~歌の翼に~(3Z辰桂)
「本ばっか見ちょらき、空を見てみや」
それは高校の二学期が始まってすぐ、下校時間に合わせたように突然降り始めた雨に足止めされた日。雨の中を濡れて帰る気になれず、止むまで待っていようと図書室で時間潰しに本を読んでいた時のこと。
数学教師の坂本辰馬に、三年生の桂小太郎はそう話しかけられた。
「それは教師として、どうなのですか?」
本から視線を上げて、窓の外の空ではなく坂本の方を見上げる。
あちこち跳ねた癖の強い髪に、色の着いた眼鏡、ピンクのシャツにサスペンダーと、言葉だけではなく見かけもおおよそ教師らしくない。
三年生に上がって初めて教科担当になった坂本とは、授業中以外は個人的に話したことも無かった。そんな、まだ付き合いの浅い教師の言葉に、桂は眉を顰めた。
おおらかで明るく男女共に人気の高い先生だが、桂は少し苦手意識があってつい堅い態度を取ってしまう。
「うん? 桂君の場合は、いいちや。授業中でも教科書を見ない子にゃ、言わんよ」
言外に、桂の普段の態度を知っていると匂わせ、人懐っこい笑顔で棘のあった言葉を溶かしてしまった。
お陰で桂は次の言葉が見付からない。どころか、自分がちゃんと認識されていた事に軽いショックを受けた。何故、ショックを受けたのかさえ分からない。
ただ、呆然と坂本を見上げたまま固まった。
「ほれ。窓の外、見てみ」
坂本の手が桂の頭に添えられて、ゆっくりと視線の先が変わる。
窓の外に広がる風景を見て、坂本の最初の言葉の意味を理解した。
いつの間にか雨は止み、雲間から幾筋もの光の帯が濡れたグラウンドを、スポットライトの様に照らしている。雨に洗われた校舎の壁は白さを増し、校庭の木々は緑に眩く煌めいていた。窓を開けていれば、鳥の囀りも聞こえたかも知れない。
昇降口から校門へと続く並木道には、ぽつりぽつりと下校してゆく生徒の姿が見えた。
それらを確認すると、頭に置かれたままの坂本の手を振り切るように頭を下げて、手にしていた本を閉じる。
「雨が止んだので、帰ります」
「ほれじゃぁ、帰りついでに数学準備室まで本を運ぶのを手つとおてくれんじゃろうか?」
「本ですか?」
手ぶらに見える坂本の言葉に顔を見返すと、出会った視線で後ろの机の上に目線を誘導された。そこには、積み上げられた分厚い本の山の五つ。二人でも、一度には運べそうにない冊数に見える。
これを運ぶ人手が欲しくて声をかけられたのだと知ると同時に、何故だか胸がチクリと痛んだ。また、これだ……
桂はそっと、溜息をつく。坂本の言葉や態度に、意味不明の感情が湧き上がる。だから、この先生は苦手だ。訳の分からない感情に左右されるのが嫌だから、関わりたくない。
けれど声をかけられなければ、雨が止んだ事に気付かず時間を過ごしていただろう。
「分かりました、お手伝いします」
「おん!ありがとう」
満面の笑顔に、意味不明の鼓動が跳ねる。
桂は学生鞄に腕を通してから、山の一つを持ち上げた。本は図鑑のようで、紙が厚いのかずっしり重い。
図書室は四階で、数学準備室は三階。一階差だが、結構な重労働だった筈だが桂はそれを辛いと感じなかった。
坂本の背中を追って歩いている内に、あっさり着いてしまった短い時間感覚だけが残る。
「ご苦労さん、助かったぜよ」
数学準備室の窓際にある教務机の上に運んできた本を置くと、労いの言葉と共に坂本の手が差し出された。
「ほれ、手を出して。お礼ちや」
桂がおずおずと掌を開くと、ポトリと小さな包が二つ落ちて来る。半透明のセロファンの包みは、淡い黄色だった。
「ありがとうございます。飴ですか?」
見たことの無い包みを、大事に握り込む。
「レモン味のラムネじゃよ」
色眼鏡の向こう側の瞳が優しく細められ、そっと人差し指を唇に当てた。
「先生が学校にお菓子を持ってきてるのは、内緒にしておおせ」
秘密だと、小指を立てる仕草が悪戯坊主を彷彿とさせて、桂は笑みを湛えたまま頷く。
承知したと、自分も小指を出して指切りした方が良いのだろうかと考えると、頬に血が上った。
坂本と指を絡めると想像しただけで、居た堪れない気分になる。突然速まる鼓動のせいで、胸が苦しい。これ以上、ここに居てはいけないと気持ちが焦る。
「残りの本も、運ばないと」
素早く学生鞄を椅子に置き、背を向けた。焦りからの行動は、自分でも飽きれるほど素っ気無い。愛想の無い生徒だと失望されたのではないかと不安になって、振り返ることが出来なかった。
「いや、えいよ。いぬる途中のついでに頼んだことやき、一回分で充分ぜよ。おんしは、はや帰って構わ」
「帰りません!頼まれたことは、最後までちゃんと責任持ってやります!」
やはり愛想無しと思われたのかと、振り返って帰れとの言葉を遮るように大声を上げた。
坂本は一瞬、驚きに目を瞠る。それからアハハッと笑って、桂の肩を軽く叩いた。
「ほうか、責任感が強いんじゃな。それほんなら、よろしゅうお願いするがよ」
「はい」
確かに責任感は強い方だと自負しているが、これは責任感から来る気持ちではない。それは、ハッキリと分かる。では、どこから来た気持ちだろうかと自問した。答えは、もやもやとした霧の中。触れられた肩が熱くて、他の事柄が考えられなくなった。
***
「これで、しまいじゃ。桂君のお陰で早く運べて助かったぜよ。ありがとう」
最後の本の山を机横のパイプ椅子の上に置くと、桂に向かって屈託のない笑顔を見せる。
またしても、桂は胸が締め付けられる感じを味わった。真っ直ぐに視線を合わせられず、ふいっと坂本が背にしている窓の外に視線を逸らす。
四角く切り取られた空の色は、図書室で見た時よりも青を少し濃くしていた。雨雲が去って、夕闇が迫る前。
雨が洗った空気は澄んでいて、光を綺麗に反射させている。その色彩に目を奪われ、思わず声に出してしまった。
「虹が……」
桂の小声と少し紅潮した頬の色味を見て、坂本は後ろを振り返る。
「おん、きれえじゃのおし」
二人して、同じ空の煌めきを見上げた。
少しでも近くで見ようと桂が一歩を踏み出すと、坂本も肩越しに見るのを止めて体の向きを変える。
そうして並ぶ形になった二人は、心地良い沈黙に包まれた。
それは、ほんの数分だったのか?
それとも、十数分が過ぎていたのか?
不思議と、二人は時間の経過を感じなかった。
こうして傍にいて、同じ風景を眺めるのは初めてでは無いような?
ずっと遠い昔にも、同じように傍にいたような?
この穏やかな優しい時間を、知っている気がする。
そんな錯覚に囚われそうになった、刹那。
「ぁあっ」
哀切を帯びた桂の声が、沈黙を破った。
空に架かる虹の色合いが、水に溶ける砂糖のように空の青に滲んで消えてゆく。
確かにそこにあった大きなものが、こんなにもあっさりと儚く無くなってしまった事に桂は落胆した。
そして、二人が共有していた時間も終わる。そう思うと、桂の気持ちは更に沈む。
どう接して良いのか分からないのに、もう少しこのままでいたいと願っている自分の気持ちに驚き、落とした肩と下げた視線が上げられない。
「こがーに短い時間で、しかも室内にいたがやき、きれえな虹を拝めたのはラッキーじゃったな」
坂本の明るい声と捉え方に、桂の面が上がる。
同じ虹を見ていたのに、こんなにも考え方が違うのだと感動を覚えた。
思わず見詰めた瞳は、虹が溶けていった空と同じ蒼い眼差しに出会う。
それは優しく包み込むような微笑みと共に、そこに在った。
どこか懐かしい色に、この人を知りたいという思いが湧き上がる。
あんなに、苦手だと思っていた筈なのに……
「はやじきに日が暮れるから、帰りやー」
窓のカーテンを閉め、教師らしい言葉を口にした。
まだ帰りたくないが、もうここに留まる理由が思いつかない。
はいと、返事をして帰るしかないのだ。失意から俯きそうになるのを堪えて背筋を伸ばす。
「先生、お先に失礼します」
「気を付けて、いぬるちや」
挨拶を返されて踵を返した所で、坂本の鼻歌が聞こえた。
些か調子は外れているが、その曲は知っている。先ほどまで、一緒に見ていた虹の歌。
「『虹の彼方に』ですね」
「うん? ほがなタイトルじゃったがか? わしが知っちゅうのは、このフレーズばあなちや」
振り返ると、思ったよりも近くに坂本が立っていた。手に鞄を待ち、もう片手には鍵を持っている。
ここで離れるのだとばかり思っていたが、準備室の鍵を管理している職員室横の事務所まで一緒にいられるのだと分かった。
桂の口角が嬉しさに上がって、綺麗な笑みを形作る。
「俺、弾けますよ。お聴かせしましょうか?」
もしかしたら、あと少し。
音楽室でピアノを弾き終わるまで、一緒にいられるかもしれない。そんな期待に胸が膨らむ。
「いいや、はや遅いから帰らんといけやーせん」
坂本の返事に、淡い期待は儚く消えた。あの虹と同じだと、伸ばした背筋が丸みを帯びる。
その背に、そっと大きな手が触れた。
「やき今度、もっと早い時間に聴かせてくれると嬉しいやか」
今日よりも先、次の約束をくれたのは社交辞令だろうか? それとも、本心から?
推し量れない言葉に、どう応えればいいのか分からず唯無言で見詰め返した。
「……来週、土曜の放課後ならどうやお?」
先程の言葉の繋ぎとは違う僅かな躊躇いを含んだ間を感じたけれど、その声はハッキリとイエスかノーの返事を欲していると思える。
確実な約束に、桂は力強く首を縦に振った。
一緒にいたいと思った願いが叶う。たとえそれが、数分の事でも構わない。
「はい。来週の土曜の放課後に、音楽室で」
頷いた後に見せた桂の表情は晴れやかで、最初に虹を見付けた時と同じものだった。
(きれいえじゃのおし)
坂本の胸中に、虹を見た時と同じ感動が湧く。
出来るならもう少し、傍で見ていたいと思わせる笑顔だと。
「約束じゃの」
「はい」
交わされた笑顔と約束が、二人の心の中にキラキラとした七色の虹の欠片を閉じ込めた。
了
2019.9.5 辰桂真ん中バースデーによせて
それは高校の二学期が始まってすぐ、下校時間に合わせたように突然降り始めた雨に足止めされた日。雨の中を濡れて帰る気になれず、止むまで待っていようと図書室で時間潰しに本を読んでいた時のこと。
数学教師の坂本辰馬に、三年生の桂小太郎はそう話しかけられた。
「それは教師として、どうなのですか?」
本から視線を上げて、窓の外の空ではなく坂本の方を見上げる。
あちこち跳ねた癖の強い髪に、色の着いた眼鏡、ピンクのシャツにサスペンダーと、言葉だけではなく見かけもおおよそ教師らしくない。
三年生に上がって初めて教科担当になった坂本とは、授業中以外は個人的に話したことも無かった。そんな、まだ付き合いの浅い教師の言葉に、桂は眉を顰めた。
おおらかで明るく男女共に人気の高い先生だが、桂は少し苦手意識があってつい堅い態度を取ってしまう。
「うん? 桂君の場合は、いいちや。授業中でも教科書を見ない子にゃ、言わんよ」
言外に、桂の普段の態度を知っていると匂わせ、人懐っこい笑顔で棘のあった言葉を溶かしてしまった。
お陰で桂は次の言葉が見付からない。どころか、自分がちゃんと認識されていた事に軽いショックを受けた。何故、ショックを受けたのかさえ分からない。
ただ、呆然と坂本を見上げたまま固まった。
「ほれ。窓の外、見てみ」
坂本の手が桂の頭に添えられて、ゆっくりと視線の先が変わる。
窓の外に広がる風景を見て、坂本の最初の言葉の意味を理解した。
いつの間にか雨は止み、雲間から幾筋もの光の帯が濡れたグラウンドを、スポットライトの様に照らしている。雨に洗われた校舎の壁は白さを増し、校庭の木々は緑に眩く煌めいていた。窓を開けていれば、鳥の囀りも聞こえたかも知れない。
昇降口から校門へと続く並木道には、ぽつりぽつりと下校してゆく生徒の姿が見えた。
それらを確認すると、頭に置かれたままの坂本の手を振り切るように頭を下げて、手にしていた本を閉じる。
「雨が止んだので、帰ります」
「ほれじゃぁ、帰りついでに数学準備室まで本を運ぶのを手つとおてくれんじゃろうか?」
「本ですか?」
手ぶらに見える坂本の言葉に顔を見返すと、出会った視線で後ろの机の上に目線を誘導された。そこには、積み上げられた分厚い本の山の五つ。二人でも、一度には運べそうにない冊数に見える。
これを運ぶ人手が欲しくて声をかけられたのだと知ると同時に、何故だか胸がチクリと痛んだ。また、これだ……
桂はそっと、溜息をつく。坂本の言葉や態度に、意味不明の感情が湧き上がる。だから、この先生は苦手だ。訳の分からない感情に左右されるのが嫌だから、関わりたくない。
けれど声をかけられなければ、雨が止んだ事に気付かず時間を過ごしていただろう。
「分かりました、お手伝いします」
「おん!ありがとう」
満面の笑顔に、意味不明の鼓動が跳ねる。
桂は学生鞄に腕を通してから、山の一つを持ち上げた。本は図鑑のようで、紙が厚いのかずっしり重い。
図書室は四階で、数学準備室は三階。一階差だが、結構な重労働だった筈だが桂はそれを辛いと感じなかった。
坂本の背中を追って歩いている内に、あっさり着いてしまった短い時間感覚だけが残る。
「ご苦労さん、助かったぜよ」
数学準備室の窓際にある教務机の上に運んできた本を置くと、労いの言葉と共に坂本の手が差し出された。
「ほれ、手を出して。お礼ちや」
桂がおずおずと掌を開くと、ポトリと小さな包が二つ落ちて来る。半透明のセロファンの包みは、淡い黄色だった。
「ありがとうございます。飴ですか?」
見たことの無い包みを、大事に握り込む。
「レモン味のラムネじゃよ」
色眼鏡の向こう側の瞳が優しく細められ、そっと人差し指を唇に当てた。
「先生が学校にお菓子を持ってきてるのは、内緒にしておおせ」
秘密だと、小指を立てる仕草が悪戯坊主を彷彿とさせて、桂は笑みを湛えたまま頷く。
承知したと、自分も小指を出して指切りした方が良いのだろうかと考えると、頬に血が上った。
坂本と指を絡めると想像しただけで、居た堪れない気分になる。突然速まる鼓動のせいで、胸が苦しい。これ以上、ここに居てはいけないと気持ちが焦る。
「残りの本も、運ばないと」
素早く学生鞄を椅子に置き、背を向けた。焦りからの行動は、自分でも飽きれるほど素っ気無い。愛想の無い生徒だと失望されたのではないかと不安になって、振り返ることが出来なかった。
「いや、えいよ。いぬる途中のついでに頼んだことやき、一回分で充分ぜよ。おんしは、はや帰って構わ」
「帰りません!頼まれたことは、最後までちゃんと責任持ってやります!」
やはり愛想無しと思われたのかと、振り返って帰れとの言葉を遮るように大声を上げた。
坂本は一瞬、驚きに目を瞠る。それからアハハッと笑って、桂の肩を軽く叩いた。
「ほうか、責任感が強いんじゃな。それほんなら、よろしゅうお願いするがよ」
「はい」
確かに責任感は強い方だと自負しているが、これは責任感から来る気持ちではない。それは、ハッキリと分かる。では、どこから来た気持ちだろうかと自問した。答えは、もやもやとした霧の中。触れられた肩が熱くて、他の事柄が考えられなくなった。
***
「これで、しまいじゃ。桂君のお陰で早く運べて助かったぜよ。ありがとう」
最後の本の山を机横のパイプ椅子の上に置くと、桂に向かって屈託のない笑顔を見せる。
またしても、桂は胸が締め付けられる感じを味わった。真っ直ぐに視線を合わせられず、ふいっと坂本が背にしている窓の外に視線を逸らす。
四角く切り取られた空の色は、図書室で見た時よりも青を少し濃くしていた。雨雲が去って、夕闇が迫る前。
雨が洗った空気は澄んでいて、光を綺麗に反射させている。その色彩に目を奪われ、思わず声に出してしまった。
「虹が……」
桂の小声と少し紅潮した頬の色味を見て、坂本は後ろを振り返る。
「おん、きれえじゃのおし」
二人して、同じ空の煌めきを見上げた。
少しでも近くで見ようと桂が一歩を踏み出すと、坂本も肩越しに見るのを止めて体の向きを変える。
そうして並ぶ形になった二人は、心地良い沈黙に包まれた。
それは、ほんの数分だったのか?
それとも、十数分が過ぎていたのか?
不思議と、二人は時間の経過を感じなかった。
こうして傍にいて、同じ風景を眺めるのは初めてでは無いような?
ずっと遠い昔にも、同じように傍にいたような?
この穏やかな優しい時間を、知っている気がする。
そんな錯覚に囚われそうになった、刹那。
「ぁあっ」
哀切を帯びた桂の声が、沈黙を破った。
空に架かる虹の色合いが、水に溶ける砂糖のように空の青に滲んで消えてゆく。
確かにそこにあった大きなものが、こんなにもあっさりと儚く無くなってしまった事に桂は落胆した。
そして、二人が共有していた時間も終わる。そう思うと、桂の気持ちは更に沈む。
どう接して良いのか分からないのに、もう少しこのままでいたいと願っている自分の気持ちに驚き、落とした肩と下げた視線が上げられない。
「こがーに短い時間で、しかも室内にいたがやき、きれえな虹を拝めたのはラッキーじゃったな」
坂本の明るい声と捉え方に、桂の面が上がる。
同じ虹を見ていたのに、こんなにも考え方が違うのだと感動を覚えた。
思わず見詰めた瞳は、虹が溶けていった空と同じ蒼い眼差しに出会う。
それは優しく包み込むような微笑みと共に、そこに在った。
どこか懐かしい色に、この人を知りたいという思いが湧き上がる。
あんなに、苦手だと思っていた筈なのに……
「はやじきに日が暮れるから、帰りやー」
窓のカーテンを閉め、教師らしい言葉を口にした。
まだ帰りたくないが、もうここに留まる理由が思いつかない。
はいと、返事をして帰るしかないのだ。失意から俯きそうになるのを堪えて背筋を伸ばす。
「先生、お先に失礼します」
「気を付けて、いぬるちや」
挨拶を返されて踵を返した所で、坂本の鼻歌が聞こえた。
些か調子は外れているが、その曲は知っている。先ほどまで、一緒に見ていた虹の歌。
「『虹の彼方に』ですね」
「うん? ほがなタイトルじゃったがか? わしが知っちゅうのは、このフレーズばあなちや」
振り返ると、思ったよりも近くに坂本が立っていた。手に鞄を待ち、もう片手には鍵を持っている。
ここで離れるのだとばかり思っていたが、準備室の鍵を管理している職員室横の事務所まで一緒にいられるのだと分かった。
桂の口角が嬉しさに上がって、綺麗な笑みを形作る。
「俺、弾けますよ。お聴かせしましょうか?」
もしかしたら、あと少し。
音楽室でピアノを弾き終わるまで、一緒にいられるかもしれない。そんな期待に胸が膨らむ。
「いいや、はや遅いから帰らんといけやーせん」
坂本の返事に、淡い期待は儚く消えた。あの虹と同じだと、伸ばした背筋が丸みを帯びる。
その背に、そっと大きな手が触れた。
「やき今度、もっと早い時間に聴かせてくれると嬉しいやか」
今日よりも先、次の約束をくれたのは社交辞令だろうか? それとも、本心から?
推し量れない言葉に、どう応えればいいのか分からず唯無言で見詰め返した。
「……来週、土曜の放課後ならどうやお?」
先程の言葉の繋ぎとは違う僅かな躊躇いを含んだ間を感じたけれど、その声はハッキリとイエスかノーの返事を欲していると思える。
確実な約束に、桂は力強く首を縦に振った。
一緒にいたいと思った願いが叶う。たとえそれが、数分の事でも構わない。
「はい。来週の土曜の放課後に、音楽室で」
頷いた後に見せた桂の表情は晴れやかで、最初に虹を見付けた時と同じものだった。
(きれいえじゃのおし)
坂本の胸中に、虹を見た時と同じ感動が湧く。
出来るならもう少し、傍で見ていたいと思わせる笑顔だと。
「約束じゃの」
「はい」
交わされた笑顔と約束が、二人の心の中にキラキラとした七色の虹の欠片を閉じ込めた。
了
2019.9.5 辰桂真ん中バースデーによせて
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