旅の途中
習慣的な遠慮も忘れ固まった状態の朧は、松陽の腕に抱かれたまま旅の荷物が置いてある木の根元まで運ばれた。
片付け忘れた単衣の上にそっと下ろされ、やっと口を開く。
「も、申し訳ございません…… あの、」
見上げるように顔を上げるが、視線だけは合わせない。
「いえ。驚かせてしまったのは私の方ですから、君が謝る必要はありません」
応える松陽も敢えて視線を合わせようとはしなかった。
「いくら夏とはいえ、濡れたままでは風邪を引いてしまいますね」
朧の手から手早く洗濯物を抜き取り傍らに置くと、旅の荷物から手拭いを取り出す。
「あ、私より先生がお先に」
「いいから、君は着物を絞ってなさい」
手拭いを持った松陽の手を遮ろうとしたが、少し硬い声で洗濯した着物の水気を絞るよう言い付けられた。
ここに来てやっと、朧は松陽の顔からいつもの笑顔が消えているのに気付く。
しかし、それを何故かと尋ねることは出来なかった。
(先生に嫌われてしまった? ご心配をおかけしてしまったのに、来ないでなんて失礼な事を…… どうしよう? なんと、お詫びすれば?)
悶々と思い悩んでも、答えは出ない。
朧に出来るのは、ただ黙って洗濯した着物類を絞ることだけだった。
(……いつ、この子に厭われるような事をしてしまったのだろうか?)
松陽は必死に、ここ数日の記憶を辿り続ける。
未来の夢を共有し、楽しい旅路だったはずだ。
『来ないで』
朧の拒絶の声が頭の中で何度も響き、気持ちをどん底に突き落とされる。
やはり、人と共に生きていくことは叶わぬ願いなのだろうか?
これ以上、朧に嫌われる前にこの手を離した方が良いのかも知れない。
そう、最初は奈落の里から出て行かせるつもりだったのだ。それが、少しばかり遅くなっただけの事。
この逃避行の間、未来の夢と希望を貰っただけでも奇跡だったのだから、これ以上を望んではいけない。
笑顔で、この子自身の人生へ送り出してやらなければ。
松陽は震えそうになる唇を横に引き絞り、無理矢理に笑顔を作った。
「さっ、拭き終わりましたよ。次は、その着物を干してください」
朧の背中から手拭いを離し、拭き取った水分を絞る。
「昼には乾くでしょうから、乾いたら町へ下りましょう」
(町に下りたら、君を自由に……)
面と向かっては言えず、朧に背を向け濡れた袴と長着を脱ぎ捨てた。
この着物が乾いたら朧の手を引いて町へ、最後の二人旅を。
この決意が揺るがない内に「さよなら」と「ありがとう」を告げなくては。
「えっ? 町に?」
絞った後、干そうと広げた着物を持っていた朧の手が止まる。
昨夜肉を売りに町に下りると話していたのを、今朝の衝撃のせいですっかり失念していた。その為に薬草詰みまでしていたのに、と思い出す。
「あ、の、先生」
朧はおずおずと振り向き、松陽の背中に声をかける。
いつも見ていた着物姿の背中が、褌一枚の姿になっているだけで何故か遠く感じた。
それでも、言わなくてはいけない。
朧は着物を握り締め、松陽の前へと回り込む。
「私はここで、留守番していてもよろしいでしょうか?」
もしかしたら、病気かも知れないのだ。一緒に行動して、感染させてしまっては詫びのしようも無い。
先生にご迷惑をおかけするくらいなら、このまま身を隠してしまおう。
そんな考えが頭を過ぎる。だが、そう思っただけで涙目になった。
(先生と、離れるなんて……)
朧の言葉に、松陽が振り返る。
木陰の下だからだろうか、それとも裸の肌の白さのせいか? 朧の顔色は青白く、瞳には涙が溜まっている。
その様子に、松陽はハッとした。
不安から朧の真心を疑い、己の悲哀にばかり目を向けていた事を後悔する。
彼に厭われたとの考えは己の思い込みで、具合が悪いのかも知れない。
松陽は膝を着き、朧を驚かせないようにゆっくりと両手を伸ばし、二の腕を掴んだ。
「朧、私に何か隠していませんか?」
問い詰める口調にならないように声の調子を軽く保ち、逃げる視線を捉える。
腕を掴んでいなければ分からないくらい、小さな震えを感じた。
見返してくる瞳には、涙の粒が溢れ出す。
「申し訳……ございまっ、せっ」
嗚咽を堪え声を詰まらせている姿を見て、やはり何かあるのだと察し松陽は朧を引き寄せ抱き締めた。
彼が心に抱えている何かを、どうにかしてやりたい。その一心で、小さな体を更に強く胸に抱き入れた。
服地を通さぬ直の肌が触れて、互いの体温を感じる。その温もりが、朧の高ぶった気持ちを解きほぐした。
朧は涙を引っ込めようと鼻を啜り、松陽の胸板を弱い力で押して話す為の空間を作る。
どんなに辛くとも、ちゃんと説明してお別れしようと、濡れた睫毛を掌で拭い背筋を伸ばした。
声が震えないよう両手で拳を作り、眼に力を注いで松陽の視線に合わせる。
「先生、私は病気なのです。だから、先生のご迷惑になる前に」
お別れしなければならないのです。と言葉を続けようとした。
しかし、それを遮る勢いで体を押し倒される。
視界はぐるりと回って、木漏れ日に煌めく緑の天井が見えた。
その緑より美しい翠の瞳が、じっと朧を見詰める。
眉根が寄せられ、口角が下がり、今にも泣き出しそうな苦悶の表情を見せた。
「なぜ黙って我慢していたのですか! 熱は? どこが苦しいのか、言いなさい!」
焦りから口早に問いかけるも、返事を聞く前に朧の額に手を当て熱を測り、胸に耳を宛てがい呼吸音や心音を聴き取ろうと必死になる。
昨夜の食欲や健やかな眠りから健康を害しているとは思えなかったが、本人に何らかの自覚がある以上、早急に医師に診せなければならない。
「大丈夫です。苦しくありません」
予想に反して、きっぱりと否定された。苦しさを隠している感じも無さそうだったが、念の為と言い方を変える。
「では、どこか痛い所は?」
「どこも、痛くありません」
今度は申し訳無さそうな顔をして答えた。
ともかく緊急性は無いと判断して、松陽は疑問に思っていた事を口にする。
「君は、どうして自分が病気だと分かったのですか?」
松陽の問いに、朧の顔色が変化した。
赤から青白くなり、息を詰めたせいで土色へ。
再び赤くなって、額に玉のような汗を浮かべた。
「そ、それは」
やっと絞り出した声は震え視線は泳ぎっぱなしで、言葉を紡ごうと何度も口を開いては虚しく閉じてと繰り返す。
それはまるで陸に揚げられた魚の様子に似ていて、酸欠で倒れるのでは無いかと松陽は心配になった。
このまま話し出すのを待っていても埒が明かないと判断し、いつもより低い声で半ば命令する口調に改める。
「朧、話しなさい」
真剣な眼差しで促され、朧は観念した。
頭を庇うように、握り締めた両手を額に寄せる。それは奈落の里に引き取ったばかりの頃に、よく見た仕草だった。
恐らく、奉公先で無体に殴られてきた名残りだろう。松陽の庇護を受けてからは、その仕草を見る事はなくなっていたのだが、ここにきてまた現れた。
幼い心を震わせるほどの理由とは何なのか、松陽は息を詰めて朧の言葉を待った。
「今朝、粗相をしてしまい……」
朧の小さな唇が戦慄き、言葉を途切らせる。
対する松陽は、聞き慣れない単語に一瞬頭が真っ白になった。
粗相と言われて思い浮かんだのは失敗事の類いだが、川で洗濯していた朧の行動から答えを導き出す。
「ああ! おねしょ、ですね」
あまりにも単純で可愛らしい理由に思わず笑みを浮かべそうになるが、ここは必死に堪えた。きっと朧にとっては、一大事なのだろう。笑って傷付けてはいけないと、奥歯を噛み締める。
恥ずかしさと情けなさで感情が手一杯になっている朧には、松陽の気遣いなど読み取れる筈もなく、無意識に握った拳で額の汗や浮かんでくる涙を擦り続けながら言葉を付け足してゆく。
「いい歳をして、お恥ずかしい話を…… 申し訳ございません」
「そんな事、君はまだ子供なのですから。それに、おねしょは病気という訳では」
そうした経験は無いが知識としては知っている情報を、優しく伝えようとした。
「違うのです!」
全てを言い終える前に、朧が強く否定する。話の本題は、ここからなのだと青い瞳が訴えていた。
「何が、違うのですか?」
またも言い辛そうにする朧に対して、話しやすいように首を傾けてみせる。
朧は大きく深呼吸してから、両手を揉み合わせた。
瞬きも忘れた様に目を凝らし、やっとのことで不安要因を伝える。
そう聞いて松陽が最初に思い浮かべたのは血尿だった。だが、それならば血が出たとハッキリ言うのではないだろうか。そもそも、おねしょなどと間違える筈は無い。
そこまで考えて、ある事に思い至った。
片付け忘れた単衣の上にそっと下ろされ、やっと口を開く。
「も、申し訳ございません…… あの、」
見上げるように顔を上げるが、視線だけは合わせない。
「いえ。驚かせてしまったのは私の方ですから、君が謝る必要はありません」
応える松陽も敢えて視線を合わせようとはしなかった。
「いくら夏とはいえ、濡れたままでは風邪を引いてしまいますね」
朧の手から手早く洗濯物を抜き取り傍らに置くと、旅の荷物から手拭いを取り出す。
「あ、私より先生がお先に」
「いいから、君は着物を絞ってなさい」
手拭いを持った松陽の手を遮ろうとしたが、少し硬い声で洗濯した着物の水気を絞るよう言い付けられた。
ここに来てやっと、朧は松陽の顔からいつもの笑顔が消えているのに気付く。
しかし、それを何故かと尋ねることは出来なかった。
(先生に嫌われてしまった? ご心配をおかけしてしまったのに、来ないでなんて失礼な事を…… どうしよう? なんと、お詫びすれば?)
悶々と思い悩んでも、答えは出ない。
朧に出来るのは、ただ黙って洗濯した着物類を絞ることだけだった。
(……いつ、この子に厭われるような事をしてしまったのだろうか?)
松陽は必死に、ここ数日の記憶を辿り続ける。
未来の夢を共有し、楽しい旅路だったはずだ。
『来ないで』
朧の拒絶の声が頭の中で何度も響き、気持ちをどん底に突き落とされる。
やはり、人と共に生きていくことは叶わぬ願いなのだろうか?
これ以上、朧に嫌われる前にこの手を離した方が良いのかも知れない。
そう、最初は奈落の里から出て行かせるつもりだったのだ。それが、少しばかり遅くなっただけの事。
この逃避行の間、未来の夢と希望を貰っただけでも奇跡だったのだから、これ以上を望んではいけない。
笑顔で、この子自身の人生へ送り出してやらなければ。
松陽は震えそうになる唇を横に引き絞り、無理矢理に笑顔を作った。
「さっ、拭き終わりましたよ。次は、その着物を干してください」
朧の背中から手拭いを離し、拭き取った水分を絞る。
「昼には乾くでしょうから、乾いたら町へ下りましょう」
(町に下りたら、君を自由に……)
面と向かっては言えず、朧に背を向け濡れた袴と長着を脱ぎ捨てた。
この着物が乾いたら朧の手を引いて町へ、最後の二人旅を。
この決意が揺るがない内に「さよなら」と「ありがとう」を告げなくては。
「えっ? 町に?」
絞った後、干そうと広げた着物を持っていた朧の手が止まる。
昨夜肉を売りに町に下りると話していたのを、今朝の衝撃のせいですっかり失念していた。その為に薬草詰みまでしていたのに、と思い出す。
「あ、の、先生」
朧はおずおずと振り向き、松陽の背中に声をかける。
いつも見ていた着物姿の背中が、褌一枚の姿になっているだけで何故か遠く感じた。
それでも、言わなくてはいけない。
朧は着物を握り締め、松陽の前へと回り込む。
「私はここで、留守番していてもよろしいでしょうか?」
もしかしたら、病気かも知れないのだ。一緒に行動して、感染させてしまっては詫びのしようも無い。
先生にご迷惑をおかけするくらいなら、このまま身を隠してしまおう。
そんな考えが頭を過ぎる。だが、そう思っただけで涙目になった。
(先生と、離れるなんて……)
朧の言葉に、松陽が振り返る。
木陰の下だからだろうか、それとも裸の肌の白さのせいか? 朧の顔色は青白く、瞳には涙が溜まっている。
その様子に、松陽はハッとした。
不安から朧の真心を疑い、己の悲哀にばかり目を向けていた事を後悔する。
彼に厭われたとの考えは己の思い込みで、具合が悪いのかも知れない。
松陽は膝を着き、朧を驚かせないようにゆっくりと両手を伸ばし、二の腕を掴んだ。
「朧、私に何か隠していませんか?」
問い詰める口調にならないように声の調子を軽く保ち、逃げる視線を捉える。
腕を掴んでいなければ分からないくらい、小さな震えを感じた。
見返してくる瞳には、涙の粒が溢れ出す。
「申し訳……ございまっ、せっ」
嗚咽を堪え声を詰まらせている姿を見て、やはり何かあるのだと察し松陽は朧を引き寄せ抱き締めた。
彼が心に抱えている何かを、どうにかしてやりたい。その一心で、小さな体を更に強く胸に抱き入れた。
服地を通さぬ直の肌が触れて、互いの体温を感じる。その温もりが、朧の高ぶった気持ちを解きほぐした。
朧は涙を引っ込めようと鼻を啜り、松陽の胸板を弱い力で押して話す為の空間を作る。
どんなに辛くとも、ちゃんと説明してお別れしようと、濡れた睫毛を掌で拭い背筋を伸ばした。
声が震えないよう両手で拳を作り、眼に力を注いで松陽の視線に合わせる。
「先生、私は病気なのです。だから、先生のご迷惑になる前に」
お別れしなければならないのです。と言葉を続けようとした。
しかし、それを遮る勢いで体を押し倒される。
視界はぐるりと回って、木漏れ日に煌めく緑の天井が見えた。
その緑より美しい翠の瞳が、じっと朧を見詰める。
眉根が寄せられ、口角が下がり、今にも泣き出しそうな苦悶の表情を見せた。
「なぜ黙って我慢していたのですか! 熱は? どこが苦しいのか、言いなさい!」
焦りから口早に問いかけるも、返事を聞く前に朧の額に手を当て熱を測り、胸に耳を宛てがい呼吸音や心音を聴き取ろうと必死になる。
昨夜の食欲や健やかな眠りから健康を害しているとは思えなかったが、本人に何らかの自覚がある以上、早急に医師に診せなければならない。
「大丈夫です。苦しくありません」
予想に反して、きっぱりと否定された。苦しさを隠している感じも無さそうだったが、念の為と言い方を変える。
「では、どこか痛い所は?」
「どこも、痛くありません」
今度は申し訳無さそうな顔をして答えた。
ともかく緊急性は無いと判断して、松陽は疑問に思っていた事を口にする。
「君は、どうして自分が病気だと分かったのですか?」
松陽の問いに、朧の顔色が変化した。
赤から青白くなり、息を詰めたせいで土色へ。
再び赤くなって、額に玉のような汗を浮かべた。
「そ、それは」
やっと絞り出した声は震え視線は泳ぎっぱなしで、言葉を紡ごうと何度も口を開いては虚しく閉じてと繰り返す。
それはまるで陸に揚げられた魚の様子に似ていて、酸欠で倒れるのでは無いかと松陽は心配になった。
このまま話し出すのを待っていても埒が明かないと判断し、いつもより低い声で半ば命令する口調に改める。
「朧、話しなさい」
真剣な眼差しで促され、朧は観念した。
頭を庇うように、握り締めた両手を額に寄せる。それは奈落の里に引き取ったばかりの頃に、よく見た仕草だった。
恐らく、奉公先で無体に殴られてきた名残りだろう。松陽の庇護を受けてからは、その仕草を見る事はなくなっていたのだが、ここにきてまた現れた。
幼い心を震わせるほどの理由とは何なのか、松陽は息を詰めて朧の言葉を待った。
「今朝、粗相をしてしまい……」
朧の小さな唇が戦慄き、言葉を途切らせる。
対する松陽は、聞き慣れない単語に一瞬頭が真っ白になった。
粗相と言われて思い浮かんだのは失敗事の類いだが、川で洗濯していた朧の行動から答えを導き出す。
「ああ! おねしょ、ですね」
あまりにも単純で可愛らしい理由に思わず笑みを浮かべそうになるが、ここは必死に堪えた。きっと朧にとっては、一大事なのだろう。笑って傷付けてはいけないと、奥歯を噛み締める。
恥ずかしさと情けなさで感情が手一杯になっている朧には、松陽の気遣いなど読み取れる筈もなく、無意識に握った拳で額の汗や浮かんでくる涙を擦り続けながら言葉を付け足してゆく。
「いい歳をして、お恥ずかしい話を…… 申し訳ございません」
「そんな事、君はまだ子供なのですから。それに、おねしょは病気という訳では」
そうした経験は無いが知識としては知っている情報を、優しく伝えようとした。
「違うのです!」
全てを言い終える前に、朧が強く否定する。話の本題は、ここからなのだと青い瞳が訴えていた。
「何が、違うのですか?」
またも言い辛そうにする朧に対して、話しやすいように首を傾けてみせる。
朧は大きく深呼吸してから、両手を揉み合わせた。
瞬きも忘れた様に目を凝らし、やっとのことで不安要因を伝える。
そう聞いて松陽が最初に思い浮かべたのは血尿だった。だが、それならば血が出たとハッキリ言うのではないだろうか。そもそも、おねしょなどと間違える筈は無い。
そこまで考えて、ある事に思い至った。