朧、誕生日おめでとう!
「朧、おかえりなさい!」
朧が引き戸を開けるより早く、松陽の声と共に内側から引き戸が開けられた。
飛び出してきた松陽の笑顔が予想外過ぎて、驚きと安堵の気持ちが混ざり合い、朧の表情は気の抜けたものになる。
「た、だいま、戻りました」
何とか帰宅の挨拶の声を出したが、まだ足が踏み出せない。
そんな朧の状態を松陽は気にも止めず、いや、焦れたように朧の手を取り中に引き入れた。
「さあさあ、皆待っていますよ。ほら、これ掛けて!」
「申し訳ござ、はっ?」
急かされ、脱いだ草履を揃える間も与えられず、タスキを手渡される。
タスキには、【今日の主役】と書かれていた。
それを見ても、全く訳が分からないという表情で首を傾げる。
「今日が何の日か、覚えていないのですか?」
朧の反応に、松陽は少しあきれ顔を見せて問いかけた。
「申し訳ございません。さっぱり見当がつきません」
心から申し訳なさそうに、声を絞り出して答える。
寺から、家に帰るまでも考えたが分からなかったのだ。問われたからと、急に閃いたりしない。
「まったく、君という子は」
松陽は苦笑してタスキを指差したが、それでもなお反応が得られないのに諦めて、今度は朧の背中を押した。
「居間に入れば分かります。弟弟子たちの前では、そんな困った顔をしてはいけませんよ」
「先生、あの、暫しお待ちをっ」
弟弟子達のことを言われて、朧は深呼吸する。
訳の分からない事態でも、師の言葉通り年長者として落ち着いた態度でいなければならない。
朧は顎を上げ、背筋を伸ばして居間の襖を開いた。
「おめでと、兄さん!」
「朧兄さん、誕生日おめでとうございます」
「兄弟子、おめでとう」
「おめでとさん、朧」
襖を開いた途端、子供達の眩しい笑顔と明るい声が飛んでくる。
それだけで、先程までの焦燥が嘘のように解けて消えた。
自然に頬が緩み口角が上がる。
「もう、分かりましたね」
背中を押す暖かな手と、優しい声音。
居間の壁に飾られた色紙の鎖と紙で作られた花、お誕生日おめでとうと書かれた段幕に目を瞠る。
すっかり忘れていたが、今日は自分の誕生日だった。
朧は瞬きを繰り返して、涙が出そうになるのを堪える。
こんな良き日は、涙よりも笑顔を見せたい。それが、嬉し涙だとしても。
「ありがとう。俺の為に、こんな……」
喜びを言葉にするのは、何と難しいのだろう。ただ、嬉しいと伝えるだけでは到底足りない。
「さあ、主役は上座へ。皆、朧の帰りを待っていたのですよ」
松陽は、朧を部屋の一番奥の席へと導く。
そこは松陽のいつもの席だった。長方形の座卓の短辺に家長として座していたが、今日ばかりは遠慮する朧を主役だからと座らせる。
「朧兄さん、どうぞ」
小太郎が取り皿と、すまし汁を朧の前に並べた。
座卓の中央には酢飯を入れた桶が置いてあり、周辺を取り巻くようにイカやタコ、マグロやエビ、卵焼きやツナマヨなど他にも様々な具材を盛った皿が並べられている。
海苔や醤油皿も、きちんと人数分用意されていた。
「誕生日の料理だから、皆で楽しく食べられるよう、手巻き寿司にしました」
笑顔溢れる食事の時間を、兄弟子は喜んでくれるだろうかと、小太郎はジッと朧の顔を見詰める。
熱心な視線を注がれ、これが小太郎からの贈り物だと気付く。
「凄いな! これだけ準備するのは大変だっただろう。楽しく食べられるのは、とても嬉しい。ありがとう」
感謝の言葉と共に頭を撫でると、小太郎は誇らしげな笑みを浮かべてから「少しだけ先生に、手伝っていただきました」と、付け加えた。
朧が斜め前に座った松陽の方に視線を向けると、優しい笑顔が返される。
その隣に座る信女に目をやると、信女は即座に立ち上がった。キラキラと瞳を輝かせ、水を満たしたコップを大事そうに両手で捧げ持ち、慎重な足運びで朧の前までやってくる。
「あのね、川の底で見付けた宝物なの。兄さんに、あげるわ」
コップの底に沈んでいる丸い石は、部屋の照明と揺れる水の反射を受けて輝いていた。
信女の瞳と同じ煌めきを見て、朧は確かに宝物だと共感する。
「ありがとう、信女。こんな凄い宝物が、川に沈んでいたとは驚きだ。よく見つけたな!」
朧の大袈裟な反応に、信女は有頂天になった。鼻腔を膨らませ、ふふっと得意顔で顎をあげる。
「はい、どうぞっ」
「大事に飾らせて貰おう」
手渡されたコップを恭しく受け取り、受け皿の隣に置く。それから、信女の小さな手を両手で包んだ。
「川の水は冷たかっただろうに。よく頑張ったな」
銀時と一緒に、ずぶ濡れで帰ってきた日を思い出す。あんな寒い日だったのに、一生懸命に贈り物を探してくれたのだと思うと、胸の奥が熱くなった。
「でも、あまり危ない事はしちゃ駄目だからな。本当に、風邪を引かなくて良かった」
包んだ手に力を込める。皆が健やかに日々を過ごしてくれるのが、一番嬉しいのだと伝えるように。
「大丈夫、馬がいたから」
「馬が?」
信女の視線が、朧から銀時に移る。
背負って貰ったことを言っているのだろうと、朧と見当がついた。もちろん、銀時自身にも。晋助と小太郎だけが、不思議そうに信女を見ていた。
「馬とは、ウマいこと言いますね!」
もう一人、事情を知っている松陽がポンっと手を打って笑う。思いついた駄洒落を口に出来て、にこにことご機嫌顔になった。
座が白けそうになるのを遮って、朧が拍手と共に声を上げる。
「さすが、先生! 馬と上手いを、掛け合わされたのですね」
「いや、いや、いや、止めてっ。松陽が調子に乗ること言うの、マジで! コレ、やるから!」
松陽が返事を返すより先に銀時が立ち上がって、信女の背後から朧の隣へと移動し食卓に長方形の紙片を置いた。
紙片は色紙のようで、数枚ある。文字が書かれているようだが、銀時の手が上に乗せられたままなので読み取ることが出来ない。
「銀時、これは?」
貰ったものなら触っても良いのだろうと判断して、銀時の手の下から紙片を抜き取りながら問いかける。
「見た通りだよ。有効期限は、おれの誕生日までな」
ゆっくりと朧から顔を背けて、小さく言葉を付け足した。
「おめでとさんっ」
その照れた声音は、紙面に視線を落としていた朧の耳に届く。
声の調子と、紙面に書かれた【お手つだいけん/なんでもや銀時】の文字に、朧は破顔した。
(あの小さかった銀時が、こんな贈り物をッ!)
最初に出来た小さな弟弟子、銀時の成長が殊更嬉しくて自制しようとしても、勝手に口元が緩む。
晋助や小太郎が兄弟子と呼んでくれる中、銀時だけは相変わらず名前呼びで、最近はもしや嫌われているのではなかろうかなどと、取り越し苦労までしていたのだ。
「ありがとう、銀時。しっかり、活用させてもらうとしよう」
「べ、別にぃー 記念に持ってるのもアリじゃね。なんならさ、俺の誕生日に返してくれてもいいし。俺の言う事聞いてくれる券にしてさぁ」
「お前がそれで良いのなら、俺はかま」
「それなら、私が代わりに使ってあげましょう」
銀時の言葉を真面目に受け取った朧の返事を遮って、松陽が手を上げる。
全開の笑みで、上げた手を朧の方へ差し出した。
松陽に手を差し出されれば、朧は素直に従おうとする。
「あ! ダメだってぇ! 朧以外使用禁止! つか、ほらっ! もう食べようぜ。すまし汁が冷めちまうよ!」
話題を逸らそうと、食卓を指差した。
慌てる銀時に松陽が「冗談です」と伝えたところでやっと、朧はお手伝い券を懐にしまい込んだ。
「では、いただきましょう」
師の言葉を追うように、全員が両手を合わせていただきますと声を揃える。
いつもと反対に、松陽が朧の食事の世話を焼く。とはいっても、手巻きする具を取ってやり巻くだけなのだが。
あれもこれもと盛り付けるので、朧は頬張るのが大変だった。
銀時は甘く味付けられた卵を巻き、晋助はツナマヨを巻いて、互いに張り合うように食べてゆく。
小太郎は信女が食べやすいよう小さな手巻きを幾つか作ってから、自分の分を食べ始めた。
皆で楽しく、好きなものを食べる。
今日は食事中の礼儀作法は忘れて、笑ったり喋ったり、手掴みして口一杯に頬張って、和気藹々と時間が過ぎていった。
朧が引き戸を開けるより早く、松陽の声と共に内側から引き戸が開けられた。
飛び出してきた松陽の笑顔が予想外過ぎて、驚きと安堵の気持ちが混ざり合い、朧の表情は気の抜けたものになる。
「た、だいま、戻りました」
何とか帰宅の挨拶の声を出したが、まだ足が踏み出せない。
そんな朧の状態を松陽は気にも止めず、いや、焦れたように朧の手を取り中に引き入れた。
「さあさあ、皆待っていますよ。ほら、これ掛けて!」
「申し訳ござ、はっ?」
急かされ、脱いだ草履を揃える間も与えられず、タスキを手渡される。
タスキには、【今日の主役】と書かれていた。
それを見ても、全く訳が分からないという表情で首を傾げる。
「今日が何の日か、覚えていないのですか?」
朧の反応に、松陽は少しあきれ顔を見せて問いかけた。
「申し訳ございません。さっぱり見当がつきません」
心から申し訳なさそうに、声を絞り出して答える。
寺から、家に帰るまでも考えたが分からなかったのだ。問われたからと、急に閃いたりしない。
「まったく、君という子は」
松陽は苦笑してタスキを指差したが、それでもなお反応が得られないのに諦めて、今度は朧の背中を押した。
「居間に入れば分かります。弟弟子たちの前では、そんな困った顔をしてはいけませんよ」
「先生、あの、暫しお待ちをっ」
弟弟子達のことを言われて、朧は深呼吸する。
訳の分からない事態でも、師の言葉通り年長者として落ち着いた態度でいなければならない。
朧は顎を上げ、背筋を伸ばして居間の襖を開いた。
「おめでと、兄さん!」
「朧兄さん、誕生日おめでとうございます」
「兄弟子、おめでとう」
「おめでとさん、朧」
襖を開いた途端、子供達の眩しい笑顔と明るい声が飛んでくる。
それだけで、先程までの焦燥が嘘のように解けて消えた。
自然に頬が緩み口角が上がる。
「もう、分かりましたね」
背中を押す暖かな手と、優しい声音。
居間の壁に飾られた色紙の鎖と紙で作られた花、お誕生日おめでとうと書かれた段幕に目を瞠る。
すっかり忘れていたが、今日は自分の誕生日だった。
朧は瞬きを繰り返して、涙が出そうになるのを堪える。
こんな良き日は、涙よりも笑顔を見せたい。それが、嬉し涙だとしても。
「ありがとう。俺の為に、こんな……」
喜びを言葉にするのは、何と難しいのだろう。ただ、嬉しいと伝えるだけでは到底足りない。
「さあ、主役は上座へ。皆、朧の帰りを待っていたのですよ」
松陽は、朧を部屋の一番奥の席へと導く。
そこは松陽のいつもの席だった。長方形の座卓の短辺に家長として座していたが、今日ばかりは遠慮する朧を主役だからと座らせる。
「朧兄さん、どうぞ」
小太郎が取り皿と、すまし汁を朧の前に並べた。
座卓の中央には酢飯を入れた桶が置いてあり、周辺を取り巻くようにイカやタコ、マグロやエビ、卵焼きやツナマヨなど他にも様々な具材を盛った皿が並べられている。
海苔や醤油皿も、きちんと人数分用意されていた。
「誕生日の料理だから、皆で楽しく食べられるよう、手巻き寿司にしました」
笑顔溢れる食事の時間を、兄弟子は喜んでくれるだろうかと、小太郎はジッと朧の顔を見詰める。
熱心な視線を注がれ、これが小太郎からの贈り物だと気付く。
「凄いな! これだけ準備するのは大変だっただろう。楽しく食べられるのは、とても嬉しい。ありがとう」
感謝の言葉と共に頭を撫でると、小太郎は誇らしげな笑みを浮かべてから「少しだけ先生に、手伝っていただきました」と、付け加えた。
朧が斜め前に座った松陽の方に視線を向けると、優しい笑顔が返される。
その隣に座る信女に目をやると、信女は即座に立ち上がった。キラキラと瞳を輝かせ、水を満たしたコップを大事そうに両手で捧げ持ち、慎重な足運びで朧の前までやってくる。
「あのね、川の底で見付けた宝物なの。兄さんに、あげるわ」
コップの底に沈んでいる丸い石は、部屋の照明と揺れる水の反射を受けて輝いていた。
信女の瞳と同じ煌めきを見て、朧は確かに宝物だと共感する。
「ありがとう、信女。こんな凄い宝物が、川に沈んでいたとは驚きだ。よく見つけたな!」
朧の大袈裟な反応に、信女は有頂天になった。鼻腔を膨らませ、ふふっと得意顔で顎をあげる。
「はい、どうぞっ」
「大事に飾らせて貰おう」
手渡されたコップを恭しく受け取り、受け皿の隣に置く。それから、信女の小さな手を両手で包んだ。
「川の水は冷たかっただろうに。よく頑張ったな」
銀時と一緒に、ずぶ濡れで帰ってきた日を思い出す。あんな寒い日だったのに、一生懸命に贈り物を探してくれたのだと思うと、胸の奥が熱くなった。
「でも、あまり危ない事はしちゃ駄目だからな。本当に、風邪を引かなくて良かった」
包んだ手に力を込める。皆が健やかに日々を過ごしてくれるのが、一番嬉しいのだと伝えるように。
「大丈夫、馬がいたから」
「馬が?」
信女の視線が、朧から銀時に移る。
背負って貰ったことを言っているのだろうと、朧と見当がついた。もちろん、銀時自身にも。晋助と小太郎だけが、不思議そうに信女を見ていた。
「馬とは、ウマいこと言いますね!」
もう一人、事情を知っている松陽がポンっと手を打って笑う。思いついた駄洒落を口に出来て、にこにことご機嫌顔になった。
座が白けそうになるのを遮って、朧が拍手と共に声を上げる。
「さすが、先生! 馬と上手いを、掛け合わされたのですね」
「いや、いや、いや、止めてっ。松陽が調子に乗ること言うの、マジで! コレ、やるから!」
松陽が返事を返すより先に銀時が立ち上がって、信女の背後から朧の隣へと移動し食卓に長方形の紙片を置いた。
紙片は色紙のようで、数枚ある。文字が書かれているようだが、銀時の手が上に乗せられたままなので読み取ることが出来ない。
「銀時、これは?」
貰ったものなら触っても良いのだろうと判断して、銀時の手の下から紙片を抜き取りながら問いかける。
「見た通りだよ。有効期限は、おれの誕生日までな」
ゆっくりと朧から顔を背けて、小さく言葉を付け足した。
「おめでとさんっ」
その照れた声音は、紙面に視線を落としていた朧の耳に届く。
声の調子と、紙面に書かれた【お手つだいけん/なんでもや銀時】の文字に、朧は破顔した。
(あの小さかった銀時が、こんな贈り物をッ!)
最初に出来た小さな弟弟子、銀時の成長が殊更嬉しくて自制しようとしても、勝手に口元が緩む。
晋助や小太郎が兄弟子と呼んでくれる中、銀時だけは相変わらず名前呼びで、最近はもしや嫌われているのではなかろうかなどと、取り越し苦労までしていたのだ。
「ありがとう、銀時。しっかり、活用させてもらうとしよう」
「べ、別にぃー 記念に持ってるのもアリじゃね。なんならさ、俺の誕生日に返してくれてもいいし。俺の言う事聞いてくれる券にしてさぁ」
「お前がそれで良いのなら、俺はかま」
「それなら、私が代わりに使ってあげましょう」
銀時の言葉を真面目に受け取った朧の返事を遮って、松陽が手を上げる。
全開の笑みで、上げた手を朧の方へ差し出した。
松陽に手を差し出されれば、朧は素直に従おうとする。
「あ! ダメだってぇ! 朧以外使用禁止! つか、ほらっ! もう食べようぜ。すまし汁が冷めちまうよ!」
話題を逸らそうと、食卓を指差した。
慌てる銀時に松陽が「冗談です」と伝えたところでやっと、朧はお手伝い券を懐にしまい込んだ。
「では、いただきましょう」
師の言葉を追うように、全員が両手を合わせていただきますと声を揃える。
いつもと反対に、松陽が朧の食事の世話を焼く。とはいっても、手巻きする具を取ってやり巻くだけなのだが。
あれもこれもと盛り付けるので、朧は頬張るのが大変だった。
銀時は甘く味付けられた卵を巻き、晋助はツナマヨを巻いて、互いに張り合うように食べてゆく。
小太郎は信女が食べやすいよう小さな手巻きを幾つか作ってから、自分の分を食べ始めた。
皆で楽しく、好きなものを食べる。
今日は食事中の礼儀作法は忘れて、笑ったり喋ったり、手掴みして口一杯に頬張って、和気藹々と時間が過ぎていった。