旅の途中
「それで南天の実を目にすると、雪兎になったんです。その後に教えて貰ったのが、かまくらというもので」
食事を終えて部屋に布団が敷かれるまで、朧は子供達に教えて貰った雪遊びの数々を一つ一つ丁寧に松陽に語った。
瞳を輝かせ頬を紅潮させて、身振り手振りで説明する。
弟弟子が出来たら、今度は自分が雪遊びを教えてあげるのだと嬉しそうに松陽に笑みかけた。
「その時は、先生もご一緒に遊んで下さいますか?」
「そうですね、私も」
傍に座る朧の頭を撫でて頷き返す。
松陽の脳裡に、夕方の光景が浮かんだ。楽しそうに遊ぶ朧の子供らしい笑顔と、その笑顔を向けられる子供達との姿。
そこは人の子の平和な世界で、雪のように白く、穢れの入り込めない場所。
「いえ、やはり私は君たちの遊ぶ姿を見守っていたいと思います」
「先生?」
朧の小さな手が、そっと松陽の膝の上に置かれた。
「私は、何か粗相をしてしまったのでしょうか?」
じっと見上げる瞳が、不安に揺れている。
調子に乗って話し過ぎたのだろうか、それとも子供の中に混じって遊ぶのはお嫌なのだろうかと、自分が発した言葉を振り返り何が原因なのだろうかと必死に考えた。
大切な師が、悲しそうな瞳をしている。それだけで、胸が痛む。
それが自分のせいなのだとしたら、どうすれば挽回できるだろうか?
どうすれば先生は心から笑って下さるだろうと、もどかしさから唇を噛んだ。
「いいえ、粗相なんて何もしていませんよ」
朧の不安を感じ取り、心で不甲斐無いと思いつつも笑顔を作る。
この唯一無二の存在を、大事にしたい。こんな小さな子供を不安にさせるなんて、人として未熟過ぎる。
人として、師として、この子供に恥じない自分でありたい。出来る事なら、平和な世界で共に過ごしたいのだ。
「弟子達を見守る先生として、学ばねばならない事が多いと改めて思ったのですよ」
朧の手を取り、立ち上がらせる。
話題を変える事で、朧の不安を取り除こうとした。
「たくさん遊んで、疲れたでしょう? これから、一緒に風呂に入りましょう」
「はい! お背中お流しいたします」
「ありがとう朧。じゃあ、背中の流しっこをしましょうね」
「そんな、畏れ多いです。私は、先生の世話に徹します」
生真面目に襷がけしようとする朧の手から襷を取り上げ、代わりの仕事を頼んでみる。
「では、番頭さんに手拭いと石鹸を頼んでください」
自分が役に立てる事が分かると元気良く「はい」と返事をし、瞳から完全に不安の色を払拭した。
階下へと駆けてゆく小さな背中を見送って、松陽は目論見が成功したことに胸を撫で下ろす。
「風呂に入って、後は寝るだけ…… 明日になったら、今日よりも良い師になりますからね」
松陽は片手の親指と人差し指を折り、やる事を数えてからそう呟いた。
***
風呂では朧の抵抗空しく互いの背中を流すことになり、結局浴槽にも一緒に浸かる事になった。
檜で造られた浴槽は丸い桶型で、窓際に設えてある。
熱い湯と窓から吹き込む雪交じりの冷たい風のお陰で、良い塩梅に長湯を楽しめた。
「雪景色を眺めながら、湯に浸かるというのもおつなものですね」
「はい、先生」
同意の返事をしているが、朧の視線は窓の外には向けられていない。
一生懸命、穏やかに揺れる湯を見詰めていた。顔を上げるのが、恥ずかしくて仕方が無い。
浴槽は狭いので、朧は松陽に背中から抱っこされる形で浸かっていたのだ。
窓から入る風が顔の火照りを冷やしてくれても、早まる鼓動の方は静めてはくれない。
このままでは茹だってしまうと、首を巡らせて松陽を見上げた。
「先生、あの…… お先に上がらせて頂いても、よろしいでしょうか?」
瞳は熱で潤み、体全体が湯の温度のせいで薔薇色に染まっている。
剥きたての茹で卵のようにつるりとした額や頬には、汗の珠が浮いていた。
「では、ちゃんと肩まで浸かって十数えたら上がりましょう」
松陽は朧の頭に頬を擦り付け、朧を抱く手に軽く力を込める。
直接肌を合わせて感じる温もりと、柔らかな感触をもう少しだけ味わいたい。
手を取り一緒に旅に出て以来、いや、天照院の屋敷でもこんな風に寄り添い湯に浸かったのは初めての事だった。
心地良く幸福感に満たされた時間を楽しむように、ゆっくりと十まで数える。
数を数える声は響き合い、窓の外まで流れて夜の闇に吸い込まれていった。
湯から上がって浴衣に着替え、清潔な手拭いで髪も乾かして部屋に戻る。
部屋の中は机と座卓が片付けられ、布団が二組中央に敷かれていた。
枕元の行燈の灯を消してしまえば後は眠るだけなのだが、朧は布団横に座った松陽の後ろに回り込む。
「御髪を梳かします」
風呂で師の世話を十分に出来なかった分を、取り戻したいのだろう。
有無を言わせぬ素早さで作業に取り掛かった。
「お願いします」
松陽は朧の気持ちを汲み取り、大人しくされるままに従う。
朧と出会って初めて、こんな小さな触れ合いでも心癒されるのだと知った。
頭皮を刺激される心地良さに自然と笑顔が浮かび、ホッと息が漏れた。
「先生? 痛くしてしまいましたか?」
「いいえ、大丈夫ですよ。布団で寝るのは久しぶりなので、ちょっと気が抜けました」
一生懸命に松陽の髪を梳かしていた朧も、その言葉に手を止めて頷き返す。
「確かに。旅に出て以来、初めての布団です」
朧も懐かしむような声で返事をする。
野宿が常態化していたので、湯を使い布団で暖を取る生活が遥か昔のように思えた。
「岩を枕に草を布団にも味があって良いのですが、今夜の様な日に雪を布団にしては死んでしまいますからね」
それでも、己なら凍死はしないだろう。そんな事を考える度に、己の体の異常さを思い知る。
「大丈夫です! 私が先生を暖めます! 私の体温全部、先生に差し上げます!」
自嘲の思いが込み上げて来るのを、朧の真摯な言葉が押し込めた。
松陽は振り返って、朧の頭を撫でる。
「そうですね、君がいれば私は大丈夫です」
「はい、お任せください!」
誇らしげに返事をする朧の手から櫛を取り上げて「ありがとう」と感謝の言葉を告げた。
朧はそれを、二つの意味として受け取る。
髪を梳かした事への労いと、松陽の湯たんぽになる約束への優しい返事だと。
そんな些細な事で師を笑顔に出来るなら嬉しいと、幸せに満ちた笑顔を返した。
眩しく愛おしい朧の笑顔に、松陽は笑みを深くする。
告げた(ありがとう)は、幾重もの意味を含ませたものだ。
無垢な笑顔を、優しい言葉を、ありがとう。
慕ってくれて、温もりをくれて、ありがとう。
なによりも、私を人として見てくれてありがとう。
君がいるから、君のお陰で、私は人になろうと足掻き続けられる。
化け物でも、人として生き人として最期を迎える事は出来るのだと信じたい。
君と共に生きていけるなら、途方も無い願いもきっと叶える事が出来るでしょう。
「先生、どうぞ」
朧は松陽の隣に敷いてある布団の掛け布団を捲って、すぐ横になれるよう声をかける。
松陽が布団に入ってくれれば、掛け布団を掛け直すつもりだった。
しかし、松陽は布団の上に座るも横にはならない。
「朧、こちらにおいでなさい」
自分の隣側を、ポンポンと叩いて布団に入って来るよう促す。
「で、でも、久し振りの布団で……」
せっかく柔らかな布団で伸び伸びと手足を広げて眠れるのに、自分などが添い寝しては迷惑になるのではないかと戸惑った。
「雪の夜は冷えます。君は、私を温めてくれないのですか?」
実際の所、湯から上がったばかりで冷えてなどいない。それは、互いに分かっている。
けれど、交わした約束がすぐに実現できるのは嬉しかった。
「私は、先生の湯たんぽになります!」
朧は先ほどまでの戸惑いを捨てて、松陽の指示した隣に横たわる。
与えられた湯たんぽという役割を果たそうと、真剣な眼差しで松陽を見上げた。
「ありがとうございます」
朧の生真面目さにクスクス笑い出したいのを堪えて、礼の言葉を述べる。
こんなに愛おしい存在を、腕に抱いて眠れることに感謝しながら行燈の灯を絞った。
「おやすみ、朧」
布団の中で引き寄せて、淡雪色の柔らかな髪に頬擦りする。
「先生、おやすみなさい」
師を温めようと小さな体を摺り寄せて、朧は眠りに落ちた。
子供の高い体温と安らかな寝息に、松陽もいつしか眠りへと誘われる。
降り続ける雪が外の世界の音を消し、宿の壁が野生動物から守ってくれる。
静かで暖かな部屋の中、二人は優しい夢を見た。
どこか遠くの平和な村で、たくさんの子供達に囲まれて笑い合っている幸せな夢。
了 2020.9.26