そーゆートコだぞっ!(攘夷辰桂)
「坂本辰馬! 貴様ッ、破廉恥にも程があるぞッ! その性根、叩き直してやる! 今すぐ、そこに直れぇ、え、……なおっ、おっ?」
「ニャーオッ」
「ヅラ?」
突然の怒声に驚いた猫が鳴き、その猫を抱いた坂本が振り返った。
桂は指差しのまま、固まっている。
「なんじゃ血相変えて、どがぁした?」
のんびりとした言葉に、桂の頭も急速に冷えてゆく。
「……猫?」
「おん! 別嬪さんじゃろ。毛並みが艶々で、黒光りしちょる。お前の髪と、ぶっちゅうじゃの」
抱いていた黒猫を、桂の前に差し出した。
坂本の言う通り綺麗な毛並みの猫は、金色の瞳でジッと桂を見詰める。その美しさに、桂も思わず見蕩れた。
この猫を抱いても良いのだろうかと、ドキドキしながら坂本の手から受け取ろうと手を差し出す。
けれど大人しく抱かれていた猫は、桂が手を出した途端に激しく暴れだした。
「あっ?」
「おたまちゃん、どがぁした?」
声をかけるも前後左右に身を捩る姿を見て、坂本は猫を地面に下ろしてやる。猫は足が地面に着くや否や、素早く走り出して本堂の下の隙間の中へ身を隠してしまった。
「……俺のせい、なのか?」
坂本の腕の中では大人しくしていたのに、己に手渡されると悟った瞬間に逃げ出すとはと肩を落とす。猫も坂本のほうが良いのだろうか、気持ちが沈んだ。
「ほうじゃの。ヅラはおたまちゃんより綺麗やき、嫉妬されたんかも知れやーせん」
「は?」
「やき、お前の方が綺麗やき、こがなこともあるさ。気にしな」
真面目な顔で、そう結論付ける。
今まで男に綺麗などと言われても純粋な褒め言葉とは思えず、むしろ軟弱なと比喩されているようで不愉快だった。それなのに坂本の口からそう聞かされると、どうにもむず痒い気持ちになる。
この気持ちは、いったい何なのだろう?
「ところで、ヅラ」
「ヅラじゃない、なんだ?」
心の有り様を追求しようとしたが、坂本の声がそれを中断させた。
「うん。さっき、わしは、なき怒鳴られたんじゃろうか?」
猫と戯れていただけなのに、破廉恥とはどういうことかと尋ねる。
怒鳴られたことより、桂の言う意味が分からない方が気になって仕方無い様子を見せた。
「そ、それは…… 貴様が、その、紛らわしい言い方をするから……」
桂の言葉は歯切れが悪く、語尾は不明瞭になる。
さすがに(お前が内村の女を寝取ると勘違いした)とは言えなかった。
内心の気まずさから、そっと視線を外す。
「紛らわしい? なにが?」
坂本は外された視線を追いかけて、息がかかる近い距離に迫る。
(ち、近いっ!)
桂は慌てて後方へ飛んだ。
謎の動悸と息苦しさから、頬が熱くなる。それを見られるのが嫌で、さっと踵を返す。
「もう、よいっ!!」
これ以上の問答を拒否する強い声を発して、坂本の追及を避けた。
訪れた沈黙に、強引過ぎただろうかと思い直しチラっと首だけで視線を動かし振り返る。
「!」
真後ろにいた坂本と、視線がかち合った。それだけで、頭が真っ白になる。
けれど、坂本は屈託ない笑顔で桂の隣へと足を進めた。
桂の考えならどんなことでも知りたいと思うが、無理矢理聞き出すことはしたくない。
言いたくないのなら、気に留めるのは止めよう。
下手に突けば、優美で穏やかな仮面の下に隠してい強い気性の爪で引っかかれるだけだ。
怒りに毛を逆立てて威嚇する子猫みたいで可愛いのだが、不機嫌な顔よりも笑顔の方を見たい。
「お前、見た目ばあじゃのうて、そーゆーとこも猫みたいじゃのおし」
話題を変えてしまおうと、そう口にした。
ポンと桂の背を叩き、声を上げて笑う。
「なんだと、どこがだっ?」
話しが逸れてホッとしたが、今度は猫みたいだと言われたことが気になる。
良い意味か悪い意味か、坂本はどう思っているのか。諸々、次から次へと気になって仕方がない。
「言わぬが花、ぜよ」
坂本は、さらりと呟いて大きく一歩を踏み出した。大きな歩幅故に、あっという間に彼我の距離が開く。
桂は追い付こうと早足になり、それに気付いた坂本が足を止め振り返った。
「慌てのうてもなんちゃーがやない、ちゃんと待っちゅうよ」
体の向きを変え、心持ち両手を開いてニコニコしている。
桂は、まるで飛び込んで来いと言われているような錯覚に陥りそうになった。
勝手に湧き上がる妄想を、頭を左右に振る事で霧散させる。
(さっきの猫と一緒だ、猫と一緒!)
先程の猫に似ている発言と、おたまちゃんとの触れ合い場面を思い出し、頭の中で錯覚を打ち消した。
それでも、坂本の優しげな眼差しを受けると微妙に落ち着かない。
突然動かなくなった桂の許に、坂本が引き返して来る。
「ヅラ、どがぁした?」
坂本の心配そうな表情と声。それが再び、桂の妄想力を刺激した。
猫と坂本と見知らぬ想像上の女と、猫と己と見知らぬ女の立ち位置がどんどん変わって、その度に坂本の『わしが抱ちゃる』の声がグルグル回る。
その腕に抱かれているのは、猫で女で猫になった己で……
桂は頭を抱えて、妄想が広がるのを止めようとした。
「ヅラ?」
「俺は、猫じゃないぞッ!」
頭に触れた坂本の手を振り払い、怒鳴りつける。
大声を出した事で、妄想の中の猫と見知らぬ女が消えた。
頭の中と、瞳に映る現実が一つに重なる。
驚いた顔をしている坂本と、坂本の手を振り払った己の手。
「……ぁ」
妄想の爆発を言い訳したいが、己でも驚いて動揺してしまい上手く言葉が出ない。
坂本の前では知らぬうちに素の感情が出てしまうが、今回の様な妄想大爆発は初めてだった。
幾ら大らかな人間とはいえ、呆れられただろう。
でも、それでいい。己という人間は、一歩引いて付き合って貰うくらいが丁度いいのだ。
このまま無言で背を向けてくれれば、きっとこの訳の分からない感情も消えてくれる。
だから―――
「何を、当たり前の事をゆうてる? お前は猫じゃのうて、人間じゃよ」
振り払った手が、再び頭の上に乗せられて髪を撫でられた。
「さ、帰るぜよ」
腕を引いて歩くよう促し、歩き出すとさり気なく腕を解く。
言葉にも態度にも、何の責めも追及も無い。感じるのは寄りそう優しさだけ。
何か言ってくれてもいいのにと、物足りなく思ってしまった。
それは多分、心のどこかで彼は何も責めないと感じ取ったからこそ思う事なのだろう。
大らかで心の広い男。大雑把に見えて、実は細やかな思い遣りを持つ男。
知れば知るほど、心惹かれ……
心惹かれ、だと?
「いや! 断じて違う! そーゆー意味では無いッ!」
思わず声に出して、否定した。そうとも、その手の感情は男女で抱くものだろう。
いや、だが、しかし……
「どういた? 何をカリカリしちょる? もしかして、糞詰りか?寺で、厠借りるか?」
デリカシーの無い発言を聞いて、桂の舞い上がった気持ちが一気に落ち着いた。
「貴様の、そーゆートコがっ……」
ぽろっと、口から言葉が零れる。言えない言葉の続きは心の中で呟く。
(俺の気持ちを、掻き乱すのだ)
モヤモヤとした感情は、解析不能。心惹かれたのは、気の迷い。
全ては錯覚なのだと、そう己に言い聞かせる。
それに、妄想疲れも重なって小さな溜息が出た。
「なんじゃ?」
桂の溜息を聞きつけて、坂本が不可解な顔をする。
「なんでもない。気にするな」
これ以上変な態度を取ってはならないと、桂は気を取り直してぎこちないながらも笑みを浮かべた。
また遅れがちになっていた歩調を合わせて、二人並んで参道を抜ける。
寺から出ると、道行く人の姿がチラホラと増えていた。
野菜籠を持った老婆や、豆腐売りなど商いをしている姿が目立つ。
そろそろ夕餉の支度を始める刻限なのだろう。
別々に辺りを見回していた二人の視線が、互いの視線を捉える。
「帰るぞ」
今度はちゃんと、普通に笑いかける事ができた。
坂本も嬉しそうに、笑み返して頷く。
「おん! 帰るぜよ」
互いに互いの想いを知らぬまま、互いの手の甲が触れ合いそうなもどかしい距離で横に並ぶ。
後ろに長く伸びた影法師の方が、光加減の助けを借りてぴたりと寄り添っていた。
実体の方が互いの心を知り、寄り添うのはまだまだ先のお話。
了 2022.02.04
「ニャーオッ」
「ヅラ?」
突然の怒声に驚いた猫が鳴き、その猫を抱いた坂本が振り返った。
桂は指差しのまま、固まっている。
「なんじゃ血相変えて、どがぁした?」
のんびりとした言葉に、桂の頭も急速に冷えてゆく。
「……猫?」
「おん! 別嬪さんじゃろ。毛並みが艶々で、黒光りしちょる。お前の髪と、ぶっちゅうじゃの」
抱いていた黒猫を、桂の前に差し出した。
坂本の言う通り綺麗な毛並みの猫は、金色の瞳でジッと桂を見詰める。その美しさに、桂も思わず見蕩れた。
この猫を抱いても良いのだろうかと、ドキドキしながら坂本の手から受け取ろうと手を差し出す。
けれど大人しく抱かれていた猫は、桂が手を出した途端に激しく暴れだした。
「あっ?」
「おたまちゃん、どがぁした?」
声をかけるも前後左右に身を捩る姿を見て、坂本は猫を地面に下ろしてやる。猫は足が地面に着くや否や、素早く走り出して本堂の下の隙間の中へ身を隠してしまった。
「……俺のせい、なのか?」
坂本の腕の中では大人しくしていたのに、己に手渡されると悟った瞬間に逃げ出すとはと肩を落とす。猫も坂本のほうが良いのだろうか、気持ちが沈んだ。
「ほうじゃの。ヅラはおたまちゃんより綺麗やき、嫉妬されたんかも知れやーせん」
「は?」
「やき、お前の方が綺麗やき、こがなこともあるさ。気にしな」
真面目な顔で、そう結論付ける。
今まで男に綺麗などと言われても純粋な褒め言葉とは思えず、むしろ軟弱なと比喩されているようで不愉快だった。それなのに坂本の口からそう聞かされると、どうにもむず痒い気持ちになる。
この気持ちは、いったい何なのだろう?
「ところで、ヅラ」
「ヅラじゃない、なんだ?」
心の有り様を追求しようとしたが、坂本の声がそれを中断させた。
「うん。さっき、わしは、なき怒鳴られたんじゃろうか?」
猫と戯れていただけなのに、破廉恥とはどういうことかと尋ねる。
怒鳴られたことより、桂の言う意味が分からない方が気になって仕方無い様子を見せた。
「そ、それは…… 貴様が、その、紛らわしい言い方をするから……」
桂の言葉は歯切れが悪く、語尾は不明瞭になる。
さすがに(お前が内村の女を寝取ると勘違いした)とは言えなかった。
内心の気まずさから、そっと視線を外す。
「紛らわしい? なにが?」
坂本は外された視線を追いかけて、息がかかる近い距離に迫る。
(ち、近いっ!)
桂は慌てて後方へ飛んだ。
謎の動悸と息苦しさから、頬が熱くなる。それを見られるのが嫌で、さっと踵を返す。
「もう、よいっ!!」
これ以上の問答を拒否する強い声を発して、坂本の追及を避けた。
訪れた沈黙に、強引過ぎただろうかと思い直しチラっと首だけで視線を動かし振り返る。
「!」
真後ろにいた坂本と、視線がかち合った。それだけで、頭が真っ白になる。
けれど、坂本は屈託ない笑顔で桂の隣へと足を進めた。
桂の考えならどんなことでも知りたいと思うが、無理矢理聞き出すことはしたくない。
言いたくないのなら、気に留めるのは止めよう。
下手に突けば、優美で穏やかな仮面の下に隠してい強い気性の爪で引っかかれるだけだ。
怒りに毛を逆立てて威嚇する子猫みたいで可愛いのだが、不機嫌な顔よりも笑顔の方を見たい。
「お前、見た目ばあじゃのうて、そーゆーとこも猫みたいじゃのおし」
話題を変えてしまおうと、そう口にした。
ポンと桂の背を叩き、声を上げて笑う。
「なんだと、どこがだっ?」
話しが逸れてホッとしたが、今度は猫みたいだと言われたことが気になる。
良い意味か悪い意味か、坂本はどう思っているのか。諸々、次から次へと気になって仕方がない。
「言わぬが花、ぜよ」
坂本は、さらりと呟いて大きく一歩を踏み出した。大きな歩幅故に、あっという間に彼我の距離が開く。
桂は追い付こうと早足になり、それに気付いた坂本が足を止め振り返った。
「慌てのうてもなんちゃーがやない、ちゃんと待っちゅうよ」
体の向きを変え、心持ち両手を開いてニコニコしている。
桂は、まるで飛び込んで来いと言われているような錯覚に陥りそうになった。
勝手に湧き上がる妄想を、頭を左右に振る事で霧散させる。
(さっきの猫と一緒だ、猫と一緒!)
先程の猫に似ている発言と、おたまちゃんとの触れ合い場面を思い出し、頭の中で錯覚を打ち消した。
それでも、坂本の優しげな眼差しを受けると微妙に落ち着かない。
突然動かなくなった桂の許に、坂本が引き返して来る。
「ヅラ、どがぁした?」
坂本の心配そうな表情と声。それが再び、桂の妄想力を刺激した。
猫と坂本と見知らぬ想像上の女と、猫と己と見知らぬ女の立ち位置がどんどん変わって、その度に坂本の『わしが抱ちゃる』の声がグルグル回る。
その腕に抱かれているのは、猫で女で猫になった己で……
桂は頭を抱えて、妄想が広がるのを止めようとした。
「ヅラ?」
「俺は、猫じゃないぞッ!」
頭に触れた坂本の手を振り払い、怒鳴りつける。
大声を出した事で、妄想の中の猫と見知らぬ女が消えた。
頭の中と、瞳に映る現実が一つに重なる。
驚いた顔をしている坂本と、坂本の手を振り払った己の手。
「……ぁ」
妄想の爆発を言い訳したいが、己でも驚いて動揺してしまい上手く言葉が出ない。
坂本の前では知らぬうちに素の感情が出てしまうが、今回の様な妄想大爆発は初めてだった。
幾ら大らかな人間とはいえ、呆れられただろう。
でも、それでいい。己という人間は、一歩引いて付き合って貰うくらいが丁度いいのだ。
このまま無言で背を向けてくれれば、きっとこの訳の分からない感情も消えてくれる。
だから―――
「何を、当たり前の事をゆうてる? お前は猫じゃのうて、人間じゃよ」
振り払った手が、再び頭の上に乗せられて髪を撫でられた。
「さ、帰るぜよ」
腕を引いて歩くよう促し、歩き出すとさり気なく腕を解く。
言葉にも態度にも、何の責めも追及も無い。感じるのは寄りそう優しさだけ。
何か言ってくれてもいいのにと、物足りなく思ってしまった。
それは多分、心のどこかで彼は何も責めないと感じ取ったからこそ思う事なのだろう。
大らかで心の広い男。大雑把に見えて、実は細やかな思い遣りを持つ男。
知れば知るほど、心惹かれ……
心惹かれ、だと?
「いや! 断じて違う! そーゆー意味では無いッ!」
思わず声に出して、否定した。そうとも、その手の感情は男女で抱くものだろう。
いや、だが、しかし……
「どういた? 何をカリカリしちょる? もしかして、糞詰りか?寺で、厠借りるか?」
デリカシーの無い発言を聞いて、桂の舞い上がった気持ちが一気に落ち着いた。
「貴様の、そーゆートコがっ……」
ぽろっと、口から言葉が零れる。言えない言葉の続きは心の中で呟く。
(俺の気持ちを、掻き乱すのだ)
モヤモヤとした感情は、解析不能。心惹かれたのは、気の迷い。
全ては錯覚なのだと、そう己に言い聞かせる。
それに、妄想疲れも重なって小さな溜息が出た。
「なんじゃ?」
桂の溜息を聞きつけて、坂本が不可解な顔をする。
「なんでもない。気にするな」
これ以上変な態度を取ってはならないと、桂は気を取り直してぎこちないながらも笑みを浮かべた。
また遅れがちになっていた歩調を合わせて、二人並んで参道を抜ける。
寺から出ると、道行く人の姿がチラホラと増えていた。
野菜籠を持った老婆や、豆腐売りなど商いをしている姿が目立つ。
そろそろ夕餉の支度を始める刻限なのだろう。
別々に辺りを見回していた二人の視線が、互いの視線を捉える。
「帰るぞ」
今度はちゃんと、普通に笑いかける事ができた。
坂本も嬉しそうに、笑み返して頷く。
「おん! 帰るぜよ」
互いに互いの想いを知らぬまま、互いの手の甲が触れ合いそうなもどかしい距離で横に並ぶ。
後ろに長く伸びた影法師の方が、光加減の助けを借りてぴたりと寄り添っていた。
実体の方が互いの心を知り、寄り添うのはまだまだ先のお話。
了 2022.02.04
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