十六夜の月

朧が涙ながらの誓いを思い出していると、松陽が隣でクスクスと笑い声を漏らした。
「十六夜の前に、十五夜ですね。今回はお月見している時間が無いって言ったら銀時が大暴れしそうです」
「そうですね。代わりに、明日明後日は月見団子をおやつとして用意しておきます」
 迫り来る重責が、弟弟子の食い意地話で少し軽くなる。もしかして、師はそれを狙って話題にしたのだろうかと思った。
その優しい心遣いを勿体無く思いつつも、やはり嬉しい。
「では、私の分は豆大福にしてくださいね!」
「先生、太りますよ」
 思い遣りだと思ったのは、勘違いだろうかと思い直す。
 朧の冷めた視線に、松陽は慌てて立ち上がる。
「さ、休憩は終わりです。もう少し、練習しますよ!」
「はい。よろしくお願い致します」
 次こそ、もう同じ場所で足を止めまいと意気込む。
 五つの場面の内、三つ『あゆみ』『さぐり』『嬉し舞い』はどれも形になっていた。残る二つ『からみ』『立ち合い』だけが、まだ仕上がっていない。
 もう恐怖に打ち勝つ方法は掴んでいたのに、身が竦む癖が残ってしまった。それを払拭するには、回数を熟すしかない。
 情けないと思う心を押し殺し、ひたすら舞いに打ち込む。
 風が運ぶ冷気に触れても、心地良いと感じるほど体中が熱くなる。もう何度、同じ所を舞ったのか数えるのも止めた。
 足が縺れて倒れそうになった所で、休憩が告げられる。
「呼吸が整ったらもう一度だけ合わせて、今夜は終わりにしましょう」
 隣に座っている師の声が、近い筈なのに遠い。何故だろうかと、考えていられたのは僅かな時間。答えが出る前に、目蓋が下りて辺りが真っ暗になった。

「……朧?」
 肩に落ちてきた小さな頭に、呼び掛けてみる。動きも返事も無く、聞こえて来るのは健やかな寝息だけ。
「また、無理をさせてしまいましたか」
 日中は変わらず家事をして、弟弟子達の世話にも手を抜いている様子は無かった。自分も手伝いたかったが、返って朧の手間を増やすと分かっている。だから普段通り振舞うのが一番だと、日常を変化させることはしなかった。
「君が一生懸命なのに、私がいつも通りでいるのは中々辛いものですよ」
 眠る朧の頭を撫で、指先で癖にある髪を弄ぶ。
「それも、あと数日の我慢ですね」
 そろりと身を返して一旦立ち上がり、身を屈めて朧の背中と膝下に腕を差し入れると横抱きに持ち上げた。背を反らして、抱き込みを深くする。躰を揺すられても、起きる様子も無い朧に尚も話しかけた。
「昔に比べると、随分重くなりましたね。こんな風に、君を抱くのは久し振りで懐かしいです」
 胸に当たる朧の横顔を見下して、目を細める。少年と青年の間の整った顔立ちは、無性の艶めかしさを放っていた。
「……んせ、おそば……ます」
 寝言を聴いて、松陽は目を丸くする。
「……それは、ズルいですよ」
 小さく囁いて、白い額にこっそり口づけを落とす。一度顔を上げ、再び朧の寝顔を覗き込む。薄く唇が開かれていたが、松陽は左右に首を振り朧を確りと抱き直して、顔が見えないように胸に押し付けた。
「これ以上、悪い先生になってはいけません」
 自分を窘めると、道場を後にして母屋の朧の部屋を目指すのだった。

***

十五夜の月の下、神社での通し稽古を終えた松陽と朧は早足で村塾を目指していた。
「ちゃんと、寝てくれているでしょうか?」
「大丈夫ですよ。村長さんの奥さんに、見て頂いているのですから」
長い通し稽古の間、留守番させている弟弟子達の様子が気になっている朧を安心させる為、村長の妻女に子守りを頼んだのだが、それでも安心からは程遠く帰り道を急ぐ。
「信女は大丈夫かも知れませんが、銀時達の方が手間を掛けているかも知れません」
普段から面倒を見ている朧の口振りに、松陽も段々不安になって来た。二人の足がますます速くなる。
ほとんど走る様に辿り着いた玄関先で、村長の妻が笑顔で二人を出迎えてくれた。
「みんな、お利口に眠っていますよ」
予想外の言葉に、松陽と朧は顔を見交わす。
「どうかしました?」
おっとりと尋ねられて、二人は左右に首を振る。何事も無かったなら、それに越したことはない。松陽が「ありがとうございます」と礼を述べ、朧は一緒に頭を下げる。村長の妻は大らかに笑って、明日の夜も子供達の面倒を見る事を引き受けますと申し出た。
「大変だとは思いますが、よろしくお願い致します」
「いいえ、明日は助役の奥さんもいらっしゃるし、神社の女手もありますから、少しも大変じゃありませんよ」
どうやら子供達の希望通り、明日の祭りの夜は社務所で奥さん方に面倒を見て貰える事になったらしい。今夜、利口にしていたのはその交渉の為なのだろう。もう一度、奥さんに頭を下げて感謝の意を示す。夜も遅いので、松陽が奥さんを村長の家まで送る事になり、朧は先に休むように言われた。
「おやすみなさい」
「お気をつけて」
門の前で挨拶を交わして松陽は夜道へ、朧は母屋へと入る。
子供達の寝静まった家内は、物音一つせず足音を立てるのも躊躇われた。奥さんの言葉を信じない訳では無いが、そっと子供部屋に入って一人一人の寝顔を窺う。どの子もスヤスヤと健やかな寝息をしていて、天使のようだった。
そんな弟弟子達の寝顔に癒され安心した途端、一気に眠気が押し寄せて来る。
「先生が帰ってらっしゃるまでは、」
ふらつく足を励まして、子供部屋から台所へと入ってゆく。
師が帰って来た時に、温かいお茶を出せるよう用意するつもりだった。

「朧?」
帰ってきた松陽は、台所の床に手足を縮め丸くなって転がっている朧に声をかける。最初は倒れているのかと心配したが、深く眠っているだけのようだった。よく見れば、流し台の上に急須と茶筒が置かれ、竈の上の鉄瓶は湯気を吐き出している。お茶の準備をしかけて、力尽きたという所だろう。
「休みなさいと言ったのに、全く君は」
鉄瓶を竈から下ろして、流し台に置いておく。それから床に膝を着き、横たわっている朧を見下ろした。抱き上げて抱きしめたい衝動に駆られたが、自制して朧の身を揺らす。数日前に寝落ちた時に部屋まで運んだら、翌日酷く恐縮されて大変だったのを思い出したのだ。
「朧、起きなさい。ほら、部屋へ戻りなさい」
幼さの名残りがある柔らかい頬を、指先でツンツンと突いても起きる様子は微塵も無い。
「……仕方無いですね。起きない君が悪いのですよ」
松陽は嬉しそうに、眠る朧を抱き上げる。朧の額が胸元に擦り寄せられて、愛しさが込み上げた。白銀の柔らかな髪に頬擦りして、小さく囁きかける。
「私はもう、君を手放せなくなりましたよ。約束通り、ずっと傍にいて下さい」
眠っているからこそ、安心して語りかけることの出来る願望。朧が人である以上、いつかは別れの時が来る。その時、この言葉は重荷になると知っているから伝える事は出来ない。
けれど今だけは互いの願いだからと、こっそり口にした。
(この優しい微睡みのような時間ごと、君を抱きしめさせてください)
朧を抱く腕に力を込め、大切な宝物を運ぶように台所を出てゆくのだった。



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