十六夜の月
刀を持つ手が震える。
本格的な練習をしたのは、僅か数日だった。それでも、舞おうと決めたのは大切な人の為。だから、全身全霊で舞う。
朧は摺り足で最初の一歩を進め、空を仰ぎ見る。そこには、村塾で眺めた十六夜の月が浮かんでいた。優しく見守るような淡い輝きに、身も心も満たされる。躰は軽く、感じは鋭くなった。龍笛の音と笙の音色に導かれ、歩み始める。
『あゆみ』は最初の場面。自分だけの舞い。生まれる為に、生きる為に旅をする物語。
師に手を取られ、一つ一つの振りを覚えた記憶が甦る。
朧の刀は、ゆっくりと空を切る。ふわりと舞う足捌きと同じ、流れるように月光を反射させ観る者を引き込んだ。
松陽は影の様に佇み、刀を揺らす。
少しずつ、辺りを探る獣のように鋭い威嚇を示した。
『さぐり』は死の気配を振りまき、鬼の存在と恐怖と絶望を人々の心に植え付ける。
朧という光が遠退き、松陽という鬼が前に進み出た。白と黒が入れ替わる。刀は低い位置で、空間を切り裂くように鋭く動く。反射させるのは紅蓮の炎、地獄の業火を思わせる。
松陽が纏う雰囲気が、剣呑なものに変わってゆく。観客は落ち着かない気持ちになり、視線が白い色を求めた。
龍笛と笙の音色に、鼓が加わる。早くなる調子と共に、再び朧が舞台中央へ踊り出た。
『からみ』は互いの存在を知りたくて、互いの距離を縮めようと足掻く。
松陽と朧。黒と白、鬼と人間。違う存在は寄り添う事を知らず、グルグルと互いの後を追う。二人が描く輪は、絡み合う糸のような光沢を放って観客の目を惹きつける。それは月光の刃と、業火の刃の色合いだった。
『立ち合い』は、剣舞の要。生と死の戦いだった。
鼓の音は止み、笙の旋律も小さく細くなってゆく。
龍笛の音が一際高くなり、舞台を踏み締める二人の足音が立ち合いの合図だった。観客は息を呑み、目を瞠る。
松陽と朧が、高く刀を掲げ互いに向けて振り下ろす。
黄金の輝きが、血に染まったかと錯覚させる鋭さ。
小さな悲鳴が、そこここで漏れる。
舞台から放たれる凄まじい殺気を、肌で感じたのだ。練習を見ていた村長でさえ、腰を抜かしそうになる。それは奏者も同じ。驚きと恐怖に身が竦み、奏でる事が出来なくなった。
無音が、舞台を支配する。
(決して、離れたりなど致しません。そして、共に戦います)
その思いだけが、朧の中にあった。
目前に相対している死神の中に、師の気配が潜んでいる。
自分は、それを感じ取れるのだ。そんな自負がある。どんなに禍々しい気配を浴びせられようと、逃げ出さない。師の許へ馳せ参じる。燃え盛る業火の中へも飛び込み、この手を差し入れ大切な翡翠を取り戻す。誓いは決して破らない。
舞台の中央で、激しい鬩ぎ合いが展開される。寸止めの剣舞の筈なのに、本気で刃を打ち合わせているように見えた。
観客は己の震える手を握り締め、刃の動きを目で追う。奉納舞いとは思えぬほどの激しさ、剣筋の鋭さに心奪われる。
(私を見ていてください)
松陽は、その希望の言葉を闇の中で叫ぶ。
愛しい青い光が、私の存在を肯定する。数多の中から生まれた私が、人として生きる為に選んだ道を照らす輝く宝石。
その小さな手を離さない為に、私は抗い続ける。数多の中に埋没したりはしない。覆い被さって来る過去の怒りや悲しみの檻から、光射す世界に帰るのだ。
果てない立ち合いに思えた場面は速度を落とし、刃に宿していた輝きが紅蓮から黄金へと変わった。その場に満ちていた恐ろしい気も、いつの間にか霧散している。
舞台の二人が優雅な弧を描くように上げた刃先は、左右対称の流れを描き黄金色の光を弾いた。
『嬉し舞い』は鬼を打ち倒し、新たな命を生み出した喜びの結び。舞いは穏やかに、そして対照的に展開されてゆく。
息の合った動きに、師弟の仲の良さが窺えるようだった。
松陽が刀を天に突き刺すと、龍笛の音が甦る。続いて、朧が同じく刀を天に向けると笙の音が流れ出した。
背中合わせになって刀を振るうと、鼓が鳴り出す。
賑々しくなった舞台で、左右を入れ替え刀を合わせ、一振りごとに二人は後退してゆく。奥まった所で、上手と下手に別れ退場した。
月明かりが照らす舞台から舞い手が消えて、龍笛と笙の音が小さくなって、締め括りに鼓が大きく一つだけ鳴る。
それきり、舞台には静寂が訪れた。
代わりに、舞台の外で拍手喝采が湧く。村人たちは口々に、これは語り草になると話すのだった。
***
ざわめきを遠くに聞きながら、松陽と朧は互いを支えるようにして廊下を歩き控えの間へと戻っていた。畳に座り込むと、もう動く気になれない。それほど、気力体力共に使い切っていた。いつもなら茶を淹れようと動く朧も、今夜ばかりは腕も上げられない様子を見せる。
神主に頼んで、子供達と一緒に泊めて貰えないかという考えが松陽の頭を過った。出来れば化粧も落としたいが、風呂を借りられたとしても入るだけの余力が残っていない。
それに、と松陽は朧を盗み見る。こんなにも美しい姿を、もう少し眺めていたいと。
「ん?」
廊下を歩く複数の足音に反応して、松陽は襖の方を見た。
「お疲れ様です。お邪魔しても、よろしいかしら?」
聞き覚えのある声に「どうぞ」と応える。カラリと襖が開かれ、水桶を抱えた村長の奥さんと助役の奥さんが入って来た。その後ろには、布団を抱えた青年が立っている。
「ほら。あんた達は、さっさと布団を敷いてちょうだいよ」
「あ、の?」
こちらから申し出る前に泊めてくれる様子が窺えたが、誰の判断かが分からない。どこから話の糸口を見付けようか、判断に困っていると奥さん方の怒涛のお喋りが始まった。
「お布団、奥に敷いておきますからね。小さい坊ちゃん達とは離れてますが、同じ屋根の下だから問題ありませんよね。あ、うちの主人から、ありがとうございますって言付かってます。本当に、引き受けてくださって感謝します。これで、うちの甥っ子も助かりました。本当に、辞退なんて意気地の無い子で、すみませんねぇ」
「あらあら、奥さん。先に祝宴とお風呂の事を聴かなきゃ。って言っても、お疲れですよね。朧ちゃんは、もう舟を漕いでいるみたいですし。先生、主人がお疲れでなければ村の集会所で飲みませんかって伝言されたんですけど、無理そうなら私から伝えましょうか? あ、それと、お風呂も無理でしたら、せめてこの湯をお使いくださいな。それと、神主さんが泊まって欲しいと仰ってて、布団を用意しましたの」
最早話し声は子守唄にしか思えず、言葉は意味を持たなくなっている朧の横で、松陽は応えるべき言葉を纏めようと考える。助役の奥さんは、助役からの感謝の言葉を伝言してくれている。布団は奥に敷かれ、銀時達は別の部屋で泊めて貰っているらしい。少し休んでから、寝顔を見に行こう。それから、あの辞退した若者は助役の甥だったと分かったが、そこは触れないでおこうと決めた。
村長の奥さんの方は、有り難い情報をくれている。神主自ら泊まって欲しいと言われたなら、変な遠慮は要らない。これで心置き無く泊まれる。
湯は使いたいが、今は動けそうに無かった。自分一人なら何とでもなるが、朧の湯浴みを補助出来る自信と自制が無い。
かと言って、この部屋に朧一人を残して行きたくはなかった。無論、祝宴など問題外。
頭の中で整理がつくと、松陽は姿勢を正す。
「ありがとうございます。神主さんを始め、村長さんと助役さん。皆さんに、よろしくお伝えください。貴重な経験をさせて頂き、感謝しておりますと。祝宴のお誘いも嬉しいのですが、今夜はもう動けそうにありませんので……」
疲れたとばかりに、肩の力を抜いて見せる。それから柔らかに微笑して、二人の女性と奥で布団を敷く若者達に「ありがとうございます」と告げた。この一言で、周りは全て了解する。
「じゃあ、水桶はここに置いておきますから」
助役の奥さんが、手拭いを添えて襖の横に二つ並べた。
「今夜はお疲れ様でした。ごゆっくり、おやすみなさい」
村長の奥さんは労いの言葉をかけた後、若者達を手招きして一緒に部屋を出る。
部屋は、再び静寂に包まれた。
夢現になりながらも、必死に座る姿勢を保っていた朧の躰が傾ぐ。もう、限界を超えていた。体力よりも精神力の消耗が激しくて、心が休息を求める。
「朧、化粧だけは落とさないと、ほら、こちらを向いてください」
師の声が、近くて遠い。返事をしたいのに、声は出なかった。幼子のように、顔中を拭かれているのが分かる。温かな湯を染み込ませた手拭いで肌を拭かれるのは心地良く、傾けた身から徐々に力が抜けてゆく。このまま倒れ込むと思ったが、畳や布団とは違う弾力と温もりに包まれた。
(ここは、何処だっただろうか?)
胸に、幸福感が満ちてゆく。先程までの疲労は、気怠い痺れに変わった。
(ああ、そうだ。先生と舞ったのだ)
確かな手応えと、やり遂げた充足感。朧はうっすらと瞼を上げて、松陽の視線を探した。
「先生?」
肩を支えて貰っているだけだと思っていたが、師の顔は横ではなく正面にあって、膝の上に横抱きにされているのが分かった。いつもの朧なら、すぐさま下ろして下さいと焦るだろう。だが今は、半分寝惚けている状態だった。青く烟る瞳が、じっと松陽を見詰める。そこには、立場や恩義など取り払った素の想いが溢れていた。
ただ傍にいるのが嬉しくて、触れられて伝わる温もりに幸せを感じる。見詰める瞳の中に、自分の姿を見付ける喜び。
眠気と幸福感に、理性の手綱が緩む。
朧は自ら手を伸ばし、身を捩じって松陽に抱き付いた。
「ずっと、離さないで下さい」
「……朧?」
呼び掛けたが、返事は無い。
ただ肩に回された手が、柔らかな感触で松陽を包む。聴かされた囁きは、強請るような甘さを含んでいるように思えた。
化粧を落として子供の顔に戻した筈なのに、その眼差しも微笑みも言葉や仕草まで、全てが松陽の理性を崩しにかかる。
自分の中に芽吹き始めた、朧への想いは日に日に強くなっていた。弟子に対して持ってはいけない感情だと、自分を戒めても突発的な情動は抑えきれない。
奉納舞いを引き受けた事によって、思わぬ二人きりの時間が増えた。それが、吉となるか凶となるか分からない。
分かったのは、想いが募ってゆくことだけ。
彼も同じように想ってはくれないだろうかと、期待を高めては打ち消していた。
けれど、今夜の『立ち合い』で求め合う絆を感じた。
「なんて、私の一人相撲かも知れませんが」
そう呟いて、力の入っていない朧の腕を肩から外す。
朧は何の抵抗も無く、松陽の胸に頭を預けた。離さないでと言いながら、返事を聴く前に寝落ちてしまっている。
松陽は安らかな寝顔を見詰めて、囁きかける。
「君が望むなら、ずっと離しませんよ」
滑らかな頬を掌で撫でて、起きている者に対するように話しかけた。頬から顎へ、指先を移動させ朧を上向かせる。
「だから、これは約束の印です」
松陽の長い髪がさらりと流れ、亜麻色の帳が作られる。
その中で眠る少年に想いと約束を伝える口づけが、そっと落とされた。
了
令和二年十一月一日
(2024.3.12web再録)
本格的な練習をしたのは、僅か数日だった。それでも、舞おうと決めたのは大切な人の為。だから、全身全霊で舞う。
朧は摺り足で最初の一歩を進め、空を仰ぎ見る。そこには、村塾で眺めた十六夜の月が浮かんでいた。優しく見守るような淡い輝きに、身も心も満たされる。躰は軽く、感じは鋭くなった。龍笛の音と笙の音色に導かれ、歩み始める。
『あゆみ』は最初の場面。自分だけの舞い。生まれる為に、生きる為に旅をする物語。
師に手を取られ、一つ一つの振りを覚えた記憶が甦る。
朧の刀は、ゆっくりと空を切る。ふわりと舞う足捌きと同じ、流れるように月光を反射させ観る者を引き込んだ。
松陽は影の様に佇み、刀を揺らす。
少しずつ、辺りを探る獣のように鋭い威嚇を示した。
『さぐり』は死の気配を振りまき、鬼の存在と恐怖と絶望を人々の心に植え付ける。
朧という光が遠退き、松陽という鬼が前に進み出た。白と黒が入れ替わる。刀は低い位置で、空間を切り裂くように鋭く動く。反射させるのは紅蓮の炎、地獄の業火を思わせる。
松陽が纏う雰囲気が、剣呑なものに変わってゆく。観客は落ち着かない気持ちになり、視線が白い色を求めた。
龍笛と笙の音色に、鼓が加わる。早くなる調子と共に、再び朧が舞台中央へ踊り出た。
『からみ』は互いの存在を知りたくて、互いの距離を縮めようと足掻く。
松陽と朧。黒と白、鬼と人間。違う存在は寄り添う事を知らず、グルグルと互いの後を追う。二人が描く輪は、絡み合う糸のような光沢を放って観客の目を惹きつける。それは月光の刃と、業火の刃の色合いだった。
『立ち合い』は、剣舞の要。生と死の戦いだった。
鼓の音は止み、笙の旋律も小さく細くなってゆく。
龍笛の音が一際高くなり、舞台を踏み締める二人の足音が立ち合いの合図だった。観客は息を呑み、目を瞠る。
松陽と朧が、高く刀を掲げ互いに向けて振り下ろす。
黄金の輝きが、血に染まったかと錯覚させる鋭さ。
小さな悲鳴が、そこここで漏れる。
舞台から放たれる凄まじい殺気を、肌で感じたのだ。練習を見ていた村長でさえ、腰を抜かしそうになる。それは奏者も同じ。驚きと恐怖に身が竦み、奏でる事が出来なくなった。
無音が、舞台を支配する。
(決して、離れたりなど致しません。そして、共に戦います)
その思いだけが、朧の中にあった。
目前に相対している死神の中に、師の気配が潜んでいる。
自分は、それを感じ取れるのだ。そんな自負がある。どんなに禍々しい気配を浴びせられようと、逃げ出さない。師の許へ馳せ参じる。燃え盛る業火の中へも飛び込み、この手を差し入れ大切な翡翠を取り戻す。誓いは決して破らない。
舞台の中央で、激しい鬩ぎ合いが展開される。寸止めの剣舞の筈なのに、本気で刃を打ち合わせているように見えた。
観客は己の震える手を握り締め、刃の動きを目で追う。奉納舞いとは思えぬほどの激しさ、剣筋の鋭さに心奪われる。
(私を見ていてください)
松陽は、その希望の言葉を闇の中で叫ぶ。
愛しい青い光が、私の存在を肯定する。数多の中から生まれた私が、人として生きる為に選んだ道を照らす輝く宝石。
その小さな手を離さない為に、私は抗い続ける。数多の中に埋没したりはしない。覆い被さって来る過去の怒りや悲しみの檻から、光射す世界に帰るのだ。
果てない立ち合いに思えた場面は速度を落とし、刃に宿していた輝きが紅蓮から黄金へと変わった。その場に満ちていた恐ろしい気も、いつの間にか霧散している。
舞台の二人が優雅な弧を描くように上げた刃先は、左右対称の流れを描き黄金色の光を弾いた。
『嬉し舞い』は鬼を打ち倒し、新たな命を生み出した喜びの結び。舞いは穏やかに、そして対照的に展開されてゆく。
息の合った動きに、師弟の仲の良さが窺えるようだった。
松陽が刀を天に突き刺すと、龍笛の音が甦る。続いて、朧が同じく刀を天に向けると笙の音が流れ出した。
背中合わせになって刀を振るうと、鼓が鳴り出す。
賑々しくなった舞台で、左右を入れ替え刀を合わせ、一振りごとに二人は後退してゆく。奥まった所で、上手と下手に別れ退場した。
月明かりが照らす舞台から舞い手が消えて、龍笛と笙の音が小さくなって、締め括りに鼓が大きく一つだけ鳴る。
それきり、舞台には静寂が訪れた。
代わりに、舞台の外で拍手喝采が湧く。村人たちは口々に、これは語り草になると話すのだった。
***
ざわめきを遠くに聞きながら、松陽と朧は互いを支えるようにして廊下を歩き控えの間へと戻っていた。畳に座り込むと、もう動く気になれない。それほど、気力体力共に使い切っていた。いつもなら茶を淹れようと動く朧も、今夜ばかりは腕も上げられない様子を見せる。
神主に頼んで、子供達と一緒に泊めて貰えないかという考えが松陽の頭を過った。出来れば化粧も落としたいが、風呂を借りられたとしても入るだけの余力が残っていない。
それに、と松陽は朧を盗み見る。こんなにも美しい姿を、もう少し眺めていたいと。
「ん?」
廊下を歩く複数の足音に反応して、松陽は襖の方を見た。
「お疲れ様です。お邪魔しても、よろしいかしら?」
聞き覚えのある声に「どうぞ」と応える。カラリと襖が開かれ、水桶を抱えた村長の奥さんと助役の奥さんが入って来た。その後ろには、布団を抱えた青年が立っている。
「ほら。あんた達は、さっさと布団を敷いてちょうだいよ」
「あ、の?」
こちらから申し出る前に泊めてくれる様子が窺えたが、誰の判断かが分からない。どこから話の糸口を見付けようか、判断に困っていると奥さん方の怒涛のお喋りが始まった。
「お布団、奥に敷いておきますからね。小さい坊ちゃん達とは離れてますが、同じ屋根の下だから問題ありませんよね。あ、うちの主人から、ありがとうございますって言付かってます。本当に、引き受けてくださって感謝します。これで、うちの甥っ子も助かりました。本当に、辞退なんて意気地の無い子で、すみませんねぇ」
「あらあら、奥さん。先に祝宴とお風呂の事を聴かなきゃ。って言っても、お疲れですよね。朧ちゃんは、もう舟を漕いでいるみたいですし。先生、主人がお疲れでなければ村の集会所で飲みませんかって伝言されたんですけど、無理そうなら私から伝えましょうか? あ、それと、お風呂も無理でしたら、せめてこの湯をお使いくださいな。それと、神主さんが泊まって欲しいと仰ってて、布団を用意しましたの」
最早話し声は子守唄にしか思えず、言葉は意味を持たなくなっている朧の横で、松陽は応えるべき言葉を纏めようと考える。助役の奥さんは、助役からの感謝の言葉を伝言してくれている。布団は奥に敷かれ、銀時達は別の部屋で泊めて貰っているらしい。少し休んでから、寝顔を見に行こう。それから、あの辞退した若者は助役の甥だったと分かったが、そこは触れないでおこうと決めた。
村長の奥さんの方は、有り難い情報をくれている。神主自ら泊まって欲しいと言われたなら、変な遠慮は要らない。これで心置き無く泊まれる。
湯は使いたいが、今は動けそうに無かった。自分一人なら何とでもなるが、朧の湯浴みを補助出来る自信と自制が無い。
かと言って、この部屋に朧一人を残して行きたくはなかった。無論、祝宴など問題外。
頭の中で整理がつくと、松陽は姿勢を正す。
「ありがとうございます。神主さんを始め、村長さんと助役さん。皆さんに、よろしくお伝えください。貴重な経験をさせて頂き、感謝しておりますと。祝宴のお誘いも嬉しいのですが、今夜はもう動けそうにありませんので……」
疲れたとばかりに、肩の力を抜いて見せる。それから柔らかに微笑して、二人の女性と奥で布団を敷く若者達に「ありがとうございます」と告げた。この一言で、周りは全て了解する。
「じゃあ、水桶はここに置いておきますから」
助役の奥さんが、手拭いを添えて襖の横に二つ並べた。
「今夜はお疲れ様でした。ごゆっくり、おやすみなさい」
村長の奥さんは労いの言葉をかけた後、若者達を手招きして一緒に部屋を出る。
部屋は、再び静寂に包まれた。
夢現になりながらも、必死に座る姿勢を保っていた朧の躰が傾ぐ。もう、限界を超えていた。体力よりも精神力の消耗が激しくて、心が休息を求める。
「朧、化粧だけは落とさないと、ほら、こちらを向いてください」
師の声が、近くて遠い。返事をしたいのに、声は出なかった。幼子のように、顔中を拭かれているのが分かる。温かな湯を染み込ませた手拭いで肌を拭かれるのは心地良く、傾けた身から徐々に力が抜けてゆく。このまま倒れ込むと思ったが、畳や布団とは違う弾力と温もりに包まれた。
(ここは、何処だっただろうか?)
胸に、幸福感が満ちてゆく。先程までの疲労は、気怠い痺れに変わった。
(ああ、そうだ。先生と舞ったのだ)
確かな手応えと、やり遂げた充足感。朧はうっすらと瞼を上げて、松陽の視線を探した。
「先生?」
肩を支えて貰っているだけだと思っていたが、師の顔は横ではなく正面にあって、膝の上に横抱きにされているのが分かった。いつもの朧なら、すぐさま下ろして下さいと焦るだろう。だが今は、半分寝惚けている状態だった。青く烟る瞳が、じっと松陽を見詰める。そこには、立場や恩義など取り払った素の想いが溢れていた。
ただ傍にいるのが嬉しくて、触れられて伝わる温もりに幸せを感じる。見詰める瞳の中に、自分の姿を見付ける喜び。
眠気と幸福感に、理性の手綱が緩む。
朧は自ら手を伸ばし、身を捩じって松陽に抱き付いた。
「ずっと、離さないで下さい」
「……朧?」
呼び掛けたが、返事は無い。
ただ肩に回された手が、柔らかな感触で松陽を包む。聴かされた囁きは、強請るような甘さを含んでいるように思えた。
化粧を落として子供の顔に戻した筈なのに、その眼差しも微笑みも言葉や仕草まで、全てが松陽の理性を崩しにかかる。
自分の中に芽吹き始めた、朧への想いは日に日に強くなっていた。弟子に対して持ってはいけない感情だと、自分を戒めても突発的な情動は抑えきれない。
奉納舞いを引き受けた事によって、思わぬ二人きりの時間が増えた。それが、吉となるか凶となるか分からない。
分かったのは、想いが募ってゆくことだけ。
彼も同じように想ってはくれないだろうかと、期待を高めては打ち消していた。
けれど、今夜の『立ち合い』で求め合う絆を感じた。
「なんて、私の一人相撲かも知れませんが」
そう呟いて、力の入っていない朧の腕を肩から外す。
朧は何の抵抗も無く、松陽の胸に頭を預けた。離さないでと言いながら、返事を聴く前に寝落ちてしまっている。
松陽は安らかな寝顔を見詰めて、囁きかける。
「君が望むなら、ずっと離しませんよ」
滑らかな頬を掌で撫でて、起きている者に対するように話しかけた。頬から顎へ、指先を移動させ朧を上向かせる。
「だから、これは約束の印です」
松陽の長い髪がさらりと流れ、亜麻色の帳が作られる。
その中で眠る少年に想いと約束を伝える口づけが、そっと落とされた。
了
令和二年十一月一日
(2024.3.12web再録)