旅の途中
山々の色が緑から紅へ移りゆく。
吹く風や澄んだ空気に秋の気配を感じて、男は高い空を見上げた。
空の青と雲の白、そこに存在を主張する黒い影。
その影はあっと言う間に群れを作り、狩りを始めた。
黒々とした翼を羽ばたかせ、一個体よりも大きな個体を群れで追い詰める。
命を懸けた追い駆けっこは、上昇気流に乗って上空高く舞い上がったかと思うと、一直線に下降し戦いを繰り広げた。
やがて幾つもの羽音に追い落とされるように、一羽だけが急降下し始める。
木々の小枝を折りながら墜落してゆく鳥は、落下地点に待ち受けている背の高い男の手へと落ちた。
獲物を受け取った男が、優雅に下りて来た烏たちに声を掛ける。
「ご苦労様」
労いの言葉に応えるように、木の枝に舞い下りた烏たちは一声高く鳴いた。
その鳴き声は誇らしげな響きを帯び、再び上空へと飛び立ってゆく。
烏たちが飛び去る様を見送ると、男は長い髪をなびかせて踵を返した。
その足取りは軽く、楽しそうに森の奥へと歩みを進める。
木々の疎らな所を通り抜けると、少し開けた場所に出た。
そこには僅かばかりの荷物と焚き火があり、その火の側で小刀片手に何かを切っている小さな背中に声を掛ける。
「朧、夕食が手に入りましたよ」
長髪で優しげな面立ちの男・松陽は烏たちからの貢物を握って、少年が振り向くのを待った。
「先生! おかえりなさい」
松陽の声に、朧と呼ばれた少年は満面の笑顔で振り向く。
松陽も、笑顔を返して朧の手元を覗き込んだ。
そこには即席のまな板代わりだと思われる割れた木の幹が置かれ、その上に手拭いが敷かれている。
その横に並べられた幾つかの椀には、野草や木の実が入っていた。
「何をしているのですか?」
「ずっと肉か魚ばかりなので、野草を摘んできました。お口に合うと良いのですが」
松陽を見上げ、小さな椀の中にあるアサツキやオオバコ、キクイモの実などを指差しながら答える。
「これは、茹でて食べます。こっちは、実の方を。それから、これは」
「それは私にもわかります。アケビと、どんぐりですね」
「はい。甘いので、お疲れが取れます」
野草類から視線を移し、松陽の手にある雉を見て尊敬の色を瞳に浮かべて言葉を付け足した。
「私はまだ、これぐらいしか採れませんが……」
見上げる瞳に、決意の力が籠る。ぎゅっと拳を握って立ち上がり、膝を折っている松陽の目線に合わせた。
「でも、もう少し大きくなったら! 必ず先生のお役に立てるようになります」
懸命な言葉と健気な決意が、松陽の口元をますます綻ばせる。
この小さな子供の命を救ってから、心の奥に生まれた暖かな感情が日に日に大きく確かなものになっていた。
こうして今もまた、優しい想いが心の中に降り積もってゆく。
朧がくれる言葉や眼差しが嬉しくて可愛くて、松陽は柔らかな猫っ毛の髪を優しく撫でた。
「ありがとう、朧。でも今だって充分、キミは凄いですよ」
「せんせい?」
不思議そうに見上げる瞳を覗き込んでから、細い肩を抱き寄せる。
「私に出来るのは、命を奪う事だけです。それ以外の知識はありません。けれど、キミは違う」
「いいえ! いいえ、先生!」
朧は松陽の言葉を否定して、その腕の中で嫌々をするように首を振った後、両手を伸ばして松陽の背をぎゅっと掴んだ。
「先生は、私の命を救ってくださいました! 組織にとって何の役にも立たない私を、小姓として使ってくださいました! 読み書きを教えて下さったのも、先生です! それに、それに、先生はとても大事なものを下さいました!」
「……大事なもの?」
朧の必死な様子に、松陽は首を傾げる。
二人で天照院という暗殺組織を抜け追手に見付からぬよう野山を選んで移動してきた間、一度もここまで必死な朧は見た事が無かった。
「……あっ」
松陽に問い返され、朧は口籠る。明らかに、口を滑らせてしまったという様な声音。
小さな手をパッと引いて、自分の顔を隠してしまった。
「申し訳ありません! 俺、いえ、私が勝手に浮かれてっ」
恥じらい縮こまる朧の両腕を引いて、何とか視線を取り戻す。
「なんですか? 気になるでしょう。私が、何を渡したというのですか?」
顔を真っ赤にして目を泳がせる表情に、もしかしたらと心当たりが思い浮かんだ。
それが当たりなら、とても嬉しい。
だからこそ、ちゃんと朧の声で聞いてみたかった。
「……それは、」
「それは?」
急かしたい所だが、ぐっと我慢して言葉にしてくれるのを待つ。
「先生は、一緒に松下村塾を夢見る事を許して下さいました。私を先生の一番弟子にして下さり、弟弟子を持てるかもしれないとわくわくする未来を語って下さいました。私は、それが嬉しくて! 先生と共に夢見る事が出来るなんて、幸せで! 私の様な子供には勿体なくて」
心情を語る内に、朧の瞳は希望と喜びに輝き満たされる。
純粋で邪気の無い綺麗な笑顔と心当たり以上の言葉に、松陽は我知らず朧を抱き締めていた。
「先生?!」
突然の抱擁に、朧が面食らった声を出す。けれど、驚きや面映ゆさから離れようとは思わなかった。
己を包む力強い腕と伝わって来る優しい温もりに、ほんの暫くの間だけ甘えても良いだろうかと、おずおずと松陽の背中にもう一度手を回す。
「朧。助けられたのは、私も同じです」
回し終えたタイミングで、松陽が口を開いた。
だが、朧にその言葉の真意は図りかねる。己が、どう助けたというのだろうかと首を傾げた。
相手が戸惑っているのに気付いた松陽は、指先だけでトントンと背を叩いて落ち着かせた。
「キミは、私があの世界から飛び出す機会を与えてくれました。キミがいなければ、私は今もこの手を人の血で汚し続けていたでしょう。だから、ありがとう朧。キミに出会えて、私は救われたのです」
思ってもみなかった言葉に、朧の瞳が潤む。
己は無力な子供で、狩り一つ満足に出来ない。
頼りない弟子で、本当はこうして旅についてきてしまったのも迷惑だったかもしれないと思っていた。
足手まといですかと、そう聞くのが怖くて……
ずっと胸の奥に棘の様に刺さっていたが、なるべく考えないようにしていた。
「……せんせえ。私は、お役にたって?」
ぎゅっと、強くしがみ付く。震える声を、悟られぬように。
「もちろん! 朧はとても優秀な弟子です。いえ、料理の腕は朧の方が先生ですよ。私は、料理はおろか薬草の見分けさえつきませんからね」
もう一度、耳元で「ありがとう」と優しく囁かれた。
朧の頬に涙が流れる。悲しみではなく、嬉しさから流れる涙はとても温かいと知った。
胸元に顔を押し付け、肩を震わせて泣く幼い子供の背を、松陽は慈しみを込めて撫でる。
昨日より今日、きっと今日よりも明日。日々、愛しい想いは積み重なってゆく。
松陽は一瞬、視線を遠い未来へ彷徨わせた。それから、ゆっくりと瞬きして視線を朧の旋毛に落とす。
「朧、約束しましょう」
「約束……ですか?」
顔を上げ、濡れた瞳で真っ直ぐ松陽に問い返す。
「はい、約束です」
穏やかな笑みを浮かべ、朧の頭を撫でながら約束の言葉を口した。
「私達は、お互いの知恵を合わせて生きてゆきましょう。お互いの欠けている所を補い合って、私達に足りないものを学んでいきましょう」
約束、出来ますか?と、尋ねて抱擁を解く。
朧の鼻先に、松陽の右手の小指が差し出された。
「はい、先生!」
目元を掌で擦り涙を拭うと、大きく頷いて松陽と同じ様に小指を差し出す。
絡まる小指は、約束の印。見交わす微笑みは、未来を夢見て輝いた。
「では、日が落ちてしまわない内に夕飯を作りますよ!」
「はい!」
松陽は雉を捌き、朧は野草や芋、木の実の下ごしらえを始める。
そうして出来上がった夕食を平らげ、食後にアケビを並べた。
「お疲れは、取れそうですか?」
思っていたよりも熟していなかったと思ったのだろう、朧が残念そうな顔をして尋ねる。
「ええ、素朴な甘さにホッとします」
寛いだ笑顔で頷かれたので、胸を撫で下ろした。
どうやら先生の方のアケビは熟していたのだと安心して、残りの実を食べてしまう。
満腹になり、ずっと胸に抱いていた心の棘も解けた今、朧は心から寛いだ。
いつもならまだ片付けに立ち働ける時間なのに、小さなあくびが何度も出る。
「朧、片付けはその辺にしてください。残りは、明日の朝にしましょう」
焚き火に枝を追加でくべていた松陽が、手招きして朧を呼んだ。
朧は素直に手を止め、松陽の許へと近付く。
「ここに、座って」
指示された場所には、毎夜敷布にしている単衣が広げてあった。
つまり、もう寝ようと意味だが……
いつもは松陽と朧、二枚並べて敷いてあるのに今夜は一枚のみ。
二枚も広げる場所が無い程、地面がデコボコしていただろうかと目を走らせたが転がっている石も木の根も蔓延ってはいない。
ではこれからもう一枚分を敷くのだろうかと思い付いた瞬間、座ろうとして曲げかけた膝を伸ばした。
己の分を松陽に敷いて貰ったのに、松陽の分を敷くのを手伝わないなどありえないと焦る。
その急激な姿勢転換が、裏目に出た。ゴツンと派手な音がして、目前で火花が散る。
朧の身の上にちょうど被さって来るところだった松陽の額と、立ち上がろうとした朧の額がぶつかったのだった。
「アイタタタッ」
「ッ、ああ! 申し訳ございませんっ!」
単衣の上に膝を着き、額を擦る松陽の正面に座り直して頭を下げ詫びる。
「私は大丈夫です、朧こそ痛むのではありませんか?」
松陽の手が朧の額をそっと撫で、打撲の具合を探った。
「大丈夫です! どこも痛くありません!」
元気に返って来る言葉に安心して、苦笑を返す。
「良かった。では、寝ましょう」
「え? でも……」
まだ敷布がと言おうとしたが、声は松陽の腕に遮られた。
しっかりと胸に抱き込まれて、単衣の上に転がる。
「せ、先生?!」
何がどうなって、こんな風に抱き込まれているのかが分からない。
そんな風に聞こえる狼狽えた朧の声に、松陽の忍び笑いが重なる。
「今夜は冷えますね」
確かに初秋とはいえ、夜の冷え込みは気になってはいた。
けれどまだ焚き火の熱で充分暖を取れるし、このように抱き込まれていると暖かくて寒さなど感じない。
それとも、これも先ほどのアケビと同じ様に感じ方が違うのだろうかと朧は不安になった。
「申し訳ございません。私がもっと大きければ、先生を暖める事が出来っ、先生!」
詫びている途中で、苦しくなるぐらいキツく抱き締められて抗議の声をあげる。
「ああ、すみません。あまりにもキミの抱き心地が柔らかだったので力が入り過ぎてしまいました」
悪びれる事無くそう謝ってから、並んで眠りやすいよう腕の力を弛めた。
慣れない近過ぎる距離に、朧はモゾモゾと身をずらしを隙間を作ろうとする。
離れたのはほんの一瞬で、無駄な抵抗とばかりに頭を引き寄せられた。
今度は軽くコツンと、額が擦り合わされる。
焚き火の炎を映し揺らめく瞳の耀きは暖かな赤で、朧を優しく見詰めた。
「では、朧が大人になったら私を暖めてください。君が大人になるまで、一緒に暮らしましょうね」
夕食前に結んだ約束の上に、更に約束を結ぶ言葉を綴る。
二人の縁が、いつまでも解けぬようにと願いながら。
「はい。大人になっても、ずっとずっと先生にお仕えしたいです」
松陽の願いを汲み取る様に、朧も柔らかな笑みを返した。
そして、小さな手が松陽の手を握る。
「先生。私は、この命終わる日まで先生のお傍にいたいのです」
約束に縛られぬ純粋な想いだけで紡がれた言葉と真摯な眼差しは、松陽の胸深く刻まれた。
了 2019.2.9
吹く風や澄んだ空気に秋の気配を感じて、男は高い空を見上げた。
空の青と雲の白、そこに存在を主張する黒い影。
その影はあっと言う間に群れを作り、狩りを始めた。
黒々とした翼を羽ばたかせ、一個体よりも大きな個体を群れで追い詰める。
命を懸けた追い駆けっこは、上昇気流に乗って上空高く舞い上がったかと思うと、一直線に下降し戦いを繰り広げた。
やがて幾つもの羽音に追い落とされるように、一羽だけが急降下し始める。
木々の小枝を折りながら墜落してゆく鳥は、落下地点に待ち受けている背の高い男の手へと落ちた。
獲物を受け取った男が、優雅に下りて来た烏たちに声を掛ける。
「ご苦労様」
労いの言葉に応えるように、木の枝に舞い下りた烏たちは一声高く鳴いた。
その鳴き声は誇らしげな響きを帯び、再び上空へと飛び立ってゆく。
烏たちが飛び去る様を見送ると、男は長い髪をなびかせて踵を返した。
その足取りは軽く、楽しそうに森の奥へと歩みを進める。
木々の疎らな所を通り抜けると、少し開けた場所に出た。
そこには僅かばかりの荷物と焚き火があり、その火の側で小刀片手に何かを切っている小さな背中に声を掛ける。
「朧、夕食が手に入りましたよ」
長髪で優しげな面立ちの男・松陽は烏たちからの貢物を握って、少年が振り向くのを待った。
「先生! おかえりなさい」
松陽の声に、朧と呼ばれた少年は満面の笑顔で振り向く。
松陽も、笑顔を返して朧の手元を覗き込んだ。
そこには即席のまな板代わりだと思われる割れた木の幹が置かれ、その上に手拭いが敷かれている。
その横に並べられた幾つかの椀には、野草や木の実が入っていた。
「何をしているのですか?」
「ずっと肉か魚ばかりなので、野草を摘んできました。お口に合うと良いのですが」
松陽を見上げ、小さな椀の中にあるアサツキやオオバコ、キクイモの実などを指差しながら答える。
「これは、茹でて食べます。こっちは、実の方を。それから、これは」
「それは私にもわかります。アケビと、どんぐりですね」
「はい。甘いので、お疲れが取れます」
野草類から視線を移し、松陽の手にある雉を見て尊敬の色を瞳に浮かべて言葉を付け足した。
「私はまだ、これぐらいしか採れませんが……」
見上げる瞳に、決意の力が籠る。ぎゅっと拳を握って立ち上がり、膝を折っている松陽の目線に合わせた。
「でも、もう少し大きくなったら! 必ず先生のお役に立てるようになります」
懸命な言葉と健気な決意が、松陽の口元をますます綻ばせる。
この小さな子供の命を救ってから、心の奥に生まれた暖かな感情が日に日に大きく確かなものになっていた。
こうして今もまた、優しい想いが心の中に降り積もってゆく。
朧がくれる言葉や眼差しが嬉しくて可愛くて、松陽は柔らかな猫っ毛の髪を優しく撫でた。
「ありがとう、朧。でも今だって充分、キミは凄いですよ」
「せんせい?」
不思議そうに見上げる瞳を覗き込んでから、細い肩を抱き寄せる。
「私に出来るのは、命を奪う事だけです。それ以外の知識はありません。けれど、キミは違う」
「いいえ! いいえ、先生!」
朧は松陽の言葉を否定して、その腕の中で嫌々をするように首を振った後、両手を伸ばして松陽の背をぎゅっと掴んだ。
「先生は、私の命を救ってくださいました! 組織にとって何の役にも立たない私を、小姓として使ってくださいました! 読み書きを教えて下さったのも、先生です! それに、それに、先生はとても大事なものを下さいました!」
「……大事なもの?」
朧の必死な様子に、松陽は首を傾げる。
二人で天照院という暗殺組織を抜け追手に見付からぬよう野山を選んで移動してきた間、一度もここまで必死な朧は見た事が無かった。
「……あっ」
松陽に問い返され、朧は口籠る。明らかに、口を滑らせてしまったという様な声音。
小さな手をパッと引いて、自分の顔を隠してしまった。
「申し訳ありません! 俺、いえ、私が勝手に浮かれてっ」
恥じらい縮こまる朧の両腕を引いて、何とか視線を取り戻す。
「なんですか? 気になるでしょう。私が、何を渡したというのですか?」
顔を真っ赤にして目を泳がせる表情に、もしかしたらと心当たりが思い浮かんだ。
それが当たりなら、とても嬉しい。
だからこそ、ちゃんと朧の声で聞いてみたかった。
「……それは、」
「それは?」
急かしたい所だが、ぐっと我慢して言葉にしてくれるのを待つ。
「先生は、一緒に松下村塾を夢見る事を許して下さいました。私を先生の一番弟子にして下さり、弟弟子を持てるかもしれないとわくわくする未来を語って下さいました。私は、それが嬉しくて! 先生と共に夢見る事が出来るなんて、幸せで! 私の様な子供には勿体なくて」
心情を語る内に、朧の瞳は希望と喜びに輝き満たされる。
純粋で邪気の無い綺麗な笑顔と心当たり以上の言葉に、松陽は我知らず朧を抱き締めていた。
「先生?!」
突然の抱擁に、朧が面食らった声を出す。けれど、驚きや面映ゆさから離れようとは思わなかった。
己を包む力強い腕と伝わって来る優しい温もりに、ほんの暫くの間だけ甘えても良いだろうかと、おずおずと松陽の背中にもう一度手を回す。
「朧。助けられたのは、私も同じです」
回し終えたタイミングで、松陽が口を開いた。
だが、朧にその言葉の真意は図りかねる。己が、どう助けたというのだろうかと首を傾げた。
相手が戸惑っているのに気付いた松陽は、指先だけでトントンと背を叩いて落ち着かせた。
「キミは、私があの世界から飛び出す機会を与えてくれました。キミがいなければ、私は今もこの手を人の血で汚し続けていたでしょう。だから、ありがとう朧。キミに出会えて、私は救われたのです」
思ってもみなかった言葉に、朧の瞳が潤む。
己は無力な子供で、狩り一つ満足に出来ない。
頼りない弟子で、本当はこうして旅についてきてしまったのも迷惑だったかもしれないと思っていた。
足手まといですかと、そう聞くのが怖くて……
ずっと胸の奥に棘の様に刺さっていたが、なるべく考えないようにしていた。
「……せんせえ。私は、お役にたって?」
ぎゅっと、強くしがみ付く。震える声を、悟られぬように。
「もちろん! 朧はとても優秀な弟子です。いえ、料理の腕は朧の方が先生ですよ。私は、料理はおろか薬草の見分けさえつきませんからね」
もう一度、耳元で「ありがとう」と優しく囁かれた。
朧の頬に涙が流れる。悲しみではなく、嬉しさから流れる涙はとても温かいと知った。
胸元に顔を押し付け、肩を震わせて泣く幼い子供の背を、松陽は慈しみを込めて撫でる。
昨日より今日、きっと今日よりも明日。日々、愛しい想いは積み重なってゆく。
松陽は一瞬、視線を遠い未来へ彷徨わせた。それから、ゆっくりと瞬きして視線を朧の旋毛に落とす。
「朧、約束しましょう」
「約束……ですか?」
顔を上げ、濡れた瞳で真っ直ぐ松陽に問い返す。
「はい、約束です」
穏やかな笑みを浮かべ、朧の頭を撫でながら約束の言葉を口した。
「私達は、お互いの知恵を合わせて生きてゆきましょう。お互いの欠けている所を補い合って、私達に足りないものを学んでいきましょう」
約束、出来ますか?と、尋ねて抱擁を解く。
朧の鼻先に、松陽の右手の小指が差し出された。
「はい、先生!」
目元を掌で擦り涙を拭うと、大きく頷いて松陽と同じ様に小指を差し出す。
絡まる小指は、約束の印。見交わす微笑みは、未来を夢見て輝いた。
「では、日が落ちてしまわない内に夕飯を作りますよ!」
「はい!」
松陽は雉を捌き、朧は野草や芋、木の実の下ごしらえを始める。
そうして出来上がった夕食を平らげ、食後にアケビを並べた。
「お疲れは、取れそうですか?」
思っていたよりも熟していなかったと思ったのだろう、朧が残念そうな顔をして尋ねる。
「ええ、素朴な甘さにホッとします」
寛いだ笑顔で頷かれたので、胸を撫で下ろした。
どうやら先生の方のアケビは熟していたのだと安心して、残りの実を食べてしまう。
満腹になり、ずっと胸に抱いていた心の棘も解けた今、朧は心から寛いだ。
いつもならまだ片付けに立ち働ける時間なのに、小さなあくびが何度も出る。
「朧、片付けはその辺にしてください。残りは、明日の朝にしましょう」
焚き火に枝を追加でくべていた松陽が、手招きして朧を呼んだ。
朧は素直に手を止め、松陽の許へと近付く。
「ここに、座って」
指示された場所には、毎夜敷布にしている単衣が広げてあった。
つまり、もう寝ようと意味だが……
いつもは松陽と朧、二枚並べて敷いてあるのに今夜は一枚のみ。
二枚も広げる場所が無い程、地面がデコボコしていただろうかと目を走らせたが転がっている石も木の根も蔓延ってはいない。
ではこれからもう一枚分を敷くのだろうかと思い付いた瞬間、座ろうとして曲げかけた膝を伸ばした。
己の分を松陽に敷いて貰ったのに、松陽の分を敷くのを手伝わないなどありえないと焦る。
その急激な姿勢転換が、裏目に出た。ゴツンと派手な音がして、目前で火花が散る。
朧の身の上にちょうど被さって来るところだった松陽の額と、立ち上がろうとした朧の額がぶつかったのだった。
「アイタタタッ」
「ッ、ああ! 申し訳ございませんっ!」
単衣の上に膝を着き、額を擦る松陽の正面に座り直して頭を下げ詫びる。
「私は大丈夫です、朧こそ痛むのではありませんか?」
松陽の手が朧の額をそっと撫で、打撲の具合を探った。
「大丈夫です! どこも痛くありません!」
元気に返って来る言葉に安心して、苦笑を返す。
「良かった。では、寝ましょう」
「え? でも……」
まだ敷布がと言おうとしたが、声は松陽の腕に遮られた。
しっかりと胸に抱き込まれて、単衣の上に転がる。
「せ、先生?!」
何がどうなって、こんな風に抱き込まれているのかが分からない。
そんな風に聞こえる狼狽えた朧の声に、松陽の忍び笑いが重なる。
「今夜は冷えますね」
確かに初秋とはいえ、夜の冷え込みは気になってはいた。
けれどまだ焚き火の熱で充分暖を取れるし、このように抱き込まれていると暖かくて寒さなど感じない。
それとも、これも先ほどのアケビと同じ様に感じ方が違うのだろうかと朧は不安になった。
「申し訳ございません。私がもっと大きければ、先生を暖める事が出来っ、先生!」
詫びている途中で、苦しくなるぐらいキツく抱き締められて抗議の声をあげる。
「ああ、すみません。あまりにもキミの抱き心地が柔らかだったので力が入り過ぎてしまいました」
悪びれる事無くそう謝ってから、並んで眠りやすいよう腕の力を弛めた。
慣れない近過ぎる距離に、朧はモゾモゾと身をずらしを隙間を作ろうとする。
離れたのはほんの一瞬で、無駄な抵抗とばかりに頭を引き寄せられた。
今度は軽くコツンと、額が擦り合わされる。
焚き火の炎を映し揺らめく瞳の耀きは暖かな赤で、朧を優しく見詰めた。
「では、朧が大人になったら私を暖めてください。君が大人になるまで、一緒に暮らしましょうね」
夕食前に結んだ約束の上に、更に約束を結ぶ言葉を綴る。
二人の縁が、いつまでも解けぬようにと願いながら。
「はい。大人になっても、ずっとずっと先生にお仕えしたいです」
松陽の願いを汲み取る様に、朧も柔らかな笑みを返した。
そして、小さな手が松陽の手を握る。
「先生。私は、この命終わる日まで先生のお傍にいたいのです」
約束に縛られぬ純粋な想いだけで紡がれた言葉と真摯な眼差しは、松陽の胸深く刻まれた。
了 2019.2.9