All I do is Dream of You
放課後の数学準備室。
数学の質問と託けて、坂本を訪ねてきた桂小太郎は聞かされた予想外の言葉を繰り返す。
「……屋上で? シンセサイザーを……」
文化祭が近く音楽室が使えないだろうとは思っていたが、まさか旧校舎の屋上を提案されるとは思わなかった。
それに、シンセサイザーには触った事も無い。
だからといって、断る気持ちにはなれなかった。
ただ、巧く演奏できるだろうかと言う事が気になって続く言葉が出ない。
「いかんなら、文化祭が終わってからはやいっさん第一音楽室の方で空きが無いか調べてみるぜよ。桂君も、練習するがやき時間があった方がいいやお?」
考え込む様子で立ち尽くす桂の前で坂本は椅子を引き、教務机の抽斗の中から封筒を取り出した。
「楽譜やか。これで、」
「いいえっ!」
坂本の言葉を遮って、封筒を押し戻す。
「必要ありません! それに、屋上で構いません! シンセサイザーを弾いた事はありませんが、多分、いえ、きっと大丈夫です」
「やき、これ、」
「持ってます!」
両手で拳を作り、体を前のめりにして力説する様に声を張る。
「俺、その、実は、調べて聴いてみたら俺の好みの曲だったので、手元に楽譜を置いておきたくなって買いました! それで、練習もして、だから、何時でも弾けます!」
言葉が無茶苦茶だとの自覚はあったが、どうしても演奏の約束を先延ばしにする事は避けたかった。
ずっと楽しみにしていたから、これ以上待てそうにない。
「だから、だから、明日の放課後で構いません!」
とにかく、決めてしまおうと焦りが丸わかりの口調で断言する。
内心では自分でも驚いていた。未知の事に対して、即断即決する性質では無い。
ある程度考えを纏めてから行動するのが自分のやり方なのに、どうした事か目前にいる教師に関する事となると性急になってしまう。
呆れられたと思ったが、ここまで押し切ってしまった以上もう視線が外せない。
桂の予想通り、坂本の表情はポカンと口を開け、目を見開いて固まっている。
この後、溜息を吐かれようものなら立ち直れない。
今すぐ回れ右して、準備室から逃げ出したかった。
「あははは、あはははっ。桂君は、凄いのぉ!」
見詰めていた瞳に、楽しげな笑顔が映る。
そして桂が押し返した封筒に手を突っ込み、中から小さな紙袋を取り出した。
坂本の掌に乗る小さな紙袋には、ピンクのシールリボンが付いている。
「小遣いを使わせてしまってようじゃな、すまんぜよ。演奏の礼つもりで買ったがけんど、詫びとして受け取ってくれんか?」
「……えっ?」
予想外の展開に、すぐさま反応できない。
それを察したのか坂本は桂の手を引き、その上に紙袋を乗せた。
「気に入ってくれると、嬉しいやか。楽譜の方は、音楽資料室に置いておくから学校で見たくなったらいつでも見るとしょうえいよ」
にっこりと微笑まれて、桂は我を取り戻す。
「あ、ありがとうございます」
それだけ答えるのがやっとだった。頭の中は、言われた言葉を理解しようとフル回転している。
凄いとは、つまり褒め言葉だろうと。
気に入った楽譜を買った事か、練習していた事か、それとも弾いた事も無いシンセサイザーでの演奏でも出来ると言った事か? その、どれもだろうか?
何にしても、良い方に肯定してくれたことは確かだろう。それに、小遣いのことまで心配してくれた。
そんな事、全然構わないと伝えるべきだっただろうか?
先に、プレゼントのお礼を口にしてしまったのは失敗だったかも知れない。
いや、でも、嬉しかったのだ。礼でも詫びでも、関係無い。ただ自分の為に選んでくれた事実に、胸が熱くなる。
自分でも気づかぬ内に瞳が潤み、頬は薔薇磯に染まっていた。
「大したもんじゃーないにき」
坂本が片手を左右に振って少し照れた笑顔を見せると、その笑顔につられて桂も笑み返す。
「開けてもいいですか?」
尋ねた言葉に頷き返されて、そっと袋を開き中身を取り出した。
桂の瞳が驚いたように見開かれ、それから「エリザベス」と、小さな呟きを漏らす。
「エリ、ザベス? ほれが、そのキャラクターの名前なんじゃな? 何か分からんかったがやけど、何となく桂君が好きそうじゃと思って買ったぜよ。ほうか、エリザベスか……」
エリザベスという言葉を舌の上で転がすように繰り返す。
「あ、いえ! このキャラクターは知らないのですが……」
桂は握り締めたストラップを坂本の目前に差し出して、当惑気味に言葉を続ける。
「何故か懐かしい気がして、頭に浮かんだ名前を呟いただけなんです」
「懐かしい? 実はわしも、ちょびっと懐かしい気がしてたんじゃが。昔、どこかで見たがかぇ?」
首を捻って考える坂本と桂。しかし、二人の記憶には何も引っかからなかった。
「やはり分かりませんが、大切にします!」
はにかむような笑みを見せ、ストラップを大事そうにポケットに入れる。
それを横目に見つつ、坂本は手にしたままの封筒を抽斗にしまった。
「ほれじゃ、明日の放課後に演奏会でえいか?」
確認の言葉に、桂はハッキリ「はい」と応える。
待ち遠しかった予定が確約になったことで、二人の間に在った空気が落ち着く。
後は天気予報を調べ、大まかな時間を指定して明日の放課後を待つだけだった。
***
(良かった、晴れてきてる)
桂は、第二音楽室がある旧校舎の入り口で空を見上げる。
六限目の授業中、教室の窓から見える空は雲が多く、雨が降るのではないかと不安だった。
授業が終わり次第すぐさま窓に駆け寄りたかったが六限目は担任の授業で、終了するとすぐにHRが始まり流れで掃除の時間になってしまった。
当番では無かったので、一目散に教室から飛び出る。その勢いのまま、旧校舎まで走って来たのだった。
(上手く演奏できるだろうか?)
呼吸を整え、散らかっている階段を上ってゆく。今日の目的地は、音楽室では無く屋上だ。
キーボードを貸し出してくれた軽音部に、ひと言挨拶した方が良いだろうかと思ったが足は音楽室に向かない。
なぜ数学教師と二人だけの演奏会をしているのか、聞かれても答えられないだろうと思った。
そんな事、自分にも良く分からない。ただ、一緒にいたいと心が望むのだ。
この気持ちが何なのか? 突き詰めるのが怖い。今はもう少しだけ、この心地良い時間を過ごしたかった。
結局、足を止める事無く屋上までの階段を上り切る。
校舎と屋上を仕切る鉄製の扉の前で深呼吸し、扉を押し開けた。
暗い階段から、午後の明るい屋上へ。
「おん! 桂君、待っちゅうよ」
眩い青空に良く似合う、笑顔の数学教師が手を振っていた。
坂本のいる屋上の中央、スタンドにセットされたキーボードと、その横にスピーカが置かれている。
準備は整っているようだった。
「坂本先生、お待たせしました!」
桂は坂本の前へと駆け寄る。互いの姿を確認すると、互いが柔らかな笑顔を浮かべた。
目的を忘れ、このまま相手を見詰めていたい。そんな、不思議な思いに捕らわれる。
「あっ!」
優しい沈黙を破ったのは、坂本の大きな叫び声だった。
「すまん! 譜面台を、忘れたぜよ!」
「いいえ、大丈夫です。もう、暗譜してます」
「暗譜し、ちょる?」
驚く坂本の顔を見て、桂は咄嗟に言葉にした事を後悔した。
この日を楽しみに一生懸命練習している内に指が覚えてしまっていたのだが、それを言うと引かれそうな気がする。
重そうな生徒だと思われるのは嫌だった。
「はい。俺、その、暗譜は得意なんです」
(嘘なんて、つきたくないのに……)
「ほうか、桂君は凄いのお」
何の疑いもなく、感心して頷く。
「いえ、そんなこと……」
この人は大人なのに、子供のように純粋だと思った。だから、嘘をついた事が余計にやましくなる。
シンセサイザーのキーボードの方へ移動するのを利用して、桂はそっと視線を伏せた。
桂が移動するのに合わせて、坂本はキーボードの前から横へと動く。隣にいては演奏し難いだろうと足を進めたが、向かい合わせの位置までは行かなかった。
真正面では鍵盤に視線を落とした頭しか見えないが、斜め前なら演奏に打ち込む端正な横顔を眺められる。何より、近い距離でいたかった。
何故そんな風に思ったのか、考えるのは危険だと理性が告げた。気付かぬふりをして、やり過ごさなければと。
坂本が距離とった事を少し淋しく思ったのは一瞬で振り切り、キーボードに視線を集中させる。
昨日休憩時間に仕入れたネット情報を頭に入れ、学校帰りに楽器屋に寄り道して展示品で弾けるか試してきた。店員の目があったので、途切れ途切れに数小節だけだが。
それでなんとか弾けそうだと思ったけれど、昨日見たキーボードとは鍵盤数が違う。しかし、今更弾けませんとは言いたくなかった。
……もし上手く弾けなかったら、もう一度リベンジ演奏の約束が出来るのではないか?
桂は、ふと忍び込んだ考えを強く否定した。
こんな浅ましい考え方は汚い!と。
(先生の好きな曲なのだ。一生懸命、心を込めて弾こう!)
そう、自分に言い聞かせた。
青空の下、二人きりの演奏会の始まりは、桂の声から。
「では、Fly Me to the Moon」
鍵盤を鳴らし、音を確認してからタイトルを告げて弾き始めた。
勝手の違うシンセサイザー。重さの違う鍵盤。響きが違う音。
覚悟してはいたけれど、タッチの重さの違いがだんだん気になってくる。
とても、『Fly』なんて音じゃない。飛びそこなって、落ちそうな不安定さ。
(先生の気分を、月まで連れ行きたいのに…… こんなんじゃ、全然ッ!)
気持ちが焦ると、そのまま演奏の音に出る。桂の気持ちも表情も、暗く沈んだ。
昨日、演奏出来ると言った言葉が、頭の中でグルグル回って惨めな思いが膨れ上がる。
それでも、最後まで弾き切った。
鍵盤から指を浮かせ、そのまま固まる。顔を上げることは出来なかった。
数学の質問と託けて、坂本を訪ねてきた桂小太郎は聞かされた予想外の言葉を繰り返す。
「……屋上で? シンセサイザーを……」
文化祭が近く音楽室が使えないだろうとは思っていたが、まさか旧校舎の屋上を提案されるとは思わなかった。
それに、シンセサイザーには触った事も無い。
だからといって、断る気持ちにはなれなかった。
ただ、巧く演奏できるだろうかと言う事が気になって続く言葉が出ない。
「いかんなら、文化祭が終わってからはやいっさん第一音楽室の方で空きが無いか調べてみるぜよ。桂君も、練習するがやき時間があった方がいいやお?」
考え込む様子で立ち尽くす桂の前で坂本は椅子を引き、教務机の抽斗の中から封筒を取り出した。
「楽譜やか。これで、」
「いいえっ!」
坂本の言葉を遮って、封筒を押し戻す。
「必要ありません! それに、屋上で構いません! シンセサイザーを弾いた事はありませんが、多分、いえ、きっと大丈夫です」
「やき、これ、」
「持ってます!」
両手で拳を作り、体を前のめりにして力説する様に声を張る。
「俺、その、実は、調べて聴いてみたら俺の好みの曲だったので、手元に楽譜を置いておきたくなって買いました! それで、練習もして、だから、何時でも弾けます!」
言葉が無茶苦茶だとの自覚はあったが、どうしても演奏の約束を先延ばしにする事は避けたかった。
ずっと楽しみにしていたから、これ以上待てそうにない。
「だから、だから、明日の放課後で構いません!」
とにかく、決めてしまおうと焦りが丸わかりの口調で断言する。
内心では自分でも驚いていた。未知の事に対して、即断即決する性質では無い。
ある程度考えを纏めてから行動するのが自分のやり方なのに、どうした事か目前にいる教師に関する事となると性急になってしまう。
呆れられたと思ったが、ここまで押し切ってしまった以上もう視線が外せない。
桂の予想通り、坂本の表情はポカンと口を開け、目を見開いて固まっている。
この後、溜息を吐かれようものなら立ち直れない。
今すぐ回れ右して、準備室から逃げ出したかった。
「あははは、あはははっ。桂君は、凄いのぉ!」
見詰めていた瞳に、楽しげな笑顔が映る。
そして桂が押し返した封筒に手を突っ込み、中から小さな紙袋を取り出した。
坂本の掌に乗る小さな紙袋には、ピンクのシールリボンが付いている。
「小遣いを使わせてしまってようじゃな、すまんぜよ。演奏の礼つもりで買ったがけんど、詫びとして受け取ってくれんか?」
「……えっ?」
予想外の展開に、すぐさま反応できない。
それを察したのか坂本は桂の手を引き、その上に紙袋を乗せた。
「気に入ってくれると、嬉しいやか。楽譜の方は、音楽資料室に置いておくから学校で見たくなったらいつでも見るとしょうえいよ」
にっこりと微笑まれて、桂は我を取り戻す。
「あ、ありがとうございます」
それだけ答えるのがやっとだった。頭の中は、言われた言葉を理解しようとフル回転している。
凄いとは、つまり褒め言葉だろうと。
気に入った楽譜を買った事か、練習していた事か、それとも弾いた事も無いシンセサイザーでの演奏でも出来ると言った事か? その、どれもだろうか?
何にしても、良い方に肯定してくれたことは確かだろう。それに、小遣いのことまで心配してくれた。
そんな事、全然構わないと伝えるべきだっただろうか?
先に、プレゼントのお礼を口にしてしまったのは失敗だったかも知れない。
いや、でも、嬉しかったのだ。礼でも詫びでも、関係無い。ただ自分の為に選んでくれた事実に、胸が熱くなる。
自分でも気づかぬ内に瞳が潤み、頬は薔薇磯に染まっていた。
「大したもんじゃーないにき」
坂本が片手を左右に振って少し照れた笑顔を見せると、その笑顔につられて桂も笑み返す。
「開けてもいいですか?」
尋ねた言葉に頷き返されて、そっと袋を開き中身を取り出した。
桂の瞳が驚いたように見開かれ、それから「エリザベス」と、小さな呟きを漏らす。
「エリ、ザベス? ほれが、そのキャラクターの名前なんじゃな? 何か分からんかったがやけど、何となく桂君が好きそうじゃと思って買ったぜよ。ほうか、エリザベスか……」
エリザベスという言葉を舌の上で転がすように繰り返す。
「あ、いえ! このキャラクターは知らないのですが……」
桂は握り締めたストラップを坂本の目前に差し出して、当惑気味に言葉を続ける。
「何故か懐かしい気がして、頭に浮かんだ名前を呟いただけなんです」
「懐かしい? 実はわしも、ちょびっと懐かしい気がしてたんじゃが。昔、どこかで見たがかぇ?」
首を捻って考える坂本と桂。しかし、二人の記憶には何も引っかからなかった。
「やはり分かりませんが、大切にします!」
はにかむような笑みを見せ、ストラップを大事そうにポケットに入れる。
それを横目に見つつ、坂本は手にしたままの封筒を抽斗にしまった。
「ほれじゃ、明日の放課後に演奏会でえいか?」
確認の言葉に、桂はハッキリ「はい」と応える。
待ち遠しかった予定が確約になったことで、二人の間に在った空気が落ち着く。
後は天気予報を調べ、大まかな時間を指定して明日の放課後を待つだけだった。
***
(良かった、晴れてきてる)
桂は、第二音楽室がある旧校舎の入り口で空を見上げる。
六限目の授業中、教室の窓から見える空は雲が多く、雨が降るのではないかと不安だった。
授業が終わり次第すぐさま窓に駆け寄りたかったが六限目は担任の授業で、終了するとすぐにHRが始まり流れで掃除の時間になってしまった。
当番では無かったので、一目散に教室から飛び出る。その勢いのまま、旧校舎まで走って来たのだった。
(上手く演奏できるだろうか?)
呼吸を整え、散らかっている階段を上ってゆく。今日の目的地は、音楽室では無く屋上だ。
キーボードを貸し出してくれた軽音部に、ひと言挨拶した方が良いだろうかと思ったが足は音楽室に向かない。
なぜ数学教師と二人だけの演奏会をしているのか、聞かれても答えられないだろうと思った。
そんな事、自分にも良く分からない。ただ、一緒にいたいと心が望むのだ。
この気持ちが何なのか? 突き詰めるのが怖い。今はもう少しだけ、この心地良い時間を過ごしたかった。
結局、足を止める事無く屋上までの階段を上り切る。
校舎と屋上を仕切る鉄製の扉の前で深呼吸し、扉を押し開けた。
暗い階段から、午後の明るい屋上へ。
「おん! 桂君、待っちゅうよ」
眩い青空に良く似合う、笑顔の数学教師が手を振っていた。
坂本のいる屋上の中央、スタンドにセットされたキーボードと、その横にスピーカが置かれている。
準備は整っているようだった。
「坂本先生、お待たせしました!」
桂は坂本の前へと駆け寄る。互いの姿を確認すると、互いが柔らかな笑顔を浮かべた。
目的を忘れ、このまま相手を見詰めていたい。そんな、不思議な思いに捕らわれる。
「あっ!」
優しい沈黙を破ったのは、坂本の大きな叫び声だった。
「すまん! 譜面台を、忘れたぜよ!」
「いいえ、大丈夫です。もう、暗譜してます」
「暗譜し、ちょる?」
驚く坂本の顔を見て、桂は咄嗟に言葉にした事を後悔した。
この日を楽しみに一生懸命練習している内に指が覚えてしまっていたのだが、それを言うと引かれそうな気がする。
重そうな生徒だと思われるのは嫌だった。
「はい。俺、その、暗譜は得意なんです」
(嘘なんて、つきたくないのに……)
「ほうか、桂君は凄いのお」
何の疑いもなく、感心して頷く。
「いえ、そんなこと……」
この人は大人なのに、子供のように純粋だと思った。だから、嘘をついた事が余計にやましくなる。
シンセサイザーのキーボードの方へ移動するのを利用して、桂はそっと視線を伏せた。
桂が移動するのに合わせて、坂本はキーボードの前から横へと動く。隣にいては演奏し難いだろうと足を進めたが、向かい合わせの位置までは行かなかった。
真正面では鍵盤に視線を落とした頭しか見えないが、斜め前なら演奏に打ち込む端正な横顔を眺められる。何より、近い距離でいたかった。
何故そんな風に思ったのか、考えるのは危険だと理性が告げた。気付かぬふりをして、やり過ごさなければと。
坂本が距離とった事を少し淋しく思ったのは一瞬で振り切り、キーボードに視線を集中させる。
昨日休憩時間に仕入れたネット情報を頭に入れ、学校帰りに楽器屋に寄り道して展示品で弾けるか試してきた。店員の目があったので、途切れ途切れに数小節だけだが。
それでなんとか弾けそうだと思ったけれど、昨日見たキーボードとは鍵盤数が違う。しかし、今更弾けませんとは言いたくなかった。
……もし上手く弾けなかったら、もう一度リベンジ演奏の約束が出来るのではないか?
桂は、ふと忍び込んだ考えを強く否定した。
こんな浅ましい考え方は汚い!と。
(先生の好きな曲なのだ。一生懸命、心を込めて弾こう!)
そう、自分に言い聞かせた。
青空の下、二人きりの演奏会の始まりは、桂の声から。
「では、Fly Me to the Moon」
鍵盤を鳴らし、音を確認してからタイトルを告げて弾き始めた。
勝手の違うシンセサイザー。重さの違う鍵盤。響きが違う音。
覚悟してはいたけれど、タッチの重さの違いがだんだん気になってくる。
とても、『Fly』なんて音じゃない。飛びそこなって、落ちそうな不安定さ。
(先生の気分を、月まで連れ行きたいのに…… こんなんじゃ、全然ッ!)
気持ちが焦ると、そのまま演奏の音に出る。桂の気持ちも表情も、暗く沈んだ。
昨日、演奏出来ると言った言葉が、頭の中でグルグル回って惨めな思いが膨れ上がる。
それでも、最後まで弾き切った。
鍵盤から指を浮かせ、そのまま固まる。顔を上げることは出来なかった。