十六夜の月

「準備は、よろしいか?」
神楽殿の舞台、下手奥に座った神主が龍笛を構えて確認の声を上げる。朧は首だけで振り向き「はい」と答えて、視線を正面に戻した。赤々と燃える松明が、夜の闇を焦がす。その眩い輝きの近くに、松陽と村長が並んで立っていた。神楽殿の正面、朧の舞いが見える場所で確りと見定めるつもりなのだろう。
(先生。私の戦いを、ご覧下さい)
 笛の音に合わせた事は無い。だが、臆する事は無かった。
 師と費やした練習時間と同じ様に舞うだけだと、朧は最初の一歩を踏み出す。摺り足で舞台の中央へ進み、儀式用の刀を振りかざした。刀身が松明の明かりを反射させ、赤い輝きがその場にいる三人の目を射る。
 そこからはもう、朧の独壇場だった。
 若い命の迸りが、練習の成果を倍にする。師に対する想いが舞いに情緒を含ませ、戦うのだという気概が一振り一振りに鋭さを与えた。龍笛の調べは導きでは無く付き従う音と化し、見る者により強く舞いを印象付ける。
 朧の足運びが小刻みに後退し、舞台中央から上手奥へと下がると龍笛の音も静まって途切れた。
 舞いを生業とする者の目から見れば粗く完成度の低い素人舞いだったが、今ここにいる者達は誰もそんな感想は待たない。特に村長と神主は、十五の子供と侮っていただけに衝撃を受けた。松陽も練習から推し量っていた以上の見事な舞いを見せられて感動し、胸に溢れる誇らしさに言葉を発せない。

 呼吸を整え『あゆみ』を舞い切った朧は、その場の静かさに不安を覚えながら松陽の姿を目で追った。一刻も早く師の表情を知りたいと、気持ちが焦る。無事に舞えた事よりも、師の反応の方が大事だった。共に戦えるのだと、心強く思ってくれたならそれに勝る喜びは無い。
(それに、この気持ちのまま舞えば『立ち合い』も上手く舞えそうな気がするな)
 そう思った視線の先に、師の姿を捉えた。村長と共に舞台に続く裏側の階段を上って来る。その口元には満足そうな笑みが刻まれ、瞳は朧の姿を捉え輝いた。それだけで、朧の胸は喜びに震える。近付いて来る師に話しかけようとした朧の前に、村長と神主が割り込んできた。
「朧君、思っていた以上ですよ。次はもう少し、龍笛の音に」
「神主さん。次の話は『立ち合い』が終わってからですぞ。まだ、肝心の合わせが出来るか分かりませんからね」
 乗り気になった神主の言葉を遮り、村長は朧に向き合う。
「時間の無い今『あゆみ』は舞えて当然。問題は『からみ』と『立ち合い』を舞えるかどうかだからな」
 指を突き付け念を押すように迫るが、朧も負けてはいなかった。自分だけの事なら、何を言われても気にしない。しかし、今回は師と共に認められなければならないのだ。
 胸を張り、村長の視線を正面から受け止めて言い返す。
「はい。『あゆみ』『さぐり』『からみ』『立ち合い』『嬉し舞い』五場面全て覚えました。先生の足を引っ張らぬよう、奉納舞いの舞台に泥を塗らぬよう懸命に舞う覚悟です」
 子供に対して少し嫌味過ぎたかと内心で思った村長は、真摯な瞳で冷静に言い返されると二の句が継げなくなった。
その気持ちが足に現れ半歩引いた所で、今度は後ろから肩に手が置かれる。
「私の一番弟子は、少々堅苦しい物言いをしてしまうので驚かせてしまいましたね、申し訳ありません」
 少しも申し訳ないと思っていない笑顔で、村長に詫びた。
「時間も無いですし『立ち合い』をお見せします」
 朧を呼んで、どの振りから始めるのかを打ち合わせる。それが済むと、神主に目配せして舞台中央へ進んだ。
 夜の暗闇と蒼い月光、左右には紅蓮の炎を靡かせる松明。
 舞台の中央には、黒装束の松陽と白装束の朧が対の美しい人形のように儀式用の刀を握って相対している。
 それはまるで、神話を描いた錦絵か絵草子のように見えた。
「朧、私を見ていて下さい。私も、君だけを見ています」
「はい、先生」
 短いやり取りは、龍笛の最初の音によって空気中に融ける。
 要部分だけの場面を舞うとの約束通り、序盤を飛ばして激しい剣戟舞いの中盤から始まった。
 道場での練習とは全く桁違いの圧を感じ、朧は砕けそうになる気力を必死に立て直す。
 振り下ろされる刃は寸止めだが、皮膚は斬られた様にひりついた。刃の切っ先が目前を掠めると、殺意の黒い塊で視界を奪われる気がする。刃先を合わせるたび、全身を切り刻まれる錯覚に囚われそうになった。恐怖に心臓が凍り、足が竦みそうになる。龍笛の音が見えない糸となって、躰も精神も縛られてゆく。このまま生贄として、黒い死神の前で身を横たえるしかないのではないかと、絶望感が込み上げて来る。

 私を見ていてください。

 不意に、師の言葉が甦る。
(先生も、戦っていらっしゃるのだ!)
 朧は刀を持つ手に力を込め、向かい合っている松陽の目にピタリと視線を合わせた。強い意志で、いつもと違って見える暗緑色の瞳を覗き込む。
 夜の闇が、松陽の躰の中に沁み込んで来る。自我の底で蠢く淀んだ何かが、沁み込んで来た黒い闇を喜んで貪っていた。
 ソレを封じ込めようと振るう刃の輝きさえ曇らせ、触れた切っ先を触媒にして表層にせり上がって来る。
 押し戻そうと抗えば抗う程、ネバネバした触手を伸ばして刃に絡みつき、指先から手、腕、そして全身を包もうと広がってゆく。遠くから聞こえる笛の音が、抵抗するな、鬼に戻れと囁き精神を犯す。飛び出た自我を、数多の混沌の中に引き戻そうと闇が誘う。何もかも忘れ、手放して闇へ戻れと。

決して、離れたりなど致しません。そして、共に戦います。

 突如、青い光と共に脳内に響き渡る音の無い声。
(朧!)
 途端、松陽の視界と意識が明るくなった。そして、心の闇を祓った清らかな光の正体に気付く。刃を合わせた向こう側から、真っ直ぐ覗き込んで来る青い瞳の持ち主の姿。大切な一番弟子が、自分を人の世界に繋ぎ止めてくれたのだと。

 松陽と朧の合わせた刀が同じゆっくりとした速度で離れ、下段の構えへと下されてゆく。そこで、龍笛の音が止まった。
「吉田先生。そこまでで、十分です」
 神主が舞いの試しを終えた事を告げる。
「村長さんも、よろしいですかな?」
 龍笛を持って立ち上がり、隣に佇む村長に水を向けた。
 松陽と朧の視線も、村長へと向く。
「えっ、あ、ああ。神主さんが認められるなら、異議はありません」
 いつの間にか魅入られたように舞いを見ていた事に気付き、村長は己の頑なさを恥じた。松陽と朧が立つ舞台の中央まで足を運んで、二人の刀を握っていない方の手を取り握る。
「村の大事な儀式を、どうかよろしくお願いします」
 そう言うと、深々と頭を下げた。神主も同じ気持ちなのだろう。村長の隣に来て、二人に頭を下げた。
 試しは無事に終わって、祭りの奉納舞いは松陽と朧で取り行う事が決定した。
 神社からの帰り道。
『立ち合い』の余韻が残ったままの二人は、来た時と同じように手を繋いだ。その事に関して何も語らずにそぞろ歩く。
 冷たい夜風が吹いても、互いの手の温もりがあれば平気だった。口元に笑みを湛え、時折り視線を合わせては逸らす。
 やがて村塾の桜の木と門の輪郭が見えた所で、松陽が立ち止まった。繋がれた手のせいで、朧も立ち止まる。
「先生、どうされました?」
「……君を、抱きしめても構いませんか?」
「えっ?」
 言葉の意味が解らず、固まった。
「いえ、すみません。抱きしめさせて貰います」
「え、ええ?」
 答える間もなく、ぎゅっと抱きしめられる。訳も分からない状態だったが暖かさが心地良かったので、恐る恐る師の背中に手を回して抱きしめ返した。弟弟子達を抱きしめたり、抱き付かれたりするのとは違う不思議な心持ちに鼓動が早くなる。衝動的に逃げ出したくなるような面映ゆさと、胸が痛くなるような切なさと。
「ありがとう、朧」
 松陽の右手が、朧の背中から髪の中に差し込まれる。
 抑え込まれて顔を上げることが出来ず、何の礼かと問う事も憶測する事も出来ない。
「君の言葉が、私を救ってくれました。君がいなければ、私は…… かも、知れません」
「せんせっ?」
 言葉を聞き漏らしてしまったと、必死に首を動かして松陽を見上げようと足掻く。だが松陽の力は強く、朧からはその表情を見る事も叶わなかった。松陽の額が朧の右肩に圧し掛かる。朧の頭は松陽の胸の中、更に深く抱き込まれた。首筋にかかる松陽の呼気を感じて朧は戸惑いと、言いようのない感覚に身を震わせる。
(何か言わなければ、とんでもない事を口走りそうだ!)
 松陽の背中に回していた手を、二人の胸の隙間に潜り込ませて松陽の着物の両衿を両手で掴んで握り締める。
「先生! 俺は、いえ、私は、ずっと先生のお傍におります。決して離れません。いつだろうとも、共に戦います!」
 師が何を望んでいるのか分からないけれど、言葉と言うからには何か誓えば良いのではないかと思った。
 何度か交わした約束の言葉。何よりも、自分の本心と願いを表す言葉なら想いが伝わるのではないだろうか?
「朧?」
抱擁は解けなかったが、松陽の顔が上がる。朧はそれに、手応えを感じた。だから、誓いの言葉を繰り返す。
「生涯、お傍におります。この手は、絶対離しません」
「朧、君は」
 松陽の手が、朧の頭と背中から離れて両肩を掴む。やっと向き合えたが、朧は松陽の衿から手を離さなかった。
「私は、先生と共に戦い続けます。この先も、相手が何であろうと戦います」
「分かりました、分かりましたから。朧」
 松陽の左手が衿を掴む朧の手を包み、右手は朧の頬を拭う。
「っあ……」
 朧は涙を拭われて、自分が泣いていたのを自覚した。けれど、それがどこから来た涙なのか分からない。感極まった昂りから来る涙なのか、試しが終わった安堵から来たのか?
 或いは『立ち合い』で浴びた殺気の恐怖が今頃襲って来たのか、それとも思春期特有の感受性のせいかも知れない。もしかしたら、何か無自覚の想いが温もりに触発されたのか。
 朧は考える事を放棄する。そんな事に使う時間も惜しい。
「帰りましょう」
 朧が落ち着いたのを見計らい、背を押して帰るのを促す。
「はい、申し訳ありません」
「君は、謝り過ぎです。今夜はもう、謝るのは禁止ですよ」
 朧の肩を抱き、苦笑しながら家路を辿った。

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