そーゆートコだぞっ!(攘夷辰桂)
延び切った戦域に補給が追い付かず、大隊はやむなく撤退を選択した。
そのせいで、多くの将兵は予期せぬ休暇を与えられる事となる。
ある者は休息に使い、色好みの輩は色街に足を向け、鍛練に励む者もいれば、家族に手紙を書く者もいた。
いずれにしても、臨時の短期休暇でしかない。
一小隊長に過ぎない桂小太郎は、降って湧いた時間を利用して兵舎で兵法の本を読んでいた。
だが、半刻ほどで手にしていた本を閉じる。
幾つかの作戦を思いついたが、まだ小隊長程度の己では作戦を考えた所で採用される事は無いと思い至った。
小さく息を吐いて、本を荷物袋に戻す。
「己に出来る事をする方が、有意義だな」
独り言のつもりだったが、頭上から声がした。
「ほれじゃ、わしも付き合うぜよ」
見上げずとも、その朗らかな声音と独特の訛りで声の主が分かる。
数ヶ月前、桂の所属する部隊に加わった坂本辰馬だ。
彼は人懐っこい笑みと気さくな話術であっという間に部隊に解け込み、いつの間にか桂にも数年来の友の様な距離感で接してくる。
桂は坂本を一瞥し、首を傾げた。
「坂本、俺が何をするか分かって言っているのか?」
己がこれから何をするつもりか、坂本が知る筈はない。
機会があればと思っていた事だし、それを実行しようと思ったのは今だ。
勿論、それを誰かに漏らした事も無い。
だから、コレは少しばかり意地の悪い質問だった。
らしくないと自覚していたが、何故か坂本に対しては身構えてしまう。
「おん。アレじゃろ。わしも、行こうと思っちょったきに」
坂本は姿勢を下げて、畳に膝を着き中腰になった。
その行くという言葉とは裏腹の着流し姿に、桂は疑わしい視線を向ける。
「そんな恰好で、どこに行くつもりだ?」
「なんちゃーがやない、ちゃんと着替えるぜよ。ほれに、お前も人の事は言えんじゃろう」
軽く肩を掴まれた桂は、慌てて身を捩った。勢い余って、着物の衿が開く。
「えっ、ちょ、さかもっ」
「おん、すまん、すまん」
カラッと笑って、掴んだ肩から手を離す。
「ほんなら着替えたら、裏門に集合じゃ。肝心の形見、忘れきくれえよ」
言いたい事だけ言うと、桂の前から立ち上がり割り当てられた部屋へ着替えの為に戻って行った。
瞬く間に約束をしてあっさり去ってゆく背中を見送ってから、桂も着替えの為に立ち上がる。
「あいつ…… 何故、分かったのだ?」
それは半年も前の、守れないかもしれない約束。
戦の最中に、命を落とした部下の頼みだった。
『隊長、もし安房に行くことがあったら…… 母上に俺の戦死を、』
苦しい息の下、己の戦死の報告をして欲しいと。
『ああ! 必ず、立派な最期だったと伝える。約束するぞ!』
握ってやれる腕も無く、触れた肩までも腹からの出血で血塗れだった。
土色の顔には死相が浮かんでいる。
それでも、彼は約束の言葉に口角を上げた。
『ヅラッ! 連れていぬるぞッッッ!』
遺体を運ぶことなぞ望めない戦場で、部下の躯を抱き上げ流れる血で汚れる事も厭わず乱戦の中を駆け抜けたのは……
そうだ、あれは坂本だった。
いつから傍にいたのか? いつまで傍にいたのか?
あの時の記憶は曖昧で思い出せない。
運んだ遺体から形見の髪を一房切って、荼毘に付した。
『安房に戦場が移ったら、一緒に行きゆうよ』
背中に添えられた手が暖かくて、ただ黙って頷いた。
あの声も坂本のものだったのに、なぜ忘れていたのだろう。
余りにも自然に寄り添われ、別人かと思うほど静かだった。
だから俺は安心して、あいつに……
***
部下の名は、内村五郎。安房にある小さな村に、一族で住んでいたと言っていた。
武家とはいえ田舎侍で俸禄も僅か、そんな家の五男など出世の見込みも無く攘夷軍に身を投じたと。
そう話してくれたのは、いつだったか。
特に目立つ人物ではなかったが、明るく良く動く男だった。
だから戦さでは、伝令を頼んでいた。そのお陰か、幾つかの小隊と繋がりのようなものが出来ていたのだろう。
坂本が内村を知っていたのは、そのせいかもしれない。
駐屯所から安房まで、数刻の距離がある。その道行きの間、度々部下との時間に思いを馳せていた。
その記憶を辿る作業に、坂本の声が割って入る。
「あの先の林を抜けたら、村に着くぜよ」
桂は自身の物思いから覚め、隣を歩く坂本に視線を投げた。
桂と目が合うと、手にしていた地図を広げて一点を指差す。
「五郎の実家は、村の外れにあるらしいよ。近くに、寺があるから分かりやすいんやと」
「いつの間に、そんな情報を手に入れたのだ?」
さきほど立ち寄った街道の茶屋だろうかと思ったが、果たして茶屋の働き手が他所の村の事など知っているとは思えないと首を捻る。
「おん。五郎に教えて貰ったがだ。ちょくちょく話す機会があったきに、色々とのぉ」
直属の上官である己よりも、坂本の方が親しげだった事実に桂は言葉を失った。
誰にでも親しげな男だと分かっていたのに、何を今更動揺している?
ちょくちょく話していただと? 色々ってなんだ? つか、俺は何を気にしているのだ?
頭の中が疑問で一杯になり、気持ちはモヤモヤとした。
足は自然と速まり、坂本が羽織の袖を引かなければ走っていたかも知れない。
「ほがーに急ぐと、転ぶぞ。五郎ん家は逃げはせんから、なんちゃーがやないやき」
声に呆れの感情が含まれている気がして、桂は速度を落とした。
もしかして、内心の動揺を見透かされたのだろうかと不安になる。
(動揺というか…… これは、嫉妬…… なのか?)
思い付いた言葉に、ハッとした。
この感情は、同じ上官として人心把握の才が劣っていると感じたからなのだろうか。
それだけではない、モヤモヤとした思いが心の底に蟠る。
「けんど、お前みたいな優しい上官を持てた五郎は幸せもんぜよ」
「えっ」
袖から離れた大きな手が、桂の頭を撫でた。
向けられた陽だまりの様な暖かい微笑みが、桂の気持ちを揺らす。
「俺は、優しくなど……」
優しくなどないと、桂は言い淀む。
今は亡き部下の事を最優先に考えるべきなのに、下らぬ嫉妬で心を揺らした。
次第に情けない思いが込み上げて来る。
「いや、知っちゅうよ」
落ちてゆく気持ちを掬い上げるような優しい声と、力強い言葉。
「五郎も、良く話してくれとったが。優しい、良い上官やとな。わしも、そう思うぜよ」
そう聞いて、驚くほど気持ちが軽くなった。蟠っていたモヤモヤまでも消え失せる。
「お前、内村と俺の話を?」
「おん、ほぼ、お前の話ぜよ!」
明るく断言されて、桂の顔色も明るくなった。
「俺の話とは、何だ? 何を話していたのだ!」
聞きたい、知りたいと、心が騒ぎ出す。不思議なほど、浮足立つのが分かる。
「ヅラ、ちゃんと前見て歩け。ほがな歩き方してると、村に着く前に日が暮れるぜよ」
地図を懐にしまった坂本は、桂の前に出て真っ直ぐ歩くよう促した。
大股で進んでゆくのに、桂も慌てて後を追う。
その追い駆けっこで、話しは有耶無耶になってしまった。
(ううむっ。誤魔化された気がする)
桂は、帰り道にもう一度問い詰めようと心に決めた。
***
村の外れに建つこじんまりとした武家屋敷は、すぐ目に付いた。
田畑を挟んだ隣に、古い寺もある。
「ここで、間違いなさそうだな」
桂が門を見上げていると、坂本がその肩を叩いた。
「わしゃ、隣の寺におるきに。挨拶が済んだら、呼きくれ」
直接の上官ではないからと遠慮したのか、遺髪を届けるという役目が苦手なのか?
坂本の意図は分からないが門前で話し込むのは失礼だろうと判断し、桂は頷くだけで了解とした。
坂本が背中を向けた所で、桂は門を叩く。
返事が無かったので、もう数度叩いて声を張った。
今度は声が届いたのだろう、中から声がして脇戸が開く。
女中というには身綺麗で、五郎の母というには若過ぎる女性が出てきた。
大方、彼の兄嫁あたりだろうか?
桂は名を名乗り、用向きを伝えた。
女は最初驚きを見せたが、すぐに表情を改める。
「どうぞ、中へお入りくださいませ」
導かれて脇戸を潜る前に一度、寺の方へ視線を投げたがもう坂本の背中は見えなかった。
そのせいで、多くの将兵は予期せぬ休暇を与えられる事となる。
ある者は休息に使い、色好みの輩は色街に足を向け、鍛練に励む者もいれば、家族に手紙を書く者もいた。
いずれにしても、臨時の短期休暇でしかない。
一小隊長に過ぎない桂小太郎は、降って湧いた時間を利用して兵舎で兵法の本を読んでいた。
だが、半刻ほどで手にしていた本を閉じる。
幾つかの作戦を思いついたが、まだ小隊長程度の己では作戦を考えた所で採用される事は無いと思い至った。
小さく息を吐いて、本を荷物袋に戻す。
「己に出来る事をする方が、有意義だな」
独り言のつもりだったが、頭上から声がした。
「ほれじゃ、わしも付き合うぜよ」
見上げずとも、その朗らかな声音と独特の訛りで声の主が分かる。
数ヶ月前、桂の所属する部隊に加わった坂本辰馬だ。
彼は人懐っこい笑みと気さくな話術であっという間に部隊に解け込み、いつの間にか桂にも数年来の友の様な距離感で接してくる。
桂は坂本を一瞥し、首を傾げた。
「坂本、俺が何をするか分かって言っているのか?」
己がこれから何をするつもりか、坂本が知る筈はない。
機会があればと思っていた事だし、それを実行しようと思ったのは今だ。
勿論、それを誰かに漏らした事も無い。
だから、コレは少しばかり意地の悪い質問だった。
らしくないと自覚していたが、何故か坂本に対しては身構えてしまう。
「おん。アレじゃろ。わしも、行こうと思っちょったきに」
坂本は姿勢を下げて、畳に膝を着き中腰になった。
その行くという言葉とは裏腹の着流し姿に、桂は疑わしい視線を向ける。
「そんな恰好で、どこに行くつもりだ?」
「なんちゃーがやない、ちゃんと着替えるぜよ。ほれに、お前も人の事は言えんじゃろう」
軽く肩を掴まれた桂は、慌てて身を捩った。勢い余って、着物の衿が開く。
「えっ、ちょ、さかもっ」
「おん、すまん、すまん」
カラッと笑って、掴んだ肩から手を離す。
「ほんなら着替えたら、裏門に集合じゃ。肝心の形見、忘れきくれえよ」
言いたい事だけ言うと、桂の前から立ち上がり割り当てられた部屋へ着替えの為に戻って行った。
瞬く間に約束をしてあっさり去ってゆく背中を見送ってから、桂も着替えの為に立ち上がる。
「あいつ…… 何故、分かったのだ?」
それは半年も前の、守れないかもしれない約束。
戦の最中に、命を落とした部下の頼みだった。
『隊長、もし安房に行くことがあったら…… 母上に俺の戦死を、』
苦しい息の下、己の戦死の報告をして欲しいと。
『ああ! 必ず、立派な最期だったと伝える。約束するぞ!』
握ってやれる腕も無く、触れた肩までも腹からの出血で血塗れだった。
土色の顔には死相が浮かんでいる。
それでも、彼は約束の言葉に口角を上げた。
『ヅラッ! 連れていぬるぞッッッ!』
遺体を運ぶことなぞ望めない戦場で、部下の躯を抱き上げ流れる血で汚れる事も厭わず乱戦の中を駆け抜けたのは……
そうだ、あれは坂本だった。
いつから傍にいたのか? いつまで傍にいたのか?
あの時の記憶は曖昧で思い出せない。
運んだ遺体から形見の髪を一房切って、荼毘に付した。
『安房に戦場が移ったら、一緒に行きゆうよ』
背中に添えられた手が暖かくて、ただ黙って頷いた。
あの声も坂本のものだったのに、なぜ忘れていたのだろう。
余りにも自然に寄り添われ、別人かと思うほど静かだった。
だから俺は安心して、あいつに……
***
部下の名は、内村五郎。安房にある小さな村に、一族で住んでいたと言っていた。
武家とはいえ田舎侍で俸禄も僅か、そんな家の五男など出世の見込みも無く攘夷軍に身を投じたと。
そう話してくれたのは、いつだったか。
特に目立つ人物ではなかったが、明るく良く動く男だった。
だから戦さでは、伝令を頼んでいた。そのお陰か、幾つかの小隊と繋がりのようなものが出来ていたのだろう。
坂本が内村を知っていたのは、そのせいかもしれない。
駐屯所から安房まで、数刻の距離がある。その道行きの間、度々部下との時間に思いを馳せていた。
その記憶を辿る作業に、坂本の声が割って入る。
「あの先の林を抜けたら、村に着くぜよ」
桂は自身の物思いから覚め、隣を歩く坂本に視線を投げた。
桂と目が合うと、手にしていた地図を広げて一点を指差す。
「五郎の実家は、村の外れにあるらしいよ。近くに、寺があるから分かりやすいんやと」
「いつの間に、そんな情報を手に入れたのだ?」
さきほど立ち寄った街道の茶屋だろうかと思ったが、果たして茶屋の働き手が他所の村の事など知っているとは思えないと首を捻る。
「おん。五郎に教えて貰ったがだ。ちょくちょく話す機会があったきに、色々とのぉ」
直属の上官である己よりも、坂本の方が親しげだった事実に桂は言葉を失った。
誰にでも親しげな男だと分かっていたのに、何を今更動揺している?
ちょくちょく話していただと? 色々ってなんだ? つか、俺は何を気にしているのだ?
頭の中が疑問で一杯になり、気持ちはモヤモヤとした。
足は自然と速まり、坂本が羽織の袖を引かなければ走っていたかも知れない。
「ほがーに急ぐと、転ぶぞ。五郎ん家は逃げはせんから、なんちゃーがやないやき」
声に呆れの感情が含まれている気がして、桂は速度を落とした。
もしかして、内心の動揺を見透かされたのだろうかと不安になる。
(動揺というか…… これは、嫉妬…… なのか?)
思い付いた言葉に、ハッとした。
この感情は、同じ上官として人心把握の才が劣っていると感じたからなのだろうか。
それだけではない、モヤモヤとした思いが心の底に蟠る。
「けんど、お前みたいな優しい上官を持てた五郎は幸せもんぜよ」
「えっ」
袖から離れた大きな手が、桂の頭を撫でた。
向けられた陽だまりの様な暖かい微笑みが、桂の気持ちを揺らす。
「俺は、優しくなど……」
優しくなどないと、桂は言い淀む。
今は亡き部下の事を最優先に考えるべきなのに、下らぬ嫉妬で心を揺らした。
次第に情けない思いが込み上げて来る。
「いや、知っちゅうよ」
落ちてゆく気持ちを掬い上げるような優しい声と、力強い言葉。
「五郎も、良く話してくれとったが。優しい、良い上官やとな。わしも、そう思うぜよ」
そう聞いて、驚くほど気持ちが軽くなった。蟠っていたモヤモヤまでも消え失せる。
「お前、内村と俺の話を?」
「おん、ほぼ、お前の話ぜよ!」
明るく断言されて、桂の顔色も明るくなった。
「俺の話とは、何だ? 何を話していたのだ!」
聞きたい、知りたいと、心が騒ぎ出す。不思議なほど、浮足立つのが分かる。
「ヅラ、ちゃんと前見て歩け。ほがな歩き方してると、村に着く前に日が暮れるぜよ」
地図を懐にしまった坂本は、桂の前に出て真っ直ぐ歩くよう促した。
大股で進んでゆくのに、桂も慌てて後を追う。
その追い駆けっこで、話しは有耶無耶になってしまった。
(ううむっ。誤魔化された気がする)
桂は、帰り道にもう一度問い詰めようと心に決めた。
***
村の外れに建つこじんまりとした武家屋敷は、すぐ目に付いた。
田畑を挟んだ隣に、古い寺もある。
「ここで、間違いなさそうだな」
桂が門を見上げていると、坂本がその肩を叩いた。
「わしゃ、隣の寺におるきに。挨拶が済んだら、呼きくれ」
直接の上官ではないからと遠慮したのか、遺髪を届けるという役目が苦手なのか?
坂本の意図は分からないが門前で話し込むのは失礼だろうと判断し、桂は頷くだけで了解とした。
坂本が背中を向けた所で、桂は門を叩く。
返事が無かったので、もう数度叩いて声を張った。
今度は声が届いたのだろう、中から声がして脇戸が開く。
女中というには身綺麗で、五郎の母というには若過ぎる女性が出てきた。
大方、彼の兄嫁あたりだろうか?
桂は名を名乗り、用向きを伝えた。
女は最初驚きを見せたが、すぐに表情を改める。
「どうぞ、中へお入りくださいませ」
導かれて脇戸を潜る前に一度、寺の方へ視線を投げたがもう坂本の背中は見えなかった。
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