知っちゅうか?

「……半年だぞ、半年」
つい先ほどまで機嫌良く飲んでいた桂小太郎が、そう呟いてカウンターテーブルに杯を置いた。
しかし飲み屋のざわめきの方が大きくて、その呟きは隣に座る坂本辰馬の耳にまで届かない。
「ん?」
だから坂本の視線は、音がした桂の手元にある杯の方へと注がれた。
女のような白く滑らかな肌だが、ちゃんと成人男性の大きさ逞しさがある。
それなのに、その手に艶っぽさを感じてしまうのは半年間の航海のせいだろうか。
いや、それだけではない。その理由はたくさんあると心中で独り言ち、微かな笑みを口元に湛えたまま視線を上へと移していった。
きっちりと着込んだ羽織の上に、黒絹のような長い髪が流されている。
そこから覗く酔いに赤く染まった頬と耳。端正な横顔に魅入っていると、突然頭突きが飛んできた。
「痛っ、痛いぜよ、こたろ」
「一人でニヤニヤしおってッ! 馬鹿者がっ!」
坂本の文句に、桂が怒鳴り声を被せる。
その勢いに気圧されて、坂本は問い返す言葉を失した。
それでも頭の中で必死に考える。一体何が、桂の機嫌を損ねさせたのだろうかと。
三か月の予定の航海が、取引先の都合で半年に伸びた。
お陰で愛しい恋人・桂と半年も会えなかったが、それが理由なら駅で待ち合わせした時点から不機嫌でなければおかしい。
さっきまでは上機嫌だったのだから、原因は他にあるはずだ。
坂本は、数分前に話していた内容を思い返して頭を捻る。
酒と料理の話、それから桂が隠れ家を変えたこと。
特に怒らせるような会話は、なかったように思う。
「あ、あのー、小太郎さん?」
分からないが、久しぶりの再会なのだから楽しい時間を壊したくない。
ここは下手に出て原因を探るべきだと、猫撫で声を作った。
「なんだ、その言い方はっ」
ゆらりと席を立ち、桂の右手が刀の柄にかかる。
坂本を睨み付ける眼は血走り、完全に座っていた。
(ヤバい、わや酔っ払っちゅう!!)
横目でカウンターの上を見ると、数本の徳利が転がっている。
「ありゃぁ……」
いつの間にあんな大量に飲み干していたのかと額に手を置いた刹那、白刃が目前に迫って来た。
酔っ払いとは思えぬ速さと、刃より後に湧き上がる殺気を受けて、背中に冷たい汗が伝う。
桂が寸止めしていなければ、確実に傷を負っただろう。
言葉を交わさぬ二人とは逆に、刃傷沙汰だと見て取った周りの客が驚きの悲鳴を上げた。
「お、お、お客さんんっ」
震える声で、店主がカウンター越しに声をかける。青ざめた顔色から、勇気を振り絞っているのが分かった。
「おお、なんちゃーない。酔っ払いが、ほたえちゅうばあやき、気にしやーせき」
これ以上騒ぎを起こしては、真選組を呼ばれかねない。
そうなると困るのは、攘夷党党首として指名手配されている桂の方だ。
もちろん、坂本とて桂の身柄を渡すつもりなどない。
眼前で寸止めされている刀を白刃取りの要領で挟み込み、力任せに下方へと捻じ伏せた。
幸い桂は抵抗せず、無表情で刀を鞘に納める。
「酔ってなど、おらぬっ」
今度はそう言って、坂本のコートの襟に掴みかかった。
「おん、酔っちょらんのぉ。わかっちゅうぜよ」
胸元に来てくれた今がチャンスと、片手で桂の肩を引き寄せる。
「店主、おあいそ頼む。迷惑かけたな、すまんの。釣りはいらんぜよ」
桂を胸に抱いたまま早口で捲くし立てポケットから財布を取り出し、二人分の飲食代に多多少の色をつけてカウンターに置く。そうすれば、後から通報される事も無いだろう。
そのまま周囲の好奇の視線から桂の身を隠す様にして、足早に店を出た。



酔って足元の覚束無い桂を連れて帰ろうとしたが、また新しい隠れ家の住所は聞いていなかった。
話しかけても、不機嫌な表情で睨み返されるばかり。
呂律が回らなくて黙っているのだろうと、思うことにして馴染みのホテルへと桂を連れ込んだ。
ターミナルのホテルのように豪奢ではないが程よい広さがあり、ソファーとテーブルで隔てられたキングサイズのベッドが気に入っている。
足元の覚束ない桂を支えて羽織を脱がせ、腰の得物をテーブルの上に置かせた。
ベッドに誘導して腰掛けさせ「水を持ってくるきに」と話しかける。
くだを巻くだろうかと思ったが、素直に頷いてくれた。
「ほれ、飲め」
手渡されたコップを受け取った桂はいっきに水を飲み干して、空になったコップを無言で坂本に押し返す。
坂本も無言でコップを受け取り、テーブルに置いてある水差しの隣に置いた。
「はや、えいかぇ?」
おかわりはいらないかとの問いに、桂は左右に首を振る。
桂の視線は落とされ、坂本の方を見ない。
桂の気持ちは分からないが、離れがたい思いからベッドに足を向ける。
坂本が隣に腰かけると、桂は首だけ巡らせてジッと見詰めた。
その視線から、瞳に怒りの感情が見えなくなっているのに気づく。
「小太郎?」
伺うように名前を呼ぶと、僅かにベッドが軋んで左肩に桂の頭の重みがかかった。
身を委ねてくる桂を受け止め、左腕で包むように肩を抱く。
愛しい温もりと、しなやかな髪の感触。桂の匂いに、帰ってきたのだとの思いが溢れた。


***


肩を抱く腕から伝わってくる労りと優しさ。
ずっと待ち焦がれていた心地好い温かさに、荒ぶっていた気持ちが解かされてゆく。

『難しい商談じゃないきに、三ヶ月で帰るぜよ』

そう聞かされて見送ったけれど、三ヶ月経ってもなんの連絡も来なかった。
航海の日程が前後するのは良くあること。
そう思って日々をやり過ごす内に、更にひと月が過ぎていた。
(三ヶ月だと言ったではないか!)
怒りと不安がせめぎ合い、天人のニュースサイトまで目を通すのが日課になる。
便りがないのは、元気な証拠。
そんな月並みな言葉で己を誤魔化して、次の一ヶ月を乗り越えた。
何らかの事故やトラブルなら、快援隊商事の大江戸支店に連絡が入っているのではないか?
しかし、部外者が航海予定を聞いた所で答えてくれる可能性は低い。ましてトラブル事ならば、社外秘ではないか。
これが天誅に関する事柄なら非合法な隠密行動をする覚悟もあるが、己個人の感情的な話となると別だ。
悶々とした時間を、砂を噛むような思いで過ごす日々。

『一週間後に、いぬるぜよ』

一通のメールが届いた。予想外の事態が起きて、帰国が遅れていたと。
ただそれだけで、詳細は書かれていなかった。
それでも、この三ケ月に及ぶ日々の焦燥と不安が掻き消される。
遅い連絡だったが、怒りより安堵を覚えた。

帰ってきたら、どこで待ち合わせしようか?  隠れ家近くに、美味い酒と料理を出す店はあったか探さなければ。
いや、家でエリザベスと一緒に皿鉢料理を作ってやった方が喜ぶだろうか? あいつの着る着物を出しておかねばならんな。
そんな諸々の考え事や準備をしていると、一週間は瞬く間に過ぎた。

駅前で待ち合わせをしたのは、方向音痴の坂本を思ってのこと。
少しでも早く会いたい。そんな想いも手伝って、待ち合わせより早く着いた。
人より頭一つ高い坂本の姿を見つけ、同じ想いだったのかと嬉しくなる。

互いに見つけ合い、駆け寄って眼差しを交わす。
夜空に突然日が昇って来たかのような明るい『ただいま』の声が響き、蕾が綻ぶような優しい微笑みと共に応える『おかえり』の声には喜びが滲む。
相手の瞳の中に変わらぬ愛情を感じ取りながら挨拶をして、並んで歩きだす。
人通りさえなければ、抱擁を交わしたい程の喜びを抑える為に歩く速度が速まった。
酒も料理も美味いと評判の店に入り、カウンター席に並んで座る。
半年ぶりの逢瀬に心が弾み、酒が進んだ。
坂本は地球に不在の間の事を知りたがり、桂はここ半年の世間の事や幕府の事、己がどう過ごしていたかを語る。
彼を、どんなに心配して日々を過ごしたのかについては触れなかった。
ただ一言『長い航海だったな、疲れただろう』と労いの言葉に、皮肉の色を込めてしまったのは酒精のせいだろう。
喜びに高ぶっていた気持ちが、酒に酔って緩んでしまった。

『なぁに宇宙を駆け巡っちゅうと、疲れらぁて感じんよ。時間なんぞ、あっとゆう間に過ぎるぜよ』
坂本がさらりと答えた言葉。
頭では、解っている。ただ、航海が楽しくて言った言葉だと。
けれど、酔いは感情のコントロールを失わせた。
『……半年だぞ、半年』
抑えようとしても、溢れてくる憤り。
どこか彼方の宇宙にいる彼の身を、どれほど案じたか。
彼から遠い地球で、どれだけの不安に耐えたか。
坂本が知らない一方的で勝手な思いだが、ぶつけずにはいられなかった。

そんな感情も爆発も、店を出て静かな部屋に入れば次第に収まってくる。
熾火のような燻りは、コップ一杯の水で沈下された。
肩を抱かれて坂本の温度を感じ、心の平安を取り戻す。
それと同時に、なんとも申し訳ない気持ちが込み上げてきた。


***

坂本は桂の身を更に胸元まで抱き寄せて、黒髪に頬を摺り寄せる。
「あぁ、小太郎の匂いぜよ」
しみじみと、深い声でそう呟く。
「嗅ぐな、馬鹿者がっ」
言葉ほどの勢いはない声音を聞いた坂本は、もう片方の手も回して抱き締めた。
抵抗が無いのは許された証拠と、桂を抱く腕に力を籠める。
そのままベッドに押し倒そうとしたが、桂の方が先に坂本の上に乗っかった。
「こた?」
「……っぞっ」
心配していたのだぞっ、淋しかった、逢いたかった……
どの思いを口にしたのか? 発言した桂自身も、聞き取れなかった坂本にも分からない。
それでも背中に回された桂の腕が、その全ての思いを伝えていた。
坂本が桂の潤んだ瞳を覗き込めたのは一瞬で、胸元に桂の顔が押し付けられる。
「こた、こぉた」
あやすように背中を撫でると、額を擦り付けてくぐもった声で何か呟く。
言いたいことを我慢せず、話して欲しい。
出会った頃に比べれば話してくれるようにはなったが、まだまだ溜め込む癖が残っている。
だから、彼が何を思っているのか?
どんな言葉を、飲み込んだのか?
考えなければと思考を巡らせる。抱き締める事で、桂の心が読み取れたならいいのにと思いながら。
「……お前の匂いだ」
やっと聞き取れた声には、安堵の色が滲んでいた。
先程の自分と同じように、桂も同じ想いを噛みしめているのだろう。
半年の間離れていても、想う心は同じ……

『長い航海だったな、疲れただろう』

不意に、桂の言葉の意味を汲み取れた。
長い航海に対して、何と応えただろうか。
時間があっという間に過ぎたと、言葉にした。
自分が宇宙を飛び回っている間、桂は帰る日を待っていてくれたのに!
交わした約束は、三か月だった。
倍に長引いた航海を、桂はどう受け止めただろう?
知らせが無い日々を、どう過ごしていたのか?
出迎えて貰って、最初に話す言葉を間違えた自分を殴りたい!
「小太郎、長いこと心配かけてしょうまっこと悪かった。許しとおせ」

坂本は腕の力を緩め、最初に言うべきだった言葉を口にする。
その言葉に、桂はゆっくりと顔を上げた。
最初に見せたのは呆れたような顔で、次第に拗ねたような怒り顔に変わる。
それから抱擁を解き、両手で坂本の両頬を抓った。
「遅いわ、馬鹿者ッ!」
「いひゃい、いひゃいっ」
坂本の情けない声と表情を見て、桂は抓るのを止める。
「俺も…… 店で暴れてすまなかった」
桂は坂本の上からおりて、ベッドの上に正座し詫びた。
「いや、お前の怒りは当然のことぜよ。謝らきくれ」
坂本も身を起こして、桂の前に正座する。
互いに頭を下げ合い、頭と頭がコツリとぶつかった所で、どちらからともなく笑い声が漏れた。
「お説教から、始めるかの?」
「こうして無事に帰ってきてくれたのだから、もうよい」
大人しく正座したままの坂本の手に、自分の手を重ねて微笑む。
「出来るなら、お前と共に暮らしたい。だが、お前の仕事は宇宙にある。俺は攘夷を成すまで、地球を離れる事は無い。……お前は遠い宇宙で、俺は地球側で。俺達は互いに、待たせ合っているのだな」
今度は坂本が掌を返して、桂の手を握り込んだ。
「のぉ、小太郎」
優しく名を呼び、瞳を覗き込む。
その視線から逃れる様に、桂は睫毛を伏せた。目指す所は同じでも、選んだ道を変える事は出来ないと。
坂本は逸らされた視線を取り戻したくて、桂の手を自分の方へ引き寄せた。
不意をつかれた桂は中腰になり、坂本の胸元へ倒れ込む。

「おいっ、こら、たつ」
辰馬と、最後まで言い切る前に膝裏を掬われる。
次の瞬間には、坂本の膝上に抱えられるように乗っていた。
「小太郎、知っちゅうか?」
桂の躰を支え、耳元に囁きかける。
「何を?」
先程のしんみりとした雰囲気を変えようとしての話題転換だろうと、抗うことはせず話に乗ることにした。
「わしらの住んじゅうこの星は、丸いちや」
「そんなこと、知っている」
当たり前のことを言ってくるのに、桂は首を傾げる。
まさか、そんなことも知らないと思われているわけではないだろうと。
話の流れも着地点も分からないが、話を打ち切る気にはなれない。
今はまだ、この久しぶりの温もりを感じていたかった。
桂は話の続きがあるのだろうと言葉で促す代わりに、坂本の肩に頭を凭れかかる。
坂本は、桂の無言の要求に笑みを深くした。
「ほんなら、宇宙がこじゃんと広いことも?」
「当たり前だ」
簡単な返事なのに、桂が答えるのに一拍の間があった。
軽い質問と心地良い坂本の腕の中、小さな蟠りは溶けて酔いも手伝ったのか桂の瞼は下がってゆく。
「それなら、こがな風に考えてくれんろうか?」
桂を支える坂本の腕が、ふわりと桂を抱き締める。
「……こんな風に?」
何をどう考えろというのか、問いかけの意味を考えるのが億劫になってきた。
考えられなくとも、せめて次の言葉を聞き終えるまではと、途切れそうになる意識を保つ。
「遠い宇宙じゃのうて、広い宇宙が丸い地球を包み込んじゅうって。大事な、大事な宝物を、抱き締めちゅうみたいにの」
「遠くて広い宇宙か…… お前みたいだ」
(ああ、そういう事か)
桂はクスリと笑って目を閉じる。もう、睡魔に抗わなくてもいいと。
意味など考えなくても、坂本が何を言いたいのか答えが見つかった。
そう考えていれば、少しは淋しさが埋められる。
「おん、地球はお前さんじゃよ」
目を閉じたままの桂の額に、そっと口づけを落とした。
実際の距離は離れていても、心はいつも近くにあるのだと分かってくれただろうか?
もう一度、理解を宿した瞳で見詰め返してくれないかと桂の閉じられた瞼を見詰めた。
そうしたら愛していると囁いて、変わらぬ想いを確かめ合おう。
「小太郎?」
呼び掛けても、返ってくるのは安らかな寝息だけ。
「ありゃ、寝落ちちゅう」
小声で呟き、苦笑する。
坂本は桂を横抱きにしたまま、一度ベッドから降りた。
ソファーに移して帯を緩め、単衣姿にして寝支度を整えてやる。
もう一度抱き上げて、ベッドの上に横たえた。
安心しきっているのだろう、一向に目覚める様子も無い。
「おやすみ、こたろ」
桂の横に身を滑り込ませ、寝息を立てている唇に素早く口づける。
(小太郎、知っちゅうか? お前のことをずっと昔からわしのいぬる場所・わしの地球だと思っちゅうこと)
心の中でそう語りかけ、坂本も目を閉じた。




了 2023.6.10






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