旅の途中



「ええ、昨夜から降り続いた雪で」
旅籠の番頭が、宿泊客相手に街道の状況を話していた。
連日降り続いていた雪が、今朝とうとう街道まで埋めてしまったらしい。
「いつ、通れるようになるかねぇ?」
「例年の通りなら二、三日は無理ですね」
困り顔の客に、番頭は連泊を勧めている。商売というよりも、本当に心配しての事だった。
この旅籠は、一階が飯屋で二階三階が客室になっている。
普段なら部屋に余裕があるだろうが、連泊する客が増えれば満室になる可能性も出てくる。
「お話し中の所をすみません。まだ部屋はありますか?」
察しの良い食事客が、番頭に話しかけた。
振り返った番頭の目に映ったのは、長身長髪の優しげな男と彼に手を引かれている顔に傷のある小さな男の子の姿。
上客には見えないが、厄介者そうな匂いはしない。
一瞬でそう値踏みした番頭は、ニコニコと笑顔を作り揉み手で愛想良く答える。
「はい、いらっしゃいませ。大丈夫です、まだ余裕がございます」
その言葉に男が安堵の笑みを見せると、早速個室や相部屋の種類と食事付きかなどとの説明を始めた。
二人の着ている着物は薄汚れているがしっかりと丈夫そうで、それなりの金子を持っているだろうと思える。
三階の個室は無理としても、二階の大部屋よりも小部屋ぐらいを勧めた方が良いだろう。
食事は子供がいるから、部屋食は割安になると言っておかなければと算段している目前に、小判を一枚突き付けられた。
「これで私とこの子、三日分の宿泊代に足りるでしょうか?」
「はぁいいいっ!」
番頭は驚きのあまり、大声を出してしまう。
自分の説明の仕方が、悪かったのだろうかと。
こんな田舎の旅籠では、大人一人二百文で十分事足りる。一番良い部屋に食事付き三日分で子連れだとしても、小判一枚の価値は無い。
「やはり、全然足りませんか?」
番頭の驚きをどう勘違いしたのか、男は更にもう一枚小判を差し出してきた。
「と、とんでもございません!こんなに頂戴しては、大名様並の対応をしなければなりません。生憎、手前どもの宿ではそのような造りの部屋はございません」
たった三日の宿泊で二両も貰っては、ぼったくりだと悪評が立つ。もしや、これは商売敵の手先だろうかと男の顔をまじまじと見た。
だが、男は相変わらず悩ましい表情のまま立っているだけで、悪意の欠片も感じられない。
「取り敢えず、お部屋へご案内させていただきます」
この御仁はどこかの箱入り息子で世間知らずなのか、何か訳ありなのだろうと気を取り直し、商売用の笑顔を浮かべて二人を三階へと案内した。

***

「吉田松陽様と、吉田朧様。ご宿泊は三日でございますね」
書かれた名を読み上げ確認が終わると、女将は宿帳を閉じて微笑んだ。
番頭は、その後ろで茶菓の準備をしている。
二人を客として泊めることに決めた以上、あれこれ詮索するのは止めにした。
お茶を出した後は、女将に任せて帳場に向かう。
懐にしまった小判を、一刻も早く店の金庫に収めたかった。

番頭から聞いた訳ありの客は独特の雰囲気を醸し出していたが、泊めるにあたって不都合はなさそうに見えた。
物腰柔らかで読み書きなど教養もありそうだが、どこか世間ズレしている感じがある。
これは事細かに宿泊施設と決まり事を話しておいた方が良いだろうと判断した。
「お食事は三食、辰ノ刻、牛ノ刻、戌ノ刻にお部屋にお運び致します。お床の準備は夕餉の膳を下げる時に一緒に致しますので、お客様はどうぞ寛がれていてくださいませ。お風呂は、三階のお客様のみ宿の内風呂をご用意しております。ご利用の際は、お声をかけてください。手拭いと石鹸をご用意しますので」
一つ一つ確認するように頷く男の様子に、女将も安心して客間から退出する。
「さぁ、良いおもてなしをしないと」
こんな払いの良い方が顧客になってくれると嬉しいのだがと、思いながら階段を下りかけた。
足を下ろす途中で、宿泊台帳を読み上げている時に見た子供の表情を思い出す。
(宿に泊まるのは初めてなのかしら? 嬉しそうな笑顔だったわね)
白かった頬が紅潮し、紅玉色の瞳が喜びに輝いたのが印象的だった。
「ああ、そうだわ」
女将は階段を下りずに、客間の方へ後戻りする。
良く躾けられた子供に見えるが、遊びたい盛りだろう。
他の泊り客の中にも子供連れがいたから、良い遊び相手になるかも知れない。
そう気を回し、その事を松陽と朧に伝えた。
「裏の庭園は雪掻きしてありますので、他の子供達と雪遊びも出来ますよ」
「わざわざ、ありがとうございます」
松陽は女将の言葉に笑顔で応え、朧にも礼を言うよう促した。
「お教えいただき、ありがとうございます」
子供らしからぬ畏まった言葉に内心驚いたが、その事は匂わせず愛想笑いのまま客室を出る。
親子とは思えぬ風変わりな客に好奇心が湧き出したが、それも階段を下りるまで。
階下で待っていた番頭から満室になったと報告を受け、旅籠を切り盛りする事に思考を切り替えた。

***

女将が出て行っても、朧はじっと座ったままだった。けれど、丸みを帯びた頬はうっすらと上気し、瞳は好奇心からかキラキラと輝いている。
女将から聞いた雪遊びをしたいのかも知れないと、松陽は朧を窓辺に誘った。
朧は生まれて初めて泊まる旅籠の室内に興味津々だったが、それよりも師の近くに呼ばれる事の方が嬉しかったのですぐに立ち上がる。
足取りが不自然に弾まないようにと気を付けた。こんなに浮かれていては、おかしい子だと思われるかも知れない。
思われるだけならば仕方無いが、どうしてと理由を聞かれるのは困る。
宿帳の名前を読み上げられて胸が一杯になり、まるで本当の家族のような気持ちになったなどと思ったなんて不敬すぎるだろう。一番弟子というだけでも特別で名誉な事なのだから、それ以上を求めてはいけない。
朧は小さな手をぎゅっと握り、松陽の隣で窓の下を眺めた。

二人の目に映ったのは雪化粧を施された広い庭園と、そこで遊んでいる幾人かの子供達の姿。
キャッキャと甲高い声で笑っている子や、せっせと雪玉を作っている子。性別も年齢も関係無く仲良くしている様子が微笑ましい。
「寺子屋を開いたら、毎日こんな楽しそうな風景が見られるのでしょうか?」
窓辺に凭れたまま、松陽が夢見るように呟く。
隣で窓の下を見下ろしていた朧も、同じ夢を思い描いた。
「私も、先生と共に弟弟子達の楽しそうな姿が見たいです」
同じ夢を見て微笑み交わす幸せを改めて噛みしめる。
これは奈落からの逃亡の旅ではなく、二人の夢に向かう旅なのだ。
いつか夢の終着駅に辿り着く。二人でなら、きっと……

「朧。試しに、あの子供達と遊んできなさい。私も君も、遊びの知識はあまりないですから教えて貰いましょう」
「はい! では、先生もご一緒に」
いつか出来る弟弟子達の為に遊びを覚えようと元気良く返事をし、松陽の手を引こうとした。
だが、松陽は動かず左右に首を振る。
「私が仲間入りしては、子供達を驚かしてしまいます」
「申し訳ありません。確かに、子供の中に大人が入ってきたらびっくりさせてしまいますね。考えが至らず、」
遊んできなさいと言われたのに師を連れ出そうとするなんてと、反省し頭を下げようとした。
けれど、それよりも先に松陽の手が伸びて朧を抱き締める。
「謝らないで…… 君は、」
囁き声を途切らせ、朧を抱く腕に力を込めた。
「先生?」
突然の抱擁は優しく包むようなものでは無く、朧を戸惑わせる。
それでもそっと松陽の背に小さな手を回し、肩に顔を埋めて解放してくれるまで待つ。
「すみません。大丈夫だから、遊びに行ってらっしゃい」
長いような短いような、時間の感覚が分からなくなる抱擁は、松陽のその言葉で解けた。
朧は不思議に思ったが、問う言葉が見つけられず頷く事しか出来ない。
「戌ノ刻までには、帰って来るのですよ」
目前に立ち尽くしたままの朧の身を回転させて送り出した。

***

朧が部屋を出てゆくまで笑顔で見送って、扉が閉められ足音が消えるまで背筋を伸ばして座っていた。
気配も消えて戻って来ないと確信してから、背を丸め両手で顔を覆う。
長い髪がサラサラと落ちて、傍からは全く表情を窺うことは出来なくなった。
咽び泣いているように見えるが、その肩に震えは見えない。
両手を合わせていたならば、祈っているように見えただろう。
松陽を支配していたのは、悲しみでも祈りでも無い。
己自身の魂に語りかけ、湧き上がる感情を必死に抑えていた。

長い年月、鬼として生きてきた。
暗殺集団の頭目に据えられても、変わらず化け物として畏怖され孤独だった。
それがあまりにも長い間だったから、それが当然だと疑いもせず受け入れていた。
「……なのに、あの子は」
子供を驚かせるといったのは、己が化け物だからという思いがあったから。
けれど朧は(大人だから)と、己を人として見てくれていた。
どんなに懐こうと師と呼んでくれようとも、その根底には人間とは違う存在だと感じている心があると思っていた。
「私は人として生きたい。あの子が、朧が認めてくれるのなら」
顔を覆っていた両手は離れ、背筋を伸ばして天を仰ぎ見る。
私は過酷な運命を呪い、神などという存在など信じられなかった。
もし、朧との出会いをもたらしたのが運命なのだとしたら、私は……
松陽は再び視線を落とし、自身の手を見た。それから、力無く左右に首を振る。
深く息を吐き、荷物から筆と紙を取り出して窓辺に戻る。
「君にだけ、遊びの勉強を任せておけませんからね」
雪で遊ぶ子供達の中に、朧が入ってゆくのが見えて松陽は空に語りかけた。

朧の周りに、小さな集まりが出来る。雪玉を作っていた子供達も立ち上がり、その輪に加わった。
普段は大人しく穏やかにしていたが、どうやら人心把握の才があるかも知れないと松陽は微かに笑む。
「良い兄弟子になりそうですね、朧」
その場に朧がいるように話す。昔は空しいばかりだった独り言が、今は楽しい。
松陽は子供達の雪遊びを眺めながら、紙に遊び方を書き止めてゆく。
朧と一緒に見た雪合戦の様子と、雪だるまの形を最初に書いた。
小さな女の子が朧の手を引き、南天の木の側へと引っ張って行ってしゃがみ込む。
二人の背中に隠れて、何をしているのかが分からない。
けれど、何度も頷く朧の姿から何かを教えて貰っているのだろうということは分かった。
女の子の頭を撫で、笑顔を見せる朧。
朧よりも少し年上っぽい男の子が、朧の肩に手をかけて他の男の子のいる場所まで連れて行く。
丸くなって話し、また散らばる。
暫く見ていると、たくさんの雪を集めて山のような物を造り始めた。
やがて、半円型の丸い山が出来上がり、出入り口らしき場所から中へと潜り込んでゆく。
中は空洞になっているのだろう、男の子たちがどんどん入って行った。
朧も当然のように、中へ入ってゆく。
見えるはずなど無いと分かっているのに、松陽は窓から身を乗り出す。朧の姿が見えないと、心に漣が立った。
ただ遊んでいるだけで、何の心配も無い。なのに、どうしてだろう?
松陽は、己の中に生まれた不可思議な感情に戸惑った。

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