旅の途中

夏の旅路は日が長く、距離を稼ぐには良い。
天照院の本拠地から遥か遠くへと離れたい松陽と朧には、最適の季節のはずだった。
その上、整った街道や宿場町は旅を快適にしてくれる。
けれど松陽は、その快適さを捨てて山道や獣道を選んだ。いや、その道を選ばざるを得なかったといった方が正しい。
それに対して、連れの朧は特に何も疑問に思っていなかった。先生が決めた道なら、それに従うだけ。
共に旅するだけで幸せだった。

「朧、かくれ鬼をしましょう」
だから、突然そんな提案をされても首を傾げることなく「はい」と応える。
むしろ、そんな遊びの余裕が出来るぐらい遠くへ来たのだと、気持ちが明るくなっていた。
「では、私が鬼になりますので君は隠れて下さい」
「分かりました!」
元気良く返事をすると編笠と柳行李を近くの木の根元に置いてから、子供らしい楽しそうな笑顔で松陽を見上げる。
「百数え終わったら捜します。いいですね」
朧が頷くのを確認してから、彼に背を向けて旅の荷物が置いてある木に向かい大きな声で数を数え始めた。
野兎のように、朧が駆け出す。
耳に心地好い低音の落ち着いた声を意識しながら、視線は隠れ場所を探して右へ左へと忙しく動き続けた。
「ふふっ」
走りながらも、小さな笑い声を漏らす。
初めて隠れ鬼ごっこをした時の事を思い出したのだ。
そんな遊びがある事も知らなかった自分に遊び方を教えてくれただけでなく、一緒に隠れ鬼をしてくれた先生との大切な思い出。楽しくて、嬉しくて、幸せだった。
(先生、ありがとうございます)
隠れ鬼ごっこの最中でなければ叫びたいほどの感謝の言葉を、心の中で唱える。
心に広がる暖かな想いに、足取りは一層弾んだ。
松陽の姿が見えない木々の茂った所まで来たが、数を数える声はまだ続いている。
「あまり遠く離れても……」
どこへ隠れても見つかる気がしたが、距離が離れ過ぎると少し不安になった。
朧は周囲を見回して、隠れられそうな場所を探す。これ以上、遠くに行かなくともいいようにと。
「あそこなら!」
並ぶ木々の奥に一本、古木がポツリと立っていた。
その根元に、小さな洞がある。小さな獣の住処になりそうな大きさ。
朧は音を立てないように木の洞に近付き覗き込む。
どうやら、ただの洞の様で野生の獣の寝床らしい気配は無かった。
「よかった」
ほっと胸を撫で下ろすと、膝を着いて洞の中へと這いこんでゆく。
木の洞の中は思っていたよりも縦に広く、朧は中で膝を抱えて座り込んだ。
中は湿っぽいが、(先生がすぐに見つけて下さるだろう)と息を潜めて待つ事にした。

***

朧の気配が遠くなる。
それでもまだギリギリ、声の届きそうな範囲で気配が止まった。
松陽は残り二十を数える間隔を短くして百まで数え終わるとクルリと身を翻し、腰に手を当て朧の気配のする方へ視線を向けて小さく呟く。
「少しの間だけ、待っていて下さい」
優しい笑顔はその時だけで、すぐに表情を引き締める。
視線は上空に向け、朧の気配とは反対の方へ足を踏み出した。
最初の数歩は早足で、細い獣道が途切れると即座に木の枝へと跳躍し、徐々に高度を上げてゆく。
重力を感じさせない身軽さで、もっと高い位置にある枝から枝へと渡り続けた。
下方から見上げても重なる枝葉に遮られ、遠方から見透かそうとも真夏の陽射しに目を眩ませられる高い場所で、松陽はやっと移動を止める。
上空に吹く風は地上の熱気を孕んだ空気よりも爽やかで、松陽の長い髪を緩やかに舞い上がらせ、その姿はまるで仙界の住人の様だ。
蒼穹に片腕を伸ばし、人の耳には聞こえるか聞こえないかというギリギリの高い音で口笛を吹く。すると、どこからともなく羽音が聞こえて来た。続いてカァと甲高い鳴き声がして、漆黒の烏が現れる。
松陽が軽く手首を曲げると、烏はその手の甲へと爪を立てて着地した。
鋭い爪が皮膚を破り、肉に食い込む。
だが、松陽は痛みどころか流れる血にも無関心だった。重さすら感じていない動きで、烏ごと腕を胸元まで引き下ろす。
「奈落は?」
短い言葉を、烏に投げかける。
烏は人語を解している様子で、小さな頭を左右に揺らした。
「行ったか?」
空いている方の手を、言葉と共にゆっくり上下左右に揺らす。
烏はカァカァ鳴いて松陽の手から飛び立ち、東南の方向でくるりと輪を描いて見せる。
それからもう一度、声高く鳴いて上昇気流へ乗り飛び去って行った。
下したその手にはもう、傷一つ無い。
「どうやら、無事に撒けたようですね」
烏が見えなくなった空に視線を向けて、安堵の息を漏らす。

順調だった旅路に油断して、大きな宿場町に寄ったのが拙かった。
追跡されていたのではなく、偶然の巡り合わせに因るもの。
暗殺請負部隊の標的と同じ町に逗留してしまったのだった。
暗殺が急務だったのだろう。そのお陰で隙を突き、朧に気付かせる事無く宿場町を脱出することが出来た。
町から町へ渡り歩いていたのでは、足取りをつかまれ易い。
それゆえ山に入っての移動にしたのだが、その用心も今夜で終われそうだった。
「いい加減風呂が恋しいし、甘いものも食べたいですね」
朧との快適な旅の続きに思いを馳せ、松陽は笑みを広げる。
その為には準備も必要だと、来た時と反対に高い木の枝から下方に茂る枝へと地上目指して下りていった。
(あれなら、良い値が付きそうだ)
声を発さず小刀を構えて、地上を走る獣を仕留める。
大した労力もなく仕留めた獣を肩に担ぎ上げると、朧の気配のする方角へと足を進めた。

***

「朧、見つけました!」
「せ、んせ…… それは?」
木の洞を覗き込まれた朧は、すぐに這い出して呆然と松陽を見詰めた。
「君を捜している途中で見つけた、今夜の夕飯です」
朧の前で肩に担いでいた猪をおろし、にっこりと微笑む。
猪は丸々と太っていて、一晩の夕食とするには多過ぎる。
そんな朧の考えを読んだかのように、松陽は言葉を付け加えた。
「残りの肉は町で売って、私達の塾を建てる貯金にします」
それを聞いた途端、朧の顔は喜びに輝く。
松陽が今も約束を忘れていない事、私達と言ってくれた事が有頂天になるほど嬉しいと。
「町に下りるのですね! では、私は薬草を探してきます」
朧は少しでも役に立ちたい一心で、隠れ鬼の交代の事は頭から飛んでしまった。
遊びよりも奉仕の方に気が行ってしまう朧の様子に松陽は苦笑する。
幼い子供がそんな風に気を回すのに不憫さを感じていたが、最近はその思いも薄れてきていた。
どうやら彼は、労働や奉仕することに使命感と喜びを見いだしている。
それが元来の気質なのだろうと、松陽にも解ってきた。
師としては年相応に甘えて欲しいと願っていたが、朧を見ていると早く大人になって役に立ちたいとの思いの方が強いのが分かる。それなら大人として扱うのが、朧にはとって嬉しい事なのだろう。
(私としては、もっと甘やかしたいのですが……)
朧が望むなら、それがどんな願いだろうと全力で叶えてやりたい。
「では私がコレを捌いている間に、君は薬草探しをお願いします」
「はい、先生!」
任された事が嬉しくて、朧は元気良く答える。
「先に編笠を取ってきます」
編笠を籠代わりに使うのだと、荷物を置いた木の根元目指して駆けて行った。
その姿が野兎のようだと、松陽は微笑ましく見守るのだった。

***

この夜、朧はいつもより沢山の肉を食べて、いつもより早く眠気を覚えた。
午後からの隠れ鬼や野草詰みが適度な運動となったせいもある。
うつらうつらと舟を漕ぎ始めた朧の体を松陽はそっと抱き止め、布団代わりに敷いた単衣の上へと横たえた。
「おやすみなさい、朧」
耳元に囁いて、柔らかな髪を撫でつける。
「ぃ、せん……ぇ」
寝ぼけているのか、無意識か?
律儀におやすみの返事らしき言葉を呟くと、朧は完全に寝落ちてしまった。
松陽は朧が寝返りを打って薪の方へ転がって行かないよう、朧と薪の間に横になる。
火の明かりに背を向けでも、月明かりで十分に朧の寝顔を見ることが出来た。
「おや?」
驚きを含んだ小さな声を出したものの、朧の眠りを妨げてはいけないと言葉の続きは心の中で呟く。

(奈落の里を出た時はもっと幼い顔立ちだったのに、いつの間にか少年らしい顔つきになりましたね)

頬の丸みは変わらないが、丸みの輪郭が少しだけなだらかになっていた。
横たわっているのでハッキリしないが、背丈も伸びているだろう。
子供の成長を喜ばしく思う反面、その早さに一抹の寂しさも感じる。
アルタナの血を分け与えても、時を止め同じ永遠を共に生きることは出来ない。
いつか彼が逝く日を見送る時が来る。それでも、その瞬間が訪れるまでは……

(この先も君と共に生きたいと願うなんて、贅沢な望みなのでしょうか?)

こんな風に、誰かと共に生きるなど考えたことも無かった。どんなに抗おうと、人間にはなれない。
未来永劫孤独だけが続く世界で、己を終わらせてくれる人間に巡り合うまで生きてゆくのだと覚悟していた。
だが今は違う。たとえそれが僅かな時間でも朧の傍にいたい。この子と共に生きたいと願わずにはいられなかった。
彼が己を人として見てくれる限り、人として生きてゆける気がする。
松陽は過去の出会いに思いを馳せ、この小さな存在に出会えたのは運命か、それとも必然だったのかと考えた。
答えの出ないまま、眠る朧の顔を覗き込む。起こさないよう注意を払い、汗で張り付いた前髪を指先で剥がしてやる。
消えそうだった小さな命を助けたのは、罪悪感と哀れみからだった。いや、もしかすると運命に抗う己の姿を重ねてしまったからかもしれない。
憎しみを糧にしてでも、生きて欲しいと願ったのだ。成長して、いつかこの永遠の命を終わらせてくれる種子になってくれたらと無意識に儚い望みを託したのか……
「不思議ですね。君といると、終わりたくないと思ってしまう」
指先で触れても目覚める様子が無いのに安堵して、白い額にそっと唇を寄せる。
朧の肌と松陽の唇を隔てるのは、吐息だけだった。触れそうで触れない、もどかしい距離。
それを引き離したのは、不意の寝言だった。

「大福……す……か」
切れ切れで不明瞭な言葉の後、口元は柔らかな笑みを刻む。それは、天使のように清らかな微笑みだった。
松陽は慌てて、朧から身を遠ざける。
己は今、いったい何をするつもりだったのか?
朧に対する自身の行動が不可解過ぎて、気持ちが混乱する。
胸の奥に点った、熾火のような情動。それを、どう処理すれば良いのか分からない。
この感情を追求すべきか、どうかしていると忘れるべきか。
松陽は両手で顔を覆い、目を閉じる。
まだ眠気は訪れないが、無理矢理に眠りに落ちる事で思考を手放した。






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