十六夜の月
秋祭り当日の授業は、午前で終わる。村塾の生徒達は誰も彼もソワソワして、授業にならなかった。それが今回ばかりは、松陽にとってもありがたい。少しの時間でも、朧を休ませることが出来るのだから。
そんな松陽の思いも空しく、朧は弟弟子達を連れて秋祭りの屋台巡りを始めた。背中に信女を背負い、右手で銀時の手を掴んでいる。その前を、晋助と手を繋いだ小太郎が歩く。
出来る事なら松陽も共に行きたかったが、夜に子供達を見て貰う代わりに昼間は神社の手伝いをする事になってしまった。夕方に食事休憩はあるが、夜にはまた神社に戻る。
戻ってしまえば、後は神楽舞いの準備と最終打ち合わせでゆっくりする暇は無かった。
「全部終わって落ち着いたら、皆で温泉に浸かりに行くとしましょう」
旅行なら朧も少しはゆっくり出来る筈だと、密かに頭の中で計画を立てる。松陽の中では、もう今夜の奉納舞いは成功したようなものだった。
「こら、銀時! 綿菓子を振り回すな!」
「違ぇし。コレ、美味しくなるおまじないだーかーらー」
「晋助も、リンゴ飴で人を殴るんじゃない!」
「殴ってねェ。天パ馬鹿の頭の方が、頭突きして来ただけだ」
「小太郎も、いい加減諦めろ。そんな大きなぬいぐるみを置く場所は無いぞ!」
「あああああっ、エリザベスぅぅぅ!」
最初は行儀良く見物していたが、行きかう人々の醸し出す浮かれた空気と、流れて来る祭囃子や他の子供達のはしゃぐ声に、弟弟子達もそれぞれが羽目を外し始めた。行き過ぎる都度、窘めたり宥めたりと忙しくなる。それでも弟弟子達の楽しそうな笑顔や、元気な声を聴いていると、楽しい気分になった。それに弟弟子達と過ごしていると、今夜の舞台に対する緊張が紛れる。不安を抱えて夜を待つよりも、楽しさに時間を忘れている方がいい。
やがて空は茜色に染まり、あちらこちらに設えられた色とりどりの提灯に火が灯る。屋台に飾られた面や風車が冷えはじめた夜風に、ゆるりと揺れて子供達に帰る頃合いを知らせた。祭り見物の人々の様子も、様変わりする。幼い子供は減って、親子連れや大人たちの姿が目立ち始めた。
「やっぱ、松陽来なかったな……」
幸せそうな親子連れとすれ違った後、銀時がポツリとそう漏らす。
「先生は神社でのお役目があるのだから、仕方無いではないか」
小太郎は、何かを懐かしむように前を横切る老夫婦に道を譲った。
「もう、甘ェもんは十分だ。帰ろうぜェ」
晋助が、朧の袖を引く。
秋の物悲しい気配が子供達を支配しかけた時、信女が大声を上げて泣き出した。朧は背中に伝わる生温かな感触に「あっ!」と声を上げる。
「朧兄さん、信女のおしめが濡れています」
小太郎が、ありのままの状況を伝えた。
「うわっ、くせぇ! コレ、ウンコもしてるんじゃね?」
銀時が顔を顰めて、鼻を摘まむ。
「兄弟子、帰るぞッ!」
晋助は、率先して走り出す。
松陽の弟子達は、しんみりした空気から一転して大急ぎで村塾へ帰って行った。
秋の日は釣瓶落とし、とはよく言ったものだと感心する。
帰って信女の世話をして、弟弟子達の食事と風呂を済ませ、彼らを社務所に預ける為の準備をしている間に、空はすっかり闇色の帳を下ろしていた。
そして沖天に輝く、十六夜の月。
優しい黄金の光を見上げると、緊張が解けていった。細かな粒子が躰を包み、肌に沁みてゆくような不思議な感覚に浸る。どんどん心が軽くなる。今なら師と二人で舞いながら、どこまでも遠くへ飛んで行けそうな気がした。
二人きりで、誰もいない遠い世界へ。手を取り抱きしめあって、感じるのは互いの体温だけ……
「朧、なぁ、朧って!」
「兄弟子、迎えだぞッ!」
躰を揺すられ、夢想から覚める。
「俺は?」
「朧兄さん、大丈夫ですか?」
小太郎が心配そうに朧を見上げる。その後ろに、銀時と晋助が立っていた。皆一様に、心配から瞳を曇らせている。
「ああ、すまぬ。少し、ボーッとしていただけだ」
視線が、合わせられなかった。愛する弟弟子達を置いて、師と二人きりの夢想するなど、どうかしている。
自分の独占欲の強さに驚き、後ろめたくなった。
なぜ、そんな風に思ってしまったのか?
考える事も畏れ多くて、心の中を追求するのは止めた。
「おばさんが玄関で待ってます。準備は出来ましたかって」
村長の奥さんが弟弟子達を迎えに来てくれた事を報告されて、朧の意識は現実に向いた。
まだ、身を清める為の湯浴みと戸締りが出来ていない。
「すまんが、お前達だけで先に行ってくれ」
荷物を持って、子供達を急かす。こんな筈では無かったと、夢想した事を苦く思う。それでも、夢想自体は甘美で頭の片隅に根を下ろしてしまった。
「どうか、よろしくお願い致します」
弟弟子達にも頭を下げるよう促し、村長の奥さんに眠る信女をそっと手渡す。相変わらず奥さんは大らかな笑顔で、子供達を見詰め信女を抱き取ってくれた。
「ええ、ええ。任せてちょうだい。朧くんは、奉納舞いを頑張ってね。おばさん、応援してるから」
優しい言葉と励ましに、朧の心も持ち直す。
門の所まで見送って、朧は舞う為の準備を始めた。
***
もう、賑やかな祭囃子は聞こえない。
聞こえて来るのは遠い漣のような人々の低い囁き声と、別の控室で音合わせしている龍笛と笙の音色だけ。
朧に与えられた控えの間は社務所の中でも奥まっていて、祭日だというのに人の往来は感じられなかった。
「朧、準備は出来ましたか?」
トントンと、襖を叩く軽い音がして松陽の声が続く。
朧は鏡台の前からすぐさま立ち上がり、襖を開けた。
「先生、お疲れ様です」
緊張しているかと思ったが、存外落ち着いた声で挨拶する朧の声を聴いて笑顔になった松陽の顔が一瞬で固まる。
目礼から視線を松陽に移した朧も、同じように固まった。
互いが、互いの顔を穴の開きそうなほど見詰める。
白い衣装に身を包んだ朧の顔と、黒い衣装を纏った松陽の顔には、それぞれ化粧が施されていた。
朧の顔に塗られた白粉は傷跡と目の下の隈を隠し、肌の艶やかさを強調している。額には、猩々緋色の花鈿が描かれていた。花鈿と同じ色で目頭から眼尻までを縁取り、長い銀色の睫毛が一層映える。頬には刷毛で薄く伸ばした桜色が、唇もまた猩々緋が塗られていた。
松陽も同じ白粉を塗られていたが、朧ほど濃くは無い。額飾りは無かったが、目頭から眼尻にかけて黒色が、力強い線で引かれていた。唇は薄く縁取られ、朱殷に染まっている。
白と黒、誕生と死。衣装と化粧に込められた意味は、そのまま剣舞の主題となっていた。年長者が黒を纏い、白に包まれた年少者の刃で斬り倒される。老いは死に、若き命が育まれる。巡る命の摂理と、巡る自然の摂理。季節が巡って草花が育つように五穀豊穣を願い、祈りを捧げて舞うのだ。
「お二方、準備はよろしいですか?」
襖の内と外で固まり立ち尽くす松陽と朧に対して、廊下から声が掛かる。
二人は夢から覚めたような表情をして、声の主である村長の顔を見た。村長も真剣な眼差しで、二人の視線を受ける。
紋付き袴姿の村長の後ろから、二人の巫女が進み出た。
それぞれが、儀式用の刀を両手で掲げている。
「露払いを務めさせて頂きます。刀をお受け下さい」
村長の言葉に、もう儀式が始まっているのだと二人は気を引き締め、それぞれの巫女から刀を受け取った。
村長の後ろを二人並んで歩き出すと、脇に控えた巫女の一人が小声で囁く。
「お子様達は、ぐっすりおやすみでございます」
松陽と朧は、目礼で巫女に応えた。やはり小さな子供達は眠さに負けてしまったようですねと、視線で会話する。
そして、それが儀式前の最後の会話になった。
一行は無言を保ち、社務所から神楽殿へと移動する。
赤々と燃える松明と、息を潜めた観客の視線が、舞台に上った二人を迎えた。
そんな松陽の思いも空しく、朧は弟弟子達を連れて秋祭りの屋台巡りを始めた。背中に信女を背負い、右手で銀時の手を掴んでいる。その前を、晋助と手を繋いだ小太郎が歩く。
出来る事なら松陽も共に行きたかったが、夜に子供達を見て貰う代わりに昼間は神社の手伝いをする事になってしまった。夕方に食事休憩はあるが、夜にはまた神社に戻る。
戻ってしまえば、後は神楽舞いの準備と最終打ち合わせでゆっくりする暇は無かった。
「全部終わって落ち着いたら、皆で温泉に浸かりに行くとしましょう」
旅行なら朧も少しはゆっくり出来る筈だと、密かに頭の中で計画を立てる。松陽の中では、もう今夜の奉納舞いは成功したようなものだった。
「こら、銀時! 綿菓子を振り回すな!」
「違ぇし。コレ、美味しくなるおまじないだーかーらー」
「晋助も、リンゴ飴で人を殴るんじゃない!」
「殴ってねェ。天パ馬鹿の頭の方が、頭突きして来ただけだ」
「小太郎も、いい加減諦めろ。そんな大きなぬいぐるみを置く場所は無いぞ!」
「あああああっ、エリザベスぅぅぅ!」
最初は行儀良く見物していたが、行きかう人々の醸し出す浮かれた空気と、流れて来る祭囃子や他の子供達のはしゃぐ声に、弟弟子達もそれぞれが羽目を外し始めた。行き過ぎる都度、窘めたり宥めたりと忙しくなる。それでも弟弟子達の楽しそうな笑顔や、元気な声を聴いていると、楽しい気分になった。それに弟弟子達と過ごしていると、今夜の舞台に対する緊張が紛れる。不安を抱えて夜を待つよりも、楽しさに時間を忘れている方がいい。
やがて空は茜色に染まり、あちらこちらに設えられた色とりどりの提灯に火が灯る。屋台に飾られた面や風車が冷えはじめた夜風に、ゆるりと揺れて子供達に帰る頃合いを知らせた。祭り見物の人々の様子も、様変わりする。幼い子供は減って、親子連れや大人たちの姿が目立ち始めた。
「やっぱ、松陽来なかったな……」
幸せそうな親子連れとすれ違った後、銀時がポツリとそう漏らす。
「先生は神社でのお役目があるのだから、仕方無いではないか」
小太郎は、何かを懐かしむように前を横切る老夫婦に道を譲った。
「もう、甘ェもんは十分だ。帰ろうぜェ」
晋助が、朧の袖を引く。
秋の物悲しい気配が子供達を支配しかけた時、信女が大声を上げて泣き出した。朧は背中に伝わる生温かな感触に「あっ!」と声を上げる。
「朧兄さん、信女のおしめが濡れています」
小太郎が、ありのままの状況を伝えた。
「うわっ、くせぇ! コレ、ウンコもしてるんじゃね?」
銀時が顔を顰めて、鼻を摘まむ。
「兄弟子、帰るぞッ!」
晋助は、率先して走り出す。
松陽の弟子達は、しんみりした空気から一転して大急ぎで村塾へ帰って行った。
秋の日は釣瓶落とし、とはよく言ったものだと感心する。
帰って信女の世話をして、弟弟子達の食事と風呂を済ませ、彼らを社務所に預ける為の準備をしている間に、空はすっかり闇色の帳を下ろしていた。
そして沖天に輝く、十六夜の月。
優しい黄金の光を見上げると、緊張が解けていった。細かな粒子が躰を包み、肌に沁みてゆくような不思議な感覚に浸る。どんどん心が軽くなる。今なら師と二人で舞いながら、どこまでも遠くへ飛んで行けそうな気がした。
二人きりで、誰もいない遠い世界へ。手を取り抱きしめあって、感じるのは互いの体温だけ……
「朧、なぁ、朧って!」
「兄弟子、迎えだぞッ!」
躰を揺すられ、夢想から覚める。
「俺は?」
「朧兄さん、大丈夫ですか?」
小太郎が心配そうに朧を見上げる。その後ろに、銀時と晋助が立っていた。皆一様に、心配から瞳を曇らせている。
「ああ、すまぬ。少し、ボーッとしていただけだ」
視線が、合わせられなかった。愛する弟弟子達を置いて、師と二人きりの夢想するなど、どうかしている。
自分の独占欲の強さに驚き、後ろめたくなった。
なぜ、そんな風に思ってしまったのか?
考える事も畏れ多くて、心の中を追求するのは止めた。
「おばさんが玄関で待ってます。準備は出来ましたかって」
村長の奥さんが弟弟子達を迎えに来てくれた事を報告されて、朧の意識は現実に向いた。
まだ、身を清める為の湯浴みと戸締りが出来ていない。
「すまんが、お前達だけで先に行ってくれ」
荷物を持って、子供達を急かす。こんな筈では無かったと、夢想した事を苦く思う。それでも、夢想自体は甘美で頭の片隅に根を下ろしてしまった。
「どうか、よろしくお願い致します」
弟弟子達にも頭を下げるよう促し、村長の奥さんに眠る信女をそっと手渡す。相変わらず奥さんは大らかな笑顔で、子供達を見詰め信女を抱き取ってくれた。
「ええ、ええ。任せてちょうだい。朧くんは、奉納舞いを頑張ってね。おばさん、応援してるから」
優しい言葉と励ましに、朧の心も持ち直す。
門の所まで見送って、朧は舞う為の準備を始めた。
***
もう、賑やかな祭囃子は聞こえない。
聞こえて来るのは遠い漣のような人々の低い囁き声と、別の控室で音合わせしている龍笛と笙の音色だけ。
朧に与えられた控えの間は社務所の中でも奥まっていて、祭日だというのに人の往来は感じられなかった。
「朧、準備は出来ましたか?」
トントンと、襖を叩く軽い音がして松陽の声が続く。
朧は鏡台の前からすぐさま立ち上がり、襖を開けた。
「先生、お疲れ様です」
緊張しているかと思ったが、存外落ち着いた声で挨拶する朧の声を聴いて笑顔になった松陽の顔が一瞬で固まる。
目礼から視線を松陽に移した朧も、同じように固まった。
互いが、互いの顔を穴の開きそうなほど見詰める。
白い衣装に身を包んだ朧の顔と、黒い衣装を纏った松陽の顔には、それぞれ化粧が施されていた。
朧の顔に塗られた白粉は傷跡と目の下の隈を隠し、肌の艶やかさを強調している。額には、猩々緋色の花鈿が描かれていた。花鈿と同じ色で目頭から眼尻までを縁取り、長い銀色の睫毛が一層映える。頬には刷毛で薄く伸ばした桜色が、唇もまた猩々緋が塗られていた。
松陽も同じ白粉を塗られていたが、朧ほど濃くは無い。額飾りは無かったが、目頭から眼尻にかけて黒色が、力強い線で引かれていた。唇は薄く縁取られ、朱殷に染まっている。
白と黒、誕生と死。衣装と化粧に込められた意味は、そのまま剣舞の主題となっていた。年長者が黒を纏い、白に包まれた年少者の刃で斬り倒される。老いは死に、若き命が育まれる。巡る命の摂理と、巡る自然の摂理。季節が巡って草花が育つように五穀豊穣を願い、祈りを捧げて舞うのだ。
「お二方、準備はよろしいですか?」
襖の内と外で固まり立ち尽くす松陽と朧に対して、廊下から声が掛かる。
二人は夢から覚めたような表情をして、声の主である村長の顔を見た。村長も真剣な眼差しで、二人の視線を受ける。
紋付き袴姿の村長の後ろから、二人の巫女が進み出た。
それぞれが、儀式用の刀を両手で掲げている。
「露払いを務めさせて頂きます。刀をお受け下さい」
村長の言葉に、もう儀式が始まっているのだと二人は気を引き締め、それぞれの巫女から刀を受け取った。
村長の後ろを二人並んで歩き出すと、脇に控えた巫女の一人が小声で囁く。
「お子様達は、ぐっすりおやすみでございます」
松陽と朧は、目礼で巫女に応えた。やはり小さな子供達は眠さに負けてしまったようですねと、視線で会話する。
そして、それが儀式前の最後の会話になった。
一行は無言を保ち、社務所から神楽殿へと移動する。
赤々と燃える松明と、息を潜めた観客の視線が、舞台に上った二人を迎えた。