十六夜の月
帰ってからおやつを食べたいと言う銀時の切なる願いと、それを叶える為にして欲しい幾つかの小さな約束を繰り出す松陽と、二人のやり取りに突っ込みを入れる晋助。
そんな三人の後ろ姿を微笑ましく思いながら、手を繋いでついて行く朧と小太郎。上弦の月が照らす村塾までの帰り道は、先ほどの出来事が嘘のように楽しいものだった。
「朧! 早く、早くっ」
食後におやつを食べる事を許された銀時に急かされて、慌ただしく夕餉を作り始める。とはいっても、飯は炊いてあり煮物も味噌汁も温め直すだけ。後は魚を焼いて器に盛りつければ完成だった。
「いつも、ありがとうございます」
ほかほかと湯気の立っている飯や香ばしい焼き魚の皿を前にして、松陽が両手を合わせる。
「いただきます」の声に子供達の声も重なった。あっという間に、食卓は賑やかなものになる。
松陽が神社へ練習に行っていた間の報告や、子供同士の突っ込み合い会話に笑い声。朧の窘める声に調子の良い返事と、幸せな一家団欒を絵にしたような食事風景だった。
お皿が空になり「ごちそうさまでした」の声が合図だったように、銀時が台所へと駆け込む。松陽が許可した、食後のおやつ・あんころ餅が目当てだった。
「おい、銀時っ! 食器放ったらかしにしてんじゃねェ!」
「朧兄さんも、ちゃんと叱って下さい」
晋助と小太郎が、台所に居る銀時と銀時の食器を片付けている朧に言葉を投げかける。
「まあまあ。今夜はビックリさせてしまいましたし、君達の食器は私が運びますよ」
社務所での一件を持ち出して松陽が立ち上がると、朧はハッとして台所へ向かう足を止めた。食事を済ませ弟弟子達を風呂に入れている間に話しを聞こうと思っていたのだが、今なら台所に向かいながら話して貰えそうだと。
「大丈夫です、先生。先生の食器は、俺と晋助で運びます」
小太郎が袂をたくし上げ、松陽の前に両手を差し出す。晋助も、同意するように頭を上下に振った。
「ありがとうございます。では、朧のお手伝いもお願いしていいですか?」
穏やかな笑みを湛えて小太郎の手に食器を委ね、ちゃっかりと朧の手伝いまで言い付ける。
「先生、」
大丈夫だと言葉を続けようとしたが、晋助が駆け寄って来て朧の手から食器を引き取った。
「朧。今夜は子供達に任せて、少し私と話しましょう」
「朧兄さん、任せて下さい!」
小太郎が胸を張り、松陽の言葉の後押しをする。隣に立つ晋助も同意の眼差しで頷いた。台所の方から、調子の良い銀時の声も届く。
「そー、そー! おやつは俺が片付けとくしぃ。朧は松陽と、しっぽりしとけって!」
「銀時! しっぽりなどと、そんな言葉をどこでっ」
「まぁまぁ、朧。落ち着きなさい。あれは意味も分からず、出鱈目言っているだけですから」
今にも台所に駆け込んで、銀時に説教をしそうな勢いの朧を松陽が宥める。
「しかし教育上、放置しておくのは」
「私が、後で言って聞かせますから。取り敢えず、今夜は私話を聞いて下さい」
「……はい」
そう言われてしまうと、これ以上の意見は言えなくなった。
兄弟子として弟弟子を健全に指導すべきだとは思ったが、師が諭すなら自分の出る幕では無い。こんな些細な事で師を煩わせるなどと、自分の不甲斐無さを噛み締め俯いた。
松陽は一番弟子の生真面目過ぎる表情を横目に見て、苦笑を抑えながらその背に手を添える。
「さぁ、私の部屋へ行きますよ」
***
「お座りなさい」
松陽に座布団を勧められ、朧は遠慮がちに膝を落とす。
お茶を入れてくれば良かったとの思いが頭を掠めたが、台所は弟弟子達が立ち働いているだろうから邪魔をしてはいけないとその思いは振り切った。
「さてと、どこから話しましょう」
胸元で腕を組み、向かいに座る朧の顔を見て思案する。
「推薦とは、どういう事でしょうか?」
気になっていた言葉を口に上らせた。
あの場の状況から察せたのは、相手役の青年が辞退した事と、その代理に自分が推薦された事。どうか、何かの間違いであって欲しいと思った。
「私が、剣舞の相手役として朧を推薦しました」
あっさりと、簡潔な答えが返ってくる。悪びれた風も無く穏やかな笑みを湛えた松陽を前にして、朧は畳に両手を付く。
「そんな…… 相手役は、十八の青年という決まりではありませんか! なぜ、皆の反対を押し切って私を?」
「君は私の練習相手をしていたのだから、一週間でものになるでしょう。神社だけでなく、道場を使えば合わせる時間も取れますからね。一石二鳥です」
畳に付いた朧の手を持ち上げて、その手を握った。朧は握られた手を無意識に握り返す。聴かされた言葉は一見尤もらしく思えたが、どうしても違和感が拭えない。もっと話を聴こうと身を乗り出すようにして上半身を傾け、松陽の瞳を覗き込んだ。
「先生は、最初から諦める方ではありません。一週間あれば、その時間を使って教える事を選ばれる方です。それに、一度引き受けられた事を、途中で投げ出す方でもありません」
繋いだままの手が、強ばったのが分かる。見詰めていた緑の瞳は、さり気なく視線を逸らした。
「先生、本当の事をお教え下さい。でなければ、私は」
「朧」
朧の名前を呼ぶ事で、最後まで言わせる事無く遮る。そして、握っていた手を引き上げ立ち上がらせた。
「来なさい」
言葉で説明するよりも、自分で体験して貰う方が納得するだろう。相手が、なぜ辞退したのか。朧を相手役に推薦した理由も理解して貰える筈だと考えた。
「あの、どちらへ?」
「道場です。君に、舞いを見て貰います」
松陽に手を引かれ母屋から教室を経て、道場に辿り着く。
そこで、やっと握られていた手が離された。
「準備をしますので、君は窓を全て開けて下さい」
「はい」
いつも練習は窓も扉も閉めて行っているが、今夜の指示は違っていた。けれど、朧は素直に従って高小窓を開け放つ。
夜の空気が道場内を冷やし、射し込んでくる月光が床を仄蒼く照らす。その様を見ていると、不思議な心持ちになってくる。いつもの道場なのに、何処か違う世界に迷い込んだような覚束なさを感じた。
そんな三人の後ろ姿を微笑ましく思いながら、手を繋いでついて行く朧と小太郎。上弦の月が照らす村塾までの帰り道は、先ほどの出来事が嘘のように楽しいものだった。
「朧! 早く、早くっ」
食後におやつを食べる事を許された銀時に急かされて、慌ただしく夕餉を作り始める。とはいっても、飯は炊いてあり煮物も味噌汁も温め直すだけ。後は魚を焼いて器に盛りつければ完成だった。
「いつも、ありがとうございます」
ほかほかと湯気の立っている飯や香ばしい焼き魚の皿を前にして、松陽が両手を合わせる。
「いただきます」の声に子供達の声も重なった。あっという間に、食卓は賑やかなものになる。
松陽が神社へ練習に行っていた間の報告や、子供同士の突っ込み合い会話に笑い声。朧の窘める声に調子の良い返事と、幸せな一家団欒を絵にしたような食事風景だった。
お皿が空になり「ごちそうさまでした」の声が合図だったように、銀時が台所へと駆け込む。松陽が許可した、食後のおやつ・あんころ餅が目当てだった。
「おい、銀時っ! 食器放ったらかしにしてんじゃねェ!」
「朧兄さんも、ちゃんと叱って下さい」
晋助と小太郎が、台所に居る銀時と銀時の食器を片付けている朧に言葉を投げかける。
「まあまあ。今夜はビックリさせてしまいましたし、君達の食器は私が運びますよ」
社務所での一件を持ち出して松陽が立ち上がると、朧はハッとして台所へ向かう足を止めた。食事を済ませ弟弟子達を風呂に入れている間に話しを聞こうと思っていたのだが、今なら台所に向かいながら話して貰えそうだと。
「大丈夫です、先生。先生の食器は、俺と晋助で運びます」
小太郎が袂をたくし上げ、松陽の前に両手を差し出す。晋助も、同意するように頭を上下に振った。
「ありがとうございます。では、朧のお手伝いもお願いしていいですか?」
穏やかな笑みを湛えて小太郎の手に食器を委ね、ちゃっかりと朧の手伝いまで言い付ける。
「先生、」
大丈夫だと言葉を続けようとしたが、晋助が駆け寄って来て朧の手から食器を引き取った。
「朧。今夜は子供達に任せて、少し私と話しましょう」
「朧兄さん、任せて下さい!」
小太郎が胸を張り、松陽の言葉の後押しをする。隣に立つ晋助も同意の眼差しで頷いた。台所の方から、調子の良い銀時の声も届く。
「そー、そー! おやつは俺が片付けとくしぃ。朧は松陽と、しっぽりしとけって!」
「銀時! しっぽりなどと、そんな言葉をどこでっ」
「まぁまぁ、朧。落ち着きなさい。あれは意味も分からず、出鱈目言っているだけですから」
今にも台所に駆け込んで、銀時に説教をしそうな勢いの朧を松陽が宥める。
「しかし教育上、放置しておくのは」
「私が、後で言って聞かせますから。取り敢えず、今夜は私話を聞いて下さい」
「……はい」
そう言われてしまうと、これ以上の意見は言えなくなった。
兄弟子として弟弟子を健全に指導すべきだとは思ったが、師が諭すなら自分の出る幕では無い。こんな些細な事で師を煩わせるなどと、自分の不甲斐無さを噛み締め俯いた。
松陽は一番弟子の生真面目過ぎる表情を横目に見て、苦笑を抑えながらその背に手を添える。
「さぁ、私の部屋へ行きますよ」
***
「お座りなさい」
松陽に座布団を勧められ、朧は遠慮がちに膝を落とす。
お茶を入れてくれば良かったとの思いが頭を掠めたが、台所は弟弟子達が立ち働いているだろうから邪魔をしてはいけないとその思いは振り切った。
「さてと、どこから話しましょう」
胸元で腕を組み、向かいに座る朧の顔を見て思案する。
「推薦とは、どういう事でしょうか?」
気になっていた言葉を口に上らせた。
あの場の状況から察せたのは、相手役の青年が辞退した事と、その代理に自分が推薦された事。どうか、何かの間違いであって欲しいと思った。
「私が、剣舞の相手役として朧を推薦しました」
あっさりと、簡潔な答えが返ってくる。悪びれた風も無く穏やかな笑みを湛えた松陽を前にして、朧は畳に両手を付く。
「そんな…… 相手役は、十八の青年という決まりではありませんか! なぜ、皆の反対を押し切って私を?」
「君は私の練習相手をしていたのだから、一週間でものになるでしょう。神社だけでなく、道場を使えば合わせる時間も取れますからね。一石二鳥です」
畳に付いた朧の手を持ち上げて、その手を握った。朧は握られた手を無意識に握り返す。聴かされた言葉は一見尤もらしく思えたが、どうしても違和感が拭えない。もっと話を聴こうと身を乗り出すようにして上半身を傾け、松陽の瞳を覗き込んだ。
「先生は、最初から諦める方ではありません。一週間あれば、その時間を使って教える事を選ばれる方です。それに、一度引き受けられた事を、途中で投げ出す方でもありません」
繋いだままの手が、強ばったのが分かる。見詰めていた緑の瞳は、さり気なく視線を逸らした。
「先生、本当の事をお教え下さい。でなければ、私は」
「朧」
朧の名前を呼ぶ事で、最後まで言わせる事無く遮る。そして、握っていた手を引き上げ立ち上がらせた。
「来なさい」
言葉で説明するよりも、自分で体験して貰う方が納得するだろう。相手が、なぜ辞退したのか。朧を相手役に推薦した理由も理解して貰える筈だと考えた。
「あの、どちらへ?」
「道場です。君に、舞いを見て貰います」
松陽に手を引かれ母屋から教室を経て、道場に辿り着く。
そこで、やっと握られていた手が離された。
「準備をしますので、君は窓を全て開けて下さい」
「はい」
いつも練習は窓も扉も閉めて行っているが、今夜の指示は違っていた。けれど、朧は素直に従って高小窓を開け放つ。
夜の空気が道場内を冷やし、射し込んでくる月光が床を仄蒼く照らす。その様を見ていると、不思議な心持ちになってくる。いつもの道場なのに、何処か違う世界に迷い込んだような覚束なさを感じた。