旅の途中


未だ朝夕は寒さが残るが、三月中旬ともなれば日中は暖かく山歩きは捗った。
寒さ厳しい冬の間、人里に潜んでいたせいで山の空気を殊更美味しく感じる。
とはいえ、吉田松陽は警戒心を解くことはしなかった。
暗殺集団·奈落から出奔し追手を撒いたが、何時いかなる形で新手に遭遇するとも限らない。
自分一人なら何とでもなるし引き戻されたとしても自業自得だが、一緒に旅する朧だけは護りたかった。
だから、冬の間稼げなかった距離を稼ごうと早足になる。
「先生、そんなにお急ぎにならなくとも大丈夫です!」
松陽の心積もりなど知らぬはずの朧が、窘めるように袖を引く。
不思議に思った松陽は、焦りが顔に出ていたのだろうかと首を傾げた。
「そんなに、急いでいるように見えますか?」
「はい。視線で分かりました」
朧は笑いを堪えるような顔をして、前方を指差す。
指先が示していた先は登り坂の途中、商い中の看板が掲げられた山の茶屋だった。
山中だというのに立派な店構えで、店先にある縁台の数も多い。
客層は様々で、大層繁盛している様子が窺える。
これは余程美味しい菓子が有るのだろうと思ってから、朧の勘違いに気付いた。
つまり、食いしん坊だと思われたのだと。
甘い物が食べたくて急いでいると誤解されたらしい。
いや、今となっては誤解という訳では無いのだが……



最初は朧の為だった。
街道が雪に閉ざされ、宿に逗留していた日々。
同じく連泊していた客の子供達が、おやつを食べているのを見て気が付いた。
世間では子供に菓子などのおやつを与えるのが当たり前なのに、自分は朧に菓子を与えた覚えがない。
甘いものといえば、山で採れる果実や花の蜜ぐらい。
こんな事ではいけないと、宿の近くの店に足繁く通って菓子を買い漁り朧に与えるようになったのに、限度が分からず買い過ぎて毎回一緒に食べる事になってしまったのが敗因だった。
大福に、団子に、饅頭。それぞれ甘さの違いがあり、食感も違う。
色々な和菓子を食べ比べる内に、食べる量とお気に入りの種類が増えていった。
『先生は、甘味がお好きなのですね』
朧に、そう言われてしまう程に……

つい回想してしまっている間に、朧の興味は店の方へと移っていた。
「たくさんお客さんがいますね。有名なお店なのでしょうか?」
「そうかも知れませんね」
朧の問い掛けに、松陽は頷いて見せる。
地元の村人らしい姿もあったが、自分達の様に旅装の者も多い。
好奇心が疼いたが、食いしん坊だと思われたくなくて歩調を朧に合わせた。
朧の手が自然と松陽の袖を摘まみ、笑顔で見上げて来る。
「美味しい大福があると良いですね」
「そ、そうですね」
彼の中で自分が甘党師匠に確定していることを感じて、松陽は少し上擦った声で答えた。

***

晴れ渡った青空に、茅葺屋根の赤みを帯びた黄色が美しい。さくら茶屋と書かれた暖簾が、春の風に緩く揺れている。
茶屋の奥の方には座敷や囲炉裏もあったが、松陽達は店先にある縁台の一つに腰掛けた。
「いらっしゃい!」
店の看板娘だろう溌溂とした少女が、注文を取りにやって来る。
少女の手から品書きを受け取った松陽は、一通りの品名を眺めた。
色々な種類の団子や餅、数種類の茶や甘酒等がある。
「先生、大福がございます」
隣の縁台に運ばれて来た皿を見た朧は、こっそり松陽に耳打ちした。
師の大好物をいち早く発見したのが嬉しいのか、瞳を輝かせている。
「はい、大福がありましたね」
品書きでも確認し、隣の縁台に運ばれていった現物も見た。
ふっくらとして柔らかそうな餅の白さが眩しい。中に抱いた餡を早く味わって欲しいと、誘うようだった。
その誘惑に抗えず注文を決めてしまおうと思ったが、なんとか踏み止まる。
「君は、何が食べたいですか?」
ここで大福に決めてしまえば、朧はきっと同じ物で良いと言う。いつも控えていて、我を出さない。
いや、我を出さないと言うよりも、出すのを恐れているように見える。
朧と旅する内に、聞き分けが良過ぎる彼の事が心配になっていた。
まだ小さな子供と言って良い年頃なのにと、不憫になる。
少しずつ、望みを口に出来るようにしてやりたかった。
「私は、先生と同じで大丈夫です」
「それは困りました。大福も美味しそうなのですが、品書きが多くて決めかねているのです。君なら、どれを選びますか?」
ちょこんと隣に座って、見上げて来る朧の瞳に困り顔で応える。
「私は……」
朧の口角が下がり、言葉を探す様に何度か唇を戦慄かせた後、俯いてしまった。
「なんでも、好きな物を言って良いのですよ」
背中を押したつもりの言葉だったが、朧はますます俯いて背中を丸める。



「……申し訳ございません」
朧の小さな声には、困惑が滲んでいた。
漠然とした希望なら、まだ口にする事が出来る。
けれど、誰かの希望や選択を差し置いて自分の希望を口に出す事は出来なかった。
ましてや、師より先に何事かを決めるなど畏れ多い。何かを思い通りに選ぶなど、自分とは無縁の事。
「決まらないなら、うちのお勧めの桜餅はいかがですか?」
助け舟を出すように、注文待ちをしていた少女が自慢の一品だと胸を張った。
朧は反射的に顔を上げ、松陽の方を窺う。
「桜餅ですか、それは良いですね」
松陽は朧の視線を受けて頷くと、少女に向かって指を二本立ててみせる。
「では、二人分お願いします。あと、甘酒も二杯頂けますか」
先程の迷いが嘘のように注文を決めた松陽の姿を見て、朧はそっと息を吐いた。
それは安堵と自己嫌悪の溜息。
助け舟が出なければ、どう応えて良いか分からなかった。
(……先生は、何とお思いになっただろう? 何一つ決められぬ、情けない子だと?)
沈んだ思いから顔を上げられなくなる。
師との二人旅を再開し、楽しい時間になる筈だったのにと。
出だしを台無しにしてしまったのは、自分の失態だ。
またこのような事があったら、どうすればよいだろう?
縁台の上に置いた手を、ぎゅっと硬く握り締めた。
小さな拳の上を包むように、大きな手が触れる。
「先生?」
朧が顔を上げた先には、松陽の優しい笑顔があった。
「少しずつで良いので、私に君の好きなものを教えてください」
重ねた手がゆっくりと甲を撫で、ふわりと柔らかな白銀の髪に移動する。
指先が愛おしむように、髪を混ぜっ返した。
「君が私の好みを覚えてゆくのに、私はまだ全然君の好みを知りません。それが、とても悔しいのです」
悔しいという言葉に反して、朧を見詰める松陽の瞳は明るく澄んでいる。
だから朧は、師が本気で悔しがっているのではないと思った。
それでも、唇は詫びの言葉を発しようとする。
「も、もうしッ」
申し訳ないとの声は、松陽の人差し指によって遮られた。
「謝る必要はありません。それよりも、君の好きな物を一つ、教えてください」
唇を押さえていた指が外されると、朧はこくっと頷く。
(先生のお言葉に応えたい。けど、好きなものと言われても……)
早く、早くと気持ちが焦る。考えれば考える程、自分に確たる好きと言える物が無い事に気付かされた。
何かを欲しいと、思った事も無い。望んでも何も手に入らないと、いつからか分からないけど知っていた。
ただ、物でなくても良いのなら。



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