十六夜の月

「朧、足が止まっています!」
 同じ所を注意されるのは、何度目だろうか?
「はっ、申し訳ありません」
 謝ってから、唇を噛む。顔を見なくとも、師が溜息をついたのが感じられた。
「何度も言いますが、謝る必要はありません。無理を承知で始めた事なのですから」
 声音は落ち着いていて、苛立ちなど含んでいない。上手く舞えない事ではなく、すぐに謝ってしまう事に対しての言葉だと頭では分かっているのだが、朧の気持ちは上手く舞えない事への焦りで暗く沈んだ。
 肩を落とす朧の姿を見て、松陽も密かに心を痛める。
「少し、休憩しましょう」
「……はい、先生」
 使っていた刀を一旦鞘に納め、道場の真ん中に並んで座って、開けたままの高小窓から月を見上げた。数日前まで上弦の月だったが、練習に明け暮れている間徐々に望月へ移り変わっている。その姿を見て、もう時間が無い事を実感した。
 朧が情けなさから視線を落としたのに気付き、松陽はそっと腕を回して引き寄せ肩を抱く。
「祭りの日は、十六夜の月ですね」
 朧は無言で頷いた。望月まで、今夜を入れてあと三日。
 望月の翌日は十六夜月で、祭り当日だ。こんな体たらくで、当日を迎えるのだろうかと思うと堪らなくなる。あんなに、何度も決意をしたというのに……


 師と共に舞うと決意した翌日。
 弟弟子達の世話もそこそこに、手引書片手に覚えている動きと曖昧な動きを確認した。師の相手をする事に重きを置いていたので、思っていた以上に曖昧な部分が多い。
「大丈夫です。今夜は出来ている所だけ見せて、神主さんを納得させれば私達の勝ちです」
「それでは、詐欺ではありませんか?」
「当日にちゃんと舞えれば、詐欺にはなりませんよ」
 問答する時間も惜しくて、その提案に従い神社へ向かった。
月明かりが照らす田舎道を二人で歩く。昨日、弟弟子達と歩いた道程なのに全く心持ちが違った。記憶の奥底に眠る二人きりの逃避行の日々を思い出し、緊張しなければならないのに懐かしさが溢れ出す。幼かった昔のように、自然に師の手に手を伸ばしていた。途端、師が振り返り歩みを止める。
「朧?」
「も、申し訳ありません! つい童心にかえって、」
慌てて触れた指先を引こうとしたが、即座に引き戻された。
朧の手は、松陽の暖かな手の温もりに包まれる。
「懐かしいですね。昔はこうして旅をしていたのに、いつの間にか君の手は銀時達の手を引くようになってしまって、私は寂しい思いをしていたのですよ」
微笑む松陽の瞳には、寂しさよりも悪戯っ子めいた輝きがあった。手を繋ぐことを、楽しんでいる様子に見える。
「申し訳ありません。しかし、私も十五ですから、その、いつまでも手を」
もごもごと言い訳するが、自分からは手を振り解けない。
「そうですね、十五歳はもう子供ではありませんね」
朧の言葉を肯定するも、手を離すこと無く歩き出す。朧も引っ張られるようにして、歩き出した。
「でも大人という訳でもありません。だからまだ、私の傍から離れて行かないで欲しいです」
先を歩く師の表情を、見る事は出来ない。けれど、その声は胸を締め付ける切ない響きを孕んでいた。
「私は、いつまでも先生のお傍でお仕え致します」
 繋いだ手をぎゅっと握り、師の背中から隣へ大きな一歩を踏み出して並ぶ。
「決して、離れたりなど致しません。そして、共に戦います」
「それは、頼もしい限りです。君と一緒なら、私は負けませんよ。いいえ、きっと勝ってみせます」
 柔らかな面持ちなのに、瞳だけが厳しい光を宿していた。
神社までの残りの道を無言で歩き、朱塗りの大きな鳥居の下まで辿り着く。参道から拝殿に行くべきか、社務所に直行すべきかと足を止めた所で、鳥居に向かって来る神主と村長の二人連れに出くわした。
「こんばんは。ご連絡が無かったので、練習に参りました」
松陽は満面の笑みで、連絡が無かったのは承諾した印として話をすり替える。朧は内心で呆れつつも、松陽の手から自分の手を抜き取り村長達に頭を下げた。
「これから、お伺いする所でした」
村長が前に進み出て、松陽から朧の方へ視線を向ける。
「昨夜は、皆に差し入れをありがとう」
穏やかに礼を言った後、再び松陽に向き合った。隣に神主も並んで、二組の視線が松陽に注がれる。どちらも、厳しい表情を湛えていた。
「吉田先生。私どもは今日一日かけて昔の文献を読み漁り、神主様と話し合いました」
「結果だけ、教えて頂ければ十分です」
前置きは結構と、言外に伝える。優しげな外見に似合わぬ合理的な物言いは相手を余計不快にさせるが、松陽に限っては当てはまらない。静かな威圧感で大抵の相手は、松陽の言葉通りの行動をとった。
村長も咳払いしてから、結論を伝える。
「彼の剣舞を見て、決める事にしました」
「こちらも、それで構いません」
元々、剣舞を見せるつもりで来たのだ。松陽も朧も、何の異存も無い。寧ろ、望む所だった。
 平然とした松陽の言葉に、村長と神主は眉を顰める。十五の子供に、あの複雑な舞いが出来るとは思えないと密かに思っていたのだ。
「では、神楽殿に」
 村長が踵を返すと、神主は社務所の方に足を向ける。
「私は、龍笛を取って参ります」
 彼らの言葉は、舞台の上で本番同様に演奏付きで舞えという事を示唆している。祭りの日にちが迫っているのだから当然と言えば当然だが、些か子供相手に意地が悪い。
 松陽は前を歩く村長に気付かれないよう、チラリと朧に視線を投げた。しかし、朧は全く気付かない。思わぬ本格さに臆しているのかと思ったが、その眼は闘志に燃えていた。視線は先にある神楽殿を見据え、胸を張り背筋が伸びている。
『私と共に、戦って下さい』
 昨夜の約束を、しっかりと守っているのだろう。不安を抱えているだろうに、おくびにも出さない。その健気さ、芯の強さを思い、松陽の胸は熱くなった。
(私も、私の中の私には負けません)
 そう心に誓い、朧の背に手を宛がって同じように視線を神楽殿へと向ける。

四方を太い柱に支えられた神楽殿の前には松明が掲げられ、舞台を明るく照らしていた。二人は村長に促され、舞台へと登る。そこには剣舞で使う白色と黒色二種類の長着と袴一式と、儀式用の刀が用意されていた。
「吉田先生。『あゆみ』と『立ち合い』の二場面をお願いしたいのですが」
 舞い装束を松陽に手渡しながら、村長が要求を伝える。
「では『あゆみ』から、舞わせましょう」
松陽は余裕の笑顔で応え、さらりと要求の軌道修正をした。
「『立ち合い』の方は、要の所だけでお分かり頂けるかと思うのですが、どうでしょう?」
「はい。要さえ確認出来れば、それで大丈夫です」
朧は大人たちの含みある言葉の応酬に耳を傾けながら、松陽から白い着物一式を受け取って着替える為に舞台の隅に移動する。神主が龍笛を持って現れる前に、『あゆみ』と『立ち合い』の振付を頭の中で浚ってしまおうと思った。
(大丈夫だ、道場で練習した通りに舞えば良い!)
 目を閉じ深呼吸して、自分を奮い立たせる。
『あゆみ』は五つある神楽舞いの最初の場面で、唯一及第点を貰った舞いなのだ。今夜見せる予定にしていたのも、この『あゆみ』と『立ち合い』の二つ。尤も『立ち合い』の方は出来ている所だけの予定だったので、村長の要求の言葉にヒヤリとしたが師が上手く一部だけに修正して下さった。
 精神統一している朧の後ろから床を鳴らす足音が聞こえて、その場にいた三人は振り返る。
「お待たせ致しました」
 龍笛を持った神主が戻って来て、三人を見返す。
「……おや?」
意外さを含んだ声を出した神主と、神主に向けられた村長と松陽の視線が、そのまま朧の方へ向けられる。
「とても良く、似合っていますよ」
誇らしげな松陽の表情と、言葉を失くした村長の驚いた表情の対比に朧は戸惑った。
「どこか、おかしいのでしょうか?」
思わず、村長の方に向かって尋ねる。普段なら師の言葉を信じるが、こと見た目に関しては別だ。何を着ても、何をしても、弟子達に対しては『可愛い』以外の言葉を持たないのだから信用出来ない。
「いや…… どこも、おかしくは無い」
「大人びて見えますな。好都合ではありませんか」
 村長と神主は揃って朧の姿を眺め、頷き合う。
 十五にしては長身で、線は細いが均整のとれた体躯で整った顔立ちをしていると、今更ながらに認識した様子だった。
 鼻筋を横断する傷跡は、醜さよりも美しさを際立たせる。
 その柔らかそうな銀髪と滑らかな肌が、純白の衣装に映えて巫めいた雰囲気を醸し出していた。
「神主さん、そろそろ始めませんか」
松陽の少し低めた声に、神主と村長がハッとして朧から視線を外す。その様子を満足そうに眺めた後、松陽は朧の隣に陣取り黒の長着と袴に着替え始めた。

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