十六夜の月
客人たちが暇を告げて数刻後、松下村塾は静寂に包まれていた。明かりが点されていたのは、台所と松陽の私室のみ。
松陽の部屋は玄関に一番遠い六畳間の和室で、出入り口は廊下に面した襖だけ。腰高窓も一つで、障子が填められている。窓のすぐ下に文机があり、廊下側の壁に箪笥と書棚が並べられていた。それ以外の家具は無く、必要な物は押入れにしまってある。綺麗に片付いているのは、松陽ではなく一番弟子の掃除が行き届いているお陰だった。
そんな落ち着いた部屋の中で、松陽は和綴じの薄い本を閉じて文机の上に置き腕組みして沈思黙考する。村長達が帰ってから、彼等の頼みについて考えていたが受けるべきか、断るべきか悩んでいた。
なるべく目立つ様な真似はしたくない。かといって、村に住み難くなる様な蟠りも作りたくはなかった。大事な弟子達と平和に暮らし続けるには、どちらを選択すべきか?
「……おや?」
松陽は腕を解き、瞼を上げる。廊下から聞こえて来る足音に気付いて口元を弛めた。足音は部屋の前で止まり、襖の向こう側から朧の気配がする。
「先生、お茶をお持ちしました」
「お入りなさい」
襖が開かれ、小さな盆に蓋付き茶碗を載せた朧が部屋に入って来た。もう夜も遅いというのに、まだ寝間着に着替えていない姿を見て松陽は苦笑する。
「お疲れ様でした」
労いの言葉と共に、茶碗を文机の端に置く。
「ありがとうございます」
松陽は茶碗の蓋を取り、淹れ立ての茶の香を楽しんでから一口だけ飲んで茶碗を文机に戻した。
「もう遅いのですから、起きていなくとも良いのですよ」
やんわりと、夜更かしの事を揶揄する。世話焼きは朧の性分だと理解しているが、まだ子供の朧に無理はさせたく無い。
特に今夜は突然の来客で、しなくとも良いはずの手間をかけてしまった。その大多数の原因は自分が作った事なのだと自覚があるだけに、余計申し訳ない。
「あ、いえ。今夜は…… その、信女が起きてしまったので寝かしつけるのに時間がかかっただけで、」
両手で握った丸盆で口元を隠し、しどろもどろな言い訳をする。信女がぐずったのは本当だが、この時間まで起きていたのは台所の後片付けをしていたからだ。それを言ってしまっては、師を責めているように受け取られるではないかという思いがあって言葉尻が途切れる。責める気持ちなど微塵も無いし、そう思われるのも嫌だった。それに、今夜は何よりもお客人が何を言いに来たのかが気になって仕方無い。
「そうでしたか。いつも君にばかり世話を任せてしまって、すみません」
松陽は畳に片手をついて体の向きを変え、正面から朧に向き合って頭を下げた。
「いいえ。弟弟子達の面倒を見るのは、兄弟子の務めです」
師に頭を下げられて焦った朧は、丸盆ごと両手を畳につけて松陽より深く頭を下げる。
「それに、いつもこの時間には布団に入っております。本当に今夜はたまたま起きていたので、先生にお茶をと……」
言葉を足したものの、また言い訳がましく聞こえるのではないかと頭が上げられない。正直に、客人の用向きが気になって部屋へと訪れたのだと言うべきだった。自分の思慮の無さが恥ずかしい。押し寄せる後悔の感情が、頬に血を上らせ丸盆を握った指先を白くさせた。
「朧」
松陽の手が、朧の後頭部に触れる。柔らかな白銀の髪に指を差し入れ撫でてから、また声をかけた。
「ありがとう。私も、お茶を飲みたいと思っていた所だったのです。自分で淹れるよりも君に淹れて貰う方が美味しいですから、信女に感謝しなければなりませんね」
「……先生」
ゆっくりと、朧の視線が上がる。まだ頬に赤みは残っているが、指からは力が抜けた。
「これで、あと大福があれば尚良いのですけれど」
朧の瞳に映ったのは、松陽の満面の笑み。そして、耳にしたのは不健康な要求だった。
「夜中に、おやつは出せません」
甘党の弟弟子を窘める時のように、シャンと背筋を伸ばしてキッパリと要求を却下する。
「冗談ですよ、冗談」
松陽は朧に触れていた手を離し、羽織の袖口で口元を隠してしまった。そのせいで、松陽の表情が読めなくなる。
だから、朧はどう返して良いか分からなくなった。軽口を本気で受け止めた事を詫びるべきか、このまま流してしまって良いのだろうかと決めかねて、上目遣いに松陽を見詰める。
朧の困惑する表情に気付いて、松陽は表情を改めた。
「夜更かしついでに、少し話を聴いて貰ってもいいですか?」
そう尋ねると、視線を和綴じの本の上へ落とす。朧の視線も松陽の視線を追って、見慣れぬ古い本の方へ向いた。
「はい」
村長達の話だろうかと予想して、しっかり聴かねばと姿勢を正す。師が思い悩んでいるならば、微力でもお力になりたいと膝に置いた拳を握った。
そんな朧の気負いを感じ取り、松陽は柔らかく笑み返す。
「私達がこの村に落ち着いて、何年経ちましたっけ?」
「はっ…… たしか、」
思いもしない質問に戸惑いつつも、指折り数えて記憶を辿る。旅路の果て、松陽と銀時と三人でこの村に辿り着いたのはいつだったかと。
「五年余りです」
「では、秋祭りに参加したのは?」
秋祭りと限定されては、咄嗟に思い出せない。夏祭りの印象の方が強かったし、いつの祭りか忘れたが弟弟子達が揃って風邪を引き祭りに行けなかったこともあった。
「申し訳ありません」
覚えていない事を詫び、俯き口元を引き結ぶ。
「ああ、謝る必要なんてありませんよ。秋祭りの記憶が無ければ、そこから説明しなければと思っただけです」
「秋祭りの、記憶?」
何か特別な事があっただろうかと記憶を探るが、祭りはいつも似たような感じで過ぎていて秋祭りが特別印象に残る様な事は無かった。
「そんなに考え込まなくても、大丈夫ですよ。私も、同じようなものですから」
松陽は机上の本を取り、朧の目前に翳して見せる。
「さいぶつ? まい? 手引書ですか?」
朧は本の表紙に書かれてある文字を、声に出して読む。
「はい、採物舞手引書です。神主さんから、預かりました」
松陽は、朧に見えるようにしてパラパラと本の頁を捲る。
本の中身は、文字の他に丸印や線が描かれ、所々に刀を握った人物画が描かれてあった。舞いの手引きと書かれているのだから、その内容は舞いに関する事なのだろう。
しかしそれと秋祭りと、どう関係するのか分からない。それに採物舞いとはなんなのか? 疑問だらけで、どこから質問すれば良いのかと朧が頭を悩ませている間に、松陽が本を閉じる。
松陽の部屋は玄関に一番遠い六畳間の和室で、出入り口は廊下に面した襖だけ。腰高窓も一つで、障子が填められている。窓のすぐ下に文机があり、廊下側の壁に箪笥と書棚が並べられていた。それ以外の家具は無く、必要な物は押入れにしまってある。綺麗に片付いているのは、松陽ではなく一番弟子の掃除が行き届いているお陰だった。
そんな落ち着いた部屋の中で、松陽は和綴じの薄い本を閉じて文机の上に置き腕組みして沈思黙考する。村長達が帰ってから、彼等の頼みについて考えていたが受けるべきか、断るべきか悩んでいた。
なるべく目立つ様な真似はしたくない。かといって、村に住み難くなる様な蟠りも作りたくはなかった。大事な弟子達と平和に暮らし続けるには、どちらを選択すべきか?
「……おや?」
松陽は腕を解き、瞼を上げる。廊下から聞こえて来る足音に気付いて口元を弛めた。足音は部屋の前で止まり、襖の向こう側から朧の気配がする。
「先生、お茶をお持ちしました」
「お入りなさい」
襖が開かれ、小さな盆に蓋付き茶碗を載せた朧が部屋に入って来た。もう夜も遅いというのに、まだ寝間着に着替えていない姿を見て松陽は苦笑する。
「お疲れ様でした」
労いの言葉と共に、茶碗を文机の端に置く。
「ありがとうございます」
松陽は茶碗の蓋を取り、淹れ立ての茶の香を楽しんでから一口だけ飲んで茶碗を文机に戻した。
「もう遅いのですから、起きていなくとも良いのですよ」
やんわりと、夜更かしの事を揶揄する。世話焼きは朧の性分だと理解しているが、まだ子供の朧に無理はさせたく無い。
特に今夜は突然の来客で、しなくとも良いはずの手間をかけてしまった。その大多数の原因は自分が作った事なのだと自覚があるだけに、余計申し訳ない。
「あ、いえ。今夜は…… その、信女が起きてしまったので寝かしつけるのに時間がかかっただけで、」
両手で握った丸盆で口元を隠し、しどろもどろな言い訳をする。信女がぐずったのは本当だが、この時間まで起きていたのは台所の後片付けをしていたからだ。それを言ってしまっては、師を責めているように受け取られるではないかという思いがあって言葉尻が途切れる。責める気持ちなど微塵も無いし、そう思われるのも嫌だった。それに、今夜は何よりもお客人が何を言いに来たのかが気になって仕方無い。
「そうでしたか。いつも君にばかり世話を任せてしまって、すみません」
松陽は畳に片手をついて体の向きを変え、正面から朧に向き合って頭を下げた。
「いいえ。弟弟子達の面倒を見るのは、兄弟子の務めです」
師に頭を下げられて焦った朧は、丸盆ごと両手を畳につけて松陽より深く頭を下げる。
「それに、いつもこの時間には布団に入っております。本当に今夜はたまたま起きていたので、先生にお茶をと……」
言葉を足したものの、また言い訳がましく聞こえるのではないかと頭が上げられない。正直に、客人の用向きが気になって部屋へと訪れたのだと言うべきだった。自分の思慮の無さが恥ずかしい。押し寄せる後悔の感情が、頬に血を上らせ丸盆を握った指先を白くさせた。
「朧」
松陽の手が、朧の後頭部に触れる。柔らかな白銀の髪に指を差し入れ撫でてから、また声をかけた。
「ありがとう。私も、お茶を飲みたいと思っていた所だったのです。自分で淹れるよりも君に淹れて貰う方が美味しいですから、信女に感謝しなければなりませんね」
「……先生」
ゆっくりと、朧の視線が上がる。まだ頬に赤みは残っているが、指からは力が抜けた。
「これで、あと大福があれば尚良いのですけれど」
朧の瞳に映ったのは、松陽の満面の笑み。そして、耳にしたのは不健康な要求だった。
「夜中に、おやつは出せません」
甘党の弟弟子を窘める時のように、シャンと背筋を伸ばしてキッパリと要求を却下する。
「冗談ですよ、冗談」
松陽は朧に触れていた手を離し、羽織の袖口で口元を隠してしまった。そのせいで、松陽の表情が読めなくなる。
だから、朧はどう返して良いか分からなくなった。軽口を本気で受け止めた事を詫びるべきか、このまま流してしまって良いのだろうかと決めかねて、上目遣いに松陽を見詰める。
朧の困惑する表情に気付いて、松陽は表情を改めた。
「夜更かしついでに、少し話を聴いて貰ってもいいですか?」
そう尋ねると、視線を和綴じの本の上へ落とす。朧の視線も松陽の視線を追って、見慣れぬ古い本の方へ向いた。
「はい」
村長達の話だろうかと予想して、しっかり聴かねばと姿勢を正す。師が思い悩んでいるならば、微力でもお力になりたいと膝に置いた拳を握った。
そんな朧の気負いを感じ取り、松陽は柔らかく笑み返す。
「私達がこの村に落ち着いて、何年経ちましたっけ?」
「はっ…… たしか、」
思いもしない質問に戸惑いつつも、指折り数えて記憶を辿る。旅路の果て、松陽と銀時と三人でこの村に辿り着いたのはいつだったかと。
「五年余りです」
「では、秋祭りに参加したのは?」
秋祭りと限定されては、咄嗟に思い出せない。夏祭りの印象の方が強かったし、いつの祭りか忘れたが弟弟子達が揃って風邪を引き祭りに行けなかったこともあった。
「申し訳ありません」
覚えていない事を詫び、俯き口元を引き結ぶ。
「ああ、謝る必要なんてありませんよ。秋祭りの記憶が無ければ、そこから説明しなければと思っただけです」
「秋祭りの、記憶?」
何か特別な事があっただろうかと記憶を探るが、祭りはいつも似たような感じで過ぎていて秋祭りが特別印象に残る様な事は無かった。
「そんなに考え込まなくても、大丈夫ですよ。私も、同じようなものですから」
松陽は机上の本を取り、朧の目前に翳して見せる。
「さいぶつ? まい? 手引書ですか?」
朧は本の表紙に書かれてある文字を、声に出して読む。
「はい、採物舞手引書です。神主さんから、預かりました」
松陽は、朧に見えるようにしてパラパラと本の頁を捲る。
本の中身は、文字の他に丸印や線が描かれ、所々に刀を握った人物画が描かれてあった。舞いの手引きと書かれているのだから、その内容は舞いに関する事なのだろう。
しかしそれと秋祭りと、どう関係するのか分からない。それに採物舞いとはなんなのか? 疑問だらけで、どこから質問すれば良いのかと朧が頭を悩ませている間に、松陽が本を閉じる。