十六夜の月
「混乱させてしまったみたいですね、すみません」
朧の表情を読み取り、文机の上に本を置いて詫びた。
「もしかして君ならご近所付き合いで、何か知っているのではないかと思ったので」
そう思われるほど大した近所付き合いはしていないのだが、こんな風に情報を求められた時に役立て無いのは悔しい。
今後は近所付き合いも精進しようと決めて、申し訳ない気持ちと理解出来ていない事を告げた。
「申し訳ありません。私には、何が何だか分かりません」
「ああ、だから君が謝る必要なんてありませんって。村長さん達の話を聴くまで、私も知らなかった事なんですよ」
松陽の言葉に、朧はホッと胸を撫で下ろす。師も知らない事ならば、自分が知らなくとも自分の怠惰では無いと。
そして安堵と共に、再び好奇心が湧いて来た。村長達は、何の話を師にしたのだろうかと。もしも自分にも手伝える類の事であれば、何でも喜んで手伝おうと思った。
朧の期待に満ちた眼差しを受けて、松陽は咳払いする。
「では、ちゃんと順を追って説明しましょう」
「はい」
朧が頷くと、松陽も頷き返して説明が始まった。
「実は今度の秋祭りで奉納舞いをして欲しいと、神主さんと村長さんに頼まれたのです」
「奉納舞い…… ですか?」
不思議に思って、首を傾げる。朧の記憶では、秋祭りに奉納舞いなど見た事は無い。今回初めての試みなのだろうかと。
「そう、奉納舞いです。この村に来てから、秋祭りで舞いを見た事なんてありませんでしたよね」
松陽は、朧と同じ疑問を口にした。
「初の試みなのか、どうして私に白羽の矢が当たったのか、色々と疑問がありましたが、全部説明して頂きました。それを、君にも聴いて貰いたいのです」
今度は、黙って頷く。余計な質問や相槌は不要だと思った。
(きっと全部、分かるように説明して下さる)
朧の眼差しが聴く事に集中しているのが分かり、松陽は長い説明を話し始めた。
「秋祭りは、新嘗祭(にいなめさい)ともいうらしくて、収穫の秋に豊かに稔った新穀を神前に供え、神さまの恵みに感謝を示す祭祀なのです。この村では昔からその祭りで、舞いを奉納しているそうです」
松陽は、文机に置いた和綴じの本を再び手にする。
「昔からと言われて、おかしいと思ったら…… これです」
朧にもう一度、本の表紙を見せた。
「採物とは、神楽や神事で手に持つ道具のことです。榊、幣、杖、篠、弓、剣、鉾、杓、葛などですが、この手引書では剣を使っています。見た所、諸刃の剣ですね」
一瞬、松陽の瞳に仄暗い光が宿る。
「採物は神の降臨する依り代とされているのですが、私が握る剣に降臨する神など」
途中で言葉を止めて、髪を掻き上げ苦笑した。
「脱線させてしまいましたね。すみません。つまり、この村の奉納舞いは剣舞で、それを近隣の村に知られたくないそうです。ここの住人は農民が多いですから、神事といえど侍以外が剣を持つ事は後ろめたいのでしょうね。だから、奉納舞いは五年に一度の秘祭として深夜に行われていたそうです」
五年に一度、深夜に行われる秘祭と聴いて朧も納得する。
そんな伝統のありそうな祭りで、師が舞うのかと思うと何やら誇らしい気持ちになったが、先ほど零した言葉からはあまり乗り気では無い気がした。
「そんな神事に、私のような余所者が選ばれたのは不思議に思って聴いてみたら、やはり事情がありました。私は、代役だそうです。本来、舞う筈の人が怪我をして舞えなくなったので、寺子屋で剣を教えている私が抜擢されました」
朧はどういう顔をしていいのか分からず、ただ松陽を見詰め続ける。松陽は、優しい笑みを朧に向けたまま話し続けた。
「五年周期なら他にも舞える人がいるのではと思ったのですが、手引書を見て分かりました。この奉納舞いは剣の素養がある者でなければ、一朝一夕で出来るものではありません。素養の無い者では、今から練習しても舞えないでしょう」
理由を聴いて、朧は瞳を輝かせる。それは、師の才能を認められているという事に他ならない。誇らしさと嬉しさで、胸が一杯になる。
「それだけでなく、もう一つ。大変な事がありました」
松陽が人差し指を立てて左右に振った。朧は息を詰め指の軌跡を追う。すると人差し指の隣、中指もピッと立った。
「剣舞は、二人で舞うんです。だから余計、難しいですね」
「二人で?」
思わず、呟いてしまう。師と共に舞う相手は、誰だろうかと気になった。
「はい。成人男性と十八の青年という組み合わせは、決まり事だそうです。まだ引き受けるという返事はしていませんので、相手の青年が誰かは知らないのですけれどね」
「えっ?」
相手の事よりも、まだ引き受けてはいない事の方に、衝撃を受ける。舞える人がいなくて困っている人達に、何故手を差し伸べないのだろうかと疑問を持った。
「朧は、引き受けた方が良いと思いますか?」
曖昧な表情と感情の読めない平坦な声音に、朧の疑問はますます深まる。
「先生は、迷っていらっしゃるのですか?」
即答を避け、質問に質問で返す。
「そうですね。 ……決めかねています。だから、君の意見を聴いてみたいのです」
自分などの意見が、どれほど参考になるのかは分からない。
それでも師が望むのなら、応えたいと考えを口にした。
「他に舞える方がいないと村の皆さんがお困りなのなら、引き受けられる方が良いと思います」
朧の言葉に、松陽の口元が綻ぶ。困っている者がいるなら手を差し伸べるべきだという、優しい心持が窺えたのだ。
「先生の仰る通り、我々はまだ村では新参者ですから売れる恩は売っておいた方が無難です。弟弟子達の将来の為にも、ご近所付き合いは大切ですし」
コホンと、咳払いして両手を胸に当てる。
「なにより、私は先生の剣舞を拝見してみたいです」
夢見るような眼差しで、最後にそう付け加えた。
「君の意見は、とても参考になりました」
笑い出したいのを堪えて、朧の頭を撫でる。いつの間に、こんな処世術を身につけたのだろうという驚きと、彼が望むのなら舞ってみる気になった自分の単純さが可笑しかった。
「先生、では?」
上目遣いに尋ねる朧に、松陽は頷いて見せる。
「はい。明日、神主さんに承諾の返事をしてきます」
決意を伝えたが、朧の瞳はまだ翳りがあった。十数秒の逡巡の後、松陽の腕に触れる。
「迷いは、解消されたのでしょうか? ご無理は……」
「君が応援してくれるなら、大丈夫です。練習で家を空ける時間が増えると思いますので、しっかり留守を頼めますね?」
気遣いに対して、朧が頑張れそうな言葉を選ぶ。
本当の気掛かりは、言えなかった。
この村に落ち着いてから、一度も奈落の追手の気配は無い。
このまま上手く村の中に溶け込んで、平穏に暮らすには目立たないのが一番だろう。なのに余所者が来るかもしれない祭りで、剣舞などという目立った行為をする事に懸念はあった。だが、それは秘祭ゆえ参加者が限られる。だから、この気掛かりは杞憂に終わるだろう。そう思う事で、自分を納得させた。
「お任せ下さい!」
期待に応えようと、師に触れていた手を外して握り拳を作る。もしも、迷いの原因が家を留守にする事なのだとしたら、その心配を解消しようと決めた。これまで以上に、弟弟子達の世話をして家事もこなすのだと意気込む。
「どうか、安心して稽古に励んで下さい」
朧の純粋な励ましに、松陽は笑顔を取り戻す。
「頑張りますので、練習後のおやつは大福でお願いしますね」
「考えておきます」
今度の要求は無下に断れないと表情を取り繕うが、頭の中の買い物帳にもち米と小豆の分量変更を付け加えた。
「ああ、もう一つ。時間が取れる時で良いので、稽古の手伝いをお願いします」
松陽の手が、文机の上に戻される。そこには剣舞の手引書があった。手伝いとは、きっとその本通りに動けているかの確認をして欲しいという事だろう。
「はい、微力ながらお手伝い致します」
願っても無い手伝いだと、喜びの滲んだ笑顔を浮かべる。
師の手伝いが出来る事、共に過ごせる時間が増える事、見事な剣舞を特等席で眺められる事、その予感が朧の笑顔を輝かせるのだった。
「ありがとう。では、もう遅いのでおやすみなさい」
「おやすみなさい、先生」
就寝の挨拶を交わして、朧が部屋を出てゆく。
松陽は冷めてしまった茶を飲んで、ほっと息を漏らした。
「もう一つの心配も、ただの杞憂であれば良いのですが……」
朧にも言えなかった心配事を、そっと胸の奥へ沈めてから再度手引書に目を通す。今夜は何かに熱中していたかった。
朧の表情を読み取り、文机の上に本を置いて詫びた。
「もしかして君ならご近所付き合いで、何か知っているのではないかと思ったので」
そう思われるほど大した近所付き合いはしていないのだが、こんな風に情報を求められた時に役立て無いのは悔しい。
今後は近所付き合いも精進しようと決めて、申し訳ない気持ちと理解出来ていない事を告げた。
「申し訳ありません。私には、何が何だか分かりません」
「ああ、だから君が謝る必要なんてありませんって。村長さん達の話を聴くまで、私も知らなかった事なんですよ」
松陽の言葉に、朧はホッと胸を撫で下ろす。師も知らない事ならば、自分が知らなくとも自分の怠惰では無いと。
そして安堵と共に、再び好奇心が湧いて来た。村長達は、何の話を師にしたのだろうかと。もしも自分にも手伝える類の事であれば、何でも喜んで手伝おうと思った。
朧の期待に満ちた眼差しを受けて、松陽は咳払いする。
「では、ちゃんと順を追って説明しましょう」
「はい」
朧が頷くと、松陽も頷き返して説明が始まった。
「実は今度の秋祭りで奉納舞いをして欲しいと、神主さんと村長さんに頼まれたのです」
「奉納舞い…… ですか?」
不思議に思って、首を傾げる。朧の記憶では、秋祭りに奉納舞いなど見た事は無い。今回初めての試みなのだろうかと。
「そう、奉納舞いです。この村に来てから、秋祭りで舞いを見た事なんてありませんでしたよね」
松陽は、朧と同じ疑問を口にした。
「初の試みなのか、どうして私に白羽の矢が当たったのか、色々と疑問がありましたが、全部説明して頂きました。それを、君にも聴いて貰いたいのです」
今度は、黙って頷く。余計な質問や相槌は不要だと思った。
(きっと全部、分かるように説明して下さる)
朧の眼差しが聴く事に集中しているのが分かり、松陽は長い説明を話し始めた。
「秋祭りは、新嘗祭(にいなめさい)ともいうらしくて、収穫の秋に豊かに稔った新穀を神前に供え、神さまの恵みに感謝を示す祭祀なのです。この村では昔からその祭りで、舞いを奉納しているそうです」
松陽は、文机に置いた和綴じの本を再び手にする。
「昔からと言われて、おかしいと思ったら…… これです」
朧にもう一度、本の表紙を見せた。
「採物とは、神楽や神事で手に持つ道具のことです。榊、幣、杖、篠、弓、剣、鉾、杓、葛などですが、この手引書では剣を使っています。見た所、諸刃の剣ですね」
一瞬、松陽の瞳に仄暗い光が宿る。
「採物は神の降臨する依り代とされているのですが、私が握る剣に降臨する神など」
途中で言葉を止めて、髪を掻き上げ苦笑した。
「脱線させてしまいましたね。すみません。つまり、この村の奉納舞いは剣舞で、それを近隣の村に知られたくないそうです。ここの住人は農民が多いですから、神事といえど侍以外が剣を持つ事は後ろめたいのでしょうね。だから、奉納舞いは五年に一度の秘祭として深夜に行われていたそうです」
五年に一度、深夜に行われる秘祭と聴いて朧も納得する。
そんな伝統のありそうな祭りで、師が舞うのかと思うと何やら誇らしい気持ちになったが、先ほど零した言葉からはあまり乗り気では無い気がした。
「そんな神事に、私のような余所者が選ばれたのは不思議に思って聴いてみたら、やはり事情がありました。私は、代役だそうです。本来、舞う筈の人が怪我をして舞えなくなったので、寺子屋で剣を教えている私が抜擢されました」
朧はどういう顔をしていいのか分からず、ただ松陽を見詰め続ける。松陽は、優しい笑みを朧に向けたまま話し続けた。
「五年周期なら他にも舞える人がいるのではと思ったのですが、手引書を見て分かりました。この奉納舞いは剣の素養がある者でなければ、一朝一夕で出来るものではありません。素養の無い者では、今から練習しても舞えないでしょう」
理由を聴いて、朧は瞳を輝かせる。それは、師の才能を認められているという事に他ならない。誇らしさと嬉しさで、胸が一杯になる。
「それだけでなく、もう一つ。大変な事がありました」
松陽が人差し指を立てて左右に振った。朧は息を詰め指の軌跡を追う。すると人差し指の隣、中指もピッと立った。
「剣舞は、二人で舞うんです。だから余計、難しいですね」
「二人で?」
思わず、呟いてしまう。師と共に舞う相手は、誰だろうかと気になった。
「はい。成人男性と十八の青年という組み合わせは、決まり事だそうです。まだ引き受けるという返事はしていませんので、相手の青年が誰かは知らないのですけれどね」
「えっ?」
相手の事よりも、まだ引き受けてはいない事の方に、衝撃を受ける。舞える人がいなくて困っている人達に、何故手を差し伸べないのだろうかと疑問を持った。
「朧は、引き受けた方が良いと思いますか?」
曖昧な表情と感情の読めない平坦な声音に、朧の疑問はますます深まる。
「先生は、迷っていらっしゃるのですか?」
即答を避け、質問に質問で返す。
「そうですね。 ……決めかねています。だから、君の意見を聴いてみたいのです」
自分などの意見が、どれほど参考になるのかは分からない。
それでも師が望むのなら、応えたいと考えを口にした。
「他に舞える方がいないと村の皆さんがお困りなのなら、引き受けられる方が良いと思います」
朧の言葉に、松陽の口元が綻ぶ。困っている者がいるなら手を差し伸べるべきだという、優しい心持が窺えたのだ。
「先生の仰る通り、我々はまだ村では新参者ですから売れる恩は売っておいた方が無難です。弟弟子達の将来の為にも、ご近所付き合いは大切ですし」
コホンと、咳払いして両手を胸に当てる。
「なにより、私は先生の剣舞を拝見してみたいです」
夢見るような眼差しで、最後にそう付け加えた。
「君の意見は、とても参考になりました」
笑い出したいのを堪えて、朧の頭を撫でる。いつの間に、こんな処世術を身につけたのだろうという驚きと、彼が望むのなら舞ってみる気になった自分の単純さが可笑しかった。
「先生、では?」
上目遣いに尋ねる朧に、松陽は頷いて見せる。
「はい。明日、神主さんに承諾の返事をしてきます」
決意を伝えたが、朧の瞳はまだ翳りがあった。十数秒の逡巡の後、松陽の腕に触れる。
「迷いは、解消されたのでしょうか? ご無理は……」
「君が応援してくれるなら、大丈夫です。練習で家を空ける時間が増えると思いますので、しっかり留守を頼めますね?」
気遣いに対して、朧が頑張れそうな言葉を選ぶ。
本当の気掛かりは、言えなかった。
この村に落ち着いてから、一度も奈落の追手の気配は無い。
このまま上手く村の中に溶け込んで、平穏に暮らすには目立たないのが一番だろう。なのに余所者が来るかもしれない祭りで、剣舞などという目立った行為をする事に懸念はあった。だが、それは秘祭ゆえ参加者が限られる。だから、この気掛かりは杞憂に終わるだろう。そう思う事で、自分を納得させた。
「お任せ下さい!」
期待に応えようと、師に触れていた手を外して握り拳を作る。もしも、迷いの原因が家を留守にする事なのだとしたら、その心配を解消しようと決めた。これまで以上に、弟弟子達の世話をして家事もこなすのだと意気込む。
「どうか、安心して稽古に励んで下さい」
朧の純粋な励ましに、松陽は笑顔を取り戻す。
「頑張りますので、練習後のおやつは大福でお願いしますね」
「考えておきます」
今度の要求は無下に断れないと表情を取り繕うが、頭の中の買い物帳にもち米と小豆の分量変更を付け加えた。
「ああ、もう一つ。時間が取れる時で良いので、稽古の手伝いをお願いします」
松陽の手が、文机の上に戻される。そこには剣舞の手引書があった。手伝いとは、きっとその本通りに動けているかの確認をして欲しいという事だろう。
「はい、微力ながらお手伝い致します」
願っても無い手伝いだと、喜びの滲んだ笑顔を浮かべる。
師の手伝いが出来る事、共に過ごせる時間が増える事、見事な剣舞を特等席で眺められる事、その予感が朧の笑顔を輝かせるのだった。
「ありがとう。では、もう遅いのでおやすみなさい」
「おやすみなさい、先生」
就寝の挨拶を交わして、朧が部屋を出てゆく。
松陽は冷めてしまった茶を飲んで、ほっと息を漏らした。
「もう一つの心配も、ただの杞憂であれば良いのですが……」
朧にも言えなかった心配事を、そっと胸の奥へ沈めてから再度手引書に目を通す。今夜は何かに熱中していたかった。