朧、誕生日おめでとう!
(ここ数日、何かおかしい?)
朧は、心中でそう呟く。
弟弟子達が、どこかソワソワとしていた。
それが今朝、最高潮に達した感がある。
唯一落ち着いていた松陽までもが、今朝は様子がおかしい。
「朧、ちょっとお遣いを頼みたいのですが」
朝餉の終わり際に、皆の前で松陽がそう切り出した。
朧はこてりと、首を傾げる。
遣いを頼まれるのは珍しくなかったが、弟弟子達の前で頼まれるのは珍しい。
彼らは出掛けると聞けば、興味津々といった目で窺ってくる。それが市場への買い物だった場合、幼い末っ子が一緒に着いて行くと駄々をこねるから、宥めるのにひと苦労するのだ。
それを知っているからこそ、いつもは皆の前では頼まないはずなのに。
しかし、今回は様子が違った。
弟弟子達は目配せし合い、なにやら頷きあっている。
(ここは、何か隠していないか問うところだろうか?)
朧が逡巡している間に、松陽は頼みを口にした。
「今からお寺さんに行って欲しいのです。以前話した写本の件で」
「写本…… ですか? あの、夏にお借りする予定の?」
来季の新しい教科書作りの参考にするから急がないと聞いていたが、どうして急にと問い返してしまう。
「え、っと、時間。そうどれくらい時間がかかりそうか、先に調べておこうと閃きました! だから、取り敢えず昼餉の時間まで写本してみてください。あまり時間がかからないようなら、お借りせず通って写そうと思います。お寺さん所蔵の大切な本ですからね」
話す内容は尤もらしいか、少し早口になっている。
だが、松陽の頼みを朧が邪険に出来るはずもない。
「分かりました。では、食器を片付けたら、すぐに」
「朧兄さん、食器は俺が片付けます!」
立ち上がろうとした朧を遮るように、小太郎が食器に手を伸ばす。
我も我もと、信女達も手伝いの声を上げた。
「と、いう事で。お昼には、帰ってきてくださいね」
まるで追い立てられるように見送られ、朧は寺へと向かった。
道すがら、自分は気付かぬ内に何かしでかしてしまったのだろうかと思い悩んでみたものの、さっぱり見当がつかない。
「昼に帰るよう言われたが、昼餉の下準備も出来なかったな」
考えても分からない事を悩むより、皆の為に何か簡単に出来る料理を考える方が有効だと朧は思考を切り替えた。
寺に着き、住職に挨拶して事情を説明する。
急な申し出に驚いたとは言われたが、案内された部屋はまるで前もって分かっていたかのような設えがされていた。
文机には文鎮と紙が置かれ、硯と墨が並べられている。そして、貴重な書物だから宝物殿にて厳重に保管されているものだと思っていた本は、案内された時点で部屋の棚から取り出され手渡された。
(手回しが良すぎないか?)
そうは思ったが、こちらからお願いしている身なのだからと、妙だと問うことは出来ない。
しかし、そんな疑問よりも師に頼まれた事を忠実に遣り遂げる方が重要だと、疑念を振り払い文机の前に座った。
墨をすり筆に含ませると、不審感が全て消え去る。
写本をしている間中、想うのは師と弟弟子達の事。彼等の役に立つ事をしているのだと思うと、心が暖かなもので満たされた。
***
朧が寺へ出かけて行った後、松陽と子供達は大忙しになった。
小太郎は台所に立って、お祝いの調理を始める。
銀時、晋助、信女は、松陽の部屋から誕生日会会場にする居間へと、色紙の鎖や段幕等を運び込む。松陽が子供達の分担場所を決めると、子供達は指示通りに飾り付けを始めた。
「高い所は私がやりますから、君たちは手の届く所に花飾りを付けてください」
色とりどりの鎖を飾り、おめでとうの段幕も吊り終えると、最後の仕上げと花飾りを皆に分け与える。
「ちり紙の花だけかよ?」
「おや?ちり紙って言いましたね」
銀時の問い掛けに、松陽はニンマリと笑う。
先日の発言を忘れていませんよと、語っているようだった。察した銀時は、そっと明後日の方向に視線を飛ばす。そんな二人のやり取りの後ろで信女が「[V:8943][V:8943]じじぃ」と、小さく呟く。
銀時も松陽も、そんな声は聞こえなかったという素振りで黙々と作業を続けた。その甲斐あってか、予想より早く誕生日会会場の準備が整う。
「では、次は小太郎の手伝いをしましょう」
「いや、歌を合わせるのが先だッ」
松陽の提案を、晋助が却下する。
せっかくの誕生日祝いの曲を奏でるのだから、皆にも一緒に歌って欲しいと思った。きっと兄弟子も、その方が喜ぶと。
「お前らの歌でも、枯れ木も山の賑わいってもんにならァ」
言葉に出したのはそんな風だったが、その場の誰もが晋助の真意に気付く。なぜなら、晋助の頬はぶっきらぼうな言い方に似合わぬ薄紅色に染まっていたのだ。
「分かりました。では、先に皆で歌の練習をしましょう」
「あ、先生はヅラの手伝い行ってくれ」
またしても、松陽の言葉に訂正を入れる。理由を言わなくとも、山での事を思い出せば伝わるだろうと思った。
晋助のその思いは通じなかったのか、松陽はにこりと微笑んで手を打つ。
「そうですね。私が教えた歌ですから、今更練習の必要は無いですねぇ。小太郎と交代してきましょう」
納得したのか、ふんふんっと鼻歌交じりで台所へと向かってゆく。
晋助が何とも言えぬ顔で松陽の背中を見送っていると、銀時が無言で晋助の肩を叩き、信女が部屋の隅に置かれてあった晋助の三味線を手渡してくれた。
松陽と交代した小太郎が台所から出て居間に入ると、晋助も気を取り直す。
「俺は台所が心配だから、一回歌ったらすぐに戻るぞっ」
小太郎の言葉に、全員が頷いた。
***
「そろそろ、昼時ですよ」
住職の声に、朧はハッと顔を上げる。熱中し過ぎて、時間の感覚がなくなっていた。
「かたじけない」
書きかけていた最後の一行を丁寧に写し取ると、静かに筆を置く。
墨を乾かしている間に硯と筆を清め用途立ち上がったが、住職はゆっくりと左右に首を振った。
「後始末はこちらでやりますから、早くお帰りなさい」
「しかし、それでは」
朧に最後まで言わせること無く、住職は朧の背を押して急き立てる。
「吉田先生から承っています。良き日に遅刻は厳禁ですから」
「はぁ?」
良き日とは、なんだろうか?
そんな疑問が浮かんだが、大事な日なら今朝の内に誰かが教えてくれるはずだ。
そう思った所で、今朝の皆の様子がおかしかった事に引っ掛かりを覚える。
多分、皆は住職同様に知っているのだ。
自分だけが、何も知らされていない?
「では、お言葉に甘えて失礼します」
声が震えないよう、急ぎ足にならないよう、朧は自身の揺らぐ感情を抑えて室内から出る。
先生のことだから、きっと伝え忘れていらっしゃるのだ。先生は、ああ見えてうっかりな所もある。先生に限って、俺に隠し立てなどする筈ない!
帰る道すがら、そう自分に言い聞かせた。
それでも心の隙間に、不安が忍び込む。
もしや先生に疎まれてしまったのだろうか?
もしかして、弟弟子達には小言が煩わしいと思われ、嫌われてしまったのかも?
そんな事は無いと打ち消しても不安は拭い切れず、家に着く時分にはすっかり意気消沈していた。
門を潜り、玄関前に立つ。
ただいまと、声を上げ引き戸を開ける気にならなかった。しかし、いつまでも立ち尽くしている訳にはいかない。
朧は伏せていた視線を上げ、息を呑む。格子扉の向こう側に、人の気配を感じたのだ。
この時刻に帰ると分かった上での待ち伏せだろうか? いったい、何の為にと首を傾げる。
「まさか……」
(締め出し?)
嫌な言葉が思い浮かんだ。
あるはず無いと心中で即座に否定するものの、引き戸に触れる指先が震える。
朧は、心中でそう呟く。
弟弟子達が、どこかソワソワとしていた。
それが今朝、最高潮に達した感がある。
唯一落ち着いていた松陽までもが、今朝は様子がおかしい。
「朧、ちょっとお遣いを頼みたいのですが」
朝餉の終わり際に、皆の前で松陽がそう切り出した。
朧はこてりと、首を傾げる。
遣いを頼まれるのは珍しくなかったが、弟弟子達の前で頼まれるのは珍しい。
彼らは出掛けると聞けば、興味津々といった目で窺ってくる。それが市場への買い物だった場合、幼い末っ子が一緒に着いて行くと駄々をこねるから、宥めるのにひと苦労するのだ。
それを知っているからこそ、いつもは皆の前では頼まないはずなのに。
しかし、今回は様子が違った。
弟弟子達は目配せし合い、なにやら頷きあっている。
(ここは、何か隠していないか問うところだろうか?)
朧が逡巡している間に、松陽は頼みを口にした。
「今からお寺さんに行って欲しいのです。以前話した写本の件で」
「写本…… ですか? あの、夏にお借りする予定の?」
来季の新しい教科書作りの参考にするから急がないと聞いていたが、どうして急にと問い返してしまう。
「え、っと、時間。そうどれくらい時間がかかりそうか、先に調べておこうと閃きました! だから、取り敢えず昼餉の時間まで写本してみてください。あまり時間がかからないようなら、お借りせず通って写そうと思います。お寺さん所蔵の大切な本ですからね」
話す内容は尤もらしいか、少し早口になっている。
だが、松陽の頼みを朧が邪険に出来るはずもない。
「分かりました。では、食器を片付けたら、すぐに」
「朧兄さん、食器は俺が片付けます!」
立ち上がろうとした朧を遮るように、小太郎が食器に手を伸ばす。
我も我もと、信女達も手伝いの声を上げた。
「と、いう事で。お昼には、帰ってきてくださいね」
まるで追い立てられるように見送られ、朧は寺へと向かった。
道すがら、自分は気付かぬ内に何かしでかしてしまったのだろうかと思い悩んでみたものの、さっぱり見当がつかない。
「昼に帰るよう言われたが、昼餉の下準備も出来なかったな」
考えても分からない事を悩むより、皆の為に何か簡単に出来る料理を考える方が有効だと朧は思考を切り替えた。
寺に着き、住職に挨拶して事情を説明する。
急な申し出に驚いたとは言われたが、案内された部屋はまるで前もって分かっていたかのような設えがされていた。
文机には文鎮と紙が置かれ、硯と墨が並べられている。そして、貴重な書物だから宝物殿にて厳重に保管されているものだと思っていた本は、案内された時点で部屋の棚から取り出され手渡された。
(手回しが良すぎないか?)
そうは思ったが、こちらからお願いしている身なのだからと、妙だと問うことは出来ない。
しかし、そんな疑問よりも師に頼まれた事を忠実に遣り遂げる方が重要だと、疑念を振り払い文机の前に座った。
墨をすり筆に含ませると、不審感が全て消え去る。
写本をしている間中、想うのは師と弟弟子達の事。彼等の役に立つ事をしているのだと思うと、心が暖かなもので満たされた。
***
朧が寺へ出かけて行った後、松陽と子供達は大忙しになった。
小太郎は台所に立って、お祝いの調理を始める。
銀時、晋助、信女は、松陽の部屋から誕生日会会場にする居間へと、色紙の鎖や段幕等を運び込む。松陽が子供達の分担場所を決めると、子供達は指示通りに飾り付けを始めた。
「高い所は私がやりますから、君たちは手の届く所に花飾りを付けてください」
色とりどりの鎖を飾り、おめでとうの段幕も吊り終えると、最後の仕上げと花飾りを皆に分け与える。
「ちり紙の花だけかよ?」
「おや?ちり紙って言いましたね」
銀時の問い掛けに、松陽はニンマリと笑う。
先日の発言を忘れていませんよと、語っているようだった。察した銀時は、そっと明後日の方向に視線を飛ばす。そんな二人のやり取りの後ろで信女が「[V:8943][V:8943]じじぃ」と、小さく呟く。
銀時も松陽も、そんな声は聞こえなかったという素振りで黙々と作業を続けた。その甲斐あってか、予想より早く誕生日会会場の準備が整う。
「では、次は小太郎の手伝いをしましょう」
「いや、歌を合わせるのが先だッ」
松陽の提案を、晋助が却下する。
せっかくの誕生日祝いの曲を奏でるのだから、皆にも一緒に歌って欲しいと思った。きっと兄弟子も、その方が喜ぶと。
「お前らの歌でも、枯れ木も山の賑わいってもんにならァ」
言葉に出したのはそんな風だったが、その場の誰もが晋助の真意に気付く。なぜなら、晋助の頬はぶっきらぼうな言い方に似合わぬ薄紅色に染まっていたのだ。
「分かりました。では、先に皆で歌の練習をしましょう」
「あ、先生はヅラの手伝い行ってくれ」
またしても、松陽の言葉に訂正を入れる。理由を言わなくとも、山での事を思い出せば伝わるだろうと思った。
晋助のその思いは通じなかったのか、松陽はにこりと微笑んで手を打つ。
「そうですね。私が教えた歌ですから、今更練習の必要は無いですねぇ。小太郎と交代してきましょう」
納得したのか、ふんふんっと鼻歌交じりで台所へと向かってゆく。
晋助が何とも言えぬ顔で松陽の背中を見送っていると、銀時が無言で晋助の肩を叩き、信女が部屋の隅に置かれてあった晋助の三味線を手渡してくれた。
松陽と交代した小太郎が台所から出て居間に入ると、晋助も気を取り直す。
「俺は台所が心配だから、一回歌ったらすぐに戻るぞっ」
小太郎の言葉に、全員が頷いた。
***
「そろそろ、昼時ですよ」
住職の声に、朧はハッと顔を上げる。熱中し過ぎて、時間の感覚がなくなっていた。
「かたじけない」
書きかけていた最後の一行を丁寧に写し取ると、静かに筆を置く。
墨を乾かしている間に硯と筆を清め用途立ち上がったが、住職はゆっくりと左右に首を振った。
「後始末はこちらでやりますから、早くお帰りなさい」
「しかし、それでは」
朧に最後まで言わせること無く、住職は朧の背を押して急き立てる。
「吉田先生から承っています。良き日に遅刻は厳禁ですから」
「はぁ?」
良き日とは、なんだろうか?
そんな疑問が浮かんだが、大事な日なら今朝の内に誰かが教えてくれるはずだ。
そう思った所で、今朝の皆の様子がおかしかった事に引っ掛かりを覚える。
多分、皆は住職同様に知っているのだ。
自分だけが、何も知らされていない?
「では、お言葉に甘えて失礼します」
声が震えないよう、急ぎ足にならないよう、朧は自身の揺らぐ感情を抑えて室内から出る。
先生のことだから、きっと伝え忘れていらっしゃるのだ。先生は、ああ見えてうっかりな所もある。先生に限って、俺に隠し立てなどする筈ない!
帰る道すがら、そう自分に言い聞かせた。
それでも心の隙間に、不安が忍び込む。
もしや先生に疎まれてしまったのだろうか?
もしかして、弟弟子達には小言が煩わしいと思われ、嫌われてしまったのかも?
そんな事は無いと打ち消しても不安は拭い切れず、家に着く時分にはすっかり意気消沈していた。
門を潜り、玄関前に立つ。
ただいまと、声を上げ引き戸を開ける気にならなかった。しかし、いつまでも立ち尽くしている訳にはいかない。
朧は伏せていた視線を上げ、息を呑む。格子扉の向こう側に、人の気配を感じたのだ。
この時刻に帰ると分かった上での待ち伏せだろうか? いったい、何の為にと首を傾げる。
「まさか……」
(締め出し?)
嫌な言葉が思い浮かんだ。
あるはず無いと心中で即座に否定するものの、引き戸に触れる指先が震える。