだったのに[V:8943][V:8943]
先程旧校舎で聞いた万斉の言葉が、胸をざわつかせる。
(あれは、わしに似合う曲じゃと……)
気になって、帰り際の部室で聞いた曲名に絶句した。
『タイトルは、All I DO IS DREAM OF YOU でござる。雨に唄えばという映画で検索すれば出てくるでござるよ』
日本語に訳すなら(あなたの夢ばかり)といったところか?
この目の前にいる男子生徒に対して向けている感情が、万斉の目にはそんな風に映ったという意味か。
だとしたら、それは教師として大問題だ。
そんなつもりが無いとしても…… いや、本当に?
自分の気持ちを掘り下げるのを止めたのは、本心に気付きたくなかったからでは?
「?」
視線を感じて、桂が顔を上げる。
そこに在ったのは、いつもの笑顔ではなく何かを思い悩むような憂い顔だった。
あんな演奏を聴かせてしまったせいで、色々気遣われているのだろか?
申し訳なさに、桂は身を縮こまらせた。
「すみません…… あんな、演奏を」
目蓋の裏が熱くなる。声が震えるせいで、続ける言葉が出て来ない。
思う様に、演奏できなかった。ただそれだけで、涙腺が緩むなどおかしいのではないか。
小さな子供では無いのにと、唇を噛んだ。
「えい演奏じゃった。一生懸命さが、伝わって来ちゅう」
坂本は椅子から立ち上がり、俯く桂の目線に合わせようと膝を着く。
両手で、桂の頬を包んで顔を上げさせた。
「頑張って弾いてくれて、ありがとう。嬉しかったぜよ」
真っ直ぐな眼差しと、心から言っているのだと分かる声音。
頬に伝わる手の温度が、桂の心を癒した。
その温もりを全身で感じたい。広い胸に飛び込んで抱き締められたい衝動に駆られる。
紙コップを持っていなければ、実行してしまったかもしれない。
強く激しい想いが、胸に湧き上がる。
初めて知る切ない苦しさに、桂の瞳は一層潤みを孕んだ。
「坂本先生っ、俺。もう一度、あの曲を弾いても?」
演奏させて貰えないだろうかと、そうすればまた二人きりの時間が持てる。
一緒にいたい、同じ時間を共有したい。だから、頷いて欲しいと。
そんな想いを秘めた瞳が、坂本を見詰め返した。
若くて熱い一途な情熱に惹き込まれ、視線が外せなくなる。
柔らかな頬に触れていた手は浮かされ、色付いた唇や未完成の細い項へと触れたがった。
桂に答えるのも忘れ、甘い蜜に誘われるように上半身を傾斜させる。
坂本の真意が分からず、桂はただ近付いて来る彼の顔を見詰め続けた。
そこに突現、下校を促す校内放送が流れる。
二人は呪縛が解けたように、背筋を伸ばした。
(あと数秒、放送が遅かったらわしは、この子に……)
(今のは、いったい?)
表情を引き締める坂本と、訳が分からず混乱の表情を見せる桂。
同じ熱量が、違う方向へと冷めてゆく。
場の空気は、平静を取り戻した。
坂本は立ち上がり、桂の頭を軽く撫でる。
「充分ぜよ。はや受験に専念する時期ろう。勉強を、優先しちょき」
早口にならないよう気を付けてそう言うと、頭から手を離しパイプ椅子へと戻った。
教師としての言葉に、嘘は無い。
気落ちした桂の表情に胸は痛んだが、ここで突き放さなければ教師でいられなくなると理性が告げる。
「はい…… そうします」
坂本の答えに、桂は打ちのめされた。受験生に対する、当然の言葉。
彼にとって、自分はただの一生徒で特別な存在では無い。そう思い知らされた。
ふらりと立ち上がり、紙コップを坂本に差し出す。
「コーヒー、ごちそうさまでした。失礼します」
頭を下げたまま、踵を返す。後ろは振り向かなかった。
閉めた扉の向こうから、気を付けて帰るよう声が聞こえたが返事をしたのかは記憶に無い。
一刻も早く帰って、自室の布団に潜り込みたかった。
ここ数ヶ月の夢心地が打ち砕かれようと、眠りの中ならきっとまだ傍にいられる。
そう思い込むことで、胸の痛みを誤魔化すのだった。
数学準備室に残った坂本も、暫くの間立ち上がることが出来ずにいた。
ネットで曲の歌詞を検索し、頭を抱える。
夏も冬も秋も、そして春も
朝も昼も夜も、
一晩中あなたの夢を見ている
甘い恋の歌だった。
そして、歌詞を読んで思い浮かぶのは桂の笑顔。艶やかな髪と、凛とした声。
ピアノを奏でる優美な指先と、甘い香り。
完全に恋に落ちてしまったと、認めるしかない。
同時に、この恋を隠さなければいけない事も自覚した。
了(続け!)
2021.5.6
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