旅の途中

「私は、」
「君は?」
期待に瞳を細めて、朧の答えを待つ。
「私は、先生が…… 好き、です」
頬を桜色に染めて、真摯な眼差しを松陽に向けた。
「わ、私を」
予想もしていなかった朧の答えに、松陽は目を瞠る。
その驚きは一瞬で、じわじわと喜びに変わっていった。
「はい。他には何も、ありません」
「朧、」
嬉しさと同時に、何も無いという言葉に胸が締め付けられる。
上がりかけた口角が、真一文字となって引き結ばれた。
朧の唇から離した指が、再び朧に触れようと動く。
「……先生?」

「はい、お待ちどうさま! 桜餅と、甘酒二人前ぇ!」
二人の会話をぶった切るように元気な声が響いて、縁台に美味しそうな桜餅と湯気を立てた甘酒が置かれた。
松陽と朧の視線は互いから離れ、縁台の上に注がれる。それから、ゆっくりと看板娘の笑顔へと移った。
「すっごく、美味しいですよ」
上半身を捩じって、茶屋の向こう側を指差す。
「特別な桜の葉を、使ってるんですよ!」
「特別、ですか?」
気を取り直した松陽が、少女の言葉に興味を引かれた。
朧も好奇心が芽生えたが、口出しはせずに無言で少女の説明を待つ。
少女は上半身を戻して、松陽と朧に向き合った。
「樹齢五百年の古木なんです。毎年、凄く綺麗な花を咲かせるんですよ」
誇らしそうに、両手を天に向ける。
「……五百年」
感情の無い声音を聞いて、朧の視線は娘から松陽へと戻った。
「そう、五百歳の桜! 凄いでしょ!」
松陽の表情などお構いなしに、娘は話し続ける。
「この店の裏にある小道から登って行くと、見れますよ。あ、お花見団子もご用意できます!」
お喋りなのか、商売熱心なのか、それともどちらもか?
「うちの店の名前も、桜から」
「おい、こっちの注文を頼む!」
まだまだ続くかに思われた少女の話は、他の客の呼び声に中断される。
「はーい!いらっしゃいませー」
少女は愛想良く返事の声を張り上げてから、松陽に手を差し出して桜餅と甘酒の代金を請求した。
松陽は懐から小銭を取り出し、少女の手に代金を乗せる。
代金を受け取った少女は、笑顔でお辞儀をしてから縁台を離れていった。
朧は少女の切り替えの早さに目を丸くし、松陽は苦笑する。
「甘酒が冷めないうちに、いただきましょう」
「はい、先生」
先程のやり取りも、少女のお喋りに霧散してしまった。
交わす会話は、桜餅の美味しさと甘酒の暖かさへと流れてゆく。
そして最後は、旅の思い出に桜の花を見に行く事に落ち着いた。

***

さくら茶屋の裏手の小道は急な傾斜ではあったが、通う人が多いのか地面は踏み固められていて歩きやすかった。
小道と言うだけあって、道幅は狭く並んで歩くと行き交う人とはすれ違う隙間が無い。
松陽と朧は言葉もなく縦に並んで歩いたが、手はしっかりと繋いでいた。
道は間違えようのない一本道だが、間違えたかと少し不安になるぐらい距離を歩く。
鬱蒼と茂る緑の枝葉に空を遮られ、緑の天井の下を歩いているようだった。
それが突然途切れて、空の青さと陽光が降り注ぐ空地へと出る。
立ち止まった松陽の背中にぶつかりそうになりながら、朧もまた立ち止まった。
「これが、五百歳の……」
松陽の呟きは小さく、朧の耳には届かない。
朧は朧で、目前の大樹に言葉を失っていた。
二人の目前に在ったのは、淡い紅色の花を咲かせた枝垂桜の木。
時折吹く風が花弁を浚って、空に舞わせる。それは、雪片にも似て青い空色を一層輝かせた。
四方に幾つも張り出た太い枝は、下方から伸びている沢山の支柱によって支えられている。
幹回りは九尺ぐらいありそうで、周りの見物客が小さく見えた。
その堂々たる姿は、樹齢五百年の重みを感じさせる。
これほどの圧倒的な美しさの桜ならば、そこに棲む鬼が男だというのも頷けると松陽は一歩を踏み出した。
朧は視線を桜に据えたまま、引かれる手に従って歩みを進める。
二人の歩き方は、まるで何かに魅入られたようなぎこちなさだった。

緑の天蓋を潜り抜け、青空の下からゆっくりと歩みを進めて、光に透ける桜色の下へと辿り着く。
重なる花弁は斑な優しい色合いで、松陽と朧を枝の下へと迎えた。
松陽は繋いでいない方の手を伸ばし、年を経た樹木の幹に触れる。
指先から、老木の脈を読み取ろうとしているような不思議な動作だった。
「……先生?」
「この木は長い年月、唯一本でここに在ったのですね」
ゴツゴツとした樹皮を手で感じ、視線は長い年月の間に捻じれて地表を這うようになった根に向けられている。
松陽はそれを、自分に重ね醜いと感じた。
「長い間頑張ってたくさん花を咲かせて、みんなに綺麗な姿を見せているなんて凄いです!」
朧は木漏れ日に輝く美しい花の姿を見上げて、そう返事を返す。
「本当に、凄いです」
繋いだ手に力を込め、視線は風に運ばれて舞い落ちてゆく花弁を追う振りをして松陽へと向ける。
堂々として立派な佇まいと凛と美しい花を、松陽の姿に重ねて誇らしく思っていた。
「朧、君はそんな風に思うのですか?」
朧の視線に気付いて、松陽が顔を上げる。仄暗く陰っていた瞳は、朧の興奮気味の笑顔に少し明るさを取り戻した。
「はい。この硬い樹皮も太い根も、頑張って生きてきたんだなと思います。だから、綺麗な花を咲かせるんだって」
松陽と同じ様に幹に手を添え、その時気付いた根元にも思いを馳せる。
樹木の幹や根の力強さにも、師の強さを重ねた。
「お、ぼろっ」
込み上げて来る衝動に声が震え、胸が熱くなる。
「えっ?」
自分でも良く分からない感情の昂りから、胸に朧を抱き締めていた。
驚きに身を固くする朧と朧を抱く松陽の上に、風が花弁をふり零す。
それはまるで春風の祝福の様で、二人の気持ちを暖める。

「いきなり、すみませんでした」
一時の激情が去り、松陽は朧を腕の中から解放した。
朧は何と応えて良いか分からず、無言で左右に首を振る。
何故か、なかなか胸の動悸が治まらない。驚いただけで、こんなにもドキドキするのが不思議だった。
落ち着く為にもう一度、桜の花を見上げる。
キラキラと漏れ輝く陽の光が眩しくて瞬きすると、次の瞬間には優しい緑と淡く輝く亜麻色が視界を占拠した。
それは、朧の背後から見下ろしてきた松陽の瞳と髪の色。
「怒ってますか?」
朧の無言に不安を覚えた松陽は、恐る恐るといった様子で尋ねる。
いつも冷静沈着な松陽の珍しい不安顔を見て、朧は胸の動悸が静まって来るのを自覚した。
代わりに湧き上がって来たのは、くすぐったいような気分と胸が締め付けられるような痛み。
初めて知る感情は、ちぐはぐで不可解で、それでも何故か心が浮き立つ。
「いいえ、怒ってません」
返事と共に、自然と笑みが浮かぶ。
朧の湛える笑みが幸せそうで、松陽にも笑顔が戻った。腰を伸ばして朧の横に立ち、桜を見上げる。
先程の言葉が心に響く。
(私も、綺麗な花をたくさん咲かせることができるでしょうか?)
そっと心の中で、古木に話しかけた。

「……先生」
浮き立つ気持ちは、更に幸せな思い付きを運んで来る。
「なんですか?」
袖を引かれた松陽は、桜から目を放し朧へと視線を向けた。
今度は何を話してくれるだろうかと、穏やかに見詰める。
「いつか弟弟子達にも、こんな美しい桜を見せたいです」
ここまで美しい桜を見るのは、生まれて初めてだった。
町で奉公していた頃も、奈落の隠れ家にいた時も、桜を見た事はある。
けれど、ここまで美しいと感動できたのは樹齢五百年の桜だからというだけではなく、隣に立って同じように見上げてくれる存在があるからだと思った。
「ああ、それはとても楽しい計画ですね!」
朧の望みを聞いて、松陽もいつか叶える私塾の事を思う。
互いの瞳に同じ夢が映っているのを感じ取り、再び桜を見上げた。
高く澄んだ青い空に風が桜色を舞い踊らせ、鳥の囀りが響き渡る。
チラチラと木漏れ日が降り注ぎ、緑の葉裏を輝かせ花弁の縁を透き通らせた。
眺めているだけで、幸せを感じ満ち足りる。
穏やかな時間を共有し、好ましく思った。
朧と、まだ見ぬ弟子達と、こんな風に幸せな時間を過ごせたなら、どんなに素晴らしいだろう。
「そうです! 私たちの寺小屋は、桜のある場所に建てましょう! そうしたら、毎年お花見が出来ますね」
そうすれば、朧の望みも叶う。毎年、こんな幸せな時間を持てるのだ。
松陽の提案を受けて、朧の瞳が喜びに輝く。
ニコニコと嬉しそうに、胸元で両手を握り合わせた。
「では、私は花見団子を作れるようになります!」
「大福も、お願いします」
可愛らしい決意に、松陽は極上の笑みを見せる。
笑みかけられるのが嬉しくて、朧は元気良く返事をした。
「はい、先生!」
胸を張る姿も愛おしくて、肩に手を置き引き寄せる。
「それは頼もしい。では、もう一品…… ちょっと、待って下さい。桜餅も捨てがたいですし、蕨餅も、みたらし団子も美味しいですから、どれを選ぶべきか、うーん」
言い出したものの決めかねて唸り始めると、珍しく朧が声を上げて笑った。
それは年相応の子供らしい明るい笑い声で、松陽の気持ちを明るくさせる。
「お任せください! 全部作れるようになります」
「ありがとう、朧。じゃあ、私は教室から桜が見える間取りを考えます」
小指を差し出して、指を絡めた。また一つ、二人の約束が結ばれる。
絡めた指が解かれると、ふわりと風が吹き桜色の花弁を二人の頭上へと運んだ。
舞い落ちた花弁は飾りの顔をして、髪や肩へと着地する。
「朧、髪に花弁がついていますよ」
「先生のお着物にも、ついてます。お取りしますので、少し屈んで頂けますか?」
松陽の指が朧の髪に触れ、朧の手が屈んだ松陽の肩に触れる。
二人は取った花弁を見せ合って、約束の印の様だと笑った。



了(2021.5.2)









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