小春日和に縁側で
朝の冷え込みは、いつもより穏やかで昼には厚着だと少し汗ばむほどの陽気になった。
「こんな日は、珍しいですね」
障子越しからでも分かる眩しい陽光と肌に感じる空気の温もりから、松下村塾の教師である吉田松陽は教本から目を上げ縁側に向かってそう呟き、長い昼休みを取ることを宣言した。
「一刻(二時間)ほど、休憩にしましょう」
子供たちから、歓声が上がる。年長の子は我先に飛び出し、小さな子はその後を慌てて追いかけた。
「君たちも、遊んでいらっしゃい」
まだ教室に残っている三人の弟子達に、笑んでみせる。
松陽の正面に正座していた桂小太郎がこくりと頷き、隣に座る高杉晋助を促して立ち上がった。二人は一番後ろの席で居眠りしている銀時の方へ歩み寄る。
「さあ、ゆくぞっ!」
「起きねェなら、置いて行こうぜ」
「え? なに、おやつの時間ん?」
「寝惚けてんじゃねェ!」
「そうだ! 朧兄さんに頼んで、おにぎりを作らせて貰おう。外で食べる握り飯は美味いぞっ!」
仔犬がじゃれるようにはしゃぎ、三人の弟子達が教室から早足で出て行った。
松陽は、彼らの後姿を笑顔で見送る。
出会って、あっという間に打ち解けて。
一番弟子の朧を含め、銀時と晋助と小太郎も大切な家族になっていた。
こんな幸福な心持ちで過ごせる日が来るなんて⋯⋯
松陽は笑みを収め障子を開けて縁側に立ち、澄んだ青空を見上げ遠い過去の時間に思いを馳せる。
暗殺集団奈落の首領としての責務と疑問と嫌悪、呵責と贖罪と苦悶の日々。現在の自我とは違う記憶の欠片は走馬灯の様に流れゆき、吉田松陽としての思い出が鮮やかに浮かび上がった。
理想の学び舎をつくる。真に生きる希望と、共に夢を見る約束を胸に抱き、一番弟子と駆け抜けた逃避行の旅。絶えず追手を警戒し、野山を渡り歩いた。決して楽な旅路では無かったが、今思い出すのは幼かった朧の笑顔と温もりばかり。
君を護っていたつもりでいましたが、きっと私は君の存在に護られていたのですね。
いつも、君の笑顔に心救われていた気がします。
心の中で呟いて、縁側に腰掛ける。
青空が少し遠のいたけれど、陽光は変わらぬ暖かな温もりを与えてくれた。
松陽は、背を反らして伸びをする。
「先生、お茶はいかがですか?」
背後から聴こえた声は、一番弟子の朧のもの。
「いただきます」と、振り返った瞳に映ったのは、幼い頃の面影を残し穏やかな笑みを浮かべる青年の姿。
その手には湯呑みを載せた丸盆が、腕には半纏が掛けられていた。それを見て、松陽の右眉が少しだけピクリと動く。言葉は無く、無言の内に(年寄り扱いですか?)と、問いかけている様だ。
「陽光は暖かくとも、風は冷たいですから」
朧は松陽の表情には気づかぬ振りをして、縁側に膝をつく。先に丸盆を置き、湯呑みを松陽の手元に差し出した。
「君がずっと隣に座っていてくれたら、暖かいのですが⋯⋯ ねっ」
片手で湯呑みを受け取り、もう片手の指先でトントンと縁側の床板を叩いてみせる。威圧にならないように、口角を上げて小首を傾げた。
「……先生が、お望みであれば」
瞬時に視線で周囲を探った後、松陽と同じく沓脱石の方に足を下ろして座る。それから、恭しい手つきで松陽の膝の上に半纏を掛けた。
二人並んで、雲一つなく冴えわたる冬空を仰ぎ見る。
どこからか聞こえてくる鳥の囀りに耳を傾け、遠くの山並みへと目を遊ばせた。
同じ景色の中に身を置いて過ごす時間は、懐かしい逃避行の日々を思い出させる。
隣に座る朧の顔を、こっそりと窺ってみた。
同じ追憶をしているのだろうか?
その眼差しは景色を見ているというよりも、遠くに思いを馳せている様子に見えた。
あの幼かった少年が、今ではもう青年と呼べる歳になっている。
成長しても昔と変わらず傍にいてくれることが嬉しくて、朧の手を引き寄せ己の手の中に包み込む。
「先生?」
驚きに目を瞠るも、その手は振り解かなかった。
「はい?」
「あの、手を」
「手が何ですか?」
羞恥ゆえ手を離して欲しいのだということは分かったが、睫を伏せ頬に朱を散らす初々しさが愛おしくて、彼の要求に気付かないふりをする。
「弟弟子達に見られては、その……」
語尾を濁しつつ、恥ずかしい以外の理由を述べるのが可愛いらしい。
「そうですね、では」
同意の言葉を呟くと、朧の腕から力が抜けた。
「こうしましょう」
繋いでいない方の手で半纏を引っ張り、繋いだ手を覆い隠す。
傍から見れば、半纏を二人でひざ掛けにしているように見える。
「暖かいし、一石二鳥ですね」
半纏を持ってきたのは朧だし、見られて困るという理由も封じ込めた。
後は振り解かれないように、半纏の下で指を絡める。
いつものように抵抗すること無くただ受け入れるだけだろうと思ったが、おずおずとした緩やかさで自ら指に力を込めて応えてくれた。
今度は、松陽の目が見開かれる。
じっと朧の方を見詰めるが、朧は俯いたまま横顔だけを見せ続けた。
柔らかな前髪が目元を隠しても、色づいた頬までは隠せない。
「私は、ずっと先生のお傍に居ります」
何を思ったのか、ぽそっとそれだけ呟いた。
絡めた指が熱を帯び、どちらともなく引かれ合うように肩を寄せ互いの距離を埋めてゆく。
ぴたりと寄り添った場所から温もりが広がり、相手を愛しく想う心を届けた。
「はい。ずっと一緒に……」
一緒にいたい。祈るような気持ちでそう願う。
しかし、最後まで言葉にすることは躊躇われた。
視線を上げて眩しい陽の光に目を細め、ひっそりと細く息を吐く。
陽だまりのような幸せに、まだ慣れていないせいだと。
己の中に流れるアルタナの血が、この細やかな暮らしに冷たい影を落とさぬよう、こんな小春日和の穏やかな日々が続くようにと天に祈り、朧の手を強く握った。
了 2024.1.24