Fly Me to the Moon
まだ暑さの残る九月初旬。
二学期が始まって十数日だが、高校は日常を取り戻していた。
それでも放課後となると、静けさが戻って来る。それが土曜日の放課後となると、更に静かさが増した。
特に三年生の教室は、居残る生徒が少ない。受験を前に予備校などに通う生徒達は足早に出て行き、部活も無くなった生徒達は友達と話しながらゆっくりした足取りで教室を出て行った。
空になった教室で桂小太郎はやっと席を立ち、腕時計を見てから宙を見つめる。
今日は数学教師の坂本辰馬に、ピアノを聴いて貰う日だった。
それは先週、本を運ぶ手伝いをした時に交わした約束。
数学準備室の窓際で、共に見上げた空に架かっていた虹を思い出し、桂は柔らかな笑みを湛える。
坂本の調子外れな鼻歌のお陰で、土曜日の放課後に『Over The Rainbow』というピアノ曲を弾いて聴かせる事になった。
(数学準備室に行くか? それとも音楽室に直行した方が?)
少し考えてから、音楽室の鍵が要る事に気付く。
(昼休みの間に、先生に相談すれば良かった)
いつもの自分ならちゃんと段取りを整えて臨むのに、どうしてこんな……
桂は考えるのを止めて学生鞄を握ると五階の音楽室ではなく、一階にある職員室横の事務所に向かった。
事務所で音楽室の鍵を借りて、職員室の入り口で先生を捜す。
そこで見付けられなければ、数学準備室を覗いてみてから音楽室に向かう。
今度はちゃんと筋道を付けて、計画を立てられた。その事に満足すると、足取りも軽くなる。
浮き立つ気分に、トクトクと鼓動も踊り出した。
なぜこんな不思議な気持ちになるのか分からないけれど、今は追求するのを止める。
足が、気持ちが、早く、早くと急き立てるのだ。
***
校舎の正面玄関右側に、小窓付きの事務所がある。
そこは主に生徒の父兄や来客の受付用で、教員と生徒は普通のドアの方から入る決まりだった。
事務所の中に置いてある貸出台帳にクラスと名前を書いて、教科教室の鍵を借りる。
それから、次は職員室。逸る思いで、ドアの取手を掴もうとしたその時。先に、ドアが内側から開いた。
「おん、桂くんじゃあ」
目の前には、ピンクのワイシャツと青いネクタイ。訛りのある声は、頭上から降って来た。
「坂本先生?!」
「約束、したじゃろ」
笑顔で桂を見下し、番号札の付いた鍵を目前に翳して見せる。
「第二音楽室のぜよ」
「第二?」
「第一は、合唱部が使う予定になっとったからの」
その言葉に、桂は小さく「あっ」と声を漏らす。またしても、確認ミスをしてしまったと。
先生に呆れられてしまっただろうかと、俯いてしまった。
第二音楽室は、旧校舎の二階にある。校舎から渡り廊下で繋がっている場所だから少し遠い。
それに普段は使われていないので、半ば楽器倉庫のようになっている。
ピアノが置いてある事は知っているが、調律されているのかは分からない。
もし調律されていなければ、自分で音を合わせるなんて無理だ。
趣味で弾く程度の腕前だから期待はされていないだろうと思っていても、調律されていないピアノではもっとがっかりさせてしまう。
折角の約束だが、今日は止めた方が良いのだろうか? そんな思いが、頭の中で渦巻き始めた。
「第二は秘密基地みたいやき、行くのが楽しみやか」
ポンと桂の肩を叩いて、踵を返すよう促す。
「……秘密基地、ですか?」
音楽室とは繋がりの無さそうな言葉に、渦巻いていた思考が止まった。
逆に止まったままの足は、背中を押されて動き出す。
「軽音部の連中がびっしり出入りして、色んな物を持ち込んじゅうにかぁーらんよ」
「どうして、そんな事を?」
どうして数学教師の坂本が、そんな事を知っているのだろうと首を傾げた。
「わしは、軽音部の顧問をしちょるんじゃよ。名ばかりじゃけんどね」
あははっと笑いながら、坂本は部員の事や第二音楽室の状態を話して聞かせる。
その話の中に、桂の知りたかったピアノの状態も入っていた。
ちゃんと調律されていると知れて、心の底からホッとする。
心配事が一つ減ってから、坂本と並んで歩いている事に気がついた。
少し近過ぎではないだろうかという距離に、また鼓動が走り出す。
(ほんと、何なのだ?)
自問している内に、旧校舎に辿り着く。遠いと思っていたが、あっという間の時間だった。
並んで歩く時間が終わってしまうのを、心の底で残念に思う。
どうしてだろうと原因を探っても、答えは見つからない。
それでも、何とか理由をこじつける。先生のお喋りが楽しいからだと。
***
旧校舎はほとんどの教室が使われていないので、人の気配が少なくどこか埃っぽかった。
階段や廊下の隅に段ボール箱や打ち捨てられたスポーツ用具などが放置されていて、壁には意味不明の落書きがある。
少しスラム街じみたように感じるが、坂本は秘密基地と表現していた。
桂は互いの感性の違いに、ひっそりと口角を上げる。
(先生は、子供みたいだ)
「よし、開いたぜ…… 何じゃあ? 何を笑っちょる?」
第二音楽室の鍵を開けた坂本が振り返って、桂に問いかけた。
大きな体で、首だけちょこっと傾げて不思議そうな顔をする。
サングラスがずれて、青みがかった瞳が覗いた。
その瞳を見ると、桂の体温が上昇する。心の奥底から、暖かな気持ちが湧き上がってくるような心地良さ。
「はい、本当に秘密基地みたいだなって」
視線を上ってきた階段に向けると、坂本の笑い声が響いた。
「ほにほに。桂君なら掃除がなっちょらんとゆうと思っとったがばあんど、ほうか、同じように思ってくれて嬉しいやか」
「先生は俺に、どんなイメージを持っているのですか?」
桂は視線を戻し、音楽室の扉前までの距離を詰める。
周りの人と同じ様に、頭の固い委員長体質だと思われているのかが気になって質問を口に上らせた。
「イメージ? ほうじゃのぅ……」
坂本は立ち止まる事は無く、音楽室の扉を横スライドさせて中に入ってゆく。
頭の中で考えをまとめているのか、無言で窓を開け室内の空気を入れ替えてからまた閉めた。
どうしてそんなに時間がかかるのだろうと思いつつ、桂も部屋の中央やや右手にあるピアノの蓋を持ち上げる。
指先で鍵盤に触れて、音を確かめた。聞いた通りちゃんと調律されているようで、ピアノは澄んだ音を響かせる。
鞄を足元に置き丸椅子に腰かけてから、パイプ椅子を引き出している坂本の方を見た。
「よっこいしょ」
掛け声と一緒にパイプ椅子を広げて、桂の斜め後ろに置いて腰掛ける。
坂本の動きを追っていた桂の瞳と目が合うと、優しく目を細めて笑みかけた。
「星かのぉ」
「……星? どういう意味ですか?」
不意打ちの言葉に、桂は面食らう。
イメージに対しての返事なのだろうけれど、その言葉が何を指してなのか分からなかった。
けれど、坂本は笑顔のままで「星は、星ぜよ」としか答えない。
そのあとパンと音を立て、両手で膝を叩くと背を伸ばした。
「ほれ、演奏会を始めるぜよ」
ワクワクと楽しげな表情をされて、桂はそれ以上問い返せなくなる。
鞄から楽譜を取り出し、譜面台の上に四枚並べて広げた。
準備が済むと演奏に集中する為、深呼吸してから背筋を伸ばす。
肩の力を抜いて、腕は床と平行に。そして指先が、最初の音を響かせた。
二学期が始まって十数日だが、高校は日常を取り戻していた。
それでも放課後となると、静けさが戻って来る。それが土曜日の放課後となると、更に静かさが増した。
特に三年生の教室は、居残る生徒が少ない。受験を前に予備校などに通う生徒達は足早に出て行き、部活も無くなった生徒達は友達と話しながらゆっくりした足取りで教室を出て行った。
空になった教室で桂小太郎はやっと席を立ち、腕時計を見てから宙を見つめる。
今日は数学教師の坂本辰馬に、ピアノを聴いて貰う日だった。
それは先週、本を運ぶ手伝いをした時に交わした約束。
数学準備室の窓際で、共に見上げた空に架かっていた虹を思い出し、桂は柔らかな笑みを湛える。
坂本の調子外れな鼻歌のお陰で、土曜日の放課後に『Over The Rainbow』というピアノ曲を弾いて聴かせる事になった。
(数学準備室に行くか? それとも音楽室に直行した方が?)
少し考えてから、音楽室の鍵が要る事に気付く。
(昼休みの間に、先生に相談すれば良かった)
いつもの自分ならちゃんと段取りを整えて臨むのに、どうしてこんな……
桂は考えるのを止めて学生鞄を握ると五階の音楽室ではなく、一階にある職員室横の事務所に向かった。
事務所で音楽室の鍵を借りて、職員室の入り口で先生を捜す。
そこで見付けられなければ、数学準備室を覗いてみてから音楽室に向かう。
今度はちゃんと筋道を付けて、計画を立てられた。その事に満足すると、足取りも軽くなる。
浮き立つ気分に、トクトクと鼓動も踊り出した。
なぜこんな不思議な気持ちになるのか分からないけれど、今は追求するのを止める。
足が、気持ちが、早く、早くと急き立てるのだ。
***
校舎の正面玄関右側に、小窓付きの事務所がある。
そこは主に生徒の父兄や来客の受付用で、教員と生徒は普通のドアの方から入る決まりだった。
事務所の中に置いてある貸出台帳にクラスと名前を書いて、教科教室の鍵を借りる。
それから、次は職員室。逸る思いで、ドアの取手を掴もうとしたその時。先に、ドアが内側から開いた。
「おん、桂くんじゃあ」
目の前には、ピンクのワイシャツと青いネクタイ。訛りのある声は、頭上から降って来た。
「坂本先生?!」
「約束、したじゃろ」
笑顔で桂を見下し、番号札の付いた鍵を目前に翳して見せる。
「第二音楽室のぜよ」
「第二?」
「第一は、合唱部が使う予定になっとったからの」
その言葉に、桂は小さく「あっ」と声を漏らす。またしても、確認ミスをしてしまったと。
先生に呆れられてしまっただろうかと、俯いてしまった。
第二音楽室は、旧校舎の二階にある。校舎から渡り廊下で繋がっている場所だから少し遠い。
それに普段は使われていないので、半ば楽器倉庫のようになっている。
ピアノが置いてある事は知っているが、調律されているのかは分からない。
もし調律されていなければ、自分で音を合わせるなんて無理だ。
趣味で弾く程度の腕前だから期待はされていないだろうと思っていても、調律されていないピアノではもっとがっかりさせてしまう。
折角の約束だが、今日は止めた方が良いのだろうか? そんな思いが、頭の中で渦巻き始めた。
「第二は秘密基地みたいやき、行くのが楽しみやか」
ポンと桂の肩を叩いて、踵を返すよう促す。
「……秘密基地、ですか?」
音楽室とは繋がりの無さそうな言葉に、渦巻いていた思考が止まった。
逆に止まったままの足は、背中を押されて動き出す。
「軽音部の連中がびっしり出入りして、色んな物を持ち込んじゅうにかぁーらんよ」
「どうして、そんな事を?」
どうして数学教師の坂本が、そんな事を知っているのだろうと首を傾げた。
「わしは、軽音部の顧問をしちょるんじゃよ。名ばかりじゃけんどね」
あははっと笑いながら、坂本は部員の事や第二音楽室の状態を話して聞かせる。
その話の中に、桂の知りたかったピアノの状態も入っていた。
ちゃんと調律されていると知れて、心の底からホッとする。
心配事が一つ減ってから、坂本と並んで歩いている事に気がついた。
少し近過ぎではないだろうかという距離に、また鼓動が走り出す。
(ほんと、何なのだ?)
自問している内に、旧校舎に辿り着く。遠いと思っていたが、あっという間の時間だった。
並んで歩く時間が終わってしまうのを、心の底で残念に思う。
どうしてだろうと原因を探っても、答えは見つからない。
それでも、何とか理由をこじつける。先生のお喋りが楽しいからだと。
***
旧校舎はほとんどの教室が使われていないので、人の気配が少なくどこか埃っぽかった。
階段や廊下の隅に段ボール箱や打ち捨てられたスポーツ用具などが放置されていて、壁には意味不明の落書きがある。
少しスラム街じみたように感じるが、坂本は秘密基地と表現していた。
桂は互いの感性の違いに、ひっそりと口角を上げる。
(先生は、子供みたいだ)
「よし、開いたぜ…… 何じゃあ? 何を笑っちょる?」
第二音楽室の鍵を開けた坂本が振り返って、桂に問いかけた。
大きな体で、首だけちょこっと傾げて不思議そうな顔をする。
サングラスがずれて、青みがかった瞳が覗いた。
その瞳を見ると、桂の体温が上昇する。心の奥底から、暖かな気持ちが湧き上がってくるような心地良さ。
「はい、本当に秘密基地みたいだなって」
視線を上ってきた階段に向けると、坂本の笑い声が響いた。
「ほにほに。桂君なら掃除がなっちょらんとゆうと思っとったがばあんど、ほうか、同じように思ってくれて嬉しいやか」
「先生は俺に、どんなイメージを持っているのですか?」
桂は視線を戻し、音楽室の扉前までの距離を詰める。
周りの人と同じ様に、頭の固い委員長体質だと思われているのかが気になって質問を口に上らせた。
「イメージ? ほうじゃのぅ……」
坂本は立ち止まる事は無く、音楽室の扉を横スライドさせて中に入ってゆく。
頭の中で考えをまとめているのか、無言で窓を開け室内の空気を入れ替えてからまた閉めた。
どうしてそんなに時間がかかるのだろうと思いつつ、桂も部屋の中央やや右手にあるピアノの蓋を持ち上げる。
指先で鍵盤に触れて、音を確かめた。聞いた通りちゃんと調律されているようで、ピアノは澄んだ音を響かせる。
鞄を足元に置き丸椅子に腰かけてから、パイプ椅子を引き出している坂本の方を見た。
「よっこいしょ」
掛け声と一緒にパイプ椅子を広げて、桂の斜め後ろに置いて腰掛ける。
坂本の動きを追っていた桂の瞳と目が合うと、優しく目を細めて笑みかけた。
「星かのぉ」
「……星? どういう意味ですか?」
不意打ちの言葉に、桂は面食らう。
イメージに対しての返事なのだろうけれど、その言葉が何を指してなのか分からなかった。
けれど、坂本は笑顔のままで「星は、星ぜよ」としか答えない。
そのあとパンと音を立て、両手で膝を叩くと背を伸ばした。
「ほれ、演奏会を始めるぜよ」
ワクワクと楽しげな表情をされて、桂はそれ以上問い返せなくなる。
鞄から楽譜を取り出し、譜面台の上に四枚並べて広げた。
準備が済むと演奏に集中する為、深呼吸してから背筋を伸ばす。
肩の力を抜いて、腕は床と平行に。そして指先が、最初の音を響かせた。