十六夜の月

「では、始めます」
松陽の声が、朧の浮遊してしまいそうな気分を引き戻す。
道場の中に立っているのだと気持ちを戻すと同時に、秋の虫の鳴き声も耳に入ってきた。その鳴き声の合奏が、奉納舞いの囃子方のように思える。その事を伝えようと振り返った朧の瞳に、松陽の姿が映り込む。胴着も袴も黒一色で、淡い黄金の光を纏った髪に彩られた顔と手足だけが妙に生々しく見える。その手に握られていたのは練習用の竹刀ではなく、月光を受けて鈍く輝く抜き身の刀だった。
(あっ)
声にならない声。身裡に広がる、静かな衝撃。すっかり忘れ去っていた、出会った頃の【死神】の姿がそこにあった。
圧倒的な存在に、己の矮小さを思い知らされ無力感に打ちひしがれる。唯々、見詰めることしか出来ない。
(先生の相手役も、この姿を見たのか……)
この平穏な村で育まれた十八の青年が、恐れを抱くのに十分な姿だと納得した。相手役を辞退した事を、誰も責められはしない。
「そちらの端に、座っていなさい」
「はい」
声までもが、いつもと違う気がした。殷々と響き精神を縛る声音。静かな言葉なのに、逆らう事の許されない絶対的な命令に思える。朧は壁を背にして正座し、両手を膝に置く。
松陽は鷹揚に一つ頷いてから、虚空を見詰めた。最初の動きは摺り足で前進、そして閃く刃が下段から弧を描き真っ直ぐ天へ。流れるように優雅な動きだった。木刀を手にしていた時とは、醸し出す雰囲気が全く違う。
月光と虫の声と蒼く輝く刃、足音を立てず舞う姿はまるで此岸と彼岸の狭間に棲む幽玄の存在の様に見える。そんな錯覚に囚われ、ずっと息を潜めて松陽の動きを感覚で追った。
舞いの調子が早まってゆくに連れ白刃の動きは鋭さを増し、松陽の顔から表情が消えてその場が暗い闇に浸蝕される。
朧は目を瞠り、背筋を流れる嫌な汗を感じた。心の底から、言い知れぬ恐怖が湧き上がってくる。刀が振り下ろされる度、強い殺意を感じて身が竦んだ。
(これは、逃げ出さない方がおかしい)
他の青年でも同じだと言った、師の言葉は正しい。自分だけが、この圧倒的な恐怖に相対出来る。吉田松陽の前身、天照院奈落の頭を、暗殺者の殺意を知っているのだから。
しかし、知ってはいても本能から来る恐怖感は拭えない。
それでも、一緒に舞うことは出来るのだろうか?

朧の纏う雰囲気が変わった事に気付いた松陽は、舞いを止めた。自分を見上げて来る瞳の中に、躊躇いを読み取る。
「私の言いたかった事が、理解できましたか?」
朧の前に片膝をつき、刀を床に置いて問いかけた。朧は黙って縦に首を振る。まだ心の底に残る恐怖が、声を出す事を止めていた。
松陽はゆっくりと瞬きしてから、朧の頬を両手で包む。
「君なら、大丈夫だと思ったのですが……」
舞っていた時とはうって変わり、木漏れ日に輝く優しい緑の輝きを宿した瞳が、悲しげに曇ってゆく。
「神楽舞いだからでしょうか? この舞いには、自我を無くさせるような…… いえ、遠い過去の私に、鬼と恐れられた化け物の本性に、引き戻される気がするのです」
睫毛が伏せられ、瞳の色が暗く沈む。松陽の声音は、朧に聴かせるよりも自身に語っているような呟きになっていた。
朧は咄嗟に腰を浮かせ、松陽の頭を胸元に抱き締める。
「先生は、先生です」
 師が何を悩み、何を恐れているのかが解った。それなのに、適切な言葉が見つからない。どう言えばいいのかが、分からなかった。
(不甲斐無いッッッ!)
 本能など、捩じ伏せてしまえ! こんな恐怖よりも師を孤独で傷付ける事の方が、もっと恐ろしい。
「私は、大丈夫です! どうか、ご指導下さい」
 抱き込んでいる腕に力を込めて、一緒に舞う事を承諾する。
 自分となら大丈夫だと思ってくれた、その思いに応えたい。
 だが松陽は朧の胸をやんわりと押して抱擁から抜け出ると、片膝をついた姿勢に戻る。
「無理をする必要はありませんよ」
 必死で、諦めたような表情をする松陽の腕に縋った。
「無理など、しておりません。私は先生と共に舞いたいです。先生の隣に立ちたいのです。だから、どうかお願いです」
 そんな悲しい目をしないで下さいと、心の中で呟く。
「本気なのですか?」
 真意を問う真剣な眼差しで見詰める松陽と、信じて貰おうと真摯な思いで見詰め返す朧。その間、十数秒だったのか数分なのか判別がつかない。だがその後、やっと松陽の表情が緩んだ。立ち上がって、朧に手を差し伸べる。
「では、私と共に戦って下さい」
「はっ! ……戦うのですか?」
 差し出された手を取り、立ち上がりながら言葉の意味を考えた。一緒に舞うのではなく、何と戦うというのだろう?
 剣舞を舞う師の姿に覚えた恐怖心と戦うのなら、共にという言葉はしっくりこない。
「はい」
 松陽はにっこりと笑って、少しだけ視線を外した。
「神主さんや村長さんに、認めて貰わなければなりません」
 続く言葉に納得して頷き返す。一番弟子として、恥じないよう頑張りたい。師と共に舞って良いと認められたかった。
「はい、精進致します」
「では、明日。授業が終わったら手引書のおさらいをして、夜には神社へ行きますよ。多分、あちらから返事は無いでしょうからね」
 段取りを話す松陽の瞳には、もう暗い影は微塵も無い。
いつも通りの、明るく優しい調子に戻っていた。
「はい、先生」
 師が明るいと、朧も嬉しくなる。一週間という日程の少なさに不安はあったが、それを差し引いても師と一緒にいられる事の方が大きな喜びだった。
 必要な事を話し合った後は、二人で道場の戸締りをして母屋へと戻る。翌日から始める練習を思い、二人はそれぞれの部屋で体力を蓄える為に眠りに就いた。

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