旅の途中

お休みなさいと、優しい声が耳元で響く。
それが実際にかけられた言葉なのか、夢で聞いたのか分からない。
(おやすみなさい、先生)
それでも、朧はちゃんと返事をしたくて言葉を紡いだつもりだった。
その後ふわふわとした浮遊感から、すっと落ちてゆく様な感覚に変わり、何も感じなくなる。

ふと気が付くと、優しい松陽の笑顔があった。
そこがどこで、どこを目指しているのか不明だが、そんな事はどうでもいい。
大事なのは、師と共にいられることだから。
奈落の里に連れて来られてから朧の世界は松陽の存在が中心で、それが心地好く幸せだった。
視線を向けて貰えるだけで嬉しくて、声をかけられれば即座に駆けつける。
褒められたり、触れられるとドキドキと胸が高鳴った。
『先生、大好きです』
心の中にある言葉が、するりと出る。
『私も、朧が大好きですよ』
笑顔で応えられて、驚きと嬉しさに立ち止まってしまった。
もしかして、これは夢ではないだろうか?
不意に忍び込む疑いの気持ちから、とんだ質問を投げかける。
『大福より、好きですか?』
すると松陽が真面目な顔をして身を屈め、朧に視線を合わせてきた。
『先生?』
変な質問をして、おかしな子だと思われたのではないかと不安になり視線をさ迷わせる。
その戸惑いに揺れる視線を固定させるように、松陽は両手で朧の頬を挟んだ。
『もちろん、大好きです。きっと、君は大福より甘い……』
『えっ?』
驚きに目を瞠り身動きも出来ない朧の視界一杯に、松陽の端正な顔が迫る。

先生に触れられている頬が熱い。
深い翠の瞳に魅入られて動けなかった。
唇に何かが触れる。初めて知る感触に、身が慄く。
これが、何なのか分からないけれど嫌な気はしない。
ただ頭がぼぅっとして、頬にあった熱が唇に、そして体中に広がってゆく。
熱は冷める事無く、体内に溜まって出口を探し荒れ狂う。
腹の底から爆発してしまいそうな感覚に襲われる。

熱い、熱い…… 苦しいっ

弾けてしまうと、唇を合わせたまま両手を伸ばして松陽に縋った。
松陽の手が応えるように、朧の細い体を抱き締め返す。
与えられる温度に身も心も蕩けてしまいそうだと、朧は瞳を潤ませた。
言葉を発せられず、心の中で叫び続ける。

あぁ、せんせぃ、たすけてっ!

恐怖とは違う、背筋を這い上る未知の衝動に頭の中が真っ白になり、何も分からなくなった。

***

朝、目覚めると隣に朧の姿が無かった。
「……用を足しに行ったのかな?」
大自然全てが厠と言っても良い環境だから、その辺りの木の陰にでもいるだろうと松陽は二度寝を決め込む。
不吉な気配を知らせる烏の鳴き声も聞こえないし、周囲に殺気も感じない。それに、朧の旅装も木の根元に置かれたままだった。
だから安心して目を閉じたが、半刻ほどで再び身を起こす。
いつもなら、もう朧に起こされている刻限だ。
「朝餉の準備…… なら、律義に声をかけますよねぇ?」
自問自答して、やはりおかしいと首を捻る。
松陽は立ち上がり、目を閉じて感覚を研ぎ澄ます。
辺りに不審な気配は無く、血の臭いも感じられない。
かくれ鬼の時のように去って行った方向が絞られていれば気配を探索し易いが、手掛かりが無ければ少しばかり手間がかかる。それでも、何とか朧の気配を感じ取れた。
「どうして、そんな遠くに……」
一瞬、嫌な思いが頭を掠める。
(私と旅するのが嫌になって?)
「そんな事は、ありません!」
大きく首を振って、声に出し即座に否定した。
あんなにも慕ってくれているのだから、彼を信じなくてどうする! そう己を納得させようと、拳を握った。
それでもこの場で待つ気にはなれず荷物を置いたまま、朧の気配を辿って歩を進める。
狭い獣道をしばらく歩くと、水音が聞こえてきた。
川のせせらぎにしては、少し大きい。だが、瀑布ほど大きな水音でも無かった。
松陽は足を速める。
もしや朧の身に何かあったのではと、胸騒ぎがした。
生い茂る緑の天井を抜け、夏の陽射しの下へと飛び出す。
目前には雲一つない青空と、開けた野原。日差しを反射させ銀色に輝く低い滝と細い川があった。
その川の中に小さな人影を見つけると、松陽は走り出す。
「朧―――ッ!」

松陽の呼び声に、朧はハッとして顔を上げた。
「……先生」
ここまで来られたのは、心配しての事だろうと察する。
黙って出て来てしまった後ろめたさと、川の中とはいえ全裸でいる事の恥ずかしさに朧はその場で固まった。
「水浴びですか?」
川縁まで辿り着いた松陽が、朧の姿を見て問いかける。
笑顔を作り、心配していた事を気付かせまいとした。
「いえ、その……」
朧は前屈みになって視線を落とし、川の流れに乗せていた着物類を引き寄せる。
「ああ、洗濯ですか」
早朝から洗濯するなら昨夜の内に言ってくれても良いのにと内心で思いつつも、やはり笑顔のままでいた。
「……も、申しわけ」
松陽が笑顔を保っていても、朧はそれを見る事が出来ない。そんな余裕は微塵も無かった。
水浴びなら着物を洗う必要は無い。畳んで川縁に置いておけばいいだけだ。洗濯なら、わざわざ川に入らず川縁に膝を付くだけでいい。
どちらにしても、着替えも持たずにここにいるのはおかしいと思われる。

(どうしよう?)
正直に、本当の理由を話すのは躊躇われた。
実際のところ、困惑していてどう話して良いのか分からない。
朝、目が覚めたら下着も着物も、湿っていたのだ。
まさか、おねしょするなんて……
尿意に目覚めないなんて、信じられない。
それだけでも十分気が動転していたのだが、下着に着いていた汚れには粘りがあり白っぽかった。
もしかしたら、何か変な病気に罹ってしまったのではないだろうか?
このまま病気になったら、もう先生と旅を続ける事は出来ないのでは?
そんな不安にまで苛まされ、ますます言い辛くなった。

「朧、大丈夫ですか!」
川の中に佇む少年の顔色が蒼白になってくるのに驚いて、思わず大声を出し着物が濡れるのも構わずに川の中に入る。
松陽の声にやっと朧は顔を上げた。
近付いてくる師の必死な表情を見て、胸が痛くなる。こんなに優しい方に、心配かけてはいけない。
もしこの病気が伝染するものなら、感染させる訳にはいかないと思った。
「来ないで! 来ないで下さい!」
強い調子で、叫び返す。いつもなら絶対に使わない言葉を口にして、自己嫌悪に陥る。
「……朧」
松陽もまた、考えまいと否定した思いに瞳を陰らせた。
二人の沈黙を、小さな滝の落水音と蝉の合唱が埋めてゆく。
照りつける太陽の熱と川に反射する光が、肌と眼を焼いても暫く動く事が出来なかった。

「あっ」
朧が小さく声を上げ、松陽の視線が上がる。
止まった時間を動かしたのは、川の流れが朧の手から攫った白い木綿の褌だった。
追いかける朧の足は、滝からの強い流れに押されて縺れる。あっという間に、川の中に体が沈んだ。
「朧っ!」
松陽は叫びざま素早い動きで川底から朧を引き上げ、流された褌をも掴み取る。
「怪我は、ありませんか?」
着物を握り締めた朧の体を横抱きにして、赤くなっている朧の顔を覗き込んだ。
朧は声を発する事無く、コクコクと頭を上下に振って頷く。
申し訳なさと恥ずかしさで一杯一杯になっていて、一瞬松陽の表情が陰ったのに気付かない。
松陽はもうそれ以上口を開く事無く川から上がると、来た道を戻る事だけに集中した。







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