ある冷えた朝のこと
白んだ空を眺めながら、桂小太郎はゆっくりと息を吸い込んだ。
冷たい空気が肺の中に入ると、ぼんやりとしていた意識がすっと冴える。
春の足音が聞こえはじめた三月とはいえ、まだ朝方は冷えると腕を組み指先を袖の中に押し込んだ。
背筋は伸ばしたものの、寒さに自然と歩みも速くなる。
生あくびを噛み殺し、駅に着くまでには始発が出る時間になるだろうかと考えた。
道すがら、昨夜は久々の楽しい酒だったと思い出す。
幕府の狗に追われて逃げ込んだ繁華街。普段は好まない派手なネオンの輝く店に入り込んだ。
そんな偶然入った店で偶然隣り合わせた客と意気投合し、時間潰しのつもりがいつの間にか攘夷論を語り合うまでになっていた。
熱く語り合ったが、互いの名前も素性も話していない。
酒のせいでテンションがおかしかったのだろう、気がついた時には既に朝方だった。
お尋ね者の身としては、太陽が昇り切る前に隠れ家に戻りたい。
ラストオーダーも終わり、相手はカウンターに伏して気持ち良さそうに眠っていたので起こすことはぜず、彼の分の代金も支払い店を出た。
徹夜明けとはいえ、逃げの小太郎の名に恥じぬ察知能力は衰えてはいない。
人通りの無い街角にも関わらず、何かの気配を感じ取った。
「?」
更に桂の気を引いたのは、小さいとは言い難い物音。
警戒しながら静かに歩みを止めると、一匹の猫が暗い路地から飛び出してきた。
「……なんだ、猫か」
警戒を解きたい所だが、先ほど感じた気配も物音も猫にしては不自然なぐらい大きかった。
真選組ならば、こんな待ち伏せなど行わず包囲してくるだろう。
もしや天人の類かと不審に思いながら、それとは別の不思議な予感もした。
先程猫が飛び出してきた路地に、足音を消して忍び寄る。
まだ夜が蟠っている様な暗い路地裏を覗き込むと、そこには予感通りの先客がいた。
桂は足音を忍ばせるのを止め、大胆に路地裏へ踏み入る。
「おい、起きろ!」
路地裏に並ぶ幾つかのごみ箱の前。
黒いゴミ袋を枕の様に抱き込み俯せに倒れ込んでいる赤いコートの大男を前にして、声を張り上げた。
声をかけても起きない男の横に、眉を顰めながら膝を着く。
素早く全身を見て、怪我は無いようだと確かめた。桂の眉間の皴は、安堵に開く。
独特の生ゴミ臭の中で寝ているのを放置しておく訳にもいかず、手を伸ばし何度かその肩を揺すった。
「おい! 坂本! 坂本っ!」
目覚めを促す桂の声に、男は「うーん、うーん」と唸り声を上げる。
「おい、辰馬、起きぬか! こんな所で寝ていては、」
「おりょうちゃぁん」
風邪を引くと続けようとした言葉を遮ってガバッと急に身を起こした坂本が、桂に向かって手を伸ばした。
「おりょうちゃんじゃない、桂だ!」
桂は素早く身を躱して立ち上がり、目前に伸びている背中目掛けて肘鉄を食らわす。
桂の怒鳴り声を聞いて、地面で潰れていた男は即半身を回転させて仰ぎ見た。
暗い路地裏に、朝の最初の光が入り込んで来たのと丁度同時。
長い黒髪の後ろから後光が差しているようだった。
「ありゃ? 仏さんかのぉ?」
眩しそうに目を細め、引っ繰り返ったままの状態でガシガシと頭を掻く。
「仏でも無い、桂だ」
仏頂面で律義に答えを返す。
宇宙から帰ってきているのも知らなかったし、再会最初に口にした言葉も気に入らない。
寝言だと分かっていても、悋気が勝った。
起こしたりなどせず、放置しておけば良かったと両手を握り締める。
「ほうじゃの、こがな別嬪の仏さんはおらんぜよ」
坂本は大柄な身体に似合わぬ俊敏な動きで立ち上がりコートの汚れを手で払うと、さっと二人の間の距離を詰めてしまう。
「ただいま、小太郎。お前を探してる間に、迷子になっちょったぜよ」
嘘か本当か分からない言い訳と共に、ゴミの臭いと暖かな体温のコンボに襲われる。
気付いた時には、抱き締められていた。
「貴様、臭いぞ!」
まだ燻っている悋気と臭気ゆえ、素直におかえりと言えず坂本の胸を押しやり抱擁を解かせてしまう。
しかし、坂本は全く気にする様子もない。
「すまんのぉ。ほれじゃ、お前の隠れ家に帰って一緒に風呂に入るぜよ」
笑顔でするりと手を取られ、路地裏から朝日の中に連れ出される。
生まれたばかりの眩い光と坂本の笑顔に、小さな悋気は解けてしまった。
「一人で入れ、馬鹿者が」
「嫌じゃ、一緒に入る言うまで離さんよ」
桂のつれない言葉に、坂本は食い下がる。
どんなに離れていた時間が長くとも、互いの距離感も想う心も変わらない。
慣れ親しんだ、じゃれ合いの会話は続く。
「臭い! 離れろ!」
「あはははっ、なんちゃがやない。こがな臭い、はや慣れるぜよ」
「慣れるかっ!」
「慣れる、慣れる。ほれ、はや、お前にも移っちゅうよ」
「んな訳、ないっ!」
「あーるーぜーよー」
調子を付けた言葉と共に、桂の項へと鼻先を寄せて大きく息を吸い込んだ。
「おん、小太郎の匂いと混じっちゅう」
「嗅ぐな、馬鹿者っ!」
文句を言いつつも、繋いだ手は離れない。
朝焼けの空の下、紅潮した頬を持て余す桂と満面笑顔の坂本は仲良く駅に向かって歩いて行った。
了(2021.06.14)
冷たい空気が肺の中に入ると、ぼんやりとしていた意識がすっと冴える。
春の足音が聞こえはじめた三月とはいえ、まだ朝方は冷えると腕を組み指先を袖の中に押し込んだ。
背筋は伸ばしたものの、寒さに自然と歩みも速くなる。
生あくびを噛み殺し、駅に着くまでには始発が出る時間になるだろうかと考えた。
道すがら、昨夜は久々の楽しい酒だったと思い出す。
幕府の狗に追われて逃げ込んだ繁華街。普段は好まない派手なネオンの輝く店に入り込んだ。
そんな偶然入った店で偶然隣り合わせた客と意気投合し、時間潰しのつもりがいつの間にか攘夷論を語り合うまでになっていた。
熱く語り合ったが、互いの名前も素性も話していない。
酒のせいでテンションがおかしかったのだろう、気がついた時には既に朝方だった。
お尋ね者の身としては、太陽が昇り切る前に隠れ家に戻りたい。
ラストオーダーも終わり、相手はカウンターに伏して気持ち良さそうに眠っていたので起こすことはぜず、彼の分の代金も支払い店を出た。
徹夜明けとはいえ、逃げの小太郎の名に恥じぬ察知能力は衰えてはいない。
人通りの無い街角にも関わらず、何かの気配を感じ取った。
「?」
更に桂の気を引いたのは、小さいとは言い難い物音。
警戒しながら静かに歩みを止めると、一匹の猫が暗い路地から飛び出してきた。
「……なんだ、猫か」
警戒を解きたい所だが、先ほど感じた気配も物音も猫にしては不自然なぐらい大きかった。
真選組ならば、こんな待ち伏せなど行わず包囲してくるだろう。
もしや天人の類かと不審に思いながら、それとは別の不思議な予感もした。
先程猫が飛び出してきた路地に、足音を消して忍び寄る。
まだ夜が蟠っている様な暗い路地裏を覗き込むと、そこには予感通りの先客がいた。
桂は足音を忍ばせるのを止め、大胆に路地裏へ踏み入る。
「おい、起きろ!」
路地裏に並ぶ幾つかのごみ箱の前。
黒いゴミ袋を枕の様に抱き込み俯せに倒れ込んでいる赤いコートの大男を前にして、声を張り上げた。
声をかけても起きない男の横に、眉を顰めながら膝を着く。
素早く全身を見て、怪我は無いようだと確かめた。桂の眉間の皴は、安堵に開く。
独特の生ゴミ臭の中で寝ているのを放置しておく訳にもいかず、手を伸ばし何度かその肩を揺すった。
「おい! 坂本! 坂本っ!」
目覚めを促す桂の声に、男は「うーん、うーん」と唸り声を上げる。
「おい、辰馬、起きぬか! こんな所で寝ていては、」
「おりょうちゃぁん」
風邪を引くと続けようとした言葉を遮ってガバッと急に身を起こした坂本が、桂に向かって手を伸ばした。
「おりょうちゃんじゃない、桂だ!」
桂は素早く身を躱して立ち上がり、目前に伸びている背中目掛けて肘鉄を食らわす。
桂の怒鳴り声を聞いて、地面で潰れていた男は即半身を回転させて仰ぎ見た。
暗い路地裏に、朝の最初の光が入り込んで来たのと丁度同時。
長い黒髪の後ろから後光が差しているようだった。
「ありゃ? 仏さんかのぉ?」
眩しそうに目を細め、引っ繰り返ったままの状態でガシガシと頭を掻く。
「仏でも無い、桂だ」
仏頂面で律義に答えを返す。
宇宙から帰ってきているのも知らなかったし、再会最初に口にした言葉も気に入らない。
寝言だと分かっていても、悋気が勝った。
起こしたりなどせず、放置しておけば良かったと両手を握り締める。
「ほうじゃの、こがな別嬪の仏さんはおらんぜよ」
坂本は大柄な身体に似合わぬ俊敏な動きで立ち上がりコートの汚れを手で払うと、さっと二人の間の距離を詰めてしまう。
「ただいま、小太郎。お前を探してる間に、迷子になっちょったぜよ」
嘘か本当か分からない言い訳と共に、ゴミの臭いと暖かな体温のコンボに襲われる。
気付いた時には、抱き締められていた。
「貴様、臭いぞ!」
まだ燻っている悋気と臭気ゆえ、素直におかえりと言えず坂本の胸を押しやり抱擁を解かせてしまう。
しかし、坂本は全く気にする様子もない。
「すまんのぉ。ほれじゃ、お前の隠れ家に帰って一緒に風呂に入るぜよ」
笑顔でするりと手を取られ、路地裏から朝日の中に連れ出される。
生まれたばかりの眩い光と坂本の笑顔に、小さな悋気は解けてしまった。
「一人で入れ、馬鹿者が」
「嫌じゃ、一緒に入る言うまで離さんよ」
桂のつれない言葉に、坂本は食い下がる。
どんなに離れていた時間が長くとも、互いの距離感も想う心も変わらない。
慣れ親しんだ、じゃれ合いの会話は続く。
「臭い! 離れろ!」
「あはははっ、なんちゃがやない。こがな臭い、はや慣れるぜよ」
「慣れるかっ!」
「慣れる、慣れる。ほれ、はや、お前にも移っちゅうよ」
「んな訳、ないっ!」
「あーるーぜーよー」
調子を付けた言葉と共に、桂の項へと鼻先を寄せて大きく息を吸い込んだ。
「おん、小太郎の匂いと混じっちゅう」
「嗅ぐな、馬鹿者っ!」
文句を言いつつも、繋いだ手は離れない。
朝焼けの空の下、紅潮した頬を持て余す桂と満面笑顔の坂本は仲良く駅に向かって歩いて行った。
了(2021.06.14)
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