そーゆートコだぞっ!(攘夷辰桂)

坂本は耳を澄まして、扉の閉まる音を聞いてから境内に続く道へ足を踏み入れた。
寺を囲む土壁は高く、足下で砂利の立てる音以外は静かで人の気配もない。
「こりゃ、えい」
ぽつりと呟いて、歩を進める。境内に入り、本堂へ向かった。
本堂正面の観音扉が閉まっていることから住職は留守なのだろうと思い、賽銭箱の方へ足を向ける。
紐を引いて鈴を鳴らし、小銭を投げ入れた。
両手を合わせて静かに祈る。
桂の行いが、遺族の慰めになりますように。
そして、彼がもう少し己に心を開いてくれますようにと。
真剣に祈った後、顔を上げた。
「せめて、名前で呼きくれんかのぉ」
桂の幼馴染達は打ち解けて名前呼びをしてくれるようになったが、彼だけは頑なに苗字呼びを続けている。
親しく声をかけても、どこか警戒されているような一歩引いた距離を感じた。
触れると身を固くされ、酷い時には表情まで曇らせる。視線を外される事も間々あった。
思い返す内に、坂本の眉間に皴が寄る。
「まっことに、よお分からん男ぜよ……」
傍から見れば冷静沈着で、隙を見せない。
その顔だけを見せてくれれば、距離を取られ続ける事にもそういうものだと諦めがついた。
けれど、桂はごくまれに不思議な表情を見せるのだ。
あどけない子供の様な無垢さを見せられたかと思えば、縋る様な切ない眼差しを垣間見せる。
何に憤慨しているのか分からないが、怒りの目を向けられる時もあった。
おおよそ冷静沈着とは程遠い、豊かな感情を見せる。
それが、己に対してだけな気がするのは……
「わしの思い違いかぇ?」
己は特別だと思いたかった。
いや。そもそも特別だと思われたい願望ゆえに、桂の表情を己に都合良く解釈しているだけかもしれない。
坂本は癖の強い髪を、わしゃわしゃと掻き毟って賽銭箱から離れた。
「やっぱ、わし…… 惚れちょるんかのぉ?」
空を仰ぎ見て伸びをする。叶わぬ恋だとしても、嘆息したくなかった。
今はまだ、見詰めているだけでも構わない。
この想いが、抑えられなくなるその時が来るまでは。

「ほいじゃ、」
気持ちを切り替えるつもりで声を出し、ゆっくりと境内を見回す。
桂が内村の家族に遺髪を手渡し彼の最後を語るであろう間に、坂本もやりたい事があった。
運が良ければ、内村の想いを届けてやれるかも知れない。
彼の話では、この寺に居るはずなのだ。
住職に聞ければよかったが、いつ帰って来るのか分からない。
出来れば、桂が戻って来る前に済ませたかった。
雑談の中で知った事を話して、また桂の微妙な表情を見るのは何となく気まずい。
有耶無耶にしてしまったが、あの動揺の原因は何だったのだろうか?
気にはなったが、尋ねることによって逆に彼と桂のどんな話をしていたか聞き返されるのは避けたかった。
「盛大に別嬪じゃ、可愛ええ言うとったきにのお 」
こうした独り言でも、つい口に出てしまう。
これでは、うっかり口を滑らせてしまいそうだ。
多分、桂は褒め言葉とは受け取らず「男に対して可愛いなど馬鹿にしているのか!」と、怒るだろう。
そんな風に気分を害させるのは不本意だ。
「いかんちや。今は、おたまちゃん探しが先ぜよ」
桂への想いは一旦胸の底に沈め、己も内村の死を伝えなければと本殿の裏側へと歩みを進める。
なんとか見つけてやらなければと、大声で名前を呼び続けた。

***

「わざわざ、ありがとうございました」
内村の母親と長男の嫁が並んで、桂に深く頭を下げる。母親の目元はまだ濡れていたが、言葉はハッキリとしていて気丈さを見せた。
桂は黙礼してから、脇戸を潜る。
振り向かずとも、二人が頭を下げたままなのが気配で分かった。
後ろ手で扉を閉め、空を見上げる。
(約束は、果たしたぞ)
午後の陽射しは眩しく、桂は目を閉じた。
瞼の裏に内村の笑顔が浮かんだ気がして、胸が少し軽くなる。
「さて、坂本を回収して戻るか」
小さく呟いて、桂は寺の方へと足を進めた。


そう広い寺ではない。
境内まで来れば、坂本はすぐに見つかると思った。
しかし、境内にも本殿にも坂本はおろか人っ子一人いない。
「……待ちきれず、他に移ったのだろうか?」
辺りを見回しても、高い壁が邪魔で寺の外は見えなかった。
こんな場所で大声を出したくはないが仕方無い。
桂は坂本の名を呼ぼうと口を開いた瞬間、一瞬早く坂本の声が響いた。
「ん?」
どの方角から聞こえてきたのかと、神経を研ぎ澄ます。
「おたまちゃん、おたまちゃんじゃろ?」
先程よりは幾分小さくなった声が、もう一度聞こえた。
小さくと言っても、坂本の声は良く響く。
(おたまちゃん…… だと?)
桂の眉がピクリと上がる。
こんな所に、坂本の知り合いがいるのだろうか?
そんな疑問を即座に否定する。
坂本は土佐の出身だ、こんな遠く離れた土地に知り合いなど居るはずがない。
ならば、あの親しげな声音は何だと頭の中で自問自答する。
(まさか、色街の女と待ち合わせをしていた?)
桂の頭の中で、次々と色々な妄想が渦巻き始めた。

親切心で安房までの道程を付き合ってくれたのではなく、女と密会する為のダシに使われたのではないか。
いや、色街の女とは限らない。来る途中の茶屋の娘かも知れないと考えた。
会う約束を取り付けたから、内村の実家に同行せず寺に向かったのでは?
いや、待て。もしかしたら、兵舎近くの村娘かも知れない。
いや、いや、いや、村娘ならこんな遠くでこそこそと……
もしや、人妻だろうか? 人目を忍ぶ為に、こんな所まで?
そんな不貞は、いくらなんでも! そうとも、坂本はそんな男では…… あ、未亡人かッッッ!
あいつは優しい男だから、身の上話を聞いて慰めている内に深い仲に?
まさか、二人手に手を取って駆け落ちを!
いや、駄目だ!
坂本が、俺ではなく他の誰かと恋に落ちるなど……
「え? 俺は、今なにを」
己の妄想が、何かを暴き出しそうな流れに傾いた。
これ以上、突き詰めて考えてしまっては後戻りできなくなる気がして、一歩後じさる。
(聞かなかった事にしよう)
そう決めて、本堂に背を向けた。
だが、耳は容赦なく坂本の声を拾ってしまう。
「五郎から聞いちょったが通り、えらい別嬪さんじゃな」
桂の身が強張る。五郎とは、内村五郎の事だ。つまり、おたま殿は内村に縁のある女性なのだと。
またしても、胸のモヤモヤが広がる。
どうして話してくれなかったのだろうか?
坂本にとって、己とはどんな存在なのだろう?
幼馴染達の様に仲良しというほど親しくはないが、それでも他の仲間と比べれば辛うじて親しい方だと思っていた。
身構えはしたが、拒絶をした事は無い。
「……そう思っていたのは、俺の方だけなのか?」
フラフラと、本堂の柱に片手を付いて身を支える。
「どういた? 声が出んのか? ほれ、こっちゃ来い。恥ずかしがらんでえいよ」
坂本の声は、本堂の裏手から聞こえてきた。
穏やかで優しい声。
己に対してかけられた声ではないのに、つい足が誘いに乗ってしまいそうになる。
あの声で、明るい笑顔で、あの大きな手を差し伸べられたら、どうして抗えよう。
(おたま殿は、坂本が褒めるほど美しいのか?)
理由も分からずザワザワする心を必死に宥め、本堂の裏手を覗き込もうと身を傾けた。
「のぉ、おたまちゃん。五郎は、はやお前の許にゃー帰ってこん。国を守る為に、命を落としたがだ。しまいまで、立派に戦ったちや」
慰めに満ちた声音は、深く心に染みる。坂本の凪いだ海色の瞳で見詰められたら、おたま殿も心慰められるのではないか。俺なら、多分、きっと……
桂は、おたまの様子が気になって更に身を傾ける。
しかし、もっと前に進まなければ後ろ姿さえ見えない。坂本の声は大きいから聞こえてくるが、おたまの声は聞こえなかった。
桂は忍び足で、音を立てないよう歩く。
本堂側面ギリギリ角の手前まで来て、背中を壁に貼り付ける。首だけを捻って、本堂の裏を覗き見た。
桂の目に映ったのは坂本の背中だけで、その向こう側は見えない。
(おたま殿は、小柄なのだろうか?)
ふとそう思ったが、比べる相手が坂本では大抵の女性が小柄になってしまうと思い直した。
(つか、俺は何をコソコソと…… 内村の知り合いならば、俺も出て行っても構わぬではないか)
そう気付いたものの、入り込むきっかけと第一声が思いつかない。
「どれ。五郎の代わりに、わしが抱いちゃる」
悩んでいる最中に、坂本のとんでもない発言が聞こえた。
(いくら亡くなったとはいえ、戦友の女を寝取るだと!)
桂は一瞬で頭に血が上り、衝動のままその場から飛び出し叫ぶ。







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