枝垂れ桜の帳の下

弟弟子達を寝かしつけて、一刻が過ぎた。
もう間もなく、子の刻になる。
「今夜も、行かれるのだろうか?」
灯りを消した部屋の中で、朧はポツリと呟いた。
寝返りを打ち、己の呟きを頭の中から消そうとしても、余計に胸が苦しくなるばかり。
気付いたのは、数週間前。
ここ松下村塾の師である松陽は夜中にこっそりと出掛けているようだった。
その頻度は、二日か三日に一度。最初は奈落から放たれた追手を撹乱する為だろうかと思ったが、日々の洗濯物や師の様子から緊迫したものは感じられなかった。
いつも穏やかな笑みを湛え落ち着いているので、悪いことより良いことの可能性が高い。
となると、考えられるのは⋯⋯
朧は布団の縁を掴み、頭まで被せる。

(どなたか、通う女性が出来たのではないか)

逢瀬を重ね、近い将来ここに奥方として迎え入れるおつもりなのだろう。
その時が来たら、ちゃんと笑って心から祝福出来るだろうか?
仄かな恋心を自覚した少年の頃なら、容易かったかもしれない。
けれど、日々想いを募らせてきた今となっては酷く難しい。
それでも、師の幸せの為ならば笑顔で祝福しよう。
一番弟子として願うのは、師の幸せなのだから。
もとよりこの想い、伝えるつもりなどなかったのだ。
密かな思慕も、胸の痛みも、時が過ぎればきっと……
グッと歯を喰いしばり、体を丸める。
眠らなければと思っても、息苦しくて眠れない。
単なる気まぐれで始めた夜の散歩で、それ以外の理由など無ければいいのにと心の底から願う。
けれど、師が気まぐれだけで怪しい動きをする人物ではない事も知っている。
どうしても、意識は廊下の気配に集中してしまう。
聴きたくなどないのに、足音がしない事を望んでいるのに、師の足音が聞こえるのではないかと、耳をそばだてていた。
襖を隔てた廊下側から微かな軋み音が聞こえて、朧は身を固くする。
(やはり、今夜も)
息を殺して師である松陽の足音が玄関側に過ぎ去るのを待ったが、足音は朧の部屋の前で止まりカタリと襖が引かれる音がした。
「朧、起きていますね」
小声ではあるが、布団を被っていても聞こえる落ち着いた声音で名を呼ばれる。
なぜか、起きていることも見透かされていた。
朧は、すぐさま布団を跳ね除けて正座する。
「はい、申し訳ございません」
「なぜ謝るのですか?」
暗がりでよく見えないが、言葉の調子から不思議がっているのが分かった。
何故と問われても、返す言葉が見付からない。
先生が女性の元に通っているのではと考えて眠れませんでしたとは言えないし、言いたくも無かった。
無言を貫きたいが、重ねて問われれば何か返事をしなければと考える。
師に対して、不敬な態度を取るつもりはない。
「では、暖かい着物に着替えてください」
松陽は短い沈黙をどう受け取ったのか、特に気にならなかったのか不明だが、返事を待つこと無く部屋中へと入ってゆく。
「先生?」
驚きながらも立ち上がり、箪笥に向かう師の後を追う。
「静かに。子供達が目を覚ますと大変ですからね」
人差し指を口元に立てて朧の動きを制すると、言葉とは裏腹に結構大きな音を立てて箪笥の抽斗を引き抜いた。
「先生、私が!」
状況が分からないが、着替えで師の手を煩わせる訳にはいかない。
それに後片付けが更に大変になっては堪らないと、こっそり思った。


***


「少し歩きます。暗いので、足元に気をつけてくださいね」
少しの時間の定義とは?
師と共に歩くのに、不満も不安も無い。どちらかと問われれば嬉しいが勝つ。
ただ目的地も分からず半刻の間、深夜の山道を黙って歩き続けるのは精神的に苦しかった。
どの様に考えても、師の行動の意味が分からない。
弟弟子達を置いて出て来られるのだから、緊急性は無い事態なのだろう。ならば何故深夜にと、疑問が湧く。
何度が問いかけようとしたが、前を歩く師の背中から微かな緊張感が読み取れて迂闊に聞けなくなった。
(もしや、通う女性に紹介される?)
そんな推測が過ぎったが、こんな里を離れた山中に人家があるなど村でも聞いたことが無い。
奈落の手の者が現れたのだろうかという不吉な考えは、浮かんだと同時に直ぐ却下する。
二度と人の命に手をかけないと、誓ったではないか。
始末せず撹乱するには、それなりの準備が必要だ。このような軽装で、得物ひとつ持たずに行くなど有り得ない。

「朧」
いきなり松陽が立ち止まり、振り返った。
考え事に気がそぞろになっていた朧は咄嗟に反応できず、危うく前に躓きそうになる。
「やはり夜道を歩かせるのは、ここまでですね」
「はっ?」
夜道と言うより山道です。
それに、道が悪くて躓きそうになった訳でもありません。
ここまでとは、どういう意味でしょうか?
そんな突っ込みと疑問が、喉元までせり上がってくる。
「よいしょ」
「先生、何を?!」
掛け声とも思えない気の抜けた掛け声に似合わぬ、素早い動きで松陽は朧を横抱きに抱えた。
「歩きだと、冷えますね」
「理由になっておりません!」
「黙ってないと、舌を噛みますよ」
「ぅわッ」
朧の疑問も問いも置き去りに、松陽は地面を蹴って空高く跳躍する。
奈落時代から師の身体能力の凄まじさは知っていたが、久々に目の当たりにすると驚きに声も出ない。
しっかりと胸に抱かれているので落下の恐怖は微塵も無いが、この状態にもかかわらず胸が高鳴っているのを知られてしまわないか、そちらの方が気になって先程までの物思いが全て霧散した。
跳躍の都度、黒く横たわる森の木々を足下に、空高く輝く白銀の月に照らされ煌めく長い髪を揺らす松陽の端正な顔立ちに見惚れる。
敬慕では足りない、崇拝という言葉の方がしっくりくる想い。心密かに慕い続けている師の腕の中にいる。今はもう、ただそれだけで一杯一杯だった。

1/2ページ
スキ