松朧(IF村塾多数)

君が当然のように微笑むから(松朧真ん中バースデー2024)



「皆で食後の散歩に行きましょう」
萩の片田舎。松下村塾の母屋での夕食後、吉田松陽先生は明るい声と笑顔でそう提案した。
「おしゃんぽ?!」
即座に反応したのは、吉田家の紅一点。
末娘の信女だ。瞳をキラキラさせて、期待の眼差しを一番上の兄弟子の方に向ける。
兄弟子・朧はその瞳の意味をすぐに理解した。
「食後だから、一つだけだぞ」
「うん!」
大好物のドーナツの持参を許されて、大満足の笑顔を返す。
「じゃあ、俺は豆大福な!」
弟弟子三人の内の一人、銀時がすかさず自分のおやつを請求する。
「残念だが、豆大福は無い」
妹弟子に対して示した甘さはどこに? と、問いたくなるほどキッパリとした口調で断りを入れた。
「「ええっ!」」
不満の声がダブって聞こえたのは気のせいだと思いたかったが、いつの間にか銀時の隣に座り直した師の姿を視界に入れてしまい肩を落とす。
「先生」
その一言に、あらゆる思いを込める。
まだ食の細い信女には、おやつが必要だから特別に許したのだとか、銀時は夕食前にも豆大福を二つもつまみ食いしていたのですだとか、先生まで一緒になっておやつの請求とは情けないですとか、後で夜食にお持ちするのに、等々。
「ふふっ。私は、戸棚に豆大福が隠してあるのを知っていますよ!」
朧の思いは虚しく空振りした。
松陽の得意気な言葉に、銀時が深く頷く。
その顔は、美味しかったと語っているようなもので、つまみ食いを白状しているも同じだ。
「……先生」
今度の朧の呟きには、諦めの色がある。
銀時と師にだけという訳にはいかない。弟弟子の晋助と小太郎の分も必要だ。既に二つ食べられてしまったので、今夜配ると明日のおやつ分には足りなくなる。何か別の物を作らなければならない。
「先生はともかく、テメェは食い過ぎだ!」
「高杉の言う通りだぞ。先生はともかく、銀時は糖分を摂りすぎだ。脳が溶けるぞっ」
「そうですよ、銀時。私はともかく、君は食いしん坊すぎます」
「はぁ? ちょ、なんで俺だけンな言われよう? 酷くね?」
助けを求めて、銀時が朧の方に首を傾けた。
朧は真正面から銀時の視線を受けて、首を左右に振り口を開く。
「それはな、お前のつまみ食いが皆にバレているからだ」
晋助達の口振りからして、それは間違いない。
これで、容赦無く銀時の明日のおやつを減らすことが出来る。
各々に二つずつの計算だったが、無しというのは可哀想だから一つ減らすだけにしてやろう。
俺の分を回せば問題無い。
「え、俺が食べたって証拠は? 何年何月何日何時何分何秒に食べたって? あ、もしかして、アレじゃね?ネズミが入って来て食べたんじゃないかなー。ねー、そう思わない? いや、きっとそーだよ。うん、うん、一件落着ぅ」
優しい兄弟子の思いも知らず、銀時は必死に言い訳を捲し立てる。
「あたち、見たよ。銀時、くちに白い粉いっぱいちゅけてた!」
信女の目撃情報で、銀時が撃沈した。
おやつ持参の話は笑いの内に有耶無耶になり「では、行きますよ」と、松陽の号令がかかる。
食器や食卓の片付けは朧が中心となり、晋助と小太郎が手伝った。
松陽と銀時は信女の世話をしつつ、部屋部屋の戸締りを確認してゆく。
いつもなら入浴の時間だが、今夜はいつもと違う時間を過ごす。しかも、皆と一緒に。
ほんの一時ただ歩くだけ。それでも、きっと楽しい。子供達の胸は高まって、笑い声が弾けた。


***


散歩にはもってこいの満月の夜。
初夏の涼やかな風は優しく吹き抜け、気の早い虫達の合奏を運んで来る。
夜露に濡れた下草は月光を反射させ、夜空の星さながら煌めき揺れていた。
松陽を中心にして、銀時と晋助がいつも通りの憎まれ口の叩き合いをし、晋助の後ろから小太郎が嗜める。そんな三人の様子を面白そうな顔をして眺める松陽の姿は、とても幸せそうだ。
彼等の一歩後に、ドーナツを食べる信女を抱いて、皆を守るように朧が続く。
それは、仲睦まじい家族の肖像画のようだった。
平坦に続く砂利道を逸れ、松陽は「近道です」と指差して畦道に入る。
左右には、田植えを終え青々と茂る苗が広がっていた。細い畦道は湿っていて、足を滑らせたら田んぼに落ちてしまうだろう。
心得ているのか、すでに体験済みだからか、流石の銀時と晋助も大人しく無言で一列になって歩く。小太郎と信女は、水田から聞こえてくるカエルの合唱に耳を傾け楽しそうだった。
列の先頭を歩く松陽と最後尾を歩く朧は子供達の様子を見てから、密かに視線を絡ませ笑み交わす。
畦道を抜けると、道は二つに分かれる。城下町に続く街道と、山へ向かうなだらかな坂道へ。
松陽は迷うことなく、坂道へ足を進めた。
この時点で、弟子達は松陽が何処へ連れて行ってくれるのかを察する。


暫く歩くと山道の入口の右手側に細く踏み固められた小道が現れた。その先が松陽の目的地らしい。
「なあ、松陽! 下りていいの?」
先回りして、銀時が性急に尋ねた。
小道の先には橋がかかっていて、その橋の横に石段があり下を流れる川の縁まで下りていける。
つまり、川遊びして良いのかと確認したいのだ。
夜に川遊びするなど、事故に繋がる危険性がある。大人達は誰も、許可しないだろう。
だが、今夜は違う気がした。
銀時の言葉に無言ながら晋助も小太郎も同調し、答えを期待している。
弟弟子達に対して些か過保護気味の朧は、子供達の頭越しに眉を顰めて見せたが、松陽は宥めるような眼差しを返してきた。

「今夜だけ特別、許可します! が、川の縁だけですよ。真ん中まで行ってはいけません。約束出来ますか?」
笑顔を引っ込めて、子供達に注意を促す。
子供達は、満面の笑みで声を揃え「はい」と大きく頷いた。朧の腕の中で、信女も「あいっ」と元気に両手を上げる。その拍子に食べかけのドーナツが落ちたが、朧が素早く受け止めた。
松陽は皆を見回し小さく頷くと、再び先頭に立ち小道を進む。
低く茂っている枝々を潜ると、直ぐに橋が現れた。木造の小さな橋で、手摺は綱を幾重にも結んで張り巡らせてある。その右手の細い石段前まで辿り着いた。
「いいですか、一人ずつ足下に気を付けて下りるのですよ」
石段は古く、組んである隙間から雑草が生えている。石も草も夜露に濡れて、滑りやすくなっていた。おまけに片側は剥き出しの土手で、手摺など無い。足を滑らせれば、良くて川辺りの草むらで尻餅、悪ければ川に飛び込む羽目になる。
月明かりがあるとはいえ、昼の明るさほど鮮明には見えない。
松陽の注意通り足下に集中している子供達には、川のせせらぎも聞こえず、夜の川辺にも関心が向かない。
松陽と朧も子供達の動きに注意を払い、何かあれば即座に対応出来るよう身構えていた。
その中で一人、信女だけは安全な腕の中で、夜の散歩を堪能している。
そして誰よりも早く、松陽が散歩を提案した理由を見付けた。
「わぁ! きれぇ! お星さま?」
急いでドーナツを食べ終え、両手を空に向かって伸ばす。
「信女?」
朧もつい釣られて、夜空を仰ぎ見た。
「あっ」
小さく声が出たのは、やっと師の散歩の思惑に気付いたから。
月明かりに負けない満天の星々の下、黒い木々の影を背に、ふわふわと淡く優しい光を点して飛ぶ蛍の姿に、口元が緩んでゆく。

(初めて蛍を美しいと思ったのも、一緒に眺めたいと思ったのも、先生と共に過ごした日々でした)

幼い昔を思い出し、視線の先に師の姿を求める。
階段の一番上に立つ朧と、階段の一番下で待つ松陽の視線が結びつく。
同じ想いですよ。と、語りかけてくるような眼差しと笑顔に朧は胸が熱くなる。
信女をしっかりと胸に抱きつつ、気を付けながらも急ぎ足で階段を下った。一刻も早く、師の隣に行きたい。同じ目線で、同じ想いを感じたかった。
「うわっ! すげぇ!」
「もしかして、先生は?」
「蛍だっ! 朧兄さん、信女! 早くこちらへ」
川辺の草むらには、競うように沢山の蛍が飛び交っている。川の水面に蛍の光が映り、本当の数よりも多く生息しているように見えた。
さざ波が反射して、幻想的な光を辺り一帯に放つ。
銀時は素直に感動し、晋助は散歩の意味を理解し、小太郎は美しい風景を皆で分かち合いたくて最後尾に位置する兄弟子と妹弟子に呼びかけた。
弟子達全員の瞳が輝き心から楽しんでいる様子に、松陽は笑みを深くする。
この幸せが、平和が、ずっと続きますようにと願いながら、愛する弟子達一人一人に視線を移してゆくのだった。

最後に移した視線の先は、階段から下りて信女を小太郎に託す朧の姿。
彼は真っ直ぐ松陽の隣を目がけて歩み寄ってくる。

「先生、なぜ急に蛍狩りを?」
先にひと言教えてくだされば子供達の川遊び用に手拭いを用意出来たのにと、言葉を続けるつもりだった。
「下心です」
「下心?」
だが、師の思わぬ答えについ復唱してしまう。
どういう意味だろうかと朧が首を傾げると、松陽は蛍を追う弟子達に視線を向けた。
その表情は、少し寂しそうに見える。
「そう遠くない未来、皆独立して私の元から巣立ってゆくでしょう。離れて暮らしていても、こんな日もあったと懐かしく思ってくれるように、楽しい思い出をたくさん作ってあげたかったのですよ」
再び、朧へと視線を戻した。慈愛に満ちた瞳は、いつもの新緑の輝きでは無く夜露を含んだ深草色に見える。
「それは、下心とは言わないのではありませんか?」
楽しい思い出を作る事の、どこが下心なのか分からない。
先を思い遠い目をする師を、励ましたい一心でやんわり否定の言葉を口にした。
そんな朧の気持ちを汲み取ったのか、松陽は具体的な例を出して説明する。
ついでに、にっこりと笑って目を細くして内面の寂しい気持ちを押し隠した。
「楽しい子供時代を思い出して、里帰りして欲しいって下心ですよ」
「成程、納得いたしました」
そのような考え方もあるのかと、朧は松陽の説明を素直に受け止める。
ならば、己も弟弟子達に思い出して貰いたい。
師と二人、彼等を暖かく迎えられるよう頑張ると伝えたくなった。
「銀時達が里帰りしてくれた時に、また帰って来たいと思えるように、私も家事一切精進いたします」

蛍の放つ淡い光に照らされて微笑む朧の言葉に、松陽は暫し言葉失った。
巣立ってゆく弟子達の中には、朧も含んでいたのだ。いつの日か、彼も己の道を見付けるだろう。朧の一生を、自分に縛り付けるなど望んではならない。常にそう覚悟していたのに、彼はいとも容易く共に暮らしている未来を当然の様に言葉にしたのだ。
それが、どれほど嬉しいことか!
抑えても溢れ出す愛しさに、この場で抱き締めることが出来たなら……
それをしてしまえば、この儚くも美しい情景ごと失われてしまいそうで必死に情動を押し隠す。

「……朧」
「はい?」
微笑みに微笑みで返す。どうか上手く平静を保った笑みに見える様にと祈りながら。
「子供達の良き故郷目指して、頑張りましょうね」
「はい、先生」
月光にも星明かりにも似た輝きと、蛍の光よりも優しく染み入る朧の笑顔を、今夜の思い出と共に胸に刻み付ける。
本当に、なんと幸せな夜でしょう。




2024.5.30 (松朧真ん中バースデーに寄せて)


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