十六夜の月
これは暗殺集団・天照院奈落の追手から逃れる事に成功し、萩の片田舎で暮らす吉田松陽と朧のIF物語です。
【十六夜の月】
夏の暑さが和らいで、朝夕が過しやすくなった頃。
秋の虫が鳴き始めたある夜、萩の片田舎にある松下村塾に村長と世話役の面々が訪ねて来た。
門扉の前で声をかけるも応えは無く、門を潜って玄関前でもう一度塾長の名を呼びかける。
その刻限、塾長の吉田松陽は奥の部屋で書き物をしており、塾頭で一番弟子の朧は末妹の信女を風呂に入れている途中で、弟弟子の銀時と晋助は喧嘩の真っ最中だった。
そうした原因が重なり、村塾の母屋は甲高い子供の声ばかりが響いて玄関前から呼びかける声は室内に届かない。
唯一、玄関の方から聞こえる声に気がついたのは、風呂上りで渇いた喉を潤そうと台所に行く為に部屋から廊下に出た小太郎のみだった。
「どちら様ですか?」
玄関に向かって尋ねる。
「夜分に、申し訳ない。吉田先生にお話がありまして」
扉越しに聞こえる声は、聞き覚えのあるものだった。
「村長さん! 今開けます」
何事だろうかと急いで扉を開けると、そこには村長だけでなく大人の男数人と神社の神主まで揃っている。
驚いた小太郎は「こんばんは」と挨拶だけを交わすと、客人を玄関に残したまま廊下を走って奥の部屋に居る松陽の許へ急いだ。
小太郎の知らせを受けて、松陽は村長達を客間へと通す。
その間に、小太郎は風呂場へ行って朧に来客を知らせた。
「お客人が? って、まさか先生がお茶の準備を?!」
盥から信女を抱き上げたまま、朧が固まる。
「俺がやりますって止めたのですが、先生が『それは大人の仕事です』って台どこ」
最期まで報告する前に、台所でガシャンと派手な音がした。
朧と小太郎は、やっぱりという顔をして頷き合う。
「小太郎、頼む」
「はい、朧兄さん」
信女の小さな体が、朧から小太郎に受け渡される。朧は襷掛けしたまま、風呂から台所目指して走って行った。
「先生!」
「あぁ、朧。大丈夫ですよ、すぐ片付けますから」
「大丈夫じゃねぇってば!」
「兄弟子、足元ッ!」
松陽と弟弟子が、それぞれ一斉に口を開く。朧は台所に踏み込む前に足元を確認した。床には茶葉が草原の様に広がっていて、白い花ならぬ白い茶器の欠片が所々に散らばっている。隠しておいた茶菓子は、流しの洗い桶に浮かんでいた。
まだ無事な銘々皿の上には割り箸が置かれている。恐らく黒文字を探せず、割り箸で代用するつもりだったのだろう。
この惨状に、朧は眩暈を覚えた。だがここで、嘆いている暇は無い。客人が来ているのだ。先生の一番弟子として師を助け、もてなしの準備をしなければと気持ちを切り替える。
「晋助。食器棚の横に置いている箒を取ってくれ」
朧が指示して手を差し出すと、晋助が柄を握って軽く投げ渡す。箒は微妙なバランスで、朧の手の中に落ちた。
手にした箒で床を掃き、晋助と銀時の立っている場所まで道を作る。松陽の立っている場所は、わざと後回しにして弟弟子達に次の指示を出した。
「銀時は先生の部屋に行って、箪笥から足袋を持ってこい。晋助は、裏の納屋に行って予備の茶器を持って来てくれ」
「箪笥の、どこにあんの?」
「納屋の、どこにあンだ?」
二人が同時に質問する。朧は台所に置いていた割烹着を着けながら、簡潔に答えた。
「足袋は、箪笥の一番上の右端の抽斗の中だ。茶器の場所は、小太郎が知ってる。風呂場にいるから、一緒に行ってくれ」
二人が頷いて廊下に飛び出して行くのを見送ってから、流しの前に立つ。先ほどまで浮いていた茶菓子は水を吸い、とうとう沈んでしまった。それを掬い上げて溜息をつく。
「たね屋の最中、皆で食べようと思っていたのに……」
「傷心のところ申し訳ないのですが、そろそろ私の足元も掃いて貰えませんか?」
茶葉の絨毯の中で、痺れを切らした松陽が呼び掛ける。朧が嘆いている最中を水没させたのも、緑の絨毯を作ったのも自分なので強く出ることは出来なかった。茶器を割ったのは銀時だが、その原因は床に散らばった茶葉で足を滑らせたから。遠因は自分にある。反省していると謝りたいが、今お説教を受けていてはお客人を待たせてしまう。それを話すのに、まずは朧に振り向いて貰わなければならない。
「あの、朧? 聞こえてますか?」
「聞こえています」
朧は振り返って松陽を見詰めた。その表情から反省している事は読み取れたが、最短で客間に戻って貰うなら下手に動ける状況を作るのは危険だと判断して言葉を続ける。
「先生は銀時が戻って来るまで、動かないで下さい」
「でも、ほら。お客人を待たせる訳にはいきませんから」
動くなと言われると、余計に気持ちがソワソワしてしまう。
村長達が何を話しに来たのかも気になっていたし、朧の不機嫌そうな表情を見ているのも居心地が悪い。
「そのように汚れた足袋で、客人の前に戻られては困ります。新しい足袋に履き替えるまで、動くのは我慢して下さい」
台所の悲惨な状態のせいで物言いが少し厳しくなってしまったと内心反省して、朧は表情を和らげる。
「私は塾頭として、先生の手助けをしたいのです。どうか先生は塾長として、どっしりと構えていて下さい」
朧の本心からの言葉と和らいだ表情に、松陽はホッと胸を撫で下ろす。本気で怒っている訳では無いと分かっていたが、どうにも一番弟子の事となると心配性になってしまうのだ。
「はい、分かりました」
言われた通り、どっしりと構え威厳を保っていようと思ったが、安堵のせいでニコニコと笑顔が収まらない。
朧も師が笑顔でいてくれると嬉しくて、同じ笑顔を返す。
互いの笑顔でほっこりした所に、銀時が戻ってきた。
「足袋、これでいーの?」
持ってきた足袋を、朧に見せて確認する。朧は銀時に頷いてから、もう一度松陽に笑顔を向けた。
「先生、お待たせ致しました。今すぐ掃きますので、もう少々お待ち下さい」
箒を手にして、松陽の立つ場所まで綺麗に掃き清める。綺麗になった場所から松陽が動くよりも先に、銀時が椅子を運んで来た。二人の視線を受けて、松陽は椅子に座る。
「はい、これ」
「ありがとう、銀時」
足袋は銀時から朧に手渡され、朧はそれを松陽の膝に置いてから、松陽の足元に跪いた。
「朧?」
「汚れた足袋を触った手で新しい足袋を触られては、新しい足袋まで汚してしまいますから」
松陽の足を膝に乗せて、足袋の小鉤を一つ一つ外してゆく。
左右とも脱がせ終えると、松陽の足に汚れを付けていないか確認してから、汚れた足袋を纏めて持ち立ち上がる。
「新しい足袋を、どうぞ」
「ありがとうございます」
複雑な気持ちだったが、礼を言って新しい足袋を履く。
母親の記憶どころか、自分に母が存在するのかさえ定かではない。なのに、朧の態度に懐かしい母性を感じた。
弟子とはいえ、まだ十五歳の子供にここまで世話になって良いものだろうかと疑問が湧いたが、問う前に晋助と小太郎が木箱を抱えて台所に入って来たので機会を失う。
「兄弟子、待たせたなっ」
「手伝います。朧兄さん、指示を下さい」
朧が二人に視線を移している間に、銀時が松陽の袖を引く。
「松陽、早く行かねーと不味いんじゃね」
「ああ、そうですね」
今は客人の方へ意識を向けた方が良い。弟子達が頑張ってもてなそうとしてくれているのだから、自分は塾長らしくしていようと胸を張り台所を後にする。
「しかし、こんな時間に何の用なんでしょう?」
やっと落ち着いた土地を出て行かなければならない様な用向きでは無い事を祈りつつ、村長達の待つ客間の襖を開けた。
【十六夜の月】
夏の暑さが和らいで、朝夕が過しやすくなった頃。
秋の虫が鳴き始めたある夜、萩の片田舎にある松下村塾に村長と世話役の面々が訪ねて来た。
門扉の前で声をかけるも応えは無く、門を潜って玄関前でもう一度塾長の名を呼びかける。
その刻限、塾長の吉田松陽は奥の部屋で書き物をしており、塾頭で一番弟子の朧は末妹の信女を風呂に入れている途中で、弟弟子の銀時と晋助は喧嘩の真っ最中だった。
そうした原因が重なり、村塾の母屋は甲高い子供の声ばかりが響いて玄関前から呼びかける声は室内に届かない。
唯一、玄関の方から聞こえる声に気がついたのは、風呂上りで渇いた喉を潤そうと台所に行く為に部屋から廊下に出た小太郎のみだった。
「どちら様ですか?」
玄関に向かって尋ねる。
「夜分に、申し訳ない。吉田先生にお話がありまして」
扉越しに聞こえる声は、聞き覚えのあるものだった。
「村長さん! 今開けます」
何事だろうかと急いで扉を開けると、そこには村長だけでなく大人の男数人と神社の神主まで揃っている。
驚いた小太郎は「こんばんは」と挨拶だけを交わすと、客人を玄関に残したまま廊下を走って奥の部屋に居る松陽の許へ急いだ。
小太郎の知らせを受けて、松陽は村長達を客間へと通す。
その間に、小太郎は風呂場へ行って朧に来客を知らせた。
「お客人が? って、まさか先生がお茶の準備を?!」
盥から信女を抱き上げたまま、朧が固まる。
「俺がやりますって止めたのですが、先生が『それは大人の仕事です』って台どこ」
最期まで報告する前に、台所でガシャンと派手な音がした。
朧と小太郎は、やっぱりという顔をして頷き合う。
「小太郎、頼む」
「はい、朧兄さん」
信女の小さな体が、朧から小太郎に受け渡される。朧は襷掛けしたまま、風呂から台所目指して走って行った。
「先生!」
「あぁ、朧。大丈夫ですよ、すぐ片付けますから」
「大丈夫じゃねぇってば!」
「兄弟子、足元ッ!」
松陽と弟弟子が、それぞれ一斉に口を開く。朧は台所に踏み込む前に足元を確認した。床には茶葉が草原の様に広がっていて、白い花ならぬ白い茶器の欠片が所々に散らばっている。隠しておいた茶菓子は、流しの洗い桶に浮かんでいた。
まだ無事な銘々皿の上には割り箸が置かれている。恐らく黒文字を探せず、割り箸で代用するつもりだったのだろう。
この惨状に、朧は眩暈を覚えた。だがここで、嘆いている暇は無い。客人が来ているのだ。先生の一番弟子として師を助け、もてなしの準備をしなければと気持ちを切り替える。
「晋助。食器棚の横に置いている箒を取ってくれ」
朧が指示して手を差し出すと、晋助が柄を握って軽く投げ渡す。箒は微妙なバランスで、朧の手の中に落ちた。
手にした箒で床を掃き、晋助と銀時の立っている場所まで道を作る。松陽の立っている場所は、わざと後回しにして弟弟子達に次の指示を出した。
「銀時は先生の部屋に行って、箪笥から足袋を持ってこい。晋助は、裏の納屋に行って予備の茶器を持って来てくれ」
「箪笥の、どこにあんの?」
「納屋の、どこにあンだ?」
二人が同時に質問する。朧は台所に置いていた割烹着を着けながら、簡潔に答えた。
「足袋は、箪笥の一番上の右端の抽斗の中だ。茶器の場所は、小太郎が知ってる。風呂場にいるから、一緒に行ってくれ」
二人が頷いて廊下に飛び出して行くのを見送ってから、流しの前に立つ。先ほどまで浮いていた茶菓子は水を吸い、とうとう沈んでしまった。それを掬い上げて溜息をつく。
「たね屋の最中、皆で食べようと思っていたのに……」
「傷心のところ申し訳ないのですが、そろそろ私の足元も掃いて貰えませんか?」
茶葉の絨毯の中で、痺れを切らした松陽が呼び掛ける。朧が嘆いている最中を水没させたのも、緑の絨毯を作ったのも自分なので強く出ることは出来なかった。茶器を割ったのは銀時だが、その原因は床に散らばった茶葉で足を滑らせたから。遠因は自分にある。反省していると謝りたいが、今お説教を受けていてはお客人を待たせてしまう。それを話すのに、まずは朧に振り向いて貰わなければならない。
「あの、朧? 聞こえてますか?」
「聞こえています」
朧は振り返って松陽を見詰めた。その表情から反省している事は読み取れたが、最短で客間に戻って貰うなら下手に動ける状況を作るのは危険だと判断して言葉を続ける。
「先生は銀時が戻って来るまで、動かないで下さい」
「でも、ほら。お客人を待たせる訳にはいきませんから」
動くなと言われると、余計に気持ちがソワソワしてしまう。
村長達が何を話しに来たのかも気になっていたし、朧の不機嫌そうな表情を見ているのも居心地が悪い。
「そのように汚れた足袋で、客人の前に戻られては困ります。新しい足袋に履き替えるまで、動くのは我慢して下さい」
台所の悲惨な状態のせいで物言いが少し厳しくなってしまったと内心反省して、朧は表情を和らげる。
「私は塾頭として、先生の手助けをしたいのです。どうか先生は塾長として、どっしりと構えていて下さい」
朧の本心からの言葉と和らいだ表情に、松陽はホッと胸を撫で下ろす。本気で怒っている訳では無いと分かっていたが、どうにも一番弟子の事となると心配性になってしまうのだ。
「はい、分かりました」
言われた通り、どっしりと構え威厳を保っていようと思ったが、安堵のせいでニコニコと笑顔が収まらない。
朧も師が笑顔でいてくれると嬉しくて、同じ笑顔を返す。
互いの笑顔でほっこりした所に、銀時が戻ってきた。
「足袋、これでいーの?」
持ってきた足袋を、朧に見せて確認する。朧は銀時に頷いてから、もう一度松陽に笑顔を向けた。
「先生、お待たせ致しました。今すぐ掃きますので、もう少々お待ち下さい」
箒を手にして、松陽の立つ場所まで綺麗に掃き清める。綺麗になった場所から松陽が動くよりも先に、銀時が椅子を運んで来た。二人の視線を受けて、松陽は椅子に座る。
「はい、これ」
「ありがとう、銀時」
足袋は銀時から朧に手渡され、朧はそれを松陽の膝に置いてから、松陽の足元に跪いた。
「朧?」
「汚れた足袋を触った手で新しい足袋を触られては、新しい足袋まで汚してしまいますから」
松陽の足を膝に乗せて、足袋の小鉤を一つ一つ外してゆく。
左右とも脱がせ終えると、松陽の足に汚れを付けていないか確認してから、汚れた足袋を纏めて持ち立ち上がる。
「新しい足袋を、どうぞ」
「ありがとうございます」
複雑な気持ちだったが、礼を言って新しい足袋を履く。
母親の記憶どころか、自分に母が存在するのかさえ定かではない。なのに、朧の態度に懐かしい母性を感じた。
弟子とはいえ、まだ十五歳の子供にここまで世話になって良いものだろうかと疑問が湧いたが、問う前に晋助と小太郎が木箱を抱えて台所に入って来たので機会を失う。
「兄弟子、待たせたなっ」
「手伝います。朧兄さん、指示を下さい」
朧が二人に視線を移している間に、銀時が松陽の袖を引く。
「松陽、早く行かねーと不味いんじゃね」
「ああ、そうですね」
今は客人の方へ意識を向けた方が良い。弟子達が頑張ってもてなそうとしてくれているのだから、自分は塾長らしくしていようと胸を張り台所を後にする。
「しかし、こんな時間に何の用なんでしょう?」
やっと落ち着いた土地を出て行かなければならない様な用向きでは無い事を祈りつつ、村長達の待つ客間の襖を開けた。