枝垂れ桜の帳の下
跳躍の最後は、山頂の近く。
松陽はゆっくりと、朧の身を草地へ下ろした。
「重くなりましたね」
しみじみとした口調で呟くと、朧の姿を感慨深く眺め優しく微笑む。
「はい。もう子供ではありませんから、こういったことは……」
言外に、子供扱いしないで欲しいと願いを込めた。
もう無力で護って貰うだけの子供ではない。
今までよりも傍近く、お仕えしたいのだと。
「そうですね。君はもう、子供ではありません」
松陽は何かを含んだような表情で、朧に手を差し出した。
その手に触れても良いものかと躊躇っている朧に、にこりと笑顔で促す。
「君に見せたいものがあります」
紹介したい人がいると言われなかったことに、心から安堵して朧は松陽の手に手を重ねた。
山中の冷たい空気の中で、繋いだ手だけが温かい。
師と二人、逃亡生活を送っていた日々の感覚が蘇る。
新緑の中を駆け抜けた春。岩を枕に星を数えた夜。互いの体温で暖を取った冬の日。
世界で二人きりだと思えた、懐かしい遠い記憶。降り積もる思い出と、深さを増す想い。
暗い木々の下を、追憶に浸ったまま通り過ぎた。
やがて木々が疎らになり、開けた空き地が現れる。
「え?」
月明かりに照らされたその場所に、有り得ない物を見て思わず声を上げた。
「驚きましたか?」
師の満足げな声に、大きく頷く。
「なぜ、こんな……」
松陽の見せたかった物。朧が言葉を失って見詰める先。そこには、枝垂れ桜の巨木があった。
月光を浴び、薄紅色に輝く見事な花を咲かせている。今を盛りと微風に花弁を揺らしていた。
(夢か?)
里の桜でさえまだ蕾が膨らみ始めたばかりだというのに、気温の低い山頂近くの桜が満開だなんて夢としか思えない。
呆然と桜木を見上げ続ける朧の視界を、松陽の手がひらひらと遮る。
まるで誘われるように、朧の視線は桜から松陽の手へと移った。
「もっと近くで観ましょう」
さあ。と促して、朧の背に手を添え桜の前まで押して行く。
薄紅の帳のような枝垂れを潜り抜け木の根元へ足を踏み入れると、またしても不思議な感覚に捕われる。
「……暖かい」
枝垂れた桜の内側は、まるで季節が違う様な暖かさだった。
何か特別な神域なのだろうか?
首を巡らせ注連縄を探すも見当たらず、では死角に鳥居か祠があるのではと幹を背にして辺りを見回した。
「少し、龍脈の力を借りました」
松陽は朧の正面に立ち、両手を木の幹に付いて両腕の中心に囲い込み身動きを封じる。
「龍脈?」
「大地の力、アルタナです」
師の説明は簡潔過ぎて分からない。
大地の力の名称がアルタナという事であっているだろうか? その力が龍脈にあると?
そもそも、龍脈とは何だ? 追及しても、解る気がしない。それでも、師の為に理解したいと思う。
何より自由に身動き出来ない体勢や、幾分近過ぎる師との距離から意識を逸らせたい。
そうでもしないと、妙に落ち着かない気分になる。
「具体的に、龍脈をどう使われたのでしょうか?」
「具体的に、ですか?」
うーん、と声を漏らしてから松陽は考え込む。力を操るのは感覚的で、言葉にするのは難しい。
結局、朧の身を幹から解放し手振りで説明した。
大地に手を翳し、垂直に引っ張りあげる動作をする。
「こんな風に龍脈を知覚して、地熱を引き寄せる。と、いった感じでしょうか。大地を温め木の根から徐々に幹や枝葉まで気を満たすと、花を咲かせてくれます」
両腕を広げ、大した事はしていないといった表情で話を終わらせる。
「凄いです! 先生は、自然の気まで操れるのですね!」
師の身体能力の高さは知っていたが、自然の気まで使いこなせるとは知らなかった。気候を読んだり、体内に気を巡らせる等とはまるで違う次元の御業。
「やり過ぎると、たまに爆発しちゃいます」
畏怖の念を抱く朧の眼前に人差し指を立て、向けられた感嘆の思いを台無しにした。
どう反応を返すべきかと複雑な表情を見せる朧に対して、松陽は再び距離を詰める。
「朧」と優しく名を呼んで、朧の両手を握りしめた。
「はい、先生?」
師の眼差しと握られた手の温もりに、鼓動が跳ねる。
「誕生日おめでとう。今日から成人ですね。君の新しい人生の門出に、幸多からんことを祈っています」
朧の瞳が大きく見開かれ、唇は戦慄く。
誕生日の事など、すっかり忘れていた。
祝いの言葉に礼をのべなければと思うのに、胸がつかえて声が出ない。
「春の門出と言えば、やはり桜でしょう。君の誕生日までに満開に出来て、ほっとしました」
続く松陽の話に、朧の瞳は潤んでゆく。
深夜の外出の理由は、これだったのだと気付いた。
(俺なんかの為に、ここまでの事を……)
瞼が熱くなり、後悔が胸に押し寄せる。勝手に想像し、勝手に苦しんで…… 何と愚かなことを。
ありがとうございますと、嬉しいと、伝えなければならないのに、やはり言葉にはならない。
喜び以上に申し訳なさが大きくて、どうしてよいのか分からなくなった。
「どうしました? もしかして、引きましたか!」
無言のままの朧の様子に、松陽は慌てだす。
「花束を渡すより、良い方法だと思ったのです。あ、それとも、朝まで待てなくて真夜中に君を連れ出したことに呆れているのでしょうか? せっかちとかじゃありません、断じて違うのですよ! ただ、誰よりも一番に! 君にお祝いの言葉を伝えたくて! って、自分で言っていて何だか可笑しくなってきました」
握ったままの朧の手を離して、踵を返そうとした。
可笑しいと言いつつも浮かべる表情は淋し気で、朧は思わず離れた手を追って掴んだ。
「朧?」
手を引かれた松陽が、再び朧に向き合う。
「可笑しくなど……」
胸のつかえを飲み込んで、最初の声を発する。
後悔に押し潰されて、師の優しさを不意にしてしまう所だったと焦った。
伝えなければ! ちゃんと言葉に出して、自分の気持ちを知っていただくのだと。
「ありがとうございます、先生。とても、嬉しいです。幼い頃から見守ってくださり、感謝に堪えません。私なんかの為に、尋常ならざるお力を」
「君だからです!」
掴んでいた手を、力強く握り返される。
「君と沢山の約束を交わして、今の幸せがあるのですよ。小さかった君が成人して、どんなに嬉しいか」
互いに握っていた手を引かれ、あっと思った時には手は解かれ師の胸に抱き締められていた。
「先生?」
「覚えていますか? 昔、こうして同じように桜の木の下で約束しましたね」
「はい、覚えております」
おずおずと、師の背中に腕を回す。何故だか、今はこうして抱き合うのが自然な気がした。
「あの時の約束は叶いました」
旅の途中で、交わした約束。
松下村塾の庭に桜の木を植えよう。いつか弟弟子達と、お花見をするのだと話した。
「はい、先生。今年も、お花見をいたしましょう」
新しい約束を積み重ね、これからの幸せも重ねてゆきたいと。そう約束して抱擁は解かれた。
離れた二人の間に、夜風が桜の花弁を吹き散らす。
松陽の視線が、風に舞う花びらを追って流れた。
「それでもいつか、巣立ってゆくのでしょうね」
それは小さな呟きで、朧に聞かせるためのものではない。
あと半歩、離れていれば聞き逃していただろう。
「先生は、覚えていらっしゃいますか?」
朧は珍しく自ら師との距離を詰めた。
首を傾げる師に、思い出して欲しいと願いながら逃避行をしていた頃の言葉を口にする。
「大人になっても、ずっと先生にお仕えしたいです。先生のお傍にいたいのですと約束しました」
秋の終わり、互いの温もりを与え合って過ごした夜の約束。
「ええ、寒い夜でしたね」
師が懐かしそうに目を細める。覚えていてくださったのだと、喜びが沸き上がった。
「あの頃の願いは、今も変わっておりません。これからも、変わることはございません」
子供の頃よりも、もっと強くそう願っている。
「……朧」
「もう一度、先生が咲かせてくださった桜の下で、約束させてください」
跪きたい衝動に駆られ、一歩後方に足を引く。
だが、師の手の方が素早く強かった。
引き上げられて、また手を握られる。
「君が望むなら…… いいえ、すみません。私の願いも同じです。君の傍にいたい。傍にいて欲しいと、望んでも良いのでしょうか?」
思ってもみなかった言葉に驚きはしたが、次第に溢れ出す喜びに頬が熱くなった。
何度も頷いて、子供の様に小指を絡める。
枝垂れ桜の帳の下、密かに結ばれた約束が破られることのない様にと願いながら。
了
2024.3.27(朧誕に3時間遅刻)
松陽はゆっくりと、朧の身を草地へ下ろした。
「重くなりましたね」
しみじみとした口調で呟くと、朧の姿を感慨深く眺め優しく微笑む。
「はい。もう子供ではありませんから、こういったことは……」
言外に、子供扱いしないで欲しいと願いを込めた。
もう無力で護って貰うだけの子供ではない。
今までよりも傍近く、お仕えしたいのだと。
「そうですね。君はもう、子供ではありません」
松陽は何かを含んだような表情で、朧に手を差し出した。
その手に触れても良いものかと躊躇っている朧に、にこりと笑顔で促す。
「君に見せたいものがあります」
紹介したい人がいると言われなかったことに、心から安堵して朧は松陽の手に手を重ねた。
山中の冷たい空気の中で、繋いだ手だけが温かい。
師と二人、逃亡生活を送っていた日々の感覚が蘇る。
新緑の中を駆け抜けた春。岩を枕に星を数えた夜。互いの体温で暖を取った冬の日。
世界で二人きりだと思えた、懐かしい遠い記憶。降り積もる思い出と、深さを増す想い。
暗い木々の下を、追憶に浸ったまま通り過ぎた。
やがて木々が疎らになり、開けた空き地が現れる。
「え?」
月明かりに照らされたその場所に、有り得ない物を見て思わず声を上げた。
「驚きましたか?」
師の満足げな声に、大きく頷く。
「なぜ、こんな……」
松陽の見せたかった物。朧が言葉を失って見詰める先。そこには、枝垂れ桜の巨木があった。
月光を浴び、薄紅色に輝く見事な花を咲かせている。今を盛りと微風に花弁を揺らしていた。
(夢か?)
里の桜でさえまだ蕾が膨らみ始めたばかりだというのに、気温の低い山頂近くの桜が満開だなんて夢としか思えない。
呆然と桜木を見上げ続ける朧の視界を、松陽の手がひらひらと遮る。
まるで誘われるように、朧の視線は桜から松陽の手へと移った。
「もっと近くで観ましょう」
さあ。と促して、朧の背に手を添え桜の前まで押して行く。
薄紅の帳のような枝垂れを潜り抜け木の根元へ足を踏み入れると、またしても不思議な感覚に捕われる。
「……暖かい」
枝垂れた桜の内側は、まるで季節が違う様な暖かさだった。
何か特別な神域なのだろうか?
首を巡らせ注連縄を探すも見当たらず、では死角に鳥居か祠があるのではと幹を背にして辺りを見回した。
「少し、龍脈の力を借りました」
松陽は朧の正面に立ち、両手を木の幹に付いて両腕の中心に囲い込み身動きを封じる。
「龍脈?」
「大地の力、アルタナです」
師の説明は簡潔過ぎて分からない。
大地の力の名称がアルタナという事であっているだろうか? その力が龍脈にあると?
そもそも、龍脈とは何だ? 追及しても、解る気がしない。それでも、師の為に理解したいと思う。
何より自由に身動き出来ない体勢や、幾分近過ぎる師との距離から意識を逸らせたい。
そうでもしないと、妙に落ち着かない気分になる。
「具体的に、龍脈をどう使われたのでしょうか?」
「具体的に、ですか?」
うーん、と声を漏らしてから松陽は考え込む。力を操るのは感覚的で、言葉にするのは難しい。
結局、朧の身を幹から解放し手振りで説明した。
大地に手を翳し、垂直に引っ張りあげる動作をする。
「こんな風に龍脈を知覚して、地熱を引き寄せる。と、いった感じでしょうか。大地を温め木の根から徐々に幹や枝葉まで気を満たすと、花を咲かせてくれます」
両腕を広げ、大した事はしていないといった表情で話を終わらせる。
「凄いです! 先生は、自然の気まで操れるのですね!」
師の身体能力の高さは知っていたが、自然の気まで使いこなせるとは知らなかった。気候を読んだり、体内に気を巡らせる等とはまるで違う次元の御業。
「やり過ぎると、たまに爆発しちゃいます」
畏怖の念を抱く朧の眼前に人差し指を立て、向けられた感嘆の思いを台無しにした。
どう反応を返すべきかと複雑な表情を見せる朧に対して、松陽は再び距離を詰める。
「朧」と優しく名を呼んで、朧の両手を握りしめた。
「はい、先生?」
師の眼差しと握られた手の温もりに、鼓動が跳ねる。
「誕生日おめでとう。今日から成人ですね。君の新しい人生の門出に、幸多からんことを祈っています」
朧の瞳が大きく見開かれ、唇は戦慄く。
誕生日の事など、すっかり忘れていた。
祝いの言葉に礼をのべなければと思うのに、胸がつかえて声が出ない。
「春の門出と言えば、やはり桜でしょう。君の誕生日までに満開に出来て、ほっとしました」
続く松陽の話に、朧の瞳は潤んでゆく。
深夜の外出の理由は、これだったのだと気付いた。
(俺なんかの為に、ここまでの事を……)
瞼が熱くなり、後悔が胸に押し寄せる。勝手に想像し、勝手に苦しんで…… 何と愚かなことを。
ありがとうございますと、嬉しいと、伝えなければならないのに、やはり言葉にはならない。
喜び以上に申し訳なさが大きくて、どうしてよいのか分からなくなった。
「どうしました? もしかして、引きましたか!」
無言のままの朧の様子に、松陽は慌てだす。
「花束を渡すより、良い方法だと思ったのです。あ、それとも、朝まで待てなくて真夜中に君を連れ出したことに呆れているのでしょうか? せっかちとかじゃありません、断じて違うのですよ! ただ、誰よりも一番に! 君にお祝いの言葉を伝えたくて! って、自分で言っていて何だか可笑しくなってきました」
握ったままの朧の手を離して、踵を返そうとした。
可笑しいと言いつつも浮かべる表情は淋し気で、朧は思わず離れた手を追って掴んだ。
「朧?」
手を引かれた松陽が、再び朧に向き合う。
「可笑しくなど……」
胸のつかえを飲み込んで、最初の声を発する。
後悔に押し潰されて、師の優しさを不意にしてしまう所だったと焦った。
伝えなければ! ちゃんと言葉に出して、自分の気持ちを知っていただくのだと。
「ありがとうございます、先生。とても、嬉しいです。幼い頃から見守ってくださり、感謝に堪えません。私なんかの為に、尋常ならざるお力を」
「君だからです!」
掴んでいた手を、力強く握り返される。
「君と沢山の約束を交わして、今の幸せがあるのですよ。小さかった君が成人して、どんなに嬉しいか」
互いに握っていた手を引かれ、あっと思った時には手は解かれ師の胸に抱き締められていた。
「先生?」
「覚えていますか? 昔、こうして同じように桜の木の下で約束しましたね」
「はい、覚えております」
おずおずと、師の背中に腕を回す。何故だか、今はこうして抱き合うのが自然な気がした。
「あの時の約束は叶いました」
旅の途中で、交わした約束。
松下村塾の庭に桜の木を植えよう。いつか弟弟子達と、お花見をするのだと話した。
「はい、先生。今年も、お花見をいたしましょう」
新しい約束を積み重ね、これからの幸せも重ねてゆきたいと。そう約束して抱擁は解かれた。
離れた二人の間に、夜風が桜の花弁を吹き散らす。
松陽の視線が、風に舞う花びらを追って流れた。
「それでもいつか、巣立ってゆくのでしょうね」
それは小さな呟きで、朧に聞かせるためのものではない。
あと半歩、離れていれば聞き逃していただろう。
「先生は、覚えていらっしゃいますか?」
朧は珍しく自ら師との距離を詰めた。
首を傾げる師に、思い出して欲しいと願いながら逃避行をしていた頃の言葉を口にする。
「大人になっても、ずっと先生にお仕えしたいです。先生のお傍にいたいのですと約束しました」
秋の終わり、互いの温もりを与え合って過ごした夜の約束。
「ええ、寒い夜でしたね」
師が懐かしそうに目を細める。覚えていてくださったのだと、喜びが沸き上がった。
「あの頃の願いは、今も変わっておりません。これからも、変わることはございません」
子供の頃よりも、もっと強くそう願っている。
「……朧」
「もう一度、先生が咲かせてくださった桜の下で、約束させてください」
跪きたい衝動に駆られ、一歩後方に足を引く。
だが、師の手の方が素早く強かった。
引き上げられて、また手を握られる。
「君が望むなら…… いいえ、すみません。私の願いも同じです。君の傍にいたい。傍にいて欲しいと、望んでも良いのでしょうか?」
思ってもみなかった言葉に驚きはしたが、次第に溢れ出す喜びに頬が熱くなった。
何度も頷いて、子供の様に小指を絡める。
枝垂れ桜の帳の下、密かに結ばれた約束が破られることのない様にと願いながら。
了
2024.3.27(朧誕に3時間遅刻)